おはようございます。
森 信三、修身教授録(到知出版社)より、~15~

一道をひらくということは、それによって自分自身が救われると共に、さらに後に来る同じ道をたどる人々に対して、その行く手を照らすという意味がなければならぬでしょう。

自分が一個の職業に従事して会得したものが、広く同種類の職業に従事している多くの人々に対して、大きな慰めとなり、さらには激励となるに至って、初めて真に国家社会に尽くすものと言えましょう。
このような境地に達した人は、職責を通じて道を体得した人とも言えるでしょう。

人が真に偉大だったら、その人は必ずや偉大な信念の所有者であり、そして偉大な信念に基づく言行は、必ずや何らかの形態において、死後に残るはずです。
たとえば吉田松陰先生は、わずか三十歳そこそこでこの世を去られましたが、今日先生の精神は、全国民の魂に対して、偉大な光と力を与えつつあるのです。

真に偉大な人格は、これに接した人々が、直接眼のあたりその人に接していた時よりも、むしろその膝下を去って、初めてその偉大さに気付くものです。
その人の教えを受けた門弟子たちは、生前その心に刻まれた不滅の言葉を、自分一人の胸中に秘めておくに忍びず、またこれを単に自分ら一部同門の人々の間に秘しておくに忍びず、これを結集して、もって天下にその教訓の偉大さを宣布せずにはいられないでしょう。
孔子における「論語」しかり、釈尊における「阿含経」しかり、キリストにおける「聖書」しかり。