令和4年(2022年)9月1日㈭


9月初日の朝は京都市東山区に来ました。時刻は9時過ぎ

豊国神社から方広寺へと続く石垣、刻まれた文字が掠れて読みづらい石碑には

「大佛殿石垣 豊臣秀吉造営 」の文字

かつてこの地にあった方広寺の大仏殿の石垣です。
焼失と再建を繰り返した大仏と大仏殿は現存せず

*京の大仏(きょうのだいぶつ)は、京の方広寺(現・京都市東山区)にかつて存在した日本の大仏。兵火で焼損した東大寺大仏に代わり、その役割を継承する存在にするという豊臣秀吉の意図から発願がなされた。 豊臣時代から江戸時代の中期にかけて新旧3代の大仏が知られる。
江戸時代後期に造立の4代目大仏は、1973年(昭和48年)まで存続していたが、失火により焼失し、ついに方広寺大仏は京都から姿を消した。

wikipediaより引用
雨の降る中、京都国立博物館の前を通り過ぎます。

画像は重要文化財の京都国立博物館正門

京都国立博物館には入館せず、後ほど訪れる三十三間堂の前も通り過ぎ

  
豊国神社から800m

総本山 智積院へ
智積院(ちしゃくいん)は、京都市東山区にある真言宗智山派の総本山の寺院。

金堂や明王殿などは無料で拝観でき、中に入ることもできる。大師堂や密厳堂も無料で参拝できる。収蔵庫、講堂、大書院、名勝庭園は有料拝観となる。宸殿はまれにある特別公開時以外の拝観はできない。

wikipediaより引用



拝観無料ということ出た境内へ

雨の平日朝、参拝者の姿はほとんど見当たらず

境内は工事中でした。

金堂 は1975年(昭和50年)再建。鉄筋コンクリート造。

このように工事用車両がいます。


明王殿(不動堂) 

智積院の護摩道場、祈祷所であり不動堂とも呼ばれている。本尊の不動明王は紀州根来寺から伝来と言われている。

建物は京都四条にあった大雲院本堂を移築。


智積院入口脇の御朱印所にて頂いた御朱印。

智積院から500m先、三十三間堂の東向いに位置する養源院

山門脇には「桃山御殿 血天井」の立札


*養源院(ようげんいん)は、京都市東山区三十三間堂廻り町にある浄土真宗遣迎院派の寺院。山号は南

重要文化財の本堂(重要文化財)は元和5年(1619年)に破却された豊臣秀吉の伏見城の殿舎を移築したものとされる。特に本堂左右と正面の廊下の天井は血天井として知られる。 血天井 は関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる伏見城の戦いで鳥居元忠以下2,000人余りが城を死守し、最後に自刃した廊下の板の間を供養のために天井としたもの、、今も生々しい血の痕があちこちに残る。

wikipedia より引用

山門を潜り進みます。

重要文化財の本堂が見えてきました。閉ざされた入口には張り紙

拝観時間は10時から、まだ時間前でした。

養源院の拝観は次に東山を訪れた時に




養源院の隣に位置する三十三間堂の東側に位置する法住寺。

後白河天皇が院の御所として創建した法住寺殿の御聖跡。


法住寺の脇には後白河天皇陵の参道入口








後白河天皇陵

*後白河天皇(ごしらかわてんのう、1127年10月18日〈大治2年9月11日〉- 1192年4月26日〈建久3年3月13日〉は、日本の第77代天皇(在位: 1155年8月23日〈久寿2年7月24日〉- 1158年9月5日〈保元3年8月11日〉)

鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇の急死により皇位を継ぎ、譲位後は34年にわたり院政を行った。その治世は保元・平治の乱、治承・寿永の乱と戦乱が相次ぎ、二条天皇・平清盛・木曾義仲との対立により、幾度となく幽閉・院政停止に追い込まれるがそのたびに復権を果たした。政治的には定見がなくその時々の情勢に翻弄された印象が強いが、新興の鎌倉幕府とは多くの軋轢を抱えながらも協調して、その後の公武関係の枠組みを構築する。南都北嶺といった寺社勢力には厳しい態度で臨む反面、仏教を厚く信奉して晩年は東大寺の大仏再建に積極的に取り組んだ。和歌は不得手だったが、今様を愛好して『梁塵秘抄』を撰するなど文化的に大きな足跡を残した。