おはようございます。
晴耕雨読。森 信三、修身教授録(到知出版社)より、~16~

松陰先生は、大変優しい方でした。
先生の国を思われる一筋の心は、何ものもこれを阻むことはできず、またいかなる権力もこれを妨げ得なかったのですが、しかし先生は決して単に強いばかり、きびしいばかりではなかったようです。

本当に偉い方は、みだりに声を荒らげて、生徒や門弟を叱る必要がないでしょう。
真に偉大な人格であれば、何ら叱らずとも門弟は心から悦服するはずです。
偉大な先生の、弟子に対する深い思いやりとか慈悲心が、しだいに相手に分かってくれば、叱るなどということは、まったく問題ではなくなるでしょう。

優れた師匠というものは、常にその門弟を、共に道を歩む者として扱って、決して相手を見下さないものです。
ただ同じ道を、数歩遅れてくる者という考えが、その根本にあるだけです。

もし教師にして、真に限りなく自らの道を求めて已まないならば、自分もまた生徒たちと共に歩んでいる、一人の求道者にすぎないという自覚が生ずるはずです。

人間というものは、その人が偉くなるほど、しだいに自分の愚かさに気付くと共に、他の人の真価がしだいに分かってくるものです。
そして人間各自、その心の底には、それぞれ一箇の「天真(天然自然のままで、偽りや飾り気のないさま)」を宿していることが分かってくるのです。

至柔なる魂にして、初めて真に至剛なるを得るでしょう。
真に剛に徹しようとしたら、すべからく柔に徹すべきである。

~以下補足~
人間の知恵というものは、自分で自分の問題に気付いて、自らこれを解決するところにあります。
教育とは、そういう知恵を身に付けた人間をつくることです。

人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形づくる支柱となるのです。
自分が躬(み)をもって処理し、解決したことのみが、真に自己の力となる。
そうしてかような事柄と事柄との間に、内面的な脈絡のあることが分かり出したとき、そこに人格的統一もできるというものです。

同一のものでも、苦労して得たものでないと、その物の真の値打は分からない。

死後にも、その人の精神が生きて、人々を動かすようでなければなりません。それには、生きている間、思い切り自己に徹して生きる外ないでしょう。

人間も苦労しないと“あく”が抜けません。