おはようございます。
森 信三「修身教授録」より、~10~

道徳修養とは、去勢せられた、お人好しの人間になることではありません。

真の道徳修養というものは、意気地なしになるどころか、それとは正反対に、最もたくましい人間になることだと言ってもよいでしょう。
すなわちいかなる艱難辛苦に遭おうとも、従容として人たる道を踏み外さないばかりか、この人生を、力強く生きぬいていけるような人間になることでしょう。

よく修養とは欲を捨てることだと言われています。
欲を捨てると、まるでふぬけのようになって、意気地なしの弱者になる?
いえ、言葉の真相は、自分の体をそれにぶつけてみないと、真の意味・味わいは分からないものなのです。

たとえば一杯のご飯が足りないとき。
それを他人のせいにしている間は、なかなか我慢のしにくいものです。
ところが心機一転して「どの程度こらえることができるか、一つ試してみよう」と、積極的にこれに対処すると、それ程でもないものです。
さらに一歩をすすめて、「一椀ひかえることによって、十分に食べられない人たちの気持を察してみよう」となれば、これはもはや意気地なしとは言えません。

このように、人間が真に欲を捨てるということは、意気地なしになるどころか、それこそ真に自己が確立することなのです。
さらにそれによって、天下幾十万の人々の心の中までも窺い知ろうという、大欲に転ずることなのです。

人間が真に欲を捨てるということは、実は自己を打ち越えた大欲の立場にたつということです。
すなわち自分一身の欲を満足させるのではなくて、天下の人々の欲を思いやり、できることなら、その人々の欲をも満たしてやろうということです。

かくして欲を捨てるということは、単に自分だけの自己満足でいい気になっている程度のお目出たさを蹴破って、自分の欲をこらえ我慢することによって、多くの人々の悩みを思いやることであり、さらにはこれを救わずにはおかぬという絶大な大欲に転じて、そこに一大勇猛心を奮い起すことです。

職業について言えば、例えば一生を小学校教師に踏みとどまりながら、人間として至り得る極致まで行きつくということです。
もしそれがなし遂げられると、その時は、自分一人が救われるのみならず、やがてまた現在並びに将来にわたって、境遇に恵まれない幾多の人々を慰さめ激励することともなるわけです。

このように、心に一大転換ができたならば、生涯小学教師として生きることに、絶大な光明が射してくるはずです。
そしてこれこそ、真に生き甲斐ある一生の本懐の道と言えましょう。

人間は、自分一人の満足を求めるチッポケな欲を徹底的にかなぐり捨てる時、かつて見られなかった新たな希望が生まれ出るものです。

死後にその名が残るということは、その人の精神が残るということです。