敬称で呼ばれた。振り返ると、休日にもかかわらずきちっとスーツをきめた上司がそこにいた。おそらく趣味の絵画展にでも出掛けていたのだろう。
「奇遇ですね」
「絵を観に?」
「パパの花火という作品は、きれいでした」
元々表情が乏しい人ではあるが、どことなく落ち込んでも見えた。天候が曇りだったから、そう映っただけかもしれない。
─翌日─
酒の臭いがまだ鼻をつく。話す様子を見る限り、この母親の心情グラフは哀しみよりも怒りが勝っている。
クレヨンが床に転がっていた。黒色のそれは指の第一関節ほどにまでちびている。机には色鉛筆が何本かケースから出ていた。直前までお絵描きをしていたようだ。白い画用紙がクレヨンで真っ黒に塗られている。
「私の顔を見るなりあんなふうにグチャグチャに塗ったんです」
子供が絵をリセットした瞬間、母親の理性の針は振りきれてしまったようだ。恋人に心を開かない我が子に苛立ちを感じていた母親は、手をあげた。子供の意識がなくなるほどに。
自己しか見なくなると、相手の気持ちは見えなくなる。
─2日後─
渡り廊下にある掲示板に生徒の描いた作品がいくつか展示されていた。その中に、あの子の絵が飾られてあった。1年生の割にとてもうまい。
「図工は好きみたいなんですけど、作品過程を覗こうとすると見せないように腕で隠す子でね。無口な子でしたけど、パパみたいになりたいって、これを作っている時に言っていたんですよ。お父さんはいないはずなんですけどね」
隣にふと現れた少年が教えてくれた。やけに大人びた口調で可愛げがない。
見るところ、これは打ち上げ花火を描いているようだが、背景に使われている黒色が絵の具ではない気がする。
近くにいた図画工作の先生に話を聞いた。絵の具でカラフルな太い線を紙いっぱいに描き、それが全部隠れるように上から黒いクレヨンで塗り潰して特製の黒い画用紙を完成させ、それを細めの棒でなぞることで、カラフルな線が現れる。その部分が花火なのか。1年生ながら素敵な作品だ。
もしかすると、ポーカーフェイスで照れ屋な子だったのかもしれない。
急いで黒く塗られた絵を解析してもらった。黒の下から現れたのは、手を繋いだ家族の絵だった。法被を着た男性とスカートを履いた女性の間に笑顔の男の子が描かれている。おめでとう、という文字も書かれていた。きっと誕生日が近い母親にプレゼントするために絵を描いていたのだと思う。
あの時、恥ずかしがり屋の小僧は絵を隠すために咄嗟に黒く塗りつぶしてしまったのだろう。
「参観日には行かれましたか」
上司が母親に尋ねた。首を横に振った彼女に上司は言った。
「残念です。私たちが知らない子供の一面を見られる機会なんですよ」
学校から借りてきた絵を母親に見せた。
「『パパの花火』という作品です。こんな素敵な花火を作るお父さんみたいな人になりたいという想いが込められているんです。あなたのお子さんが描いたんですよ」
そして、黒く塗られていた誕生日プレゼントも渡した。いつの間にか母親の感情グラフは哀しみに独占されていた。
一時の感情で行動すると、一生の後悔を背負うことになる。
─1時間後─
「もしかしてこの前偶然会ったのって、あの学校に?まさか参観日の帰りだったんですか?へぇ参観日ってなんか緊張しません?」
「いいえ。我々は見てればいいだけですから」
「そう言えば、お子さんいらっしゃいましたっけ」
「いませんよ」
「でも」
「甥がいますので」
「えっ甥っ子の参観日に行かれたんですか」
「だめですか」
「全く。ところで甥っ子さんの知られざる一面はありましたか」
「絵心がありませんでした」
ちょっと笑ってしまった。
「そう言えば、この間は甥がでしゃばった真似をしたようで、申し訳なかったです」
いつ接したっけ…未成年の子供。気付いた瞬間、顔が強張ってしまった。確かに可愛げのなさは似ている。