あかがねミュージアムで鴻上尚史さんの『アカシアの雨が降る時』を観てきました。

僕自身、プロの舞台を観るのは、7年ぶりだったこともあってか、

キンソンの前から感動や興奮で心がザワついて、

観終わった後も、帰り道ずっと考えてしまいました。

 

以下、舞台を観て感じたこと。

 

「本当にやりたいこと」の鎮魂歌?

本当にやりたいことをみんな死ぬまで探して、

でも結局「本当にやりたいこと」は見つからない。

けど、見つからなくても幸せは見つけられるよ、

と言ってくれているような気がしました。


「アカシアの雨がやむ時」をもじってる?

英語の題名がついており、rain fallsとなっています。is rainningではないので、「雨が降る時」は、「雨が降り始める時」と考えることもできます。


西田佐知子さんの『アカシアの雨がやむ時』は、恋焦がれる待ち人が現れないことに失望し、死を考える歌です。恋焦がれる待ち人(理想)が訪れないことが分かって悲観する時です。


雨が止む前に、その雨が降り始める時があるはずです。では、雨が降り始める時とは、いつか?


加寿美が理想を持ったとき≒20歳のとき、つまり加寿美が認知症で戻った1971年のことを示唆しているのかな。

「アカシアの雨がやむ時」は、すでに主人公は死んで平穏に解脱しているわけですが、「アカシアの雨が降る時」は、理想に恋い焦がれる「世知辛い現世」。

 

現世は世知辛く、理想は訪れない

理想に恋い焦がれる「世知辛い現世」が「アカシアの雨が降る時」であるならば、曲の歌詞の通り、結局死ぬまで理想は訪れないということになります。

(このへんは何となく『朝日のような夕日を連れて』と同じメッセージを感じました)

でも、精一杯自分があるべき姿を追い求めよう

アカシアの雨は、アカシアの黄色い花弁の雨という解釈があるそうです。花びらの雨ならさぞかし美しいことでしょう。だとしたら、理想の訪れない世知辛い現世は美しいのです。矛盾してますね。


なぜ、そう聞こえるかというと、条件付きだから。


待ち人を想う強い恋慕。理想を追い求めている心に降るアカシアの雨が美しいのであって、ただ生きている心には美しいアカシアの雨は降らない。

誰かの価値観を生きるな

加寿美は世間、陸は大学、俊也は会社。みな誰かの価値観を生きてました。

そんな中、加寿美の認知症をきっかけに、陸も俊也も「これでいいのか」を考え始め、それぞれを縛っていた誰かの価値観から離れて、短いながら充実した3世代家族の平穏な時間を過ごした。


我々も知らず知らずのうちに誰かの価値観を生きているから息苦しくて分かり合えないのかもしれません。


まぁ、傍目には、大学に行かなくなって、会社を辞めて、認知症を患ってる家族なので、陸や俊也はどうするんや?とは心配になりますけど。それはそれ。

 

芝居を見て、1ヶ月の間ずっと書きたくて書けてなかった記事なので、やっと書けてスッキリしたー爆笑


ではまた  ノシ