飫肥城跡

宮崎県日南市

令和6年(2024年)4月17日㈬ 撮影



JR九州日南線飫肥駅から歩くこと1.4km、飫肥城跡に来ました。

1978年に復元された大手門



飫肥城(おびじょう)

宮崎県日南市飫肥(日向国南部)にあった城。江戸時代は伊東氏飫肥藩の藩庁として繁栄した。酒谷川北岸、シラス台地の地形を利用して曲輪を幾つも並べた]群郭式の平山城である。伊東四十八城の一つ。

飫肥の地は、酒谷川河口の油津(あぶらつ)と河川舟運で結ばれた要地であり、江戸時代には良材として知られた飫肥杉を積み出した。飫肥城は南北朝時代に、土持氏が築城したのが始まりと伝えられる。戦国初期は島津氏の属城であった、1484年(文明16年)、伊東氏が飫肥に侵攻、伊東義祐は1562年(永禄5年)には飫肥城を手に入れた。しかし、1572年(元亀3年)に伊東氏が木崎原の戦いに敗れて衰退し始めると、島津氏は日向で勢力を拡大。1576年(天正4年)に飫肥城を再び支配下に収めた。 1587年(天正15年)の豊臣秀吉の九州平定では島津氏が豊臣政権に降伏したため、伊東氏は翌1588年(天正16年)に飫肥城主に返り咲いた。以後の伊東氏は、関ヶ原の戦いでは九州では数少ない東軍側として働くなど巧みに立ち回り、廃藩置県で飫肥藩が廃止されるまで一貫して飫肥の地で家名を全うした。伊東氏と島津氏の飫肥城争奪戦は100年以上の長きにわたった。
江戸時代前期には三度の大きな地震に見舞われて大規模な補修が行なわれ、1691年(元禄4年)に堀と石垣の修復が終わり、1693年(元禄6年)には御殿が完成した。この過程で本丸を現在地に移してその前に桝形の役目を担う石垣を築くなど、織豊政権以来の東海地方・畿内の城づくりが取り入れられた。 城下町も発展して現代まで当時の風情を残し、飫肥地区は重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。 
1978年に大手門が復元されたほか、城内御殿を模した歴史資料館が木造で建設されている。ただしこれらは元の外観資料がなく、形は考証によるものであり、史実通りの復元ではない。また、本丸跡には日南市立飫肥小学校(藩校「振徳堂」が前身)が建てられている。 2006年(平成18年)、日本100名城(96番)に選定された。 

wikipediaより引用  
大手門の前に架かる橋から見た内堀、空堀でした。



大手門内に展示されている正徳三年(1713年)の碑文が記された礎石碑。


大手門から城内に入りました。

石段を登ります。











飫肥城歴史資料館、城内御殿を模した建物


飫肥城歴史資料館脇に建つ胸像

第七代日南市長 河野禮三郎氏 の胸像 

 

河野禮三郎氏(1915~89)は第七代日南市長として昭和49年(1974年)から昭和55年(1980年)まで2期在任。任期中に飫肥城の復元などが行われた。




飫肥城歴史資料館に入ります。

飫肥城歴史資料館

入館料  1館単独券 大人300円・由緒施設共通券 大人800円

9:30~17:00 ※最終受付16:30 定休日 12/29 12/30 12/31
飫肥城歴史資料館に設置されている日本100名城スタンプを押しました。

資料館内は撮影0kとのことなので









飫肥城歴史資料館を出ました。

本丸跡は飫肥小学校グラウンド、撮影は控えました。
旧本丸跡へ向かいます。



旧本丸は元禄6年(1693年)まで藩主御殿があった。3度の大きな地震により、現在の飫肥小学校グラウンドがある地に移転。

旧本丸跡へ向かう石段







旧本丸跡は飫肥杉林











旧本丸北門







旧本丸をあとにして松尾の丸へ

松尾の丸は石段の上


松尾の丸は江戸時代初期の書院造りの御殿を参考にして、昭和54年(1979)に建築。

史実に基づかない建物


入館料 個人:大人300円 外観を眺めるだけにします。

大手門へ向かいます。



大手門西側の土塁











大手門を出て内堀沿いの道を歩き





飫肥駅へ向かいます。