大多喜城跡

千葉県夷隅郡大多喜町


令和6年(2024年)1月

いすみ鉄道大多喜駅のすぐ近く、大多喜城大手門を潜ります。


大手門の脇はいすみ鉄道の車両基地

いすみ鉄道の踏切を渡り大多喜城跡へ向かう道

夷隅川に沿った坂道

本丸下を流れる川の名称は御禁止川(おとめがわ)

案内板によると

*御禁止川

大多喜城の本丸下を流れるこの川は麓を流れるこの川は藩主が江戸時代にはこの川での魚を採ることを禁止したので御禁止川と呼ばれていました。藩主が参勤交代の折には、御禁止川の「むらさき鯉」を、 将軍に檜のたらいに入れて、生きたまま献上したといわれています。

大多喜町


天守を模した千葉県立中央博物館大多喜城分館は休館中ですが城周辺は立入可能







大多喜城の御城印販売、続日本100名城スタンプラリースタンプの設置は大多喜駅前「観光本陣」

崖にある洞窟と案内板

*大多喜水道

城下町大多喜は、昔から良い飲み水に恵まれず、人々の苦労は絶えませんでした。

 最後の城主である松平(大河内)正質の頃、ようやく水道の工事が具体化し、明治二年(一八六九年)十一月にに工事が始め、翌明治三年五月に完成しました。

水源 ここから西へ約2キロの水流

全長 約5.8キロ(内約4キロはトンネル) 



 
*大多喜城

千葉県夷隅郡大多喜町にあった戦国時代から江戸時代にかけての城(平山城)。初めは小田喜城(おだきじょう)と呼ばれていた。江戸時代には大多喜藩が置かれていた。

大永元年(1521年)に真里谷信清が「小田喜城」として築いたのがはじまりとされる。 信清の後を継いだ真里谷朝信の代の天文13年(1544年)に、里見氏の武将正木時茂によって真里谷氏は城を奪われて、以後時茂・信茂・憲時の3代に渡って正木氏が支配して、上総国東部支配の拠点とされた。だが、天正9年(1581年)に里見義頼との内紛によって、憲時が殺害されると、同城には里見氏の代官が派遣されたという。 天正18年(1590年)、里見氏が惣無事令違反を理由に上総国を没収されると、同国は徳川家康に与えられ、その配下の勇将・本多忠勝が城主となり、大多喜藩10万石が成立した。忠勝は里見氏の北上を防止するために突貫工事を行い、3層4階の天守を持つ近世城郭へと大改築を行い、ふもとに城下町の建設を行った。これが今日の大多喜城である。 以後、この城は大多喜藩の拠点として幕末まで重要な役割を果たしてきたが、元和5年(1619年)9月、藩主阿部正次が拠点を移したことにより大多喜藩は一時的に廃藩となったため、城は荒廃した。寛文11年12月(1672年)、阿部正春が一万六千石で入城したが、大多喜藩の規模縮小に伴い、荒廃した状態で長く支配が行われていたようである。
史料が少ないために江戸時代の状態は不明な点も多いが、阿部家以降の城主は多少の増築などは行ったようである。ただし山頂の天守などは荒廃していたようである。天保13年(1842年)には天守が焼失し、天守の代わりに2層の「神殿」と称する建築が天保15年(1844年)8月に建てられていたと考えられている。
明治3年12月(1871年)に城は取り壊され、その後本丸も削平されたという。その後、昭和41年(1966年)に本丸跡は千葉県の史跡に指定された。 昭和50年(1975年)に城跡に天保6年(1835年)の図面を基にして天守が再建されて、内部には千葉県立総南博物館(現在の千葉県立中央博物館大多喜城分館)が設置された。建物は三層四階建ての天守閣造り(鉄筋コンクリート造り)である。千葉県立中央博物館大多喜城分館については、2021年12月27日から長期休館となる。千葉県と大多喜町は2021年12月9日に施設を町に移譲することで合意しており、将来的に大多喜町の町営博物館に移行する予定である[。 2017年(平成29年)4月6日、「続日本100名城」(122番)に選定された。

wikipediaより引用



空堀





本丸跡へ

天守を模した千葉県立中央博物館大多喜城分館









現在は長期休館中







眼下にある二ノ丸跡、大多喜高校敷地内中建つ薬医門の案内板

大井戸の案内板、こちらも大多喜高校敷地内

本丸跡を下りて









大多喜高校の敷地内にある大井戸、平日の日中に学校敷地内に入るのは気が引けるのですが

このような案内が、おとなしく?見学すれば可なのであろう





大多喜城の唯一の遺構 薬医門