松代城址 

長野県長野市松代町

令和6(2024年)1月11日㈭ 撮影


*松代城(まつしろじょう)

信濃国埴科郡海津(現・長野県長野市松代町松代)にあった城。元々は「海津城」(かいづじょう)とよく呼ばれていたが、「貝津城」とも言われた。城の形式は輪郭式平城。国の史跡に指定されている。

 海津城の正確な築城時期は不明である。戦国期、甲斐国の武田信玄が信濃侵攻を開始し越後国の上杉謙信)と北信・川中島地域で軍事衝突した。この武田晴信と長尾景虎の最初の対決、にらみ合いは、その後の北信・川中島地域をめぐる川中島の戦いへと発展した。この時、千曲川河畔の海津城は武田氏にぬはら川中島地域の拠点城郭として整備された。 文書上においては海津城の築城は1559年(永禄2年)から開始され、翌年には完成している。 天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は織田氏家臣の森長可の居城となるが同年6月に本能寺の変が起こると森長可は信濃を放棄して退却、それ以後の海津城は信濃へと侵入した上杉氏の支配となったが、1598年(慶長3年)に上杉景勝が会津に転出の後は豊臣秀吉の蔵入地となり、海津城の城主には田丸直昌が任じられた。 1600年(慶長5年)2月に田丸直昌4万石と領地を交換する形で森忠政が13万7500石で兄の森長可所縁の土地へ入封し、同時に豊臣家の蔵入地9万石は廃止された。この時、海津城は「待城」(まつしろ)へと城の名称が変更された[。1603年(慶長8年) - 森忠政は美作一国(津山藩)18万6500石へと加増転封され、松平忠輝が14万石(12万石?)で入封した。忠輝は加増されて越後高田藩主75万石となるが旧領も引き続き領有したため、家老花井吉成が城代として統治して領内の整備に尽力した。1616年(元和2年)松平忠輝改易。代わって松平忠昌が12万石で入り、この忠昌領主時代に待城から「松城」へと改名された。1619年(元和5年)松平忠昌、越後高田25万9000石へ転封。酒井忠勝10万石が入封。1622年(元和8年)酒井忠勝、出羽国庄内藩13万8千石に転封。真田信之が13万石で入城。以後、松城は松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。松代城は松代藩の政治の中心となったが、商人たちは善光寺門前から動こうとしなかったため松代城下は商業の中心地にはならなかった。 1711年(正徳元年)幕命により松代城と名を改められた。 1717年(享保2年)火災により本丸、二の丸、三の丸を焼失したが、幕府より1万両借財し1718年(享保3年)に再建した。 1742年(寛保2年) - 戌の満水により松代城は被害を受け、城主が松代南にある開善寺へ船で避難した。 1752年(宝暦3年) - 藩の執政原八郎五郎により城の北側を流れていた千曲川を瀬直しし、旧流路は百間堀となった。 1770年(明和7年)花の丸に御殿を移した。 1804年(文化元年)御蔵屋敷北側に新堀が造られた。 1828年(文政11年)城地北側に佐久間一学(象山の父)により土手を築く。幸貫により「不崩(かけ)ずの土手」と名付けられた。 1847年(弘化4年)善光寺地震が発生し、本丸・二の丸・三の丸の囲い塀、櫓、番所などが大破し倒壊した。 1853年(嘉永6年)火災により花の丸御殿を焼失するがその後再建された。 1864年(元治元年)城外御殿として新御殿(真田邸)が建てられた。 
 1872年(明治5年)、松代城は廃城となり、跡地は藩士に払い下げられ畑に変えられた。1873年(明治6年)火災により再び花の丸御殿を焼失し、多くが宅地となった。北西に戌亥隅櫓台(天守台)があるが天守相当の櫓は近世初頭には失われたようで、本丸には幕末まで四隅に二重櫓が上がっていた。 1879年(明治12年)、旧花の丸の一部に「松代城花之丸旧跡」という石碑が建てられた。1904年(明治37年)藩士に分け与えられていた土地を真田幸正が買い取り、本丸跡地を遊園地として開放した。11925年(大正14年)海津城址公園内に4000円の巨費を投じ噴水、番所を建設し、掃除人を常駐させ公園の維持管理に努めた。その後、二の丸に市民プール、グランドが整備された。1951年(昭和26年)真田幸治により本丸が寄付され、公用地となった。1964年(昭和39年)本丸を中心とした城址の一部が県の史跡に指定された。1981年(昭和56年)本丸を中心とした城址の一部と新御殿が国の史跡に指定された。2004年(平成16年)太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元された。2006年(平成18年)4月6日に日本100名城(26番)に選定された。2023年(令和5年)2月上旬から 太鼓門前橋・二の丸引橋の解体撤去、新設を行なっている。2024年(令和6年)3月に終了予定。今後石場門の木造復元と二の丸掘、馬出しの復元計画がある。

wikipediaより引用



松代城本丸跡へ











本丸大手出入口に架かる木橋、太鼓門前橋は修復中のため渡れませんでした。





太鼓門前橋と枡形門(橋爪門)と櫓門(太鼓門)

太鼓門は2004年(平成16年)に復元。
太鼓門は2層の門で構成





















戌亥櫓台(いぬいやぐらだい)
戌亥櫓台と北不明門

北不明門



北不明門も2層の門で構成、画像は表門(枡形門)、その先には楼門


北不明門楼門

本丸内へ

海津城址之碑

1921年(大正10年) - 松代町長・矢沢頼道により「松代開府300年祭」が行われ、本丸に「を遊園地として開放した。1921年(大正10年) - 松代町長・矢沢頼道により「松代開府300年祭」が行われ、本丸に「海津城址之碑」が建立された。」が建立された。

戌亥櫓台(いぬいやぐらだい)
階段を登り





戌亥櫓台の上へ







戌亥櫓台から見た北不明門


戌亥櫓台を降りて





本丸御殿跡、後ろに見えるのは太鼓門櫓門



太鼓門櫓門

太鼓門枡形門(橋爪門)の先の太鼓門前橋は修復工事中

太鼓門櫓門

東不明門跡と東不明門前橋

東不明門前橋から見た内堀と石垣



東不明門前橋





東不明門の先には二の丸石場門

奥に見えるのは長野県電鉄屋代線松代駅跡


二の丸石場門から見た本丸





松代駅跡

2012年(平成24年)4月1日に廃止された長野電鉄屋代線の駅。
屋代線が廃止となった後も、駅舎やホーム等の設備は残され観光案内所やバスの待合所として利用されている。線路は撤去され旧駅構内は松代城公園の駐車場として利用されている。