興福寺 

奈良県奈良市

令和6年(2024年) 2月22日㈭ 撮影

猿沢池の前から石段を登り興福寺の境内に入ります。

*興福寺を訪れるのは令和4(2022)年2月18日(金)   以来
*興福寺

奈良県奈良市にある法相宗の大本山の寺院。山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。

三重塔(国宝) 

 鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。高さ19m、本瓦葺の三間三重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている[。三重塔は康治2年(1143年)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建された。治承4年(1180年)の平重衡による南都焼討での焼失記録はないが、現在の塔は建築様式から大火後まもなく再建された鎌倉建築と考えられる。 








北円堂(国宝)

承元4年(1210年)再建。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定[14]。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。北円堂は養老5年(721年)8月、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた。現在の建物は承元4年(1210年)の再建で、興福寺に現存する中で最も古い建物である。法隆寺夢殿と同様、平面が八角形の「八角円堂」である。かつては回廊の復元を計画されたこともあり、現在はその基壇が復元されている。


南円堂 (重要文化財)

寛政元年(1789年)再建。4代目。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する[1。1986年(昭和61年)12月20日 、文化財保護法に基づく重要文化財に指定されている。西国三十三所第9番札所。南円堂は藤原北家の藤原冬嗣が、父・内麻呂の追善のために弘仁4年(813年)に創建した八角堂である。創建時の本尊は、もと興福寺講堂に安置されていた不空羂索観音像であった。この像は天平18年(748年)、その前年に没した藤原房前の追善のため、夫人の牟漏女王、子息の藤原真楯らが造立したものであった。  




南円堂の前からみた

中金堂、東金堂(国宝)、五重塔(国宝)



中金堂 

2018年(平成30年)10月再建。9代目。創建当初の建物は藤原鎌足発願の釈迦三尊像を安置するための、寺の中心的な堂として和銅3年(710年)の平城京遷都直後に造営が始められたと推定される。後に東金堂・西金堂が建てられてからは中金堂と呼ばれるようになった。創建以来たびたび焼失と再建を繰り返したが、江戸時代の享保2年(1717年)の火災による焼失後は1世紀以上再建されず、文政2年(1819年)、町屋の篤志家達の寄付によってようやく再建された。この文政再建の堂は仮堂で、規模も従前の堂より一回り以上小さかったが、1959年(昭和34年)の国宝館の開館までは、高さ5.2メートルの千手観音立像をはじめ、国宝館で現在見られる仏像の多くを堂内に安置していた。また、朱色に塗られていたため「赤堂」として親しまれていた。あくまで仮の堂として建てられたため、長年の使用に不向きである安価な松材が使用され、瓦も安物が使われており、経年による雨漏りは年々ひどくなっていった。そこで、仏像への雨漏り被害を防ぐために1974年(昭和49年)11月23日に中金堂北側の講堂跡地に仮金堂(現・仮講堂)として薬師寺の旧金堂を移築し、本尊の釈迦如来坐像などがそちらに移された。文政再建の仮堂の中金堂は老朽化のため移築再利用も不可能と判断され、一部の再利用できる木材を残して2000年(平成12年)に解体された。その後、中金堂解体後に発掘調査が行われ、創建当初の姿を再現した新・中金堂の建設と境内各所の整備が始められた。創建1,300年となる2010年(平成22年)に中金堂再建工事が着工され、2017年(平成29年)、翌年に中金堂が完成するのを見越し仮金堂内の諸仏を早くも中金堂に移し、2018年(平成30年)10月に9代目となる中金堂が落慶した。

南大門跡

基壇は復元



五重塔 (国宝)

応永33年(1426年)再建。6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(旧国宝(文化財保護法における「重要文化財」に相当))に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。創建は天平2年(730年)で、光明皇后の発願によるものである。現存の塔は、応永33年(1426年)の再建であるが、高さは50.1メートルで、現存する日本の木造塔としては東寺五重塔に次いで高いものである。 明治初期、廃仏毀釈政策に基き、奈良県令四条隆平より塔撤去の命令が出て、頂上に網をかけて引き倒そうとしたが、叶わず、焼却のため周りに柴が積まれたが、類焼を恐れた近隣住民の反対により中止された[16]。 1905年(明治38年)7月には三重目の東北隅肘木に落雷が命中し黒煙をはくが、大事には至らなかった。これにより、1907年(明治40年)8月に避雷針を設置している。 1902年(明治35年)に修理を終えて以来、2024年(令和5年)7月からおよそ120年ぶりに本格修理が始まっている。
修復工事中の五重塔は素屋根の設置作業中、まもなく姿が見られなくなるとのこと、期間は7年









東金堂 (国宝)

応永22年(1415年)再建。5代目。平面は桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺である。1897年(明治30年)12月28日、当時の古社寺保存法に基づく特別保護建造物(文化財保護法における「重要文化財」に相当)に指定。1952年(昭和27年)3月29日、文化財保護法に基づく国宝に指定されている。西国薬師四十九霊場第4番札所。東金堂は神亀3年(726年)、聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。治承4年(1180年)の兵火による焼失後、文治3年(1187年)、興福寺の僧兵・東金堂衆は飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)にあった天武天皇14年(685年)に蘇我倉山田石川麻呂の冥福を祈って造立されたものと思われる講堂の本尊・薬師三尊像を強奪し、それを新たな東金堂の本尊として安置した。東金堂はその後、応永18年(1411年)に五重塔と共に焼け、現在の建物は応永22年(1415年)の再建となる室町時代の建築である。様式は、唐招提寺金堂を参考にした天平様式。平面規模は、創建時の堂に準じている。

東金堂の前は隣接する五重塔の修理に伴い工事中。



東金堂は2023年6月から閉堂中。

東金堂の前にある興福寺勧進所では御朱印を受付とのことですが

南円堂納経所とのこと

東金堂の御朱印を頂きました。

興福寺をあとにして東大寺へ向かいます。