自分は大学4年間、ひたすら働いて過ごしました。
とにかく働いて働いて働きまくって
ずっと働いて過ごした4年間でした。
世間一般の方がイメージするような大学4年間とは似ても似つかない
とにかく働いた4年間。
サークルに所属せず
4年間全て学園祭は欠席し
空いている時間があれば少しでも眠って、体力を温存しないとやっていけない
そんな思いから、大学の休み時間は頻繁に保健室に行き、保健室のベッドを借りて何度も休ませてもらう日常。
そんな大学4年間でした。
そういう4年を過ごそうと決めて、そうなったのではなく
いつの間にか、そんな風に変わっていきました。
群馬から、ほぼ池袋まで通う日常だったのですが、往復4時間が大変で、
やっすい10年落ちの中古車でJR高崎線の籠原駅まで行き、
そこから(始発なので)椅子に座り都内まで寝ながら通学していたのですが、とても大変でした。
1人暮らしをしようと思い、自分でアパートを探し始めたのですが、
始発駅である籠原駅の近辺でアパートを探し、結局見つからずに、深谷駅(籠原駅の隣)の近くに住み始めました。
当時はもう20歳を越えていたので、アパートを借りるにも家賃を払うにも親に頼ろうという発想は全くなく、自分でお金を出すのが当然だと思っていました。
なぜもっと大学の近くに借りなかったのかと言えば、家庭教師の仕事を太田市近辺でやっていたのと
今はもうなくなってしまった工場の雪印で働いていたため、大学も仕事にも通いやすいところを選んだつもりでした。
そして大学3年から4年になるころの年末年始に、埼玉県の森林公園駅の近くにある食品工場
ヒガシヤデリカで短期バイトを始め、そのときに東武東上線の森林公園駅から池袋まで直通で通えると気付き、
雪印を辞めて、ヒガシヤデリカに職場を移しました。
最初は、深谷市のアパートから森林公園駅までを車で移動していて、毎日片道25キロ
往復50キロ
ガソリン代もハンパないですし、移動時間ももったいないです。
車の中で、いつもLUNA=SEAのアルバムが流れていました。
みんなが寝ている時間、真っ暗な道を職場に向かって走り、朝まで働いて、帰宅してすぐに準備して眠らずに東京へ
誰とも話すことなく一人で講義を受け、たまに保健室に行き
講義が終わると、そそくさと帰途につきます。
帰宅すると、仕事の時間まで仮眠
眠ろうとする頃にいつも流れてきた防災無線
最後に防災無線を聞いた日はいつなんでしょう?
その日が最後になるとは気付かずに、聞いたことになります。
そのうち、森林公園からそのまま池袋に向かった方が効率がいいよなと気付くことになり
大学4年の6月頃に東松山に引っ越しました。
電車代も安くなり、通学時間も短くなり、ガソリン代も安くなり
かなり楽になりました。
自分が大学3年の年末から大学4年の夏休みまででしたが、働かせてもらったヒガシヤデリカ。
そこでは、同世代の大学生とつるむことはなく
50歳くらいのおじさんと仲良くなって、いつも一緒にいました。
1人の方は、こちら群馬、栃木で展開している飲食のチェーン店の創業者の方で、失敗をしてしまい、こうやって夜勤をすることになったと言っていました。
もう1人の方は、自営で焼肉屋さんをやられていたおじさんで、2人のおじさんにとても可愛がってもらいました。
あれから何年もたち、あの頃のおじさんの年齢に自分が到達し
当時を振り返っているわけです。
大学時代、自分は大学生でありながらサークルに所属せず、ゼミにも所属せず、卒論も書かず
それでも4年間で卒業できました。
世の中の大学生であれば、当然経験するであろう大学生らしいことは何一つやってきませんでした。
大学に自分の所属するコミュニティーというものはなく、それを苦とも思っていなかったので
大学では基本的にいつも一人でいました。
今でいうとぼっちなのかもしれませんが、当時の自分は、それをなんとも思っていなかったので、普通に、余裕でひとりでいました。
ただ、職場に行けば、自分の父親のような年齢のおじさんに可愛がってもらい、たくさんの事を教えてもらいました。
自分は、超が付く放任主義の家庭に育ったため、父親、母親から常識的な事を教わらずに育ってしまいました。
勉強を見てもらう事も一切なく
自分は、ひらがなもかたかなも勝手にひとりで覚えたそうです
塾の先生になり、初めて知ったのですが
世の中の子の多くは、読書感想文を親に書いてもらっているんですね。
みんなが口をそろえて「お母さんに書いてもらったら金賞になっちゃった」
ほぼ全員コレです。たぶん家では口止めされているのでしょうけど、子供たちはみんなしゃべってますよ笑
自分は完全な放任だったので、
まともな読書感想文も書けず、それ以前に書き方も分からず
ポスターも下手過ぎてピカソに見えるレベル
善悪の区別も幼少期はまともについていなかったと思います。
何が悪いかもわからずに、好きな事をやってしまい、近所の方によく怒鳴られ、怒られました。
自分が親になって、ほんと痛感します。自分の親は本当に放任だったなぁと笑
自分の子供には、いろんなことを伝えたいと思いますし
それと同様に塾生にもたくさんの事を伝えたいと思うわけですが
なぜ自分の両親は自分に対して、そういう気持ちにならなかったのかなぁと、この年になってしみじみと思います。
それだけに、工場で知り合ったおじさんに教えてもらったことが
きっと本来であれば父親から教わるような事だったんだろうなと思っています。
その意味でヒガシヤデリカで出会ったおじさんは自分にとって父親のような存在に感じています。
同じ夜勤をしていたので、生活のリズムも似ていました。
1人のおじさんは洋楽が好きで、カセットテープに洋楽を録音してたくさんプレゼントしてくれました。
自分のアパートからおじさんの家まで徒歩10分。
たまの休みに、おじさんの家に遊びに行き、一緒に歩いて、東松山図書館まで歩きました。
あそこにはたくさんCDがあって、洋楽もたくさんあって、おじさんと一緒にCDを選んだ日々を懐かしく感じます。
大学時代に、大学で知り合った友達の家には一度も行かなかったのに
おじさんの家には遊びに行かせてもらいました。
おじさん、楽しかったですか?
自分は、とても楽しかったです。
おじさんなんて言うのは、本当はとても失礼に感じています。
おじさんだなんて本当は思っていませんから。
でも、ここでお名前を出すのも違うと思うので、ごめんなさい。
おじさんと呼ばせてください。
おじさんと出会った思い出のヒガシヤデリカですが・・・
深夜にドライブして、思い出のヒガシヤデリカの前を通りかかったら
更地になっていました。
思い出の地が気付かないうちになくなっていましたね。
「え???」
と、思ったわけですが
結構な衝撃でしたね。思い出の地がなくなるって言うのは
おじさんと出会った工場
跡形もなくなってしまいました。
なくなったのは今年になってからみたいですね・・・もう少し前に来ればよかった・・・
当然、あのときにそこで働いていた人たちはもう誰もいません。
もう戻れないんだなという気持ちになりました。
あんな寝る事も出来ずに、大学に通っていた日々に戻りたくはないのですが
思い出の地がなくなるっていうのは寂しいものですね
なんていうか、みんながいなくなってしまった感じがします。
あれから25年は経っているので、当然誰もいなくて当然なのでしょうけど
寂しいものですね。
なにか辛いことがあったり、おじさんと話したい気持ちになると
こうやってたまに深夜に車を走らせて思い出の東松山市に来ることがありました。
おじさんが深夜のコンビニで働いているので、たまにおじさんに会うために東松山に来ていました。
今回、月末休みということで、久しぶりに東松山に来たわけですが
おじさんには会えず、せっかくなので自分が住んでいたアパートを通り
思い出のヒガシヤデリカを通り
心にポッカリ穴が開いた感じがして帰ってきました。
自分にとって大学が自分の所属するコミュニティではなかったので
職場がなくなってしまったことが、きっと皆さんの感覚からすると母校がなくなったようなショックになるのかもしれません。
落ち込んで帰ってきました。
ただ、帰ってくる途中でいろいろ考えました。
建物はなくなってしまったかもしれないけど
思い出が消えるわけではなく
自分を支えてくれた、守ってくれたおじさんがいたことは変わらない。
当時は自分がギリギリ携帯を持ち始めたばかりで
おじさんたちは携帯を持っていませんでした。
仕事を辞めると、連絡先が分からないのでお互いに気軽に連絡したり、会えなくなりましたが
1人の方は、東上線の某駅前で飲食店をやっているので、たまに伺う事が出来
もう1人の方は、コンビニのオーナーとして深夜に東松山で働いているので、こうやってたまにふらりと訪れながら
25年の月日を重ねてきました。
今、25年経って、あの日のおじさんとほぼ同じ年齢になり
当時の自分とあまり変わらない、もう少し若い生徒たちに囲まれて生きています。
自分は、おじさんのように立派な大人になれたのでしょうか?
いつか教え子たちが戻って来たいと思えるような先生でいられているのでしょうか?
一生懸命やっているつもりですが、いつまでたっても
おじさんの背中は見えません。
おじさんのようなカッコいい大人になれるように
まっすぐに生きていきたいと思います。
思い出の地に深夜に帰り、大学生だった頃を思い出しました。
しばらくお会いできないかもしれませんが、
おじさんに立派に生きたなって言ってもらえるよう
まっすぐに塾の先生として頑張っていきます。
見ていてください。
会えなかったので、今日のブログはおじさんへのメッセージみたいになってしまいました。
最後まで読んでくれた方、ごめんなさい。
なんのオチもありませんでした。
次回は勉強の話をします。



