21世紀の健康社会を創造する -161ページ目

弱い立場・臨床検査技師教育者の生き方・・・健康と教育が職を創造する

 日本の臨床検査技師教育変遷の流れは、旧軍隊の衛生兵や地方衛生研究所の研究補助員の徒弟制度教育からはじまる。日本では戦後、結核回復者の社会復帰のために全国の療養所の研究室に教育施設が生まれた。その中で関西は昭和26年の国立兵庫障害者職業能力開発校であった。関東は国立東京・清瀬療養所の中のアフターケァ病棟が社会復帰するための施設であった。今と違い結核は死の病であり社会から隔離されていた。清瀬は、結核療養所が沢山あった。葬儀屋が繁盛した。
戦後、最初に検査技師学校を作った斉藤磯一郎先生が中野結核療養所で入院していた。昭和25年6月より国立東京療養所に就職した。ここから臨床検査の教育がはじまる。昭和26年ごろからアフターケァ薫風園衛生技術部として病院の検査センターとして結核菌の培養検査、尿糖検査、緒方法梅毒検査をしていた。斉藤磯一郎先生は、社会で弱い立場の人でも仕事出来るようにしようと考えた。昭和31年国立東京療養所を退職して財団法人東京都民生委員事業協会清瀬園に就職した。そして衛生技術科の指導員と併設の検査センターの責任者になった。
昭和35年4月財団法人東京都民生委員事業協会東京清瀬衛生検査技師養成所(2年制)が設立された。A班B班C班と分け教科別に実習中心に理論の教育が行われた。
$21世紀の健康社会を創造する

写真 22期生と斉藤先生


結核回復者の社会復帰のための学校になり全国から生徒が集った。生徒にお金がなく養成所の経営もたいへんであった。長い間、結核回復者は社会から隔離されて問題があるということで健常人も入学させ一緒に学ばせた。病気してもやる気のある生徒が集り活気があった。結核回復者は、就職するのが難しかった。それでも中卒から大学卒まで入学していた。その後、病院も臨床検査が儲かることがわかり養成所卒業生100%就職できた。
私は22期生で指導員として養成所に就職した。斉藤磯一郎先生の思想・臨床検査について深く学ぶことになった。その後、清瀬から職場を文京区に移した。
斉藤磯一郎先生は昭和52年3月養成所を定年(68歳)退職した。併設検査センター化学担当非常勤となり名称変更に東京清瀬医学技術専門学院非常勤講師となる。昭和25年国立東京療養所研究室開設されて以来少人数教育で800名余りの卒業生を医療の第一線に送り出した。