第3回 大遷都委員会in広島 | WEBマーケティング屋のブログ

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大遷都委員会とは

大遷都は感性論哲学の芳村思風先生が語られていらっしゃいます。

「日本人が果たす役割」

日本の真上に世界の中心がある。日本人自身が人類の指導者になるべき、我々が目標を掲げて人類を導いていく指導的役割を日本人が自覚する。

その自覚を持つきっかけとして

日本が東京から広島へ日本の首都を移す大遷都があります。

平和の原点が広島であり、日本が広島を中心に平和を導く為に民族に与えられた歴史的使命を果たす為にも。

我々は芳村先生の想いを基に大遷都が叶う事でいかに日本が発展し、世界から尊敬される日本になれるかを東京思風塾の塾生と共に勉強会を通じて学んでいます。

 

祈る平和から創る平和に

 

時代を捉える背景として

1、歴史は風土と民族と国家と思想で変わりながら進んでいく

2、全ての存在は存在する事への必然性を持って存在している

3、全ての存在は存在する事への必然性を実現しきった時完成され衰退していく

4、一度完成された形式に到達したものは保守化して時代に取り残されていく

5、一度歴史的使命を終えた時、潜在能力を出し切った者は2度と歴史の主役になり得ない

6、人類は人類としての潜在能力を実現しきった時衰退する

7、世界の歴史を動かす力は2つある。「因果律と自由律」

8、時代を興す原理はまた時代を壊す原理でもある

9、不安を解消し安心を実現する事を目的に歴史が創られる

10、時代欲求や時代感情、時代感性が歴史の方向性を決定する

日本人自身が人類の指導者となり、我々が人類に未来への目標を掲げて導いていく。その様な指導的役割を持てるのが日本人である。

どういう風に表現するかというとやり方として大遷都が挙げられる。

大遷都を東京から広島へ。何故広島かというと明らかに戦争から平和の時代に変わっており平和の原点というのは世界の共通認識。

世界から認められ認識されるのは広島に首都が移るという事が日本人が平和を実現する指導者として世界の認識が変わってくる。

そして、平和はいつまでも祈りであってはならない。

祈る平和から創る平和への進化になる為に日本人が自覚を持つ事が大切。

その平和の心を持つ為に

心に響いた言葉を味わってみて自分の中に問いをしていくと感性が高まっていく

 

 

【歴史的な背景から】

日本は古来、奈良時代から奈良県に日本の中心があり中世には京都、平安遷都があり日本の遷都が始まり武士の時代に鎌倉に移り、京都の室町に変化した。

京都という風土は平安時代に風土の基となる潜在能力を使い果たしてしまった。

その後戦国時代、江戸となり関東平野が中心となり日本の近代が始まる。明治になり江戸から東京になり今日に至る。

世界史を振り返っても時代時代に風土を移し替えながら今日に至るまで発展している。今の時代の時流が脱近代、つまり過渡期にある。

その過渡期を担うのが日本であり、過渡期の使命として何をやったらいいのか?という問いに対して大遷都が挙げられる。

どこに日本の都市を遷都するのか?

新しい都は広島しかない。日本が平和の指導者として日本こそこれからの世界の平和を目指すべき役割を担っている。

世界の平和を目指し、戦争の無い平和を目指すならば広島。ただ、広島だけではなく広島を中心として中国地方を大首都圏として捉える。

 

戦前から戦後にかけて和辻哲郎の風土という書物がある。

土地というものはどれ程大きなエネルギーを持って動植物を支配しているかの構図がかかれている。

風土が違えば文明、文化が違う。

だからこそ、日本を変えたい、活力をよみがえらせるには遷都が必要

大遷都こそ日本再生最後の切り札

 

第3次高度成長へ

日本が担う役割として経済を動かすには爆発的な雇用と仕事を創る必要がある。

その経済を動かす為には時代を動かさなければいけない。時代を動かすのは風土を動かす事。風土を動かす事は歴史的事実から見て言える事であり

大きな歴史的変換においては歴史無き政治も変革が求められている。

いかに公共事業を考えても大遷都に勝る公共事業は無い。従来の公共事業ではあまりにも規模が小さすぎる。数十兆単位ではなく百兆円を超える事業として国の繁栄を考える。国家予算をはるかに超える規模で行う。

遷都を通して新しい政治、経済、社会の在り方を創って、中国、韓国などアジアに示す見本となれる日本になる為の遷都であり、歴史的な価値がそこにある。

日時:2017年6月7日(水) 11:00新幹線広島駅改札集合

行程

11:00 広島駅出発 広島世話人清水氏友廣氏会社訪問

15:00 原爆死没者記念碑 献花黙祷

16:00 大遷都委員会 講師:芳村思風先生

18:00 広島思風塾参加

20:00 懇親会

広島までの交通の手配、当日の宿泊は各自お願いします。

申込:参加ご希望の方は、大遷都委員会にご入会が条件となります。

過去開催の様子

2017年2月18日土第3回-大遷都委員会

第3回東京での開催は、大遷都における歴史的な意義から解説頂きました。

文明が変わる時、過渡期の民族が果たす役割

民族が持っている役割というのがそれまでの時代の文明を質において完成し終わらせる
そして新しい時代の原理を提案する。
石の文化の頃から中世、近代にいたるまでを振り返ると

中世は真理は1つという時代において、ユダヤ教とキリスト教の進出がある中、ローマカトリックという大きな教団の中で封建社会が成立しルネッサンス人がそれまでの中世の文化を質において完成
(建築技術や芸術など)させて終わらせた。

その後人間の本質は理性という事で理性の時代(科学技術文明)が始まった。

※どの時代にも不安があり
力に対する不安:力でないものとして真理は1つという考えに
不合理不条理に対する不安:国民の不安に対してそこから論理的に考えるという
合理へのあこがれから理性へのあこがれが生まれ人間の本質は理性という考えが生まれ

その後

理性への恐れや不安に対して:感性の時代(日本人が科学技術文明において質の面で完成させて終わらせる)そして新しい時代の原理を提案するのが日本人しかできない事であり

科学技術文明が造り出した4つの負の遺産に対して答えを出せるのが日本人である。

 

4つの負の遺産というのは
・自然破壊
・環境破壊
・人間性の破壊
・核の問題
の4つ

1つ核の問題を例に挙げると、放射能の問題について

それは20世紀が生んだ1個人(アインシュタイン)に帰するものであり、それは人類が創ったものに対して、否定し逃げてはいけない。

無くする、辞めるという事は科学技術の進化を否定する事につながる可能性もあり、進化を否定するのではなく受け止める事が大切。

それは常に、「神様は乗り越えられない試練は与えない」

従って人間の英知である原子力を何かの都合で否定し諦めるのではなく、受け止め乗り越える

例えば、放射能を無毒化する技術を生み出す、福島や広島に対して研究センターを創って研究する場所を創るなど人類の功績を否定せずに乗り越える英知を集めて日本が先導して乗り越えていく事こそが重要

感性論哲学の目的は「全人類の人間性の進化と平和」であり

我々は4つの負の遺産に対して実際にアプローチできる事は人間性の破壊に対してのアプローチと思われ、具体的に考えた場合に感性論哲学を広める事が人間性の破壊に対して我々が学び、伝え、広める事が出来るかもしれない。

最後に

日本人は時代と風土を考えるとチャンスの機会が来ている

現在、「平成」が30年で終了すると言われ、天皇陛下の生前退位「大嘗祭」は平成30年11月を予定されている中、大嘗祭が行われ、大嘗祭を行うのが徳島の阿波忌部族。忌部族の直系の末裔の三木家の庭において作られる大麻の布、

大嘗祭に用いるあらたえ
※天皇陛下が即位されるとき、その即位の儀式の大嘗祭には「あらたえ」という着物が用いられます。

そのあらたえの大麻の布を作っていたのが徳島の阿波忌部族

阿波忌部族の詳細はこちら

阿波忌部族は圧倒的な知識、技術、知恵を持ち平和的な感性で日本中に農法、技術を広めていた。その平和的な感性や知識技術を伝えた1つに大麻の文化があり、大麻を日本中の神社(しめ縄)で使われる事により霊力のある文化が広まったと考えられています。

その阿波忌部族が持っていた感性や文化が広まるきっかけが2年後の大嘗祭の時期になるであろうと。その際に日本人が平和的文化、感性を取り戻す(覚醒する)きっかけが来るのではないかという事でした。

 


2016年10月18日第2回「大遷都委員会」in広島

大遷都委員会記念すべき第1回


大遷都委員会

2016年7月16日大遷都委員会記念すべき第1回を開催しました。

思風先生から、冒頭歴史的な流れを基に何故遷都を行う必要があるのかを解説頂きました。

現在、歴史的には過渡期の時代に今あり、時代の変化の時期に、新しい時代には国の中心になる風土を変えていく。それは新しい時代を創る為の根本的、本質的な原理である。

【歴史的な背景から】
日本は古来、奈良時代から奈良県に日本の中心があり中世には京都、平安遷都があり日本の遷都が始まり武士の時代に鎌倉に移り、京都の室町に変化した。
京都という風土は平安時代に風土の基となる潜在能力を使い果たしてしまった。

その後戦国時代、江戸となり関東平野が中心となり日本の近代が始まる。明治になり江戸から東京になり今日に至る。

世界史を振り返っても時代時代に風土を移し替えながら今日に至るまで発展している。今の時代の時流が脱近代、つまり過渡期にある。

その過渡期を担うのが日本であり、過渡期の使命として何をやったらいいのか?という問いに対して大遷都が挙げられる。

どこに日本の都市を遷都するのか?
新しい都は広島しかない。日本が平和の指導者として日本こそこれからの世界の平和を目指すべき役割を担っている。
世界の平和を目指し、戦争の無い平和を目指すならば広島。ただ、広島だけではなく広島を中心として中国地方を大首都圏として捉える。

日本の遷都、1難波遷都

第33代推古天皇から第40代天武天皇までは, “一代一皇居時代” といって, 天皇が予め用意された都にいて政治を見るのではなくて, 一代ごとに皇居をかえるのが一般であった。 しかしこの間も皇居が奈良県高市明日香村あたり, ずなわち飛鳥川流域で, 天香久山から畝傍山にはさまれた狭い地域を, 第34代野明天皇は飛鳥岡本宮, 第35代皇極天皇は飛鳥板蓋宮, 第37代斉明天皇は後飛鳥岡本宮,第40代天武天皇は飛鳥浄御原宮というよ うに移動している。

しかしこの時代にも二度ばかり都が飛鳥の地を離れたことがある。 その第一回目は第36代孝徳天皇が大化元年 (645年) に都を現大阪市にあたる難波長柄豊碕宮に移した時であり, 第二回目は第38代天智天皇が天智6年(船7年) に近江の大津宮に移した時である。まず第一回目についていえば, この年の6月それまでわが国政を実質的に握っていた大豪族蘇我入鹿を, 中大兄王子 (後の天智天皇) と中臣鎌足とが暗殺し, いわゆる “大化改新" と呼ぶ大改革にのりだした時期でぁる〝すなわちそれまでは氏姓制度に基づく豪族たちが, 土地と人民とを個別的に支配していたのを否定し, 公地公民制による中央集権・ 官僚支配体制の積藁を目指し, また京師〟 国 ・郡 ・ 里などの地方行政組織, 戸籍調ー度の導入と班田収技法, 租・農・翼といった統一的税制の確立がはかられた。 統一国家としてのわが国の出発を目指す大改革であった。難波遷都の理由は, 氏姓制度に基礎をおく豪族達の勢力がまだ強く残っている飛鳥地方を脱出して, この改革遂行のフリー ・ ハン ドを保っためであった〟 しかし都を他の撮所ではなく , あえて難波の地 (現大阪) を選んだことにっいては, いま一つ当時わが国が直面していた対外問題があった。

日本の遷都、2藤原京時代

大化改新の立て役者中大兄皇子 (天智天 皇) と, 大海人皇子 (天武天皇) とは兄弟で あるが, 兄がどちらかといえば外向型政治家 であるのに対し, 弟は内政型政治家であった。 大海人皇子は第37代斉明天皇 (女帝で第35代 皇櫃天皇軍詐 ・ 中大兄皇子はその皇太子) が 百済救援のため九州に行幸している時も, 中 央にあって内政を担当, その声望は高かった。 百済救援が失敗, 中大兄皇子が都を大津に移 し即位して天智天皇となるとその皇太子とな るが, 天皇との仲は円滑にゆかず, やがて出 家して吉野に退去した。

やがて壬申の乱がお こ り, 近江の大友皇子軍に勝って飛鳥浄御原 で即位した〟 第40代天武天皇である。 天皇は 浄御原律令の制定, 国史の選餐, 旗姓を改め て八色の姓を定め, また欝位60階の制定な ど, もっぱら皇室を中心と した律令体制堅め に力を入れた。 この方針はやがて天武天皇の皇后で, 天皇 死亡のあと皇位をついだ持統天皇 (第4ー代) にひきつがれ, わが国最初の皇都である “藤 原京” の建設へと発展した。 “藤原京” は大 和三山 (耳成山・天香具山・畝傍山) の間に ひろがる平地に中国の王都を模して造られた 皇都で (中国北魏の洛陽を模したとの説もあ り, また唐の長安を模したとの説もあるあ それまでの “飛ノ鳥宮" が, その西北部に発展した形でっく られており, 現在の奈良県橿原 市と明日香村に位置している。 南北約3-ーキ ロメートル, 東西約2.ーキロメー トルで, そ こに南北ー2条, 東西には左京 - 右京に分れる が, その各々に四坊の条坊制がしかれていた と考えられている。

京城の北部に天皇の住居内裏と, 政務をと る官庁とが設けられていた。 これが大内裏で ある〟 ここに出仕ずる官人としての豪族たち は, 京中に集住される仕組で官庁の市港設け られていた。 つま り古代豪族たちはそれまで のよ うに自領に住んでいるのではなく , それ を捨てて新京に住み政庁に出仕して律令官人 になることを強制されたわけである。 いわば 藤原京の造営は, それまでの天皇と豪族の連 合政権であったわが国の政体を, 天皇とその 官人による政体に切りかえる作用を伴うの で, それに乗り, それを積極的に利用した農 原氏は栄え, それに乗り切れなかった大伴氏 は衰退の途をたどっているよ うに, 単なる宮 の位置および規模 ・ 形態の変化ではなく, 政 治体制, 社会体制の変革を秘めたものであっ た。

ここに都があったのは持統8年 (694年) から, 和銅3年 (7ー0年) までのー7年間, 天皇 で数えると第4ー代持統・第42代文武・第盤代 元明の三代であるが, ここで刑部親王 ・薦原 不比等などの手で大宝律令が編纂され, 律令 国家体制が, 法制的にも整えられた)

 
藤原京(ふじわらきょう)は、飛鳥京の西北部、奈良県橿原市と明日香村にかかる地域にあった飛鳥時代の都城。日本史上で最初の条坊制を布いた本格的な唐風都城でもある。平城京に遷都されるまでの日本の首都とされた。

 
壬申の乱
壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日[1])に起こった古代日本最大の内乱である。
天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。

日本の遷都、3平城京時代

薦原京において, 天皇制官人国家の体調ーは 急速に発展をとげ, やがて狭い藤原京では政 治を賄いきれなくなった。 そのため新たに造 営されたのが平城京である。

藤原京は奈良盆地の一番南端に営まれてい たが, 平城京は北端に営された。 それまでの 政治の中心地であった盆地南端部から北端部 に移ったことは, この地に残っている氏姓制的豪族体制をよ り完全にふり切って, 天皇制 官人体制を確立ずるという狙いもあったろう が, 基本的には狭すぎる藤原京を, よ り適し た盆地北端部に移しかえたと考えてよいだろ う。 その証拠として, さしあたり次の二っの ことがあげられる。 その一つは, 奈良盆地に は, 盆地東端山際にそって走る “上ッ道” と, それとほぼ並行して南北に走る “中ッ 道” と “下ッ道” との三本の道がある〟 藤原 京はその “中ツ道” と “下ッ道” にはさまれ る形で造られているが, 平城京は “下ッ道” を新京の朱雀大路として, その西側に右京を つく っている。 っま り東西は藤原京の約二倍 に設計されているわけである。

南北も藤原京 よ り長く , また左京の東側に外京も造られて いるので, 面積は約三倍, そこに住んでいた 人は昭和初期別万人との説がだされ, 以降そ れが定説になっているが実際はその半分く ら いであろうと推定されている。 また右京と左 京に各々東市と西市とが設けられ, 毎年前半 と後半とに分けて交互に市が闇かれ, 住民の 需要を満たすよ うになっていた。 その第二 は, 藤原京時代弟盤代文武天皇のもとで大宝- 律令を撰集した藤原不比等が平城京に移って さらにそれを撃正して養老律令を編集, ここ に以降の日本政治を規定ずる律令政治の基本 法が完成していることである。 この平城京は和銅3年から延暦 3年まで約74年間続く , わが国最初 の長期にわたる都であり, この間律令国家体 制が整う。

また律令官人としての藤原氏と, 鎮護国家仏教と しての仏教の拾頭で特徴づけ られている〝 まず薦原氏は鎌足の子不比等の 代になっているが, 彼は大宝律令, つづいて 養老律令と, 律令国家の基本法の編さんに抜 群の力を示し, 律令官人の ト ップの地位を占 め, さらにその娘宮子を第42代文武天皇に, さらに光明子を第45代聖武天皇に納れるなど して, 皇室の外戚と して地位を高めた。 また 仏教もわが国に渡来以来, 国家鎮護を旗印に勢力を伸ばして来たが, と くに聖武天皇は仏 教に対する信仰が厚く, 諸国に国分寺, 奈良 に纏国分寺として東大寺を建立するなど, 仏 教を律令国家体御ーの精神的支柱としたため, その繁栄は目を見はるものがあった。

しかし平城京時代も平和 ・ 繁栄の一途をた どったわけではなく , 若干の波乱もみられた。 まず天平元年 (729年) には, 藤原氏が光明子 を皇后に立てよ うとするのを, 皇后は皇族に 限るというそれまでの慣習を盾に, 左大臣の 長屋王が反対するだろうとして, 王に謀反の 疑いがあるとして自殺させた, 長屋王の事件 がおきている。 しかしせっかく築いた藤原氏 の地位も, 当主および一族のつぎつぎの病死 によって力が劣え, かわって橘諸兄が拾頭し てくると, 一族の劣勢を盛りかえそう と, 天 平ー2年 (740年) 藤原広嗣が九州太宰府で約 ー万の兵を集めて乱をおこした〟 これを藤原 広嗣の乱というが, 広嗣は橘諸兄政権のみな らず諸兄を登用した聖武天皇までも批判の対 象にしていたので, 天皇はそれを恐れてせっ かくの平城京を捨てて, 恭仁=紫香楽・難波 と転々と遷都をく りかえし, 五年後にゃっと 平城京に帰っている。 聖武天皇が光明子との間にできた娘孝謙天 皇 (第46代) に譲位すると, その籠愛ずる僧 道鏡が政権を握り, やがて彼は宇佐八幡宮の 神職とはかり, 神託にことよせて皇位をねら う事件がおこった。 これは和気清麻呂らに よって阻止されるが, 平城京においては段々 と僧侶・寺院による政治関与が激しくなり, 正常な政治が困難となったので, やがて山城 の長岡 ・平安京への遷都問題が登場してくる。

日本の遷都、4長岡京時代

第50代垣武天皇は天応元年 (78ー年) 4月 に即位するが, この年は辛酉の年にあたり陰 陽道にいう革命の年でもあった” 天皇は平城 京初年の間に強大になり, 政治そのものまで左右するよ うになっていた寺院勢力をふりき り, 人心を~新して新しい政治を行い律令体 制を建て直そうと考えた。

そのためには都を 替えるのが一番良いと考え, これまで宮都の あった大和の地を捨てて, 平城京よ り遠く離 れた山城国乙訓郡長岡の地を選んだ。 これを 長岡京という

長岡京は長い間平安京ができ るまでの臨時の都と考えられていたが, 調査 が進むにしたがって, 条坊制に基づく計画さ れた都市で, 仮の都ではなく て本格的な都市 づく りが行われ, 中心部分の造営はほとんど 終っていたことが明らかになってきた。 まず 立地的な条件から見ると, 平城京が人口10~ 20万という人口を賄うには, 大賽の物資輸送 手段である水遣の便を欠いていたのに反し, 長岡京は桂川 ・ 鴨川 ・ 宇治川に接し, 膨大な 消費を賄う条件を備えていた。

工事は順調に 進んでいたが, 造営長官である藤原種継が反 対派に暗殺され, その容疑者として皇太子早 良親王が捕えられたが, 親王はそれを冤罪だ と して憤死する事件がおきた~ そのため事の 真相は判らずに終ったが, 遷都というのは, それほど利害関係が複雑にからむ問題だとい う ことを, はしなく もこの事件は露呈するこ ととなった〟 たまたまこのころ天皇の身辺に 度々不吉な事がおころが, それは早良親王の 怨霊だという説が流布し, ためにせっかくの 長岡京を捨てて, 桂川を渡った北東の位置を えらんで平安京を造ることになったといわれ る。

日本の遷都、5平安京時代

長岡京から平安京に移る延暦ー3年 (794 年), 種武天皇は諸国の神々の弊帛を奉り , 遷都と撮東経路の成功を祈願している。 新し い都の造営と東北地方の経営とは, 種武天皇 の二大政策だったわけで, 後者のためには先 の征討副使と して東北経営にあたらせていた 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命している〟 また造都を推進する役所造宮城には, 約ー60 人もの大人員を配し, その長官 (造営大夫) には藤原小黒麻呂, りづいて和気清麻呂を配 している。 そしてその労働力 く造官役夫) と して諸国から公民を徴発するが, 役夫を出し た国に対しては租を免じるとともに, 出挙 (春に貸しだし, 秋の収穫後熟ー子をつけて返 さずという雑税の一種, 利率は約5割) の利 率を引きさげ, 役夫をださない国々とのパラ ンスをとった。

このよ うにして新都 (平安京) はできた が, また遷都反対派は根強く残っており, 大 同元年 (806年) 垣武天皇が死ぬと, 新帝 (平 城天皇) に, わが国では前天皇の忌明には, 新宮を建てるのが例になっている, と遷都を すずめる者があった。 これは容れられなかっ た。 しかし平城天皇の妃の生母藤原薬子は, 天皇が病弱のため退位すると, 勢力が失墜す るのを恐れ, 兄仲成らとはかって平城上皇を 平城京に移し, その重誰をはかって挙兵した が債圧されて自殺した。 これを薬子の乱とい う〟

このよ うに大和平城京から山城への遷都 は始めは波乱含みであったが, 以降建久2年 (ーー92年) 源頼朝が鎌倉幕府を開く までの約 400年間日本の政治をと りしきる “都” と なった。

なお, “都” を政治ではなくて天皇 の居所と解釈ずると, 明治2年 (ー869年) の 東京遷都ま で, 平安京 (京都) はー000年の都 であったということになる。 平安京は東西約4.6キロメ ー トル, 南北約 5ー3キロメー トルの, 南北に細長い長方形で, その大きさは平城京とほぼ同 じで, 京城の北 部中央に宮城を設け, その中央から南に走る朱雀大路によって右京と左京とに分けられ平 城京同様条坊制がしかれていたが, 右京は低 温地が多く , 去る者はあっても来る者はない 有様で, 都の重心は次第に左京に傾いてゆ き, さらに鴨川を束に渡って現在のよ うに なっていった。

人口は9世紀段階でー0~ー5万 人であったろうと考えられている。 平安京では仏教の影響を断った律令政治が 広く行われたが, 荘園制が進行するに伴い, 官人と しての藤原氏の勢力が段々と強ま り, やがて摂政 ・ 関白の地位を独占 し政治は藤原 氏に握られるようになる。

これを摂関政治と いう。 しかし=世紀末になると, 白河上皇が 政治の実権を院に移したことから藤原氏の力 は次第に劣え, いわゆる白河・鳥羽・後白河 上皇による院政政治が続くが, この間おこっ た保元の乱 (1156年), 平治の乱 (1159年) を 経て, 政治の実権は武家の棟梁である平清盛 に移ってゆく。 清盛の祖父は北面の武士と して白河上皇に っかえ, 僧兵の強訴を防ぎ, 九州の賊を討つ など軍功があり, 父忠盛は鳥羽法皇につか え, 瀬戸内 ・ 九州に載扈していた海賊討伐に 功があった。 清盛は実父は白河上皇との説も あるが, 保元 ・平治の乱で力を伸ばし, っい には従一位太政大臣の地位にまで登り, その ~門には公卿 (3位以上の責族) 16人, 段上 人 (5位以上の素族) 30人, 知行国は日本全 土の半分に近い加国あま り, 荘園は500ヵ所 に及んだといわれている】 また清盛は娘徳子 を高倉天皇の女御とし, その皇子は治承4年 (1180年) に即位して, 第8ー代安徳天皇と なった。 この頃清盛と法王および家衆との関係は次 第に悪化, 同年5月には平家に対ずる最初の 武力による反抗運動がおきた。 源頼政 ・ 以仁 王との宇治挙兵である。

清盛は突如安徳天皇 を奉じて福原に移った。 福原とは今の神戸で 平氏の別荘があったところである。 旧勢力を 断って新しい政治をしょ う という狙いだったろうが, 土地が狭少で造営が思うにまかせぬ うえ, 京都にいる公家や僧侶寺社の反発をう けて, その年のうちに再び京都にひきかえし た。 なおこの福原の舎殿は平家が都落ちをし て西に走る際火をかけて焼払ってしまった。 このよ うに平氏は武家として出発しなが ら, 無限に貴族化することでその勢力を伸ば していった。 しかしその事は逆に武家と して は弱体することで, やがて源頼朝を棟梁と ずる武家勢力におされて亡んでいった。武家政権でありながら, そのまま旧政権の 所在地である京都に優をすえ, 無限にそれに 近づく ことで結局は去勢されて亡んでいった 平家の姿をまのあたりに見た源頼朝は, 自分 の開いた幕府を都から遠く離れた鎌倉の地に おいた。

ここは関東武士発祥の地にあり, 旧 勢力に毒される恐れの最も少ない土地であっ た。 鎌倉は海にひらかれた港湾都市でもあり, ここから奥州や北九州, さらに中国まで船で 往来ずることが出来た。 そのうえ背後は東・ 北 ・ 西の三方を丘陵で囲まれており, それを こえて中に入り込む道は尾根を切り開いた “切通し” を通らればならぬよ う設計されて いた。 “切通し” は鎌倉七口といって, 西か ら極楽寺坂, 大仏坂, 化粧坂, 亀谷坂, 巨福 呂坂, 朝比奈坂, 名越坂の七つあり, それら をつなぐ尾根は, 人工的に切り落した崖と なっていて, その内部は一個の巨大な城塞と なっていた。 この中幕府の政庁と町屋があっ たのだが, 政庁は海岸から裏まった谷戸に設 けられ, 町屋は海に近い比較的広い地域にっ く られていた。 人口を測る史料は皆無に近い が, 建長4年 (ー252年) に幕府が行った民家 の酒壺の詞査からー 約ー万戸( らいの戸数が あったろう との推定がある。 この時代の一戸 の推定人口を示ず数字もないが, 江戸時代の 平均一戸約5人よ り多いとすると, 5~ー0万 の人口はあったろうと考えられる。 ともあれ 前代の平安京 ・平城京にく らべると著しく狭 い市城になるので, かなりの過密都市であっ たろうことは疑いない。

ここで御成敗式自 (貞永式目) が制定さ れ, 律令による政治とは異った武家の政治が 行われた。 未曽有の困難といわれた元冠は幸 に切りぬけることができた。 その愚鸞をめ ぐって武将たちの不構をまわき, 元弘3年(ー333年) 新田義貞軍に攻められ, 執権高時 以下自殺して鎌倉政権は亡んだ。 北条氏滅亡後政権の主導権をめぐって争い がおき, 一時新田義貞と組んだ後醍醐天皇が 政権を握ったかにみえたが (建武中興), や がて足利尊氏におされ南北朝分裂ののち, 実 権は尊氏の手に握られた。 延元元年 (ー336 年) 尊氏は京都に幕府を開き, 建武式目を定 め, 同3年北朝から征夷大将軍に任ぜられた。 これから坊代将軍足弔ー義昭が織田信長のため に京都から追放された天正ー5年 (ー573年) ま での約2仙年を室町時代と呼ぶ。 室町時代, または室町幕府という呼び名は, 3代将軍足 利義満が, その邸宅を京都北小路, 室町に営 んだことから出た言葉である。

武家による政権の所在地が, 鎌倉から京都 に移ったわけで, 武家政権の遷都であるが, では何故北条氏から足甲ー氏に政権が移った場 合, その政庁の所在地を鎌倉から京都へと大 きく移動させたのであろうか。 その答は簡単 で将軍家北条氏は亡びたとはいえ, 関東には まだ北条氏の勢力が強く残っており, 足利氏 による新しい政治のためには, それからのフ リー 〝ハンドを得るためには遠く離れ, 天皇 の居所であり, また日本の最大の 手工業 都市であった京都が適正だったからである。

日本の遷都、6安土・桃山 ・江戸時代

守護地頭といった武家領主と寺社公家ら荘 園領主たちの連合政権といった性格をもった 室町政権は, その出発点から安定性に欠けて いたが, 応仁元年 (1467年) 将軍家の相続争 いに, 将軍家を支える有力守護大名家の相続 争いもからんで, 二派に分れた将軍家にこれ も二派に分れた守護大名たちが加わって争い を始めた。

東軍は細川勝元を中心に24ヶ国ー6 万, 西軍は山名持費を中心に20ヶ国9万の軍 兵が京都を舞台に来て しない争いをつづけた。 これを応仁の乱と呼んで約100年も続く がこの間に京都の町は戦火に焼かれてしまい, 将軍家の勢力は地におち, またそれを支えて いた大名達も薫に疲れはてていった〟 このよ うにこれまで日本を支配し続けていた上層社 会の力は衰え, 守護代以下の在地勢力が段々 と力を伸ばし, お互いに相手を征服してよ り 強大になるための武翼をく りかえすよ うにな る〝 これが下麺上の時代と呼ばれる戦国時代 である。

淘汰・統合は段々と進みー6世紀半ば ころには, 伊達・上杉・後北条・武田 ・今川 ・織田 ・毛利・長宗我部・大友・ 島津といっ た人達が一頭地を抜く有様になっていたが, そのなかでも織田信長が頭角をあらわしてき た。 彼は天正4年 (1576年) 近江の安土に, それまでにみられない巨大な近世城下町をつ く った く近世城下町はこの2年前に, 羽柴秀 吉が近江の長浜にっく ったのが最初だといわ れている)。 近世城下町とは, それまでの中 世城郭とちがって, 要害を主と した山城では なく, 領国の中央, 政治経済の中心地に設けられ, 天守をいただく城郭部分と, その周囲 をと りま く町屋部分とが一体の存在で, 大量 輸送を考えて舟遣のき く水につけているのが 一般であり, 長浜も安土も琵琶湖にっけてっ く られていた。

織田信長が安土を選んだ理由は, この土地 は東と西とをつな ぐ交通の要衝であるのみな らず, 日本海側と京都をつな ぐ物資輸送路で ある琵琶湖水上輸送路もおさえる位置にあっ たからである (当時までは日本海側の物資は 若狭湾に面した敦賀か小浜で陸上げされ, 陸 路で琵琶湖まで運ばれ, 湖を舟で都へと運ば れていた〟 西廻りの航路が開発され, 大阪の 地位が上るのは江戸時代に入った1650年ころ である)〟

安土はこのよ うに当時としては他に比類の ない交通の要衝であるうえ, 京都の旧勢力か らは離れ, しかも旧勢力を監視するには好個 を占めていた。 これが信長が天下統一 の拠点として安土をえらんだ理由である〟しかし信長の時代は長く続かず, それに 替った豊臣秀吉 (大阪 ・ 桃山を本拠とずる) の時代も短く て, 世は徳川氏の江戸時代に 移っていった。

` 徳川家康が江戸に入ったのは天正18年 (15 90年) 8月 1 日のことである。 従来の領地 (三河・遠江・信濃 ・ 甲斐・伊豆) に代って, 関東を与えられた からである。 この時これら5ヶ国を失うぐら いなら, いっそこの際秀吉に反して兵を挙げ よ うと騒ぎたてる家臣たちのなか, 家康は一 人満足げに笑っていた, という話がある。 江戸に入ったとき, もちろん太田道灌 の遺樓なるものが残っていて, 本丸・二九・ 三丸なるものがあったが, 石垣はなく土をか きあげた土手があり, 海岸に出入りずるとこ ろに数ヵ所木戸があり, 城内の建物も華ぶき の古屋で, 玄関には階と しては舟板が三枚な らべられている程度, しかも城下には茅葦き の家が100件ほどあった程度のものだった。

これに大改撃を加えて天下の城下町, 将軍の 御膝元と して体裁をととのえるのは, 裏長8 年 (1603年) からはじまる江戸市街地の建設 と, 同9年からはじまる江戸城の大改築であ る。 これらは, “天下普請" といって, ほと んど全国の大名たちを動員して行われ, 寛永10年 (1633年) ころ, ほぼ予定の仕事が終 わった。 しかし翌11年の “諸大名妻子在府 制” , 翌12年の “参勤交替制” 実施によ り江 戸は大膨張をはじめ, 再開発計画にと りか かった矢先, 明暦3年 (1657年) の江戸大火 (名層大火) で, 江戸城天守閣以下ほとんど の市城が焼失してしまった。 その後若干の計 画のもとに再建にと りかかるが計画を上回る 大発展をとげ, 幕府はじまって約100年経過 した元禄時代には, 人口ー00万といわれる世界有数の巨大都市になった。

このよ うに関東の江戸を政権の本拠と した 徳川家康と, その前の実権者豊臣秀吉とでは 政権構想が大きく ちがっていた。 豊臣秀吉に ついては, 尾張中村の小百姓の出でなくて, さる皇族の御落胤であるという , 責種落胤伝 説があるが, これは彼自身が流したものだと いわれている〟 これで判るよ うに彼は天下を 握ると, 天正13年 (1585年) 関白となり姓を 藤原と改め, 翌14年には律令官制では最高位 の太政大臣となり, 豊臣という姓を朝廷から 賜り, 同16年には京都に聚落第をつく って後 陽成天皇の行幸をあおぐなど, 彼は新しく生 まれた社会の新しい支配者でありながら, わ が国古来の伝統的権威である皇室に, 限りな く近づく ことで自己の権力を権威づけるとい う手法をとっている〟 これに対し秀吉のあとをうけた徳川家康は かなり越を異にしている。 彼は裏長8年 (16 03年) 征夷大将軍に任命されたことを政権掌 握の拠り処として, 江戸に幕府を開くが, 彼 はあく まで武家の棟梁として政権を握るとい う, 鎌倉政権, 室町政権の伝統に乗ろうとし ている。

家康は三河国松平郷を本拠とする在地小領 主の出であるが, 天下を取ると自己の家柄を 権威づけるために, 上州世良田郷に住む足利 氏の支流の親氏が, 某年某日落飾して諸国流 浪の旅に出, 松平郷で入婿したのが徳川氏の 祖先であるという話を組みあげている。 これ も一種の賽種流離譚であるが, 責董はあく ま で室町将軍家をつく った足利氏であって, 秀 吉のよ うに皇室ではない。 したがって皇室の 下にあって自分を無限にそれに近づけよ うと した秀吉と, 皇室をあく まで自己の政権の下 に置いて (たとえば 「禁中並武家諸法度」), これをコント ロールしょうとする家康の政治 姿勢に違いがでてく るのである】 それは自己 の政権政庁を天皇の居所と しての京都そのも のではないが' それに出来るだけ近い桃山 ・大阪にごいた秀吉と, 大きく切り離された江 戸におく という政都のえらびかたの違いにも 現われてくるのである。 それ以前の日本が, 上から下へと組みたて た社会とずれば, 江戸時代からは下から上へ と組みあげた社会である。 江戸時代は300諸 侯というが, 実際には約2冊ほどの諸侯 (大 名) がおり, その上に幕府が乗るという組み たてになっていた。 したがって江戸時代に “国” というのは, 今日の日本ではなくて約 270ほどの藩のことであった。 その幕は徳川 幕府に一定の制約をうけていたが, 経済的に は自立した存在で, その暮独自の財政と税制 をもっており, したがって独自の経済政策を 持っていた。

そのよ うな藩の政庁 (都) が城 下町と呼ばれる存在であった。 徳川氏といえ どもその中の一つの藩で, 約700万石という 他に抜きん出た領地を持っているほか, 幕府 という幕連合体を統・ コント ロールをする役 目をもつ存在であった。 したがって江戸は大 名と しての徳川氏と日本全体の統率者として の両機龍を兼ねた城下町であった。 城下町は一定のルールでっく られた人工的 都市であった。

まず城下町は海・河川 ・運河・湖 などの違いはあるが, 水についているのが原 則であった。 これは領内人口の約一割を豪め た巨大消費都市の消費物資と, 領内の物産を移出し, また移入するための運輸の便を考え てのことであった。 つぎに城下町の中心には 城郭部分があり, 領主の居所・政庁および, 場合によっては藩の最上級家臣の居所もここ にぁった。 っぎは武家地で, ここに家臣団が ほぼ階層別, 職種別に居住していた。 その外 側は川や構 ・ 堀などで区切られている事が多 いが, 領内から集められた商職人が集往して いた。 江戸時代では “兵農分離" ということ がよ く云われるが, 農商の分離も同時に行わ れ, 兵と商 (工を含む) が農から分離して城 下町に住むのが一般であった。 またこの町地 (町人地ともいう) には他領から入り, 他領 に抜ける “天下の公道” が通っているのが一 般であった〟 町地の外は寺社地で, ここは城 下町防衛も考慮した配慮で, 一朝事ある時は ここが城下町防衛の外郭陣地となる筈であっ たが, 江戸時代は平和が続いたので, 現実に は市民のレク リエーショ ンの場としての役割 をした。

日本の遷都、7江戸から裏京へ

明治元年ー月廿日総裁有栖川宮熾仁親王から, 今後どのようにしたらよいだろうと諮問 をうけた大久保利通は, 一大英断をちって幕 府親征の軍をおこすとともに, 天皇は大阪に 巡幸してそこに行在所を設けると良いでしょ う と答えた。

これを契機に利通は大阪遷都論 を固めよ う と参与の広沢眞臣と後藤象二郎に 相談を したところ賛意を得たので, 岩倉具視 を説得, そのそえ書を得て 1月23日遷都に関 する建議書を提出した) これが大久保の 「大 阪遷都の建白書」 といわれるものである。 そ れによると維新の大業を成就し, その実績を あげるには遷都が第一であり , 遷都の地は大 阪が最適である。 というのは大阪の地は海に 面していて外国との交際にも) また富国強兵 のために商工業をおこし, 陸海軍を養うにも 適しているというのである。 この大阪遷都案は昨秋大久保利通が木戸孝 允を山口に尋ね, ひそかに王政復古の大計を はかったとき, でてきたことであるが, 一度 大阪遷都案が朝議にのぼると, 賛否両論議論 沸騰して容易に結着がつきそうになかった。

反対論の中心はもちろん) 約1000年も京都を 根拠地と してきた公家たちで, 「この計画は 薩長の陰謀であって, その私積を拡張するた めのものだ」 と猛反対を した。 そしてその中 心人物が前内大臣久我建通 ・ 議定中山忠能で あった。 このよ うにして議論が定まらないうちに関 4月になって徳川将軍家に一度没収していた 領地を与えようという話が出てくると, 福井 の松平!永は江戸の地を徳川家に賜う よ う運 動を始めた。

これをみた大久保利通と木戸孝 允は先の大阪遷都論を撤回, 京都を首都, 大 阪を西京, 江戸を東京と し, 天皇は便宜これ らの首都を巡幸すればょい, という新しい案 を提案した。

これにたいし江藤新平と大木喬 任の佐賀藩出身者は, 東国地方の民心を得る ためには, 速に天皇が江戸に行幸してこれを 東京と し, 京都を西京と してこの間に鉄道を 敷設して両者を結ぶのが最良という案を提出した。 これについても賛否両論があり公家た ちは強硬な反対論, また山口藩士たちの中に も反対を唱えるものもあったが, 結局木戸孝 允, 広沢遺臣を説いて遷都に同意させ, 木戸 が岩倉具視と密議して同12日天皇から木戸に 江戸行幸の内意を伝えることで, 江戸を明治 政構の首都にすることが決まった。

まず第ーには江藤新平 と大木喬任の主張するように, 江戸を首都に せず大阪を首都にしておれば, 東国の人心が 新政府から離反していた可能性は高かったろ う。 また経済的にも日本は東西に分離してい た恐れがある〟 というのは江戸時代の日本は 金を主要通貨とする関東・東 国経済圏と, 銀を主要通貨とする畿内 ・ 西国 経済圏とがあった。これを金掻済圏に足嚇をおく徳川氏が力で 銀経済圏をおさえこみ, 統合していたという のが江戸時代の基本構図であった。 幕末政争 はこのよ うな情況のなか, 銀を主要通貨とす る畿内 ・ 西国経済圏が, 皇室をいただいて離 反反撃したのだと経済史的には説明できる。 とすると新しい政権の首都をどちらにおく かで, 以降の日本歴史の展開は決定的に違っ たはずである。