昨日は武信稲荷の坂本龍馬とお龍さんの話を紹介しましたが、そのお龍さんのお父さんが捕らえられていた
六角獄舎について今日はご紹介します。

江戸時代ここは牢屋がありました。幕末には多くの尊王攘夷派志士たちが捕らえられていました。お龍さんのお父さん楢崎将作も捕らえられていたそうですね。

さて、今この場所を訪れると平野国臣の石碑のみがあります。禁門の変のどさくさに紛れて幕府役人に捕らえられていた人々が殺されました。実際には禁門の変では火災はここまで及ばなかったそうですが。
池田屋事件のきっかけになった古高俊太郎らも殺されました。

毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-六角獄舎跡
毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-山脇東洋日本医学発祥の地
毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-平野国臣殉難の地

さて、このブログでは歴史に埋もれた人たちを発掘する目的がありますので、平野国臣をご紹介します。

平野国臣は筑前福岡藩士の足軽でした。尚古主義の影響を強く受け、古式の袴で歩いたり、直垂で歩いたりしていたそうです。なんかいつも着物で歩いてる筆者としては親しみが持てる人物ですね~(^^;

大和の天誅組の反乱に呼応して生野に挙兵します。生野の代官所を占領するもので、代官所は幕府の
直属の行政機関。これによって討幕運動の導火線としたかったようです。


このとき北垣晋太郎と挙兵したのですが、
あえなく敗北し、捕らえられて六角獄舎につながることになります。
北垣晋太郎は長州に逃れます。その北垣晋太郎がのちの京都府知事北垣国道だったのでした。
あの琵琶湖疎水を作って、東京遷都によって寂れた京都の起爆剤にした人です。
ここで北垣晋太郎が捕らえられて殺されていたら琵琶湖疎水はなかったかもしれないですね。

javascript:void(0);

人物基本データ
平野国臣(ひらの くにおみ)
1828年5月12日~1864年8月21日
墓所:京都霊山護国神社

アクセス

大きな地図で見る

京都三条商店街の近くに武信稲荷という神社があります。
毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-武信稲荷

ここの榎の木には伝説があります。
毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-武信稲荷拝殿と木

この神社の隣は六角獄舎。幕末志士が捕らえられていました。

お龍さんの父・楢崎将作は勤王家で志士たちを支援して安政の大獄でここにつながれ
そのまま亡くなったそうです。

お龍さんは父の安否を尋ねるため、この神社の榎の大木から様子をうかがったそうです。
そのとき龍馬も来ていたそうで、

龍馬が追われる身になったとき、密かにこの榎の木に「龍」の文字を彫ってお龍に自分の
安否を知らせたそうです。
毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-武信稲荷の木

実際は龍馬とお龍さんが会ったのは楢崎将作の死後だったかもなので伝承の1つですね。

いま行くときには虫除けをもっていって下さい(^^;

http://takenobuinari.jp/

毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-武信稲荷龍馬案内

毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-武信稲荷案内板



大きな地図で見る

さて、今日は竹中半兵衛と黒田官兵衛の半兵衛官兵衛を取り上げてみます。
岐阜県垂井にあるお寺に半兵衛は眠っています。そこを中心に半兵衛を紹介
してみたいと思います。
 
  半兵衛官兵衛
 最近の戦国ゲームでよく取り上げられ人気が出ている二人の軍師キャラ。一夢
庵でも最近戦国婆娑羅弐ようかんで竹中半兵衛を発売して好評なんですが、カプ
コンのゲーム戦国BASARA3では黒田官兵衛も人気とか?この竹中半兵衛と黒田官
兵衛をあわせて半兵衛官兵衛とか二兵衛とか両兵衛とかいろいろな言われ方をし
ています。ここでは半兵衛と官兵衛に略してご紹介しますね。どちらも豊臣秀吉
に仕え、軍師として活躍します。半兵衛は1544年生まれ、官兵衛は1546年生まれ
で殆ど同じころに生まれたのですが、半兵衛は36才で亡くなり、官兵衛は58才ま
で生きたため、活躍した時代はずれています。今回の前編では半兵衛を中心に取
り上げてみたいと思います。
 
  色白長身の半兵衛
 半兵衛こと竹中重治(しげはる)は美濃(岐阜県)の斎藤氏に仕える家臣の家
で天文13年(1544年)9月11日に生まれました。斎藤道三の息子・義龍、さらに
その子・龍興に仕えます。半兵衛は色白長身それも痩身で女のような容貌だった
そうです。どちらかというと物静かで書物を好んだ感じですね。ただその書物は
孫子など武経七書と呼ばれる兵法書であったようです。そのような容貌のためか
龍興の家臣斉藤飛騨守におしっこをかけられるなどの嫌がらせも受けたそうです。
そのような中で龍興は半兵衛を遠ざけて、酒色におぼれ政治を顧みない行いが多
かったようです。
 
  城を乗っ取る
 半兵衛のもっとも有名なエピソードは、21才の時たった16人の家臣だけで龍興
の城・稲葉山城(のちの岐阜城)を1日で乗っ取ってしまったことです。今で言
うクーデターですね。このときは城内にいる弟に仮病を使わせ、それを見舞うと
言うことで見舞いの品を入れた箱に武器を隠し堂々と城に入り、斉藤飛騨守を斬
り殺し、龍興は恐れをなして逃亡して半年間城に帰れなかったそうです。織田信
長が8年間にわたって攻めても落とせなかった城を1日で16人で乗っ取ってしまっ
たんですね。
 そこで信長は半兵衛に美濃を半分やるからと誘ってきますが断り、龍興に城を
あっさり返してしまいます。さらにその後は隠居してしまいます。
 
  秀吉に三顧の礼で仕える
 隠居している半兵衛に再三にわたり傘下に入るよう求めてきた人物がいます。
それが豊臣秀吉でした。栗原山中七度通いと言われ、7回に渡って半兵衛を訪れ
説得したそうです。この話は中国の『三国志』にいう「三顧の礼」を元に作られ
た話で、秀吉を劉備、蜂須賀小六を関羽、前野長康が張飛、竹中半兵衛を諸葛亮
孔明となぞらえた話で作り話ではないかと言われています。
 
  知らぬ顔の半兵衛
 その後は多くの戦いで活躍します。しかし秀吉と意見が対立することもありま
した。そのたびに半兵衛はそしらぬ顔をして秀吉に従わず、平気な顔で軍律違反
することもしばしば。しかし最終的には半兵衛が正しいことがわかり秀吉の窮地
を救ったりします。
 今風に言えば上司にあたる人の間違いには従わず自分の意見を貫いて、最終的
には上司の役に立つというのが半兵衛の軍師らしさなんでしょうか?このように
そ知らぬ顔をする今で言うポーカーフェイスを、知らぬ顔の半兵衛と言うように
なりました。

  官兵衛と半兵衛
 官兵衛こと黒田孝高(よしたか)は播磨(兵庫県南部)の戦国大名・小寺氏に
仕え、小寺氏の家老として姫路城代をつとめていました。3000の兵力で攻めてき
た赤松氏を300の兵で退けるなどの活躍が知られていました。
 この頃勢力を拡大する織田信長を評価しており、岐阜城にて主君小寺氏だけで
なく、近隣の大名・別所長治なども引き連れて信長に謁見させ、信長に臣従しま
す。さらに息子の松寿丸を信長に人質に出します。そのくらい信長を高く評価し
ていたのです。
 官兵衛の居城・姫路城は毛利攻めの拠点になる立地。毛利を攻める秀吉に姫路
城を提供し、自らは近くの城に引っ越します。この頃には秀吉の軍師だった半兵
衛と出会っていたことでしょう。
 
  官兵衛の危機
 しかし別所長治と主君小寺氏が毛利氏と結んで信長に反旗を翻します。そこで
別所長治の居城・三木城を秀吉は攻撃します。それだけでなく信長の配下の荒木
村重が信長を裏切り有岡城(伊丹市)に立てこもります。それに小寺氏も従って
しまったため、説得のため自ら有岡城に乗り込みました。しかしながら官兵衛は
捕らえられ牢に入れられてしまいます。帰ってこない官兵衛を見た信長は、官兵
衛が寝返ったとみて人質だった松寿丸の殺害を命じます。その中で半兵衛はある
作戦を考えたのです。その作戦とは?
 では続きはまたいずれ。

  半兵衛の家紋
 半兵衛の家紋は九枚笹です。竹中氏は源氏の流れをくむ斉藤氏に滅ぼされた土
岐氏の支流で、そのため源氏の笹竜胆から派生した笹紋を使っていたようです。
笹は真っ直ぐに伸び、繁殖力が強いため、節操がある繁栄の象徴という家紋とし
て好んで用いられました。

  半兵衛・官兵衛のあしあと
 のちに関ヶ原の戦いの舞台となる関ヶ原のすぐ近く、岐阜県垂井には半兵衛の
菩提寺や半兵衛の銅像があります。斉藤氏に従っていた時代の拠点です。


毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-竹中半兵衛の手ぬぐい
毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-垂井の竹中半兵衛の墓
毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-垂井の竹中半兵衛墓から岐阜城を望む
毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-垂井の竹中半兵衛像
京都の真ん中、烏丸御池界隈は日本の政治の中心地であったのでただの町に見えてもその地中には
日本の歴史そのものが眠っています。もちろん地上に残るものも多くあり、ちょっとしたものでも
すごい歴史が隠れていたりするのです。

毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-高松神明社石碑

高松神明社に残る小さなお地蔵さんもその1つ。なんと真田幸村の念持仏だったのです。この高松神明社自体の歴史は、京都市の案内板を引用しましょう。

毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-高松神明社案内板



高松殿は、醍醐天皇の皇子、西宮左大臣と呼ばれた源高明(914-982)の邸宅で「拾芥抄」に「姉小路北西洞院東高明親王家」記されている。
高明の娘、明子は、当所に住して高松殿と称され、後に藤原道長の室となった。その後、三条天皇の皇子小一条院の御所ともなったが、文献では、治安元年(1021)と、更に百年後の保安元年(1120)に焼亡記事が見える。
 院政期の久安二年(1146)には、後鳥羽上皇の命により新築され、造営には、後に大蔵卿となった長門守源師行が当っている。久寿二年(1155)には、後鳥羽天皇が当所で即位し、保元二年(1157)まで内裏となり、高松内裏とも称された。
 保元の乱(1156)の際には、崇徳上皇方の白河北殿に対して、後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢がここに参集して、白河の地へ攻め込んだことはあまりにも有名である。
 その後、平治の乱(1159)に御所は焼失するが、邸内に祀られていた鎮守社高松明神は、現在も高松神明神社として残る。


ここも御所だったんですね。それも承久の乱を起こした有名な後鳥羽上皇がここで即位したという由緒正しい御所だったのです。御所八幡宮もそうですが、街中の何気ない神社も、昔天皇さんがお祀りになってた神社なのです。

さて、なぜここに真田幸村の念持仏があるのでしょうか。関ヶ原の戦いで西軍についた真田昌幸・真田幸村親子は、真田信之のはからいもあり、死罪は逃れてなんとか紀州九度山に流罪になります。そこで幽閉生活を送り、父昌幸はそこで亡くなります。その後大坂の陣で活躍の場がくるまで幸村は九度山で漬け物を作ったりして生活するのですが、その時に念持仏としていた地蔵のようなのです。これを1794年にこの神社さんで拝領してきたそうなのです。

案内板にはこうあります。

紀州九度山の伽羅陀山に安置してあった真田幸村の念持仏を拝領してきた神明地蔵尊「幸村の知恵の地蔵尊」がある。地蔵堂の台石をさすり、子達の頭をなでると知恵を授かると信仰されている。

隠れた名所ですね。

毎日史跡を紹介する「一日一跡」歴史ブログ-真田幸村の念持仏


アクセス

大きな地図で見る