大垣城 岐阜県大垣市 大垣公園

令和5年(2023年)12月21日 ㈭ 撮影



大垣駅から700m、大垣城東門と天守が見えてきました。
大垣城(おおがきじょう)は、岐阜県大垣市郭町にあった日本の城(平城)。麋城(びじょう)または巨鹿城(きょろくじょう)とも呼ばれる。 大垣城

1600年(明応9年)に宮川安定(安貞)が築いたともいわれているが、築城年代、築城者は特定できていない。宮川氏築城当時は、牛屋川を外堀の代わりに利用し、本丸と二ノ丸のみであったという。

戦国時代には大垣城は戦略上重要な地点であったため争奪戦が繰り返され、織田氏、斎藤氏、織田氏、斎藤氏と支配権が移り変わった。1559年(永禄2年) に桑原直元(氏家直元)が城主となり、1563年(永禄6年)に城の大規模な拡張を行い、堀や土塁に手を加え、総囲いなどが整備された。

。 1588年(天正16年)に一柳直末によって、若しくは 1596年(慶長元年)頃、伊藤祐盛が城主の時の改築で4重4階の天守閣が築かれたとされる。

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの際には、石田三成ら西軍の主力部隊が入城して根拠地となったが、西軍が敗北すると東軍に攻囲され落城した(大垣城の戦い)。江戸時代に入り、徳川家康は譜代大名として石川康通を城主にした。 1613年(慶長18年)には石川忠総によって総堀が加えられ、さらに後に松平忠良が天守を改修した。 1635年(寛永12年)に戸田氏鉄が城主となって以降、明治に至るまで大垣藩戸田家の居城となった。

 1873年(明治6年)に発布された廃城令により廃城となったが、天守など一部の建物は破却を免れ、1936年(昭和11年)に天守等が国宝(旧国宝)に指定された。しかし1945年(昭和20年)7月29日の大垣空襲により天守や艮櫓などが焼失した。 天守は1959年(昭和34年)に、乾櫓は1967年(昭和42年)に鉄筋コンクリート構造で郡上八幡城を参考に外観復元されたが、観光用に窓を大きくするなどの改変がなされた。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(144番)に選定された。

wikipediaより引用
東門(旧柳口門)

柳口に建てられた門を、本丸跡東側に移築。

東門の脇には艮隅櫓(うしとらすみやぐら) 、鉄筋コンクリート構造で再建。


東門を潜り本丸へ跡



艮隅櫓





天守



東門

天守

鉄門跡




金森 吉次郎像

金森吉次郎(1864− - 1930)

美濃国安八郡大垣町(現・岐阜県大垣市)生まれ。大垣町会議員、安八郡会議員、岐阜県会議員、水害予防組合議員、所得税調査委員、岐阜県山林会副会頭、地方森林会議員、衆議院議員を歴任。

金森吉次郎像は大正12年(1923年)に大垣公園内に建てらたが、昭和19年(1944年)に金属供出、昭和29年(1954年)に旧台座の上に再建。





乾櫓と天守

天守前に建つ戸田氏鉄騎馬像

戸田 氏鉄(1576−1655)

安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。美濃大垣藩初代藩主。

平成6年(1994年)、大垣公園内に戸田氏鉄公騎馬像が建てられた。




乾櫓は1967年(昭和42年)に鉄筋コンクリート構造で復元。、




水之手門跡

乾櫓とおあむの松



明治二十九年大洪水碑


不1896年 (明治29年) 7月から 3ヶ月にわたる暴風雨で西濃地方は大被害を受けた。


天守へ向かいます。


大垣城入場料   一般 (郷土館と共通券) 

 開館時間 9時〜17時 (入館は16時30分まで)

 休館日 火曜日(火曜日が祝日にあたるときは、その翌日) 祝日の翌日

天守は昭和11年(1936)に国宝指定、昭和20年(1945)7月に戦災で焼失。昭和34年(1959)、鉄筋コンクリートにて4層4階の天守を再建。


天守内にて御城印2種類を購入

左は通常版、右は令和5年のプレミアム御城印、3000枚限定。
天守一階に設置されている続日本100名城スタンプを押しました。













天守四階最上階

最上階からの眺め












天守を出て郷土館へ