赤穂城 

兵庫県赤穂市

令和6年(2024年)3月14日㈭ 撮影




*赤穂城

兵庫県赤穂市にある城。江戸時代は赤穂藩の藩主が暮らした城。城郭は国の史跡に、本丸庭園と二之丸庭園は名勝に指定されている。日本100名城、日本の歴史公園100選にも選定されている。
 正保2年(1645年)に浅野長直が赤穂へ入封すると、慶安元年(1648年)に築城願を幕府へ提出、同年に築城に着手した。これが現在の赤穂城であり、元和偃武の後に築城の始まった全国的にも珍しい城郭として著名である。現在では海岸線から離れているが、築城当時は赤穂城のすぐ南側まで海が入り込んでいたことから、海岸平城に分類される。
寛文元年(1661年)に着手から13年かかって完成し、10の隅櫓(すみやぐら)、門が12基、曲輪(くるわ)の延長は2847mに及んだ。本丸には築城時に設置された天守台が残存するが、江戸時代を通じて天守そのものは建築されなかった。 明治時代前期に廃城されると建物は破却、一部の石垣と堀のみを残し、土地の大部分は民間へ払い下げられて田畑や宅地に転用された。本丸跡は小学校ほか、公共施設の用地に当てられ。1981年(昭和56年)まで赤穂高の鉄筋コンクリート校舎が存在していた。 大手隅櫓、大手門(高麗門)は1955年(昭和30年)に古写真[を参考に再建築されている。1971年(昭和46年)に赤穂城跡が国史跡の指定を受ける[16]と、門・塀・庭園が徐々に再建され、1995年度以降は二之丸庭園の復元整備が段階的に継続している]。本丸には本丸門や本丸御殿の間取りを示し、発掘調査で確認された庭園などが復元整備されている。

wikipediaより引用
左手前は大手(高麗門)隅櫓 

三之丸の大手門近くにあった隅櫓を模して1950年(昭和30年)に建築。二層の隅櫓を設置

大手隅櫓



太鼓橋 と大手門

太鼓橋は 1935年(昭和10年)築。

太鼓橋から見た隅櫓

大手門を潜ります。

大手門(高麗門)は1955年(昭和30年)築。

大手門を入ると桝形虎口の模擬番所と隅櫓








長屋門が見えてきました。

赤穂市登録有形文化財 近藤源八宅長屋門

*近藤 正憲( ? - 1718)

江戸時代前期の武士。赤穂藩浅野氏の家臣。甲州流軍学者。源八(げんぱち)と称した。 
妻の甥である大石良雄ら藩士に甲州流兵法を教授したと伝えられる(後世花岳寺へ国立博物館から送られた甲州流平山城模型は正憲が設計して作らせたものである)。しかし、元禄10年(1697年)に組頭を解任されて、組外へ編入のうえ蟄居させられている。 元禄15年(1701年)3月の浅野刃傷・赤穂藩改易時にはかなりの高齢だったと見られ、仇討ちの義盟には加わらなかった。享保3年(1718年)2月15日赤穂郊外で死去。
近藤源八宅跡長屋門

天神・瓦などの一部以外は復元。近藤源八が使用した門は破却され、現存の長屋門は18世紀以降の再建と推察される。 

近藤源八宅長屋門の斜め向かいには大石宅長屋門






大石邸長屋門

 現在の建物は復元。大石良雄の屋敷は享保14年(1729年)に焼失、再建されなかった。
大石長屋門の先は赤穂大石神社参道

*赤穂大石神社

赤穂城の中にある。赤穂神社と大石神社が統合されたもの。旧・赤穂神社祭神の赤穂藩主浅野家・森家祖霊と旧・大石神社祭神の大石良雄ら赤穂浪士47人および中途で自害した萱野重実などを主祭神とする。
 赤穂事件以降、赤穂浪士を称揚する人々によって旧赤穂城内の大石邸内に小さな祠が設けられ密かに祀られていたが、明治維新になり城売却と建物の破壊により耕地として払い下げられる。1900年(明治33年)、「大石神社」として神社を創建することが政府から許可、1910年(明治43年)4月な起工し、1912年(大正元年)に社殿が竣工した。1第二次世界大戦後、城内の神社に祀られていた赤穂藩主・浅野氏の3代(長直・長友・長矩)および、城外の赤穂神社に祀られていた、浅野家の後に赤穂藩主となった森家の遠祖の七武将(森可成、森可隆、森長可、森成利(蘭丸)、森長隆(坊丸)、森長氏(力丸)、森忠政)を合祀した。 2000年(平成12年)、赤穂神社と大石神社、および稲荷神社や恵比寿社などとの合祀により新たに赤穂大石神社として創祀。

wikipediaより引用
神門



神門前に建つ大石良雄像

拝殿




御朱印所にて頂いた御朱印
参道両脇に立ち並ぶ四十七義士石像







赤穂大石神社参道から二の丸庭園へ



二の丸門跡







二の丸門から近くに建つ

山鹿素行銅像


 山鹿 素行(やまが そこう、1622 - 1685年)は、江戸時代前期の儒学者、軍学者。山鹿流兵法及び古学派の祖である。
承応元年(1652年)に赤穂藩浅野家に君臣の礼を為す(ただし素行は、赤穂に7か月程度しか滞在せず江戸に戻っている)。 翌承応2年(1653年)に築城中であった赤穂城の縄張りについて助言したともいわれ、これにより二の丸門周辺の手直しがなされたという説がある。


二之丸庭園



二之丸庭園入口 大石頼母屋敷門




二之丸庭園 山鹿素