おはようございます。
今日は少し趣向を変えて、瀬戸内寂聴さんの法話(ユーキャン)から言葉を拾ってみました。

100以上生きてボケない方は格別な人ですね。
93が境みたいよ。
93あたりでだいたい終わり。それを越すともういくつまで生きるかわからない。

時々人中に出るということがボケないことなんですよ。
ひとりでじーっとしている人が早くボケる。
あんまり平和だとボケるんです。
ひとりでいると、だんだん怨みがましくもなるのね。

先のことを心配しても仕方がない。
ただ、先の用意はしておかないといけないですね。
いつ、何が起こるかわからない。これを無常と言います、仏教の根本精神です。
人間は同じ状態ではない。

私は作家よ。
作家は自分の言葉を持ってます。
自分の言葉で自分の思うことを言わなければ、暗記して言ったって、感情がこもらない。
自分の言葉を自分の真心で言えば、人が聴いてくれるかもしれない。

その時出て来たことを言った。
あとで同じことを言おうと思っても出てこない。
それはその時の心情ですから、二度は出てきません。

みんな人間というのは、自分を実物以上にかわいいと思っているんですよ。

弱者と言う人には思い上がりがある。自分が強者だから誰かを弱者という。
そうじゃない。そういうことを言っちゃいけない。
弱者と言われる側の人になったら、決して思いやりとはとらない。

言葉で人を殺すこともあるんですよ。それを気をつけましょうね。
ちょっとした言葉の使い方で非常に険悪になってますね(嫁、姑)。

言葉の大切さ。
話し合いをすれば大体事は解決するんですよね。
話し合いをするということは、相手の言う事を聞く耳を持たなければならない。
うまくいかないのは、どっちかが聞く耳を持たないからです。
聞くということは、相手が何を言いたいか、何を欲しているか、分かろうとして聞くんです。

相手がなんでこんなに一生懸命話したいのかなと思って聞いていると分かる。
身の上相談。結果を求めにきているのではないです。訴えたいのです。
うらみつらみのはきすてどころです。
聞いてもらいたいだけなのです。
誰かに言うだけで心に風穴が通るんです。するとすっとするのね。
そこに風が入ると新しい考えがでてくるんです。突破口がでてくるんです。

愛するということは、思いやるということなのね。
相手の事を気にかける、相手のことを心配する、これは愛情でしょうね。
相手が何を自分にしてほしいのかな、ということを考えることが愛ですよ。
そうすれば何か人間関係というものはうまくすっといきます。

押し付けは、相手の気持ちがわかっていない。
間違いの多くは、自分がしたいことをしているんです。

溶け合うと少々のことは気にならなくなっている。
溶け合うということは一体になることですから、これが夫婦というものなのね。

人間の心には縄をかけられないんですよ。
人間の心は勝手に動くんですから。

いくつになっても人間は愛情問題で悩んでいる。
愛情のある限り、人間は悩むのね。
一番人間にとって強い煩悩は、この愛ですね。

仏教では、愛には渇愛と慈悲がある。
渇愛とは、男女のセックスを伴った愛と思って下さい。もっと愛して。ひじょうに渇いている。与えない。ただ頂戴、頂戴。
慈悲とは、仏さまの愛。相手にあげる。お返しを求めない。
本当の愛の理想は慈悲なんです。無償の愛といいます。これが最高なんです。わたしたちは渇愛をだんだん浄化して、死ぬまでに慈悲にもっていこうという心掛けをどこかに持っていて下さい。
煩悩の最たるものが渇愛ですね。

相手を苦しめる、誰かを不幸にして自分が幸せになるということはうまくいきません。
幸せということは何か。自分がここに居ることにおいて、誰か一人でももうひとつ幸せになってくれればいいのね。
つまり、あの人に会いたいわという人が、お友達がひとりいればその人の存在価値があるわけでしょ。
人間が寂しいということは、自分が求められていないということですよね。
誰の役にもたってないということは、寂しい。
とにかく、何かのために自分が役に立っているということが、幸せなことだと思う。
なんかあの人のところへ行けば心がほっとするわ、というふうになって下さい。それが幸せなことなんでしょうね。物質的になんとかということじゃないのね。

話を聞いてあげるだけでいいのね。
和顔施、にこやかな顔を与えてあげる、それだけで人は嬉しくなるんですよ。