島原天草の乱と呼ばれる反乱の後、仏教の霊場として栄えた雲仙は、血塗られた歴史を帯びる。
やがて島原半島一帯は住む入もないまま、キリシタンの殉教地として、数多くの命が失なわ、しばらく空白の時代を迎える。
島原の乱後、領主松倉重政は事件の責任をとって江戸で詰腹を切らされ、1638年(寛永十五年)、後任として浜松城主の高力摂津守忠彦が幕府から任ぜられた。
その家臣の一人、加藤善佐衛門清輔という人物が管理を命ぜられ温泉山に登山した。
だが島原の乱によって堂宇はすべて焼かれ、当時の雲仙は廃埴と化していた。