絶対に身分を露わにしては言えないことなのですが、ウェブ業界は、本当にお客様の金銭感覚がおかしくて困ります。
もともと、実体がない技術やサービスなんてものに価格をつけて売っており、人件費以外の原価がほとんど発生しない業態なのでいたしかたない部分はあるのですが、それにしてもなにかはき違えている人が多くて、お客様とやりとりをしているとげんなりすることが多々あります。
自分(もしくは自分の会社)ができないことを他人(他社)に依頼しているんでしょうに、その価格が適正であるかどうかなんて、どうして勝手に自分の経験だけで判断しちゃうんでしょうか。
ベンツやBMの価格が高いからって、それはおかしいなんて言う人いないですよね。モスバーガーのハンバーガーが高いと思ったとき、店頭で高いと文句を言う人なんていないですよね、黙ってマクドナルドにいくはずです。
自分とこの従業員がそれをいちからやったとしたらどれくらいのコストがかかるのかに換算するとすぐにわかると思うのですが、
「ワープロに毛が生えたような程度のことになんでこんなに金がかかるんだ?」
「自分とこでやればできるけど、時間もったいないから頼みたいだけなんだけど」
なんて言っちゃう人が普通に居ます。
じゃあ自分とこでやれ!
できるもんならやってみろ!
と、これは全国のウェブ制作業者が、日々喉まで出掛かって飲み込んでる言葉です。
値切るくらいなら、他の業者を探せばいいじゃない。
そしてこれらの事象は、業界内に巣食う寄生虫のようなヤカラがいることにも少し原因があるように思います。
制作をメインにやっていると、広告代理店やフリーのディレクターという人たちと仕事をする機会が多いです。もちろん優秀な方やすばらしい方はたくさんいます。が、そういう人たちの中に一部というか、割と高い割合でたちの悪いのが混ざっています。自分をいわゆる「企画屋」と称して、自分自身では何も生み出せず、案を出すことが仕事だと思っている人たちです。
本来アイディアと言うものは成立して初めて価値が生まれるもので、実現方法を伴わないアイディアは、その発想が評価されることはあったとしても、ビジネスとしての価値はその時点ではありません。ところがウェブ業界ではそれを企業に持ち込んで本人はうまいことアドバイザーの地位に滑り込み、企画の実現責任のようなものがその制作を委託された業者に移ってしまうという現象が存在します。
企画段階から絡めばまだいいですし、企画の時点で十分に仕様も想定したうえで練られたものであれば、ときにそれはすばらしいコンテンツとなることもあるのですが、大抵その起点となった人はGoogleAnalyticsをちょっとかじった程度の広告代理店の人か、以前制作をやっていた人がどうもぱっとしないからそこに活路を見出しただけであることが多く、ほとんどは実装へのアプローチがすぽんと抜け落ちています。
そして悪いことにそういう人たちはアドバイザーとして顧問料のようなものを貰っていることが多く、そうすると定期的に何かを言わなきゃいけない場面が訪れるようで、制作の途中で仕様の根本に関わるようなアイディアを気軽に提案してきます。
そしてそれに対して追加見積もりを出すと、企業の方は当然
「え、ちょっと変更するだけなのになんでこんなにお金がかかるの?」
って言うわけなんですが、
それはそっちで話せ!!!
としか言いようがないわけで、でも言えなくて、なんてことが横行しています。いやもうほんとに嘆かわしい現状です。
そしてもっとまずいことに、ウェブ業界って費用対効果の検証を正確にしないことが多いです。ランディングページと呼ばれる特設ページからの流入、そしてそこからの成約率を測ることは多く、それ自体は確かに指標として大事なのですが、じゃあどうしてそのページからの流入や、成約率が高いのか低いのか、は検証されることはないです。
せいぜい社内で誰がこう言ってるとかこう思うとかのレベルで、成約率が低いときに批判の対象となるのは制作サイドで、成約率が高いときにその手柄を持っていくのは大体その企画屋です。
口がうまい、バカになれる、なんてそもそも営業のほうの才能といえるものを持ってる人がウェブ業界に来ると、たぶんこのポジションで荒稼ぎできます。というより、それをやってる人たちが横行して、業界全体がグダグダになってきちゃってるのが今のウェブ業界です。
昔はなんかもっと面白い業界だったような気がするんですが・・・ヤマ師が一攫千金を狙う業界になっちゃいましたね。
余談ですが鈴木先生というマンガを読んだ際、学校教育の現場に「なんの問題も無い真面目な普通の子」に負担を強いることで安定が保たれている現状があるというのが描かれていました。制作の現場が、やりたい放題の企画屋のつけを払うのは、これにすごく似ているように思います。
暑さで延びた線路がどこかで浮いてしまってそこが事故を起こすように、どこかに発生した歪は別のどこかに必ず影響を与えます。
一部の、自分が儲けることに必死の人たちが起こした歪は、確実に別のどこかを蝕んで、その影響がこの不景気なんじゃないか、なんて僕は思ってます。
バタフライエフェクトのように、大きな現象も、始まりはとても小さな、例えば一個人の欲望だったりするんじゃないでしょうか。
みんなが、自分の求める幸せをもう少しだけダウンサイジングしたり、自分だけでなく周りの数人の幸せに配慮するだけで、景気なんて一瞬で回復しそうですけどね。
でもまあ、どうしようもないからこんなところで愚痴っているんですけれど。
一応世の中の流れを把握だけでもしておかなくちゃと色々なサイトのRSSをチェックしているのですが、最近ニュースサイトや情報サイトってその役目を果たさなくなってきてるような気がします。
大手マスコミとそれ以外の人たちの情報発信の手段が大差なくなってきていて、取得の手段が業界的に限られる特殊な内容、例えば企業のリリースであるとか、政治の公式発表であるとかそういうものを除けば、その辺のブログに書いてあることと大して変わらない程度の価値しかなくなってきているように思います。
自分自身も盲目的にメディアを信用していた時期があって今となっては不思議に思うのですが、ニュースサイトで取り上げられた内容が事実である保証はまずどこにも無く、事実であったとしてもそれは単に一面的な見方で、それを書いた記者、それに目を通したデスク、OKを出した編集長などの、多くて数名の意見ですよね。そしてその人たちのものの見方が偏っていないという保証もどこにもない。
単純な事実以外のこと、例えば何かの調査の結果だとか、ある事象についての見解だとかは、有名なニュースサイトや高名なポータルに書かれていることでももはや個人のひとつの意見でしかありえないのが現状だと思います。
レトルトのカレーを買うか、自分で作るかの違いのようなもので、レトルトのカレーになにかおかしな成分が入っていても誰も気づけなくて、ある日そのレトルトカレーに毒が入ったものが紛れ込んだら、多くの人がそれを食べて死んでしまうのに、それが起きないのだという性善説に基づく判断しかされていなかったというのがこれまでの状況で、そろそろみんな、材料を吟味するところから始めたほうがいいんじゃない?っていう時代な気がします。
はてぶやtogetter、NAVERまとめなど、誰かが発信したものを第三者的にまとめたり、コメントがついていたりするものは、それも基本誰かの手が加わった結果のものではありますが、それでも少なくともネット上の多様な価値観に晒されて何らかの基準で評価を受け、残ったものなので、情報の価値みたいなものが判別しやすくはなっていると思います。
ネットが普及して一番変わったのは、価値観が多様であることが世間一般によりつまびらかに理解されたことだと思うのですが、テレビや新聞などのメディアが言うことが常に正しい、という価値観が一般的だった時代というのは確かにあって、今思うと恐ろしい状況だったんだな、と。メディアによって抹殺されてしまった人がたくさんいたんじゃないのかなあ。
ネットの情報は玉石混交で、取捨選択するのにも知識とエネルギーが必要で、そういうハードルって年々上がってきている気がします。油断すると簡単に騙されて搾取される世の中です。
世知辛いですね。
今年もなんとか生きていきましょう。
明けましておめでとうございます。
大手マスコミとそれ以外の人たちの情報発信の手段が大差なくなってきていて、取得の手段が業界的に限られる特殊な内容、例えば企業のリリースであるとか、政治の公式発表であるとかそういうものを除けば、その辺のブログに書いてあることと大して変わらない程度の価値しかなくなってきているように思います。
自分自身も盲目的にメディアを信用していた時期があって今となっては不思議に思うのですが、ニュースサイトで取り上げられた内容が事実である保証はまずどこにも無く、事実であったとしてもそれは単に一面的な見方で、それを書いた記者、それに目を通したデスク、OKを出した編集長などの、多くて数名の意見ですよね。そしてその人たちのものの見方が偏っていないという保証もどこにもない。
単純な事実以外のこと、例えば何かの調査の結果だとか、ある事象についての見解だとかは、有名なニュースサイトや高名なポータルに書かれていることでももはや個人のひとつの意見でしかありえないのが現状だと思います。
レトルトのカレーを買うか、自分で作るかの違いのようなもので、レトルトのカレーになにかおかしな成分が入っていても誰も気づけなくて、ある日そのレトルトカレーに毒が入ったものが紛れ込んだら、多くの人がそれを食べて死んでしまうのに、それが起きないのだという性善説に基づく判断しかされていなかったというのがこれまでの状況で、そろそろみんな、材料を吟味するところから始めたほうがいいんじゃない?っていう時代な気がします。
はてぶやtogetter、NAVERまとめなど、誰かが発信したものを第三者的にまとめたり、コメントがついていたりするものは、それも基本誰かの手が加わった結果のものではありますが、それでも少なくともネット上の多様な価値観に晒されて何らかの基準で評価を受け、残ったものなので、情報の価値みたいなものが判別しやすくはなっていると思います。
ネットが普及して一番変わったのは、価値観が多様であることが世間一般によりつまびらかに理解されたことだと思うのですが、テレビや新聞などのメディアが言うことが常に正しい、という価値観が一般的だった時代というのは確かにあって、今思うと恐ろしい状況だったんだな、と。メディアによって抹殺されてしまった人がたくさんいたんじゃないのかなあ。
ネットの情報は玉石混交で、取捨選択するのにも知識とエネルギーが必要で、そういうハードルって年々上がってきている気がします。油断すると簡単に騙されて搾取される世の中です。
世知辛いですね。
今年もなんとか生きていきましょう。
明けましておめでとうございます。
昨日書留の郵便物があったらしく、気づいたら不在票がポストに入っていました。「気づいたら」というのは、昨日は午後から少し外出して以降はずっと家にいたので本来なら受け取れるところを、なぜか不在票が突然ポストに入っていて、それに夜気がついたので「気づいたら」という表現になっています。
これは宅配便でよく聞くステルス不在票だなと思い、郵便局に電話してどういうことなのか、と聞いてみたところ
「配達員に聞いてみたところ、チャイムを押してノックしてお声がけしてもいらっしゃらなくて、不在票を入れたといっている」
という回答が返って来ました。
正直「は?」という思いでした。
チャイム+ノック+呼びかけをされたのが、家のどこかにいて聞こえないほどの広い家には住んでいないし、昨日は特に音楽とかをかけるでもなく仕事をしていて静かだったし、昼寝とかもしていないはず。それはありえないので、明らかに嘘をついていると思い、今日、その配達員本人から連絡を貰い再配達してもらうことにしました。
入社2年目と聞いていたので、僕としては経験が浅くいいかげんな対応をした配達員が必死に言い訳するという流れを想定していたのですが、かけてきた声は意外にしっかりと丁寧な語り口で、昨日のこともたくさんの書留の中で細かく憶えているわけではないが、自分が部屋を間違ったり、声かけも十分ではなかったのかもしれない、申し訳ない、と言われました。
部屋は実際にはどこだったか、チャイムはなっていたか、などを聞いたのですが、
「部屋ははっきり覚えていないが恐らく階段上がって右の部屋だったと思う」
「チャイムは、外からは聞き取れなかったのでノックと声かけをした」
などの返事。部屋の位置は大体あっているし、チャイムは外には聞こえなかったというのは無い話ではないように思いました。
本人と話してみたらちゃんと話ができる人のようだったし、堂々と嘘をつけるタイプのようにも思えない。僕が聞き取れてなかっただけという可能性も出てきました。
いやしかし、うーん・・・それも無いと思うというか、無いんだけどな・・・。
でもなんらかの記録があるわけではないし、もうここからはお互い証明の仕様がない。
で、向こうはとにかく謝るという姿勢で対応してるので、それ以上咎めるのもやりづらい。この話はそれで終わりとなりそうな気配です。
さて、ここで怖いのは、実際にはやっぱりそれをやっていた場合。
真摯な態度で「忙しくてよく憶えていないのですが、間違ったかもしれません、すみません」とひたすら謝ればたいていの場合はもう追求はそこまでで止まって許されてしまいます。それ以上のお咎めはないし、そもそも現実的に不可能。やるとすれば目撃証言を集めて、部屋まで来ていないということを他者に証明してもらうとかしかない。でも、ガチのクレーマーでもないのでそこまではさすがにやんないし、やりたくない。
今回郵便局と話してみて思ったんですが、郵便って配達員の裁量に拠るところがすごく大きいです。外を回っている配達員の行動と彼らがもつ郵便物を正確に管理するシステム、みたいなのがどうも無いみたいで、もし配達員が何かやっても、こうして客から指摘やクレームが無い限り、郵便局側にそれが知れることが無いわけです。もうそこは配達員が真面目であることを祈るしかない。
でもかつて「面倒だから」という理由で年賀状を捨てていた配達員がいたように、職業意識のかけらも無い配達員も数は少ないけど確実にいるわけで、書留などにしてるとはいえ、個人情報がガチガチに詰まった書類をそんな人たちに任せるのはものすごく不安。
まあ嫌ならそもそも郵便を使わなければいいんですが、現代日本で社会と関わりあって生きてく以上、郵便や宅配便を使わずに生活することはまず不可能ですよね。
うーん、なんかしこりの残る結果となってしまいました・・・。
これは宅配便でよく聞くステルス不在票だなと思い、郵便局に電話してどういうことなのか、と聞いてみたところ
「配達員に聞いてみたところ、チャイムを押してノックしてお声がけしてもいらっしゃらなくて、不在票を入れたといっている」
という回答が返って来ました。
正直「は?」という思いでした。
チャイム+ノック+呼びかけをされたのが、家のどこかにいて聞こえないほどの広い家には住んでいないし、昨日は特に音楽とかをかけるでもなく仕事をしていて静かだったし、昼寝とかもしていないはず。それはありえないので、明らかに嘘をついていると思い、今日、その配達員本人から連絡を貰い再配達してもらうことにしました。
入社2年目と聞いていたので、僕としては経験が浅くいいかげんな対応をした配達員が必死に言い訳するという流れを想定していたのですが、かけてきた声は意外にしっかりと丁寧な語り口で、昨日のこともたくさんの書留の中で細かく憶えているわけではないが、自分が部屋を間違ったり、声かけも十分ではなかったのかもしれない、申し訳ない、と言われました。
部屋は実際にはどこだったか、チャイムはなっていたか、などを聞いたのですが、
「部屋ははっきり覚えていないが恐らく階段上がって右の部屋だったと思う」
「チャイムは、外からは聞き取れなかったのでノックと声かけをした」
などの返事。部屋の位置は大体あっているし、チャイムは外には聞こえなかったというのは無い話ではないように思いました。
本人と話してみたらちゃんと話ができる人のようだったし、堂々と嘘をつけるタイプのようにも思えない。僕が聞き取れてなかっただけという可能性も出てきました。
いやしかし、うーん・・・それも無いと思うというか、無いんだけどな・・・。
でもなんらかの記録があるわけではないし、もうここからはお互い証明の仕様がない。
で、向こうはとにかく謝るという姿勢で対応してるので、それ以上咎めるのもやりづらい。この話はそれで終わりとなりそうな気配です。
さて、ここで怖いのは、実際にはやっぱりそれをやっていた場合。
真摯な態度で「忙しくてよく憶えていないのですが、間違ったかもしれません、すみません」とひたすら謝ればたいていの場合はもう追求はそこまでで止まって許されてしまいます。それ以上のお咎めはないし、そもそも現実的に不可能。やるとすれば目撃証言を集めて、部屋まで来ていないということを他者に証明してもらうとかしかない。でも、ガチのクレーマーでもないのでそこまではさすがにやんないし、やりたくない。
今回郵便局と話してみて思ったんですが、郵便って配達員の裁量に拠るところがすごく大きいです。外を回っている配達員の行動と彼らがもつ郵便物を正確に管理するシステム、みたいなのがどうも無いみたいで、もし配達員が何かやっても、こうして客から指摘やクレームが無い限り、郵便局側にそれが知れることが無いわけです。もうそこは配達員が真面目であることを祈るしかない。
でもかつて「面倒だから」という理由で年賀状を捨てていた配達員がいたように、職業意識のかけらも無い配達員も数は少ないけど確実にいるわけで、書留などにしてるとはいえ、個人情報がガチガチに詰まった書類をそんな人たちに任せるのはものすごく不安。
まあ嫌ならそもそも郵便を使わなければいいんですが、現代日本で社会と関わりあって生きてく以上、郵便や宅配便を使わずに生活することはまず不可能ですよね。
うーん、なんかしこりの残る結果となってしまいました・・・。