おはようございます。
和英対照仏教聖典より、~6~

仏に従ってさとりを得るには、信念と健康をもち、勤勉であって、偽りがなく、その上に智慧がなければならない。

人にはみな、さとるべき性質がそなわっている。

さとりの本性である清浄(しょうじょう)な心は、迷いの心の裏側に隠されたまま自己の上にそなわっている。

はからいの心(the discriminating (識別する、区別する) mind)は欲から起こり、自分の都合をはからう心であり、縁に触れて起こる心であって、真実の本体のない、うつり変わる心である。この心を、実体のある心と思うところに、迷いが起こる。

すべての人びとには、清浄の本心がある。それが外の因縁によって起こる迷いのちりのために覆われている。しかし、あくまでも迷いの心は従であって主ではない。

月は、しばらく雲に覆われても、雲に汚されることもなく、また動かされることもない。
だから、人は浮動するちりのような迷いの心を自分の本性と思ってはならない。

人は、動かず、汚されないさとりの本心に目覚めて、真実の自己に帰らなければならない。
人の心の迷いや汚れは、欲とその変化する外界の縁に触れて起こるものである。

この縁の来ること去ることに関係なく、永久に動かず滅びない心、これが人の心の本体であって、また主(あるじ)でもある。

外の縁によってうつり変わるはからいは、心の本体ではない。

外の因縁に引かれて生じたり滅したりする善悪・愛憎の念(おもい)は、人の心に積まれた汚れによって起こるひとときの心なのである。

煩悩のちりに包まれて、しかも染まることも、汚れることもない、本来清浄な心がある。

縛られた見方を外の縁に返し、縛られることのない自己の本性にたち帰ると、身も心も、何ものにもさえぎられることのない、自由な境地が得られるであろう。