仙台城跡
宮城県仙台市青葉区
令和5年(2023年)11月3日㈮ 文化の日㈷ 撮影
仙台市営地下鉄国際センター駅から1km、仙台城跡へ向かいます。
仙台城本丸跡への入口には宮城縣護國神社の鳥居
その脇には 仙台市観光シティループバス「るーぷる仙台」の「仙台城跡」停留所がありますが
福島県沖地震の影響により「仙台城跡」停留所および「青葉山植物園西」停留所に停車せず、迂回ルートにより運行。仙台城跡(青葉城本丸会館駐車場内)に臨時の停留所を設置するとともに、運行経路等を一部変更。
本丸跡に来ました。大勢の観光客
伊達政宗像
本丸跡から見た眺め
仙台城
宮城県仙台市青葉区(陸奥国宮城郡)の青葉山にあった日本の城(平山城)。雅称は「青葉城」で「五城楼」の別名もある。国の史跡。
慶長年間に伊達政宗が築城してから、廃藩置県・廃城令までの約270年に渡り伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁であった。二代藩主伊達忠宗の代に完成した仙台城は約2万坪で、大藩にふさわしい大規模な城であった。 地震などによる損害を受けながらも修復を繰り返し、奥羽越列藩同盟盟主として戊辰戦争を経るも、一度も戦火を見ることなく城としての役割を終えて、明治維新を迎えた。その後は明治から大正にかけて陸軍用地となり多くの建築物が解体された。数少ない遺構であった大手門、脇櫓、巽門は国宝(旧国宝)に指定されていたが、第二次世界大戦時の仙台空襲により焼失した。 仙台城跡の土地の権利関係は複雑であり、仙台城跡のうち仙台市が所有している区画(青葉山公園)はごく一部である。戦前の経緯から宮城県護国神社や国立大学法人東北大学が所有している区画が多く、現在でも本丸と二の丸の中に境界が存在している。 「青葉城」という雅称を持ち、宮城県護国神社は当地を「青葉城」または「青葉城址」と呼称している。一方、青葉山公園として当地を管理している仙台市は「青葉城(青葉城址)」ではなく「仙台城跡」と呼称している。2003年に国の史跡「仙台城跡」として登録される前は「仙台城址」とも呼称され、現在でも青葉通地下道の案内等に名残がある。このため同一の城跡でありながら複数の案内表記が存在しており、両者を併記する例も見られる。 三の丸にある仙台市博物館の周囲には堀や石垣が見られる。ここから徒歩で青葉山の山道を登っていくと、山頂に築かれた巨大な本丸の石垣が目の前に現れる。本丸からは、東方面に仙台市中心部と仙台平野、天気が良ければ太平洋まで一望することが出来る。北方面の二の丸跡地は現在は東北大学の敷地となっているが、このうち東側の東屋付近とロータリーの北東部分は同大学ではなく仙台市が所有する青葉山公園の飛び地となっている。 また、空襲で焼失した大手門や大手門脇櫓、土塀や明治時代に焼失した本丸御殿、門、櫓、土塀の木造復元計画もある。
wikipediaより引用
仙台城見聞館には日本100名城スタンプが設置
スタンプを押しました。
宮城縣護國神社へ、この日は祝日、多くの参拝者
宮城縣護國神社
宮城県仙台市青葉区川内にある神社(護国神社)である。青葉山の仙台城(青葉城)本丸跡に創建された。明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県関係あるいは縁故のある戦死・殉難者、5万6千余柱を祀る。
日露戦争中の明治37年(1904年)、現在地に「招魂社」を建立し、大日本帝国陸軍・第二師団管下(第2師管:宮城県・福島県・新潟県)および山形県の戦死者の一部を祀ったのを起源とする。昭和14年(1939年)の内務省令により内務大臣指定護国神社となり、「宮城縣護國神社」に改称した。 昭和20年(1945年)7月10日の仙台空襲で社殿を焼失し、神体は市内の秋保神社・仮宮に遷された。戦後の連合国軍占領期には、仙台城二の丸を中心に進駐した米軍に隣接し、「宮城神社」と称していた。昭和25年(1950年)国有地払い下げにより当社が本丸一帯を所有すると、仙台市は仙台城本丸の私有財産化に反対し、土地の一部を買い上げて公有財産化したが、当社所有地は残った。 進駐軍が去ると昭和32年(1957年)に社名を「宮城縣護國神社」に戻し、昭和33年(1958年)に伊勢神宮別宮「風宮」の旧社殿を移築して復興した。
大手門跡から坂を下り
右に見えるのは五色沼
五色沼
仙台市青葉区の青葉山公園内にある池。仙台市中心部に隣接した西側に位置する。仙台城をめぐる堀の一部で、仙台城三の丸の北面から大手門隅櫓の前にかけて広がる。日本のフィギュアスケート発祥の地とされる。
広瀬川の河岸段丘である青葉山に本丸を置く平山城の仙台城は、より低い段丘上に二の丸と三の丸がある。この三の丸を造営する際、広瀬川の後背湿地に堀を割り、掘った土で土塁を築いて三の丸を囲んだ。後に、三の丸の北面の堀は「五色沼」、東面のそれは「長沼」と呼ばれるようになった。大手門を挟んで北側にある二の丸をめぐる堀もあったが、そちらは陸軍の駐屯地になったときなくなった。三の丸の二つの堀だけが現在も残る。現在の五色沼は、池の南に三の丸の土塁が接している。木々が生え、秋になると紅葉する。
仙台城の廃城によって旧城内に庶民が出入りできるようになり、五色沼は明治以降、仙台市のスケートの中心地として賑わうことになった。また、五色沼は「日本フィギュアスケート発祥の地」とされる。