2月23日㈭ 

のんびりホリデーSuicaパスと「ときわ路パス」と2つのフリー切符を使用、真岡鐵道 下館〜真岡を1往復し、再び下館に戻ってきました。

下館駅舎は工事中

コチラの記事の続きです。
下館からは上り水戸線

750M   下館1402発 小山行き

E531系5連 
1415着の結城で下車
 
結城で下車するのは初めて

47都道府県訪問、日本全国鉄道を完乗したEX高尾も下車したことのない駅、訪れてない場所はまだまだ多い。

茨城県結城市を初訪問

橋上駅舎の結城駅を出ると

結城駅北口駅前には立派な建物、結城市民情報センター


結城市民情報センター1Fの結城観光土産センターにて

結城城の御城印、2種類を購入

結城駅から結城城跡の城跡歴史公園は2km、御城印を購入したならば城跡に行かねば
またもや歩きます。その途上にある店、たこ焼きの

ヒッピー結城店

衝動的に?今川焼きとたい焼きを買ってしまいました。
浦町まちかどパーク なる屋根とイスがある場所にて
たい焼き と 今川焼き を食べました。
古い町並みが残る道を歩き

ようやく結城城跡のある場所に到着

*結城城

茨城県結城市結城にあった日本の城。室町時代には結城合戦の舞台となった事で知られる。江戸時代には結城藩の藩庁が置かれた。結城市指定史跡。
 寿永2年(1183年)、結城郡の地頭職、結城朝光が当地に城を築いたのが結城城の始まりである。 その後、室町時代まで結城氏が引き続き拠ったが、永享12年(1440年)、永享の乱で敗死した鎌倉公方足利持氏の遺児春王・安王兄弟を擁立し、室町幕府に反旗を翻した。結城氏朝・持朝他反幕府方は結城城に篭城し、一年近く多勢の幕府方に抗したが、嘉吉元年(1441年)、氏朝・持朝は討ち死にし、結城城も落城、結城氏は一時没落することとなった 文安4年(1447年)、足利成氏が鎌倉公方再興を許されると、佐竹氏の庇護を受けていた氏朝の四男成朝が旧領に封じられ、結城城に入った。その後、江戸時代初頭まで結城氏の居城として用いられた。 小田原征伐後、結城家は徳川家康の次男秀康を養子として迎え、関ヶ原の戦いの後秀康が越前に移封となると、結城の地は一時天領となり、結城城も廃城となった。 廃城に際して、家康の命により結城城の御殿、隅櫓、御台所、太鼓櫓、築地三筋塀、下馬札を埼玉県鴻巣市の勝願寺へ移築され結城御殿と呼ばれた。移築された御殿は百十四畳敷きの大方丈「金の間」、九十六畳敷きの小方丈「銀の間」に分けられ。大方丈は将軍来訪の際に使用されたことから「御成の間」とも呼ばれた。また、「金の間」には家康の像が、「銀の間」には黒本尊と呼ばれる秀康の念持仏が置かれていた。さらに結城城下の華厳寺にあった鐘も移築された。 元禄13年(1700年)、水野家宗家筋の水野勝長が能登より1万8,000石で封じられ、以後明治維新まで水野氏10代がこの地を治めた。元禄16年(1703年)には結城城の再興が許され、築城が開始された。 戊辰戦争の際には佐幕派が城を占拠したため、新政府軍の攻撃を受け、城の建物は多くが焼失した。
現在城域は公園および宅地として開発されており、遺構の保存状態は必ずしも良くない。各郭間に設けられた堀も多くが失われたが、実城西から南および中城南西部に空堀が残る。また、中城の東から西館の西、および、東館の南から東に掛けて、それぞれ水堀の跡が残る。

wikipediaより引用
城跡らしき遺構の前には説明板

結城城の曲輪と内堀

結城城跡の城跡歴史公園
結城城跡の説明板

水野家 顕彰碑

水野家は江戸時代後期の結城藩藩主
結城合戦タイムカプセル埋没記念之碑

結城合戦(ゆうきかっせん)は永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府と結城氏ら関東の諸豪族との間の戦い。
外から眺めた城跡歴史公園

再び2km先の結城駅へ向かいます。
城跡歴史公園から1.5kmの健田須賀神社に参拝

*健田須賀神社(たけだすがじんじゃ)は、茨城県結城市にある神社である。旧社格は県社。明治時代に健田神社と須賀神社を合祀したもので、このうち健田神社は式内社である。





健田須賀神社の拝殿、右に見えるのは社務所にて

御朱印を頂きました。

再び結城駅から水戸線に乗車

754M   結城1614発 小山行き

終点の小山1623着

夕陽に照らされた小山駅西口
小山駅西口 ロブレビル1かい「おやま本場結城紬クラフト館」にて販売されいる


鷲城、中久喜城、祇園城の御城印、1枚200円、3枚セット500円。

3枚セットを購入しました。

*鷲城(わしじょう)

現在の栃木県小山市外城にあたる下野国小山荘にあった日本の城。城跡は中久喜城跡、祇園城(小山城)跡とともに「小山氏城跡(鷲城跡・祇園城跡・中久喜城跡)」として、国の史跡に指定されている。築城年代は不明。小山氏は、鎌倉時代以来下野国の守護に任じられ、中世を通じて下野国最大の豪族であった。 鷲城は中久喜城、祇園城とならび、小山氏の主要な居城であるとともに、1380年(康暦2年/天授6年)から1383年(永徳2年/弘和2年)にかけて起こった小山義政の乱において本城としての役割を果たした。乱における小山方の拠点として文献資料に記されたのは、鷲城のほか、岩壺城(中久喜城)、新々城、祇園城、宿城がある。 今日、櫓台、土塁、堀の痕跡が残っている。本丸には名の由来となった鷲神社がある。外城は宅地化され、地名となっている。小山総合公園が隣接している。  1991年(平成3年)3月12日、鷲城跡と祇園城跡が国の史跡に指定された(指定名称は「小山氏城跡 鷲城跡 祇園城跡」)。その時点では祇園城跡の南久保曲輪の土塁の一部、また、鷲城跡の本丸の一部が未指定であった。2001年(平成13年)8月7日、両城跡の未指定部分を追加するとともに、あらたに中久喜城跡を追加指定して、史跡指定名称を「小山氏城跡 鷲城跡 祇園城跡 中久喜城跡」に改めた。


中久喜城(なかくきじょう)

現在の栃木県小山市中久喜にあたる下野国寒川郡にあった平安時代末期から戦国時代にかけての日本の城。別名:亀城、栃井城。1155年(久寿2年)に小山政光が築いたものとされる。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。 中久喜城は江川と西仁連川に挟まれた舌状台地の南端に位置している。両河川は中久喜城の南で合流しており、西仁連川がもたらす氾濫原が南方に広がる要害の地であった。 小山氏にとっては下総国結城方面への備えの城であり、鎌倉時代には下野国守護を務めた小山氏の拠点のひとつとなった。しかし室町時代に入ると下野守護の座は高氏や下野宇都宮氏、関東管領上杉氏に移り、こうした流れに抵抗した小山義政は1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて小山で反乱を起こし、この時に小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城の5城のうち、岩壺城に相当するのが中久喜城と考えられている。 小山氏は義政の乱で鎌倉府の追討を受けて断絶するが、同族の結城家から養子を迎えることで再興している。そののち安土桃山時代の1590年(天正18年)に小山高朝の子で、結城政勝の養子となった結城城主結城晴朝がこの城に隠居したという記録がある。 また、中久喜城がある舌状台地を古くは「北山」と称したが、天正年間に小山氏と同族の結城氏の和解の際、「中久喜」と改めたという伝承が残る(付近には和談坂と呼ばれる坂があり、この和解にちなむものであるという)。 以上のように、中久喜城は祇園城、鷲城と並んで小山氏の主要な居城であったと考えられている。 1601年(慶長6年)に結城氏が越前国へ転封となったとともに、廃城になったと考えられている。現在の中久喜城は、水戸線によって分断されてしまっている。城内に踏み切りがあるため分断された城を行き来することはできるが、中久喜城の位置がわかりづらくなってしまっている。 


小山城(おやまじょう)

栃木県小山市城山町(下野国都賀郡小山)にあった日本の城。別名は祇園城(ぎおんじょう)。地元では主に祇園城と呼ばれている。小山城は、1148年(久安4年)に小山政光によって築かれたとの伝承がある。小山氏は武蔵国に本領を有し藤原秀郷の後裔と称した太田氏の出自で、政光がはじめて下野国小山に移住して小山氏を名乗った。 小山城は中久喜城、鷲城とならび、鎌倉時代に下野国守護を務めた小山氏の主要な居城であった。当初は鷲城の支城であったが、南北朝時代に小山泰朝が居城として以来、小山氏代々の本城となった。1380年(康暦2年)から1383年(永徳2年)にかけて起こった小山義政の乱では、小山方の拠点として文献資料に記された鷲城、岩壺城、新々城、祇園城、宿城のうち「祇園城」が小山城と考えられている。小山氏は義政の乱で鎌倉府により追討され断絶したが、同族の結城家から養子を迎えて再興した。 その後は、代々小山氏の居城であったが、天正4年(1576年)に小山秀綱が北条氏照に降伏して開城し北条氏照の手によって改修され[2]、北関東攻略の拠点となっているが、天正10年(1582年)5月18日になると、織田信長の惣無事令により、信長の家臣である滝川一益の仲介の下、北条氏照から祇園城を返還される。しかし、この和睦には北条氏への帰属が条件として含まれており、北条氏の家臣が小山に滞在するなど、以前のような権力を持つことはできなかった。 小田原征伐ののち、1602年(慶長12年)頃、本多正純が相模国玉縄より入封したが、正純は1619年(元和5年)に宇都宮へ移封となり、小山城は廃城となった。 明治時代には第二代衆議院議長であった星亨の別邸が建てられたが、現存してはおらず、発掘調査で礎石と思われるものが確認された。 別名である祇園城は小山氏の守護神である祇園社(現須賀神社)からとったものである。小山城のあった場所は、現在、城山公園となっている。すぐ近くにある小山市役所の正面入り口前の駐車場に「小山評定跡」石碑と由来碑が設置されている。各曲輪はいずれも空堀によって隔てられており、土塁、空堀、馬出しなどの遺構が明瞭に残っている。また遺構は隣接する天翁院(小山氏の菩提寺)にも残っており、空堀や土塁が確認できる。城山公園の南側には小山御殿跡(元和8年)があり、平成27年に再整備され小山御殿広場となっている(国史跡の範囲に含まれている)。
御城印を購入したならば城跡に行かねば

祇園城(小山城)跡の城山公園へ向かうと、公園は整備工事中、公園内は立入禁止でした。

城山公園の脇を流れる思川
小山市役所の駐車場にある「小山評定跡」石碑

「小山評定」

慶長5年9月15日(1600年10月21日)の「関が原の戦い」の前の年7月25日、下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって開かれたとされる軍議のことである。その場では福島正則が進んで家康の味方を表明し、山内一豊が徳川軍への居城明け渡しを申し出たことなどによって諸大名は家康のもとに団結し、会津征伐中断と上洛が決定したとされてきた。これまで関ヶ原の戦役におけるターニングポイントの一つと扱われてきた。


小山からは、宇都宮線・上野東京ラインで帰る方が早いのですが、下り水戸線に乗車 

761M   小山1737 発 勝田行き 
1759着の下館で下車

1124   下館1841発 取手行き

車両はキハ2200形2202の単行


終点の取手2012着
取手駅前で夕食の後、上り常磐線に乗車

2170H   取手2110発 上野東京ライン 快速 品川行き

2147着の日暮里で下車、京浜東北線に乗換えて帰路に