おはようございます。
森 信三、修身教授録(到知出版社)より、~21~

すべて物事というものは、形を成さないことには、十分にその効果が現れないのです。
同時にまた、仮に一応なりとも形をまとめておけば、よしそれがどんなにつまらぬと思われるようなものでも、それ相応の効用はあるものです。

(すべて優れた実践の背後には、必ずや常に一個の思想信念があります)。

一例として、ある学校を参観して感激したので、参観した一同が感想文を書いた。
その感想文を集めて、本職に頼んで和綴じにしてもらい、先生に差し上げた。
もしバラバラなままだと、始末に困るもの。
製本してあれば、見るにも便利だし、しばらく保存もしておきやすい。
ここにいわゆる「成形の功徳」があるわけです。

感想文の内容そのものは、綴じようが綴じまいが、そこには寸毫の増減もありません。
しかるにそれに形を与えるか否かによって、その内容の現実における働きの上には、大きなひらきが出てくるわけです。
内容そのものを活殺する意味が出てくるのです。
そこには確かに功徳という言葉にふさわしい、ある種の不思議な力が働くと言えます。

この不可思議力とも言うべき「成形の功徳」を、諸君らを取り巻いている一切の日常生活の上に、実現するか否かによって、諸君らの人生の行手が、大きく別れると言ってもよいでしょう。

このことは書棚についても言えます。
実際にある書物を持っていながら、書棚がなくて乱雑に積んでおきますと、つい出すのがおっくうになって、あるもなきと同じ結果になることが少なくないのです。

あるいはまた先生方の講義などでも、鉛筆やペンで書きなぐったままのものと、キチンと清書したものとでは、なるほど内容的には何ら変わりないわけですが、しかも結果の上からは、そこに大きな相違が生ずると言えましょう。

このように、内容としては同じものでありながら、しかもそれに形を与えるか否かによって、その物の持つ力に非常な相違が出てくるのです。

常に物事を取りまとめておくことです。

物に形を与え、物を取りまとめておくということが、いかに大なる意味を持つものかということを、今さらのように感じます。