
田丸城跡 三重県度会郡玉城町
令和6年(2024年)3月21日㈭ 撮影
JR東海参宮線の田丸駅から0.5km、田丸城跡の堀が見えてきました。

大手門跡に来ました。中央奥に見える建物は村山龍平記念館
*田丸城
三重県度会郡玉城町田丸字城郭にあった城(平山城)。南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれたといわれる平山城であり、三重県指定史跡である。
かつての城内に、玉城町役場および玉城町立玉城中学校がある。桜が多く植えられており花見シーズンには花見客で賑わう。
南北朝時代、伊勢神宮を抑える戦略的要衝として争奪戦が繰り広げられたが、1342年(康永元年)、北朝によって落城する。室町時代には伊勢国司となった北畠氏の手によって再建される。北畠家の庶流で、第5代北畠政郷の四男顕晴が度会郡田丸城に入り、田丸氏を名乗った。 戦国時代、田丸直昌は織田信長の伊勢侵攻に伴い北畠具教の養嗣子となった織田信雄に田丸城を明け渡し、信雄に仕えた。田丸城は信雄の居城として1575年(天正3年)に改築され、三層の天守を備えた近世城郭へと生まれ変わり、織田氏の伊勢支配の中心拠点となった。1580年に火災で天守を焼失。織田信雄は松ヶ島城へと移った。 天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いののち、松ヶ島城主となった蒲生氏郷の支配下に入る。天正18年(1590年)の奥州仕置において蒲生氏郷が陸奥国会津に移封。江戸時代初頭には稲葉道通が入り田丸藩となる。稲葉氏転封ののち藤堂氏の支配地になるが、1619年(元和5年)、徳川御三家の一つ紀州徳川家の治める紀州藩の所領となる。 遠江久野城城主であった付家老久野宗成は駿府藩主であった徳川頼宣に付属させられ、頼宣の紀州転封(紀州徳川家の成立)の際にもそのまま付随となり、紀州へ移ってきた。頼宣はこの宗成に1万石を与え、田丸城城主として田丸領6万石を領させた。久野氏は、家老として和歌山城城下に居を構えたため、田丸城には一族を城代として置き、政務を執らせた。久野氏はその後八代続き、明治維新に至る。
明治維新に伴い田丸城の建造物はほとんど取り壊されたが、天守台や石垣、外堀、内堀、堀切、空堀などの遺構は今も整備されて残されており、他所へ移築されていた富士見門、三の丸の奥書院なども再度移築され、往時の面影を偲ばせる。
2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(154番)に選定された。
∶wikipediaより引用

田丸城跡に保存展示されている蒸気機関車
C58 314



村山龍平記念館
*村山龍平記念館
朝日新聞の創刊に携わった村山龍平を顕彰する記念館であり、玉城町郷土資料館や玉城町図書館などを併設する。村山龍平は嘉永3年(1850年)、伊勢国田丸(現・玉城町田丸)出身、1879年(明治12年)に朝日新聞を創刊し、後に朝日新聞社の社主となった。村山は郷土愛にあふれた人物でもあり、故郷に多くの寄付を行い、田丸城の町有化などの原資を提供した。玉城町ではこうした村山の功績を讃える施設の建設が没後50周年を迎えるにあたって計画され、村山の子孫からの多額の寄付を受け、1983年(昭和58年)に開館した。




村山龍平記念館内に設置されている
続日本100名城スタンプ 田丸城
を押しました。

村山龍平記念館にて販売されている田丸城跡の御城印を購入

村山龍平記念館を出て坂を登ります。


