大学合格が決まり、1人、2人と卒業する子たちが出てきます。

 

君がいつも来てくれていた時間、その枠にポッカリと穴が開きます。

 

私の心にもポッカリと穴が開きます。

 

自分にとって、高校時代は、大昔の子供の頃の思い出という認識なのですが

 

大学時代の延長線上に、今の自分があると感じています。

 

大学時代は働き尽くした4年間でした。

 

今から自分が、ココに何を書きたいのかも分からないのですが

 

支離滅裂になってしまっても、今思う気持ちを残しておきたいと思います。

 

☆☆☆

 

自分にとって大学の4年間はバイト三昧の日々でした。

 

家庭教師から始まり、セブンイレブンのレジもやりましたし、三菱でも、雪印でも働きましたし

 

明治製菓でも、ヤマト運輸でも働きました。

 

栃木県、群馬県、埼玉県、東京都 の4都県をまたにかけて働きました。

 

いくつもの短期バイトを掛け持ち、30近くは仕事をしたと思います。

 

包み隠さずに書いてしまえば、大学4年間の平均月収が22万円。

 

めちゃくちゃ働く大学生でした。

 

いろいろ想う事があり、意地になって働いていたのですが、それでも4年間で大学は卒業しました。

 

正直、大学の講義で得られたもの、大学で学んだものはひとつもないです。


勉強してなくはないです。


勉強したけど、生きてく上で、何一つ役には立たなかったです。

 

それでも大学に行って良かった、行かせてもらって良かったと思っています。

 

ここではないどこかのブログで書いたかもしれませんが

 

自分は夜勤をしながら大学に通っていました。

 

きつくないですか?と聞かれたら、そりゃキツかったです。

 

いつも眠かったですし。

 

でも、なぜか意地になって頑張ってました。

 

頑固になって働いていた気がします。

 

大学3年の時に、埼玉にアパートを借りて、1人で暮らし始めました。

 

敷金礼金、アパート代、食費、交通費すべて自分の貯金とバイト代でまかなっていました。

 

初めて、埼玉のアパートに住み始めた時は、出来たばかりの新築アパートの3階の角部屋で、何ひとつ物音のない静かなアパートでした。

 

何もなさ過ぎて怖い、「無」がそこにはありました。

 

当時の自分は携帯も持ってません。(のちに買いますが)

 

部屋には電話もありません。

 

誰とも連絡を取れない生活でした。

 

静かすぎて、怖くてブックオフで本を買ってきて、黙って1人で読書をしました。

 

最寄りのコンビニまでは徒歩で15分ほどかかりましたし、アパートは田んぼの中にポツンとあったので、そこから大通りに出るまでは狭くて、怖かったので、ただ静かにしていました。

 

寂しすぎて、コンビニまで暗い道を歩き、電話ボックスで15分、誰かと電話して帰ってきた記憶があります。

 

誰と話したのかすら覚えてませんが。

 

深夜0時から朝6時45分まで工業で働き、そのまま東武東上線にのり、池袋まで。

 

満員電車が嫌いで池袋で降りて、牛丼屋などで朝ごはんを食べて、となりの目白駅まで徒歩通学。

 

午前の授業が終わると、頻繁に保健室のベッドを借りてました。

 

保健室にいた先生に「バイトばかりして、こんな頻繁に保健室で寝てちゃ本末転倒じゃない?」と言われ、

 

「じゃあ、どうやって学費を払うんですか?」と反論し、先生が黙ってしまった事もありました。

 

自分は意地になって働いていたので、なぜかそこに意味不明なプライドを持っていました。

 

大学から帰ると、急いで寝ます。

 

最初は深谷市のアパートに住んでいたのですが

 

自分が寝るころにいつも夕焼け小焼けが流れていました。

 

ためしにyoutubeで検索して見たら、出てきましたよ。ほんとビックリ。

 

懐かしすぎて、涙が出てきますね。。。

 

まどろみながら、これを聞いて寝ていました。

 

本当によく頑張ってました。


なんであんなに頑張ったんだろうと思うくらいに頑張っていました。


つい昨日のことのように感じます。


当時の自分を助けてあげたいと思いますが、当時の頑固な自分は、今の自分が現れても助けを拒否すると思います。


自分で頑張りたいと言って頑なに私からの援助を拒否するでしょう。

 

夜11時くらいに起きだし、シャワーを浴びて大学のカバンを持ち、40万で買った中古の古いセリカに乗って、深谷市のアパートから遠く30キロ離れた東松山の工場へ向かいます。

 

埼玉県の嵐山町のとてつもない田舎道を職場に向かっていましたが、ド貧乏生活でしたので、CDも買えずに、いつも同じ音楽を聴いていました。

 

深谷市から東松山へ向かう中でいつも聞いていたのは、LUNA SEAの「shine」というアルバムでした。

 

おかげで今でもあのアルバムを聴くと当時を思い出します。


教え子たちにここまでやれとは思いませんけど

 

両親からの仕送り0円でも学費さえ出してもらえれば、余裕で生活できると思います。


バイト先の休み時間はいつも水道の水を飲んでのどの渇きをしのぐような貧乏生活でしたけど

 

アパート代、交通費、衣服も食費もバイトで賄えます。

 

それで4年で大学卒業だって可能です。

 

(医学科は無理かもしれませんけど。。。)

 

稼いだお金をすべて遊びに使おうというのだけはやめて欲しいですね。

 

生活するためには、責任もって働かないといけない、稼がなかったら生活が苦しくなるというラインの中で生活する事で

 

働くことの意味を実感して欲しいです。4年間のうちに。

 

テストがあるので、1か月バイト休みまーす♪みたいな大学生には、なって欲しくないですね。

 

私がこういう考えだから、大学生アルバイトが私の教室からはいなくなったんでしょうね。

 

大学四年になり、1学期が終わり、夏休みになりました。


深夜の工場のバイトが終わった後に寝ずに大学に行かなくてもよくなり、

 

アパートに戻り、朝から眠ることが出来るようになりました。

 

そこで、自分は夕方からのアルバイトを見つけてきて、そこで何時からだったか忘れてしまいましたが

 

夕方5時くらいから夜の10時くらいまで働くようになりました。

 

坂戸市の明治製菓です。いまでもあるみたいです。



 ここの給料がとても良くて、夏休みが明けると夜勤の方を辞め、明治製菓で毎日夕方働くようになり、普通に朝起きて、大学に行き、夕方からバイトをする普通の大学生活を送ることが出来るようになりました。

 

このフランっていうお菓子、作ってました。


朝、普通に起きて、東松山市のアパートから、徒歩で東松山駅まで。


そこから大学に通えるようになり、かなり楽になりました。


大学帰りに明治製菓でアルバイトです。

 

工場内にお菓子を安く売っているお店があって、GLAYのポスターがたくさん貼ってあったのを覚えています。

 

今でもあのお店あるのかなぁ。

 

バイトばかりの大学時代でしたが

 

夜勤の時も、明治製菓の時も

 

多くのおじちゃん、おばちゃんに助けてもらいました。

 

あのとき、助けてくれたおじちゃん50歳くらいでしたけど

 

一緒に夜勤をしていたのに、夜勤明けのコンビニでおじちゃんは自分によく朝ごはんを買ってくれました。

 

いらないと言っても、「ぶっ倒れちまうから食え!」と言って、買ってもらいました。

 

おじちゃん、元気かな?って今でも思い出します。

 

あのときのおじちゃんの年齢に、自分がなってしまったんだなぁと最近しみじみと感じますね。

 

おじちゃんに連れて行ってもらった人生初の焼き鳥屋。

 

今ではどこだったのか、どこにあるのかすら分からない温泉。

 

おじちゃんが自分を可愛がってくれた気持ちが今になるとなんとなく分かります。

 

自分を可愛がってくれたおじちゃんは2人いまして、

 

2人とも夜勤で知り合いました。

 

夜勤のアルバイトをしている50代のおじちゃんですので

 

2人ともワケアリでした。

 

1人のおじちゃんは、今でも某県を中心に展開している飲食店の創業者の方でした。

 

1店舗目で成功し、2店舗目で大失敗し、借金を抱え、店を手放し逃げる事になったと言っていました。

 

そのドタバタの中で家族と別れ、1人になり、当時は実家に潜伏していたらしいです。

 

そこでたまたまおじちゃんは、年末年始の短期アルバイトに応募をしてきて

 

自分も同じ短期アルバイトに応募をしていて

 

そこで知り合いになりました。

 

 

ちょうど、この頃の話です。

 

おじちゃんには、自分と同じくらいの娘さんがいたみたいですけど

 

自分と娘さんを重ねてくれたのかなぁなんて今更ながらに思っています。

 

教え子たちが、自分が味わった4年間を、味わう事になるのか という「恍惚と不安」

 

頑張れという気持ちと、なにかおせっかいをしたくなる気持ち。

 

それを言葉にしたいと漠然と思い、このブログを書き始めましたけど

 

だんだん何を書いているのか分からなくなってきました笑

 

すみません。

 

でも、これもリアルなので、このまま残しておきます。

 

大学4年間で一番ためになった事は、父親のようなおじさんから教えてもらった事でした。

 

お金を稼ぐために始めたアルバイト、生きていくために始めたアルバイトでしたけど

 

そこで得たものは生活費でも学費でもなく

 

おじちゃんからの人生のアドバイスでした。

 

あのおじちゃんたちが、多くいる大学生のアルバイトの中で、自分と一緒の休み時間を過ごしてくれました。

 

休日ですら自分のために時間を割いてくれ

 

自分に多くの事を教えてくれました。

 

それが今に繋がっていると思っています。

 

なぜ、おじちゃんが自分の傍にいてくれたのか、

 

きっと自分が、必死だったからだと思うんですよね。

 

もし自分が普通の大学生と同じように

 

稼いだお金でサークルの合宿に使ったり、スノボに行くお小遣いにしていたら

 

きっとおじちゃんと自分の人生が交錯する事はなかったと思います。

 

おじちゃんが世話を焼いてあげたいと思えるような大学生だったのかなと思うと

 

少し自分を誇らしく思います。

 

今、自分がこういう塾の先生になったのは、

 

辛かった大学時代に自分を支えてくれ、自分に多くを教えてくれたおじちゃんのおかげだと思ってます。

 

ちなみに、このおじちゃんは

 

自分の名義では起業が出来ないので、甥っ子さんの名義で仕事を立ち上げ、再起をしました。

 

その会社の名義は甥っ子さんのものになってますが、陰で私の尊敬するおじちゃんがやってます。

 

おじちゃんならきっと成功すると思ってました。起業するときもたくさん話をしてくれて、たくさん教えてもらいました。

 

あのおじちゃんとの出会いが無かったら今の自分はない。

 

そう思ってます。

 

また、おじちゃんに会いたくなってきました。

 

おじちゃん、もう70歳を越えています。

 

元気で頑張っていてくれたら嬉しいです。


何を書いているのか分からなくなってきました汗

 

ここまで読んでもらって、なにも残せませんでしたけど

 

時間もお返しできませんけど

 

卒業していく教え子たち

 

立派な大学生になってください。

 

信念を持って、生きて欲しいですね。

 

4年間での出会いを大切にしてください。

 

まだ出会ったことのない先輩、友人にこれから出会います。

 

一生の友達と言える人と会うのもこれからかもしれません。

 

自分に似た人が近づいてくるからこそ、一生懸命、大学4年間を過ごしてほしいと思います。


きっと、君が頑張れば、頑張っている君にふさわしい誰かに会えると思うよ。

 

いつかまた塾に遊びに来てね。

 

待ってます。