岩村城跡


岐阜県恵那市


令和6年(2024年)3月6日㈬ 撮影




高さ717mの城山山上を目指します。この先800m

*岩村城

岐阜県恵那市岩村町にあった中世の日本の城(山城)。鎌倉幕府御家人の遠山氏宗家の岩村遠山氏が鎌倉時代初期 1221年(承久3年)以降に築いたとされ、別名「霧ヶ城」とも呼ばれた。戦国時代末期には織田氏と武田氏の争奪戦に巻き込まれた。江戸時代には岩村藩の城となった。1871年(明治4年)廃城。

奈良県の高取城、岡山県の備中松山城と並び、日本三大山城の一つとされる。 また中津川市の苗木城、可児市の兼山城と並び岐阜の三山城とも称される。岐阜県指定史跡
恵那市の南部に位置し、明知鉄道明知線岩村駅の南東に位置する城山山上にある。本丸が諸藩の居城中最も高い海抜717mに位置していた。このため、日本三大山城の一つに数えられている。「女城主おつやの方」の悲哀の物語が残る。 

1873年(明治6年)廃城令により、城は解体され石垣のみとなった。藩主邸は残されたが、1881年(明治14年)に全焼した。跡地には1972年(昭和47年)岩村町歴史資料館(現・岩村歴史資料館)が開館した。 2006年(平成18年)には日本100名城の一つに指定された。

wikipediaより引用




城跡公園には石碑と説明板

下田歌子勉学所の門



*下田 歌子(1854 - 1936)

明治から大正期にかけて活躍した教育者、歌人。女子教育の先覚者で、生涯を女子教育の振興にささげ、実践女子学園の基礎も築いた。美濃国恵那郡岩村(現在の岐阜県恵那市)出身。岩村城跡にある城跡公園に勉学所、顕彰碑、銅像が建てられている。


下田歌子胸像

下田歌子勉学所

この建物は下田歌子の父の書斎であり、下田歌子が勉強した堂
城跡公園にはもうひとつの胸像

植物学者の 三好学 

*三好 学(1862年 - 1939年)

明治・大正・昭和時代の植物学者。学位は、理学博士。日本の植物学の基礎を築いた人物の一人である。特に桜とハナショウブの研究に関しての第一人者として知られ、殊に桜博士とも呼ばれた。また、天然記念物の概念を日本に広めた先駆者であり、希少植物の保存活動に尽力した。文久元年(1862年)、美濃国岩村藩士の次子として同藩江戸藩邸に生まれる。出生後は岩村で幼年期を過ごした。

城跡公園から先は段々、道が細くなります。

藤坂なる坂

藩主邸から一の門まで続く急な坂道

あと600m

案内板には「初門」



あと500m

あと400m、くじけそう

ようやく城跡らしい石垣が見えてきました。

一の門





土岐門、あと300m







畳橋





追手橋・三重櫓



あと200m









霧ヶ井







八幡神社の鳥居



本丸虎口の石垣が見えてきました。ここまでは誰とも会わず、すれ違わず。怖い野生動物にも遭遇せず。





本丸虎口の石垣(六段壁の異名を持つ)

この石垣をみるために険しい坂道を登りました。







長局埋門

























本丸





織田信長公 宿営の地
 
1582年(天正10年)織田氏による甲州征伐が行われたが、武田氏が天目山の戦いで滅亡するまで 信長は信濃へ足を踏み入れることをせず岩村城に滞在して戦果の報告を受けていた。




昇竜の井戸

















本丸をあとにはして



坂を下り帰途に、上りより足に負担のかかる下り坂







ようやく麓に降りてきました。