安土城跡

滋賀県近江八幡市

令和5年(2023年)12月27日㈬ 撮影


安土城跡である標高198mの安土山に登っています。


安土城中枢部への入口である黒鉄門跡、天主跡・本丸跡は近い


*コチラの記事の続きです。


*安土城

琵琶湖東岸の、近江国蒲生郡安土山(現在の滋賀県近江八幡市安土町下豊浦)にあった城(山城)。城址は国の特別史跡で、琵琶湖国定公園第1種特別地域になっている。

織田信長によって現在の安土山に建造された。1576年(天正4年) に築城を開始。 1579年(天正7年)5、完成した天主に信長が移り住む。
大型の天守(現地では「天主」と表記)を初めて持つなど威容を誇った。建造当時は郭が琵琶湖に接していた。地下1階地上6階建てで、天主の高さが約32メートル。それまでの城にはない独創的な意匠で絢爛豪華な城であったと推測されている。 この城を築城した目的は岐阜城よりも当時の日本の中央拠点であった京に近く、琵琶湖の水運も利用できるため利便性があり、加えて北陸街道から京への要衝に位置していたことから、「越前・加賀の一向一揆に備えるため」あるいは「上杉謙信への警戒のため」などと推察されている。城郭の規模、容姿は、太田牛一や宣教師の記述にあるように天下布武(信長の天下統一事業)を象徴し、一目にして人々に知らしめるものであり、山頂の天主に信長が起居、その家族も本丸付近で生活し、家臣は山腹あるいは城下の屋敷に居住していたとされる。 1582年(天正10年)の
「本能寺の変」の後まもなくして何らかの原因によって焼失したが、しばらく織田氏の居城として、信長の嫡孫秀信が清洲会議の後入城するなどと、主に二の丸を中心に機能していた。しかし、豊臣秀吉の養子豊臣秀次の八幡山城築城のため、1585年(天正13年)をもって廃城されたと伝わっている。現在は石垣などの一部の遺構を残すのみ。 日本の城の歴史という観点からは、安土城は六角氏の観音寺城を見本に総石垣で普請された城郭であり初めて石垣に天守の上がる城となった、ここで培われた築城技術が安土桃山時代から江戸時代初期にかけて相次いで日本国中に築城された近世城郭の範となった。 城郭遺構は安土山の全体に分布しており、当時の建築物では仁王門と三重塔が、現在 城山の中腹に所在する摠見寺の境内に残っている。また二の丸には信長の霊廟が置かれている。 滋賀県は1989年(平成元年)から20年にわたって安土城の発掘調査を実施した。南山麓から本丸へ続く大手道、通路に接して築造された伝羽柴秀吉邸や伝前田利家邸、天皇行幸を目的に建設したとみられる内裏の清涼殿を模した本丸御殿などの当時の状況が明らかとなり、併せて石段・石垣が修復工事された。調査は当初予定通り2008年(平成20年)度の予算をもって2009年に終了した。




黒鉄門跡

黒鉄門跡の説明板

安土城中枢部への主要な入り口の一つである黒金門(くろがねもん)の跡。平成5年度の発掘調査では、黒金門付近も天主とともに火災にあっていることが分かった。多量の焼けた瓦の中には、菊紋(きくもん)・桐紋(きりもん)等の金箔瓦(きんぱくがわら)などが含まれまいた。黒金門より先は、信長が側近たちと日常生活を送っていた、安上城の中枢部となっていた。天主を中心に本丸・二の丸・三の丸等の主要な郭で構成されるこのー帯は、標高が180mを越え、安土山では最も高いところにある。東西180m、南北100mに及ぶその周囲は、高く頑丈な石垣で固められ、周囲からは屹立(きつりつ)している。高石垣の裾を幅2~6mの外周路がめぐり、山裾から通じる城内道と結ばれている。外周路の要所には、隅櫓(すみやぐら)・櫓門(やぐらもん)等で守られた入り口が数カ所設けられていた。この黒金門は、城下町と結ばれた百々橋口(どどばしぐち)道・七曲口(ななまがりぐち)道からの入り口である。 安土城中枢部の建物は本能寺の変の直後に全て焼失、石垣と礎石によって往時の偉観を偲ぶことができるだけ。しかし、石垣は400年以上にわたっで崩れることなく、ほぼ原型を保ってきた。



年末の平日、安土城跡は観光客も少なく静か、

石段の向こうには立札

立札の傍らには石


仏足石(室町時代中期)  の解説板

この仏足石は大手道などに見られる石仏と同様に築城当時単なる石材として集められ石垣に使われて居たようで昭和の初期登山道整備のとき此の付近の崩れた石垣の中から発見されました。仏足跡はお釈迦さまの足跡を表現したもので古代インドでは仏像に先立ち崇拝の対象にされて居ました。我が国では奈良の薬師寺のものが現存する最古(奈良時代、国宝)のものとして有名ですが、この仏足石は中世の数少ない遺物として大変貴重なものです。 

摠見寺住職


仏足石の前からも石段は続きでます。信長や家臣もこの石段を登ったのであろうか

二ノ丸跡に来ました。天守跡への矢印標示、その奥には石碑

「護國駄都塔」と刻まれた石碑、近くに解説板などは見当たらず

二の跡から見た本丸石垣

二の丸阯の石碑

織田信長公本廟の石碑

安土城二の丸阯 織田信長公本廟

羽柴秀吉は「本能寺の変」の翌年である天正十一年(1583年)、安土城二の丸跡に信長の太刀、烏帽子、直垂などを埋葬して本廟とした。 

2023年4月に改築された新しい門の先は立入禁止、その奥には

信長公廟

本丸跡に来ました。


本丸跡  の説明板

天主台を眼前に仰ぐこの場所は千畳敷(せんじょうじき)と呼ばれ、安土城本丸御殿の跡と伝えられてきた。東西約50m、南北約34mの東西に細長い敷地は、三方を天主台・本丸帯郭(おびぐるわ)・三の丸の各石垣で囲まれ、南北に向かってのみ展望が開けている。昭和16年1平成11年の二度にわたる発掘調査の結果、東西約34mx南北約24mの範囲で碁盤目状に配置された119個の建物礎石(そせき)が発見された。7尺2寸(約2.18m)の間隔で整然と配置された自然石の大きな礎石には焼損の跡が認められ、一辺約1尺2寸(約36cm)の柱跡が残るものもあった。
本丸跡から見た天守台跡



天守台跡の石段を登ります。

天守台跡から見た本丸跡

まだ石段は続き

天主閣阯の石碑

天守台跡に来ました。磁石が並んでいます。

安土城天守台跡 の説明板

安土城の天主は、完成してからわずか3年後の天正10年(1582 年)6月に焼失した。その後は訪れる者もなく、永い年月の間に瓦礫と草木の下に埋もれていた。ここにはじめて調査の手が入ったのは、昭和15 年(1940年)。厚い堆積土を除くと、往時そのままの礎石が現れた。この時に石垣の崩壊を防止するために若干の補強が加えられた他は、検出した当時のまま現在にいたっている。安土城天主は、記録から地上六階、地下一階の、当時としては傑出した高層の大建築であったことがわかる。

説明板がある場所は地下一階だった場所

 

階段を登ると

二の丸跡の織田信長公本廟が見えます



天守台跡から見た琵琶湖





本丸跡から下り



往路とは異なるルートで安土山を下ります。





摠見寺三重塔が見えてきました。

摠見寺本堂跡、その先に見えるのは西の湖(琵琶湖最大の内湖)

この地にあった摠見寺本堂は1854年(安政元年)に火災により焼失、現在は礎石のみが残る。


*摠見寺

滋賀県近江八幡市安土町下豊浦の安土城跡にある臨済宗妙心寺派の寺院。
天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって城郭内に建立された。信長は近隣の社寺から多くの建物を移築し、建立したようである。具体的には、重要文化財に指定されている二王門や三重塔などを挙げられる。 江戸時代の寺領は227石5斗余りであった。18世紀末の段階では仁王門、書院、方丈など22棟の建物のあったことを確認できる。ただし、安政元年(1854年)、本堂など主要な建物のほとんどを焼失した。その後、徳川家康邸跡と伝えられる場所に仮本堂を建てた。明治維新後、寺領の喪失などにより、衰退していった。

wikipediaより引用



摠見寺跡 の解説板

摠見寺は、織田信長によって安上城内に創建された本格的な寺院です。天主と城下町を結ぶ百々橋口道の途中にあるため、城内を訪れる人々の多くがこの境内を横切って信長のところへ参上したことが数々の記録に残されています。本能寺の変の直後に天主付近が炎上した際には類焼をまぬがれることができましたが、江戸時代末期の嘉永7年(一八五四)に惜しくも伽藍の中核部を焼失してしまいました。その後、大手道脇の伝徳川家康邸跡に寺院を移し、現在に至るまで法灯を守り続けています。

摠見寺本堂跡

西の湖(琵琶湖最大の内湖)


重要文化財 摠見寺三重塔 -

享徳3年(1454年)建立。摠見寺創建時に近江国甲賀郡長寿寺より移築された。
三重塔の周囲は立入禁止

三重塔の前から坂を下ります。下に見えるのは摠見寺二王門

坂の途中から見た三重塔


重要文化財 摠見寺二王門 -

入母屋造本瓦葺き楼門。元亀2年(1571年)建立。摠見寺創建時に近江国甲賀郡柏木神社より移築。




重要文化財 木造金剛力士立像 - 

室町時代の作





細い道を歩き





大手道脇の伝羽柴秀吉邸跡に着きました。

伝羽柴秀吉邸跡

大手道の出口へ、

出口にて頂いた書き置きの御朱印2種類











JR琵琶湖線の安土駅へ向かいます。