さて、今日は竹中半兵衛と黒田官兵衛の半兵衛官兵衛を取り上げてみます。
岐阜県垂井にあるお寺に半兵衛は眠っています。そこを中心に半兵衛を紹介
してみたいと思います。
 
  半兵衛官兵衛
 最近の戦国ゲームでよく取り上げられ人気が出ている二人の軍師キャラ。一夢
庵でも最近戦国婆娑羅弐ようかんで竹中半兵衛を発売して好評なんですが、カプ
コンのゲーム戦国BASARA3では黒田官兵衛も人気とか?この竹中半兵衛と黒田官
兵衛をあわせて半兵衛官兵衛とか二兵衛とか両兵衛とかいろいろな言われ方をし
ています。ここでは半兵衛と官兵衛に略してご紹介しますね。どちらも豊臣秀吉
に仕え、軍師として活躍します。半兵衛は1544年生まれ、官兵衛は1546年生まれ
で殆ど同じころに生まれたのですが、半兵衛は36才で亡くなり、官兵衛は58才ま
で生きたため、活躍した時代はずれています。今回の前編では半兵衛を中心に取
り上げてみたいと思います。
 
  色白長身の半兵衛
 半兵衛こと竹中重治(しげはる)は美濃(岐阜県)の斎藤氏に仕える家臣の家
で天文13年(1544年)9月11日に生まれました。斎藤道三の息子・義龍、さらに
その子・龍興に仕えます。半兵衛は色白長身それも痩身で女のような容貌だった
そうです。どちらかというと物静かで書物を好んだ感じですね。ただその書物は
孫子など武経七書と呼ばれる兵法書であったようです。そのような容貌のためか
龍興の家臣斉藤飛騨守におしっこをかけられるなどの嫌がらせも受けたそうです。
そのような中で龍興は半兵衛を遠ざけて、酒色におぼれ政治を顧みない行いが多
かったようです。
 
  城を乗っ取る
 半兵衛のもっとも有名なエピソードは、21才の時たった16人の家臣だけで龍興
の城・稲葉山城(のちの岐阜城)を1日で乗っ取ってしまったことです。今で言
うクーデターですね。このときは城内にいる弟に仮病を使わせ、それを見舞うと
言うことで見舞いの品を入れた箱に武器を隠し堂々と城に入り、斉藤飛騨守を斬
り殺し、龍興は恐れをなして逃亡して半年間城に帰れなかったそうです。織田信
長が8年間にわたって攻めても落とせなかった城を1日で16人で乗っ取ってしまっ
たんですね。
 そこで信長は半兵衛に美濃を半分やるからと誘ってきますが断り、龍興に城を
あっさり返してしまいます。さらにその後は隠居してしまいます。
 
  秀吉に三顧の礼で仕える
 隠居している半兵衛に再三にわたり傘下に入るよう求めてきた人物がいます。
それが豊臣秀吉でした。栗原山中七度通いと言われ、7回に渡って半兵衛を訪れ
説得したそうです。この話は中国の『三国志』にいう「三顧の礼」を元に作られ
た話で、秀吉を劉備、蜂須賀小六を関羽、前野長康が張飛、竹中半兵衛を諸葛亮
孔明となぞらえた話で作り話ではないかと言われています。
 
  知らぬ顔の半兵衛
 その後は多くの戦いで活躍します。しかし秀吉と意見が対立することもありま
した。そのたびに半兵衛はそしらぬ顔をして秀吉に従わず、平気な顔で軍律違反
することもしばしば。しかし最終的には半兵衛が正しいことがわかり秀吉の窮地
を救ったりします。
 今風に言えば上司にあたる人の間違いには従わず自分の意見を貫いて、最終的
には上司の役に立つというのが半兵衛の軍師らしさなんでしょうか?このように
そ知らぬ顔をする今で言うポーカーフェイスを、知らぬ顔の半兵衛と言うように
なりました。

  官兵衛と半兵衛
 官兵衛こと黒田孝高(よしたか)は播磨(兵庫県南部)の戦国大名・小寺氏に
仕え、小寺氏の家老として姫路城代をつとめていました。3000の兵力で攻めてき
た赤松氏を300の兵で退けるなどの活躍が知られていました。
 この頃勢力を拡大する織田信長を評価しており、岐阜城にて主君小寺氏だけで
なく、近隣の大名・別所長治なども引き連れて信長に謁見させ、信長に臣従しま
す。さらに息子の松寿丸を信長に人質に出します。そのくらい信長を高く評価し
ていたのです。
 官兵衛の居城・姫路城は毛利攻めの拠点になる立地。毛利を攻める秀吉に姫路
城を提供し、自らは近くの城に引っ越します。この頃には秀吉の軍師だった半兵
衛と出会っていたことでしょう。
 
  官兵衛の危機
 しかし別所長治と主君小寺氏が毛利氏と結んで信長に反旗を翻します。そこで
別所長治の居城・三木城を秀吉は攻撃します。それだけでなく信長の配下の荒木
村重が信長を裏切り有岡城(伊丹市)に立てこもります。それに小寺氏も従って
しまったため、説得のため自ら有岡城に乗り込みました。しかしながら官兵衛は
捕らえられ牢に入れられてしまいます。帰ってこない官兵衛を見た信長は、官兵
衛が寝返ったとみて人質だった松寿丸の殺害を命じます。その中で半兵衛はある
作戦を考えたのです。その作戦とは?
 では続きはまたいずれ。

  半兵衛の家紋
 半兵衛の家紋は九枚笹です。竹中氏は源氏の流れをくむ斉藤氏に滅ぼされた土
岐氏の支流で、そのため源氏の笹竜胆から派生した笹紋を使っていたようです。
笹は真っ直ぐに伸び、繁殖力が強いため、節操がある繁栄の象徴という家紋とし
て好んで用いられました。

  半兵衛・官兵衛のあしあと
 のちに関ヶ原の戦いの舞台となる関ヶ原のすぐ近く、岐阜県垂井には半兵衛の
菩提寺や半兵衛の銅像があります。斉藤氏に従っていた時代の拠点です。


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