挑戦しなければ生き抜けない社会の到来  | シンガポール~熱帯先進国から見る世界

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シンガポールで進出支援・会社設立・資産管理をお手伝いする代表者ブログ
常夏のシンガポールから、つれづれなるままにコラムをお届けしています

世の中、他人の評価というものはあてになりません。
これは私が人生アップダウンする中で学んだ経験則です。
人は誰でも、現在の状況からしか他人を判断できません。
今成功している人(または企業)を見ると、昔から天才で
あったかのように賞賛し、逆に今何かに失敗してどん底
にいる人に対しては、「だからこの人はダメなんだ」と
容赦ないバッシングをおこないます。
自分という人間そのものは変わらなくても、まわりの
人間の態度というのは状況によって、クルクルと
変わるものなのです。

中でも日本人はこの影響が強いと感じます。
「新しいことに挑戦しよう」というお題目は、
常に総論賛成各論反対、いざ自分の周りの人間が
新しいことに挑戦しようとすると、リスクを唱え、
失敗すると叩いてしまう傾向があります。
これは冷たい人間がいるということより、社会的な事象
としてとらえることができます。
少なくともシンガポールではあまり感じられません。

また、私が昔、日本で転職活動をしていた時、
「なぜ前の会社を辞めたのですか」という質問に対し、
必ず前向きな返答をするように期待されていました。
「会社や仕事は好きだったのですが、もっと社会に
貢献できる仕事をしたいと思いました」といった風に。
しかし転職したことのある人はわかりますが、何の
不満なく転職をするというシチュエーションはむしろ
おかしいのです。一事が万事、聞こえの良い言葉で
他人からマイナスの印象を受けることを避け、社会の
中で無難に過ごしていくことを求められている。
まあ、もともと会社を辞めるということ自体が
「我慢が足りない」と思われてしまう日本の文化では、
転職する時点ですでにマイナスに思われるのかも
しれませんが。

こういった「挑戦を良しとしない社会」の源泉は
どこにあるのか、ということを考えると、
以前も書いたことがあるのですが「農耕民族」と
「狩猟民族」の違いに行きつくような気がしてなりません。
他人の挑戦を否定するためには、前提として「自分達の
安定」がないといけません。狩猟民族的な発想からすると、
誰かがリスクを取って獲物を狩りに行かなければ、
自分たちの安定はありえません。つまりリスクを取って
成果を手にした者が一番偉く、リスクを取ったものの
成果を得られなかった者はその勇気のみ称賛され、
何もしなかった者は誰からも相手にされなくなるでしょう。
反対に農耕民族的な発想で考えると、結果の安定を
ある程度期待した上で、作物を共同作業で育て、
ひとりひとりが自分の与えられた役割をこなし、
リスクは分担し、収穫後に平等に分け与えられることが
前提となります。和を乱す者は社会の敵となり、チームと
して行動することが求められるということになります。

もう少し掘り下げて考えると、1946年に刊行された
ルース・ベネディクトの著作「菊と刀」では、
西洋は神の存在に根差した自律的な「罪の文化」である
のに対し、日本は周囲からの評価を気にする
「恥の文化」であるといった考察が見られます。
第二次大戦後の経済成長を行う前から、日本人は
「他人からどう思われるか」を規範に行動を決めており、
それが経済成長の原動力にもなったことは想像に難く
ありません。過去の長い歴史の中で、生活様式だけでなく
さまざまな理由で日本にのみ根付いた価値観があります。
こういった日本的な良さが時として長所となり、
短所にもなりうるということですから、経済問題のみを
切り出して「日本人はこうあるべき」という議論は
あまり意味を持たないでしょう。

さて多くの日本人が、高度成長期のようにただじっとして
いても自らの安定が保証されないと気づきつつある今、
日本的な価値観にパラダイムシフトが起きていることは
確実です。集団でなく個々人が何をできるのか?という
視点で書かれた書籍や活動が支持を集めるのを見ても、
すでに変化は始まっています。
私たちが議論の対象にする「日本人像」も数年後には
様変わりしてくると思われます。周りの空気を読んで、
無難に生きていけばよい時代は終わってしまいました。

挑戦しなければ生き抜けない社会が、既に始まって
いるのです

~続きます