おはようございます。
久しぶりに、森 信三、「修身教授録」より、~11~

わが国の使命、という問題は、それがわれわれ自身の問題と結びついてこなければなりません。
逆に言えば、自分の使命は、何らかの意味でわが国の使命と結合し、自分の生涯が、何らかの意味において、民族の使命に対して、一つの捨石的な意味を持つようでなければならぬでしょう。
そうでなければ、自分一個のひとりよがりにすぎなくなってしまいます。

もちろんわれわれ人間の努力は、必ずしもそれが一々民族の使命を背景として、自覚的にそれと結びつかなくても、これをその結果から見れば、国家の大使命を達成する上での、極微な一要素となると言えないこともないでしょう。
たとえば農夫が田を耕す、職工が工場に働く、など。

しかしすべて物事というものは、真実には、その事柄の意義を自覚する以上には、その価値を実現することのできないものです。
すべての物事は、そのものの意味を認めることの深さに応じて、その価値は実現せられるのです。

つまり、人生の価値というものは、その意義を認めることの深さに応じて現れてくるものです。
したがって、人間の生涯を通じて実現せられる価値は、その人が人生における自分の使命の意義を、いかほど深く自覚して生きるか否かに比例すると言えましょう。
このように人生の意義に目覚めて、自分の生涯の生を確立することこそ、真の意味における「立志」というものでしょう。

真に志が立てば、もはやしいて教え込む必要はなくなります。
というのも真に志が立ったら、自分に必要な一切の知識は、自ら求めて止まないからです。

こう考えると、一つの国家においても、その成員たる一人びとりの国民が、いかほど深く国家民族の使命を自覚しているか否かによって、その国家の運命に重大な相違が生じると言えます。
そうした立場からは、一人の農夫、一人の職工に至るまでが、それぞれ民族の使命を自覚して、自分のなすところが、いかなる意味において、国家の大使命に貢献し得るかを自覚するに至って、その国家は、初めて真正な国家となると言えましょう。
したがって問題は、結局、個人としては国家民族の使命に対して、自分は「いかなる角度」からこれを分担するかを、自覚することに外ならぬと言えましょう。
常に明確な自覚を持つことです。
このような自覚が明確であればあるほど、その人の生涯は、歴史という民族生命の大流に合流するわけであって、それはまた、大いなる織物における一つの緯のように、織り込まれることともなるわけです。