現在国立西洋美術館で『富嶽三十六景』の全点展示が行われています。2024 年に井内コレクションより寄託されたものを初披露する展覧会というので、見に行ってきました。
『富嶽三十六景』は当初の36枚の後に10枚が追加制作されており、今回はその46枚に加え、人気の『神奈川沖浪裏』と『凱風快晴』は刷りの異なるものも含めて、全49枚が展示されています。
私の関心はタイトルのとおりで、そこに集中して全作品を見ましたが、やはり宝永山が描かれているものは1枚もありません。
単純に『富嶽三十六景』が作成された後に宝永大噴火が起こったのかと思っていましたが、時系列でみると宝永大噴火により宝永山が出現したのは1707年のこと。北斎が生まれたのは1760年なので、北斎は生まれたときから宝永山のある富士山を見ていました。それなのになぜ絵の中に存在しないのか。
静岡側から見た絵では、宝永山の来る位置に木や雲を配置してうまく隠したようなものもあります。通説では、北斎はリアルな富士山を描こうとしたわけではなく、日本人が共有している富士山のイメージを尊重し、稜線をなめらかにしてデザイン的に見栄えが良いようにしたから、らしいです。
ちなみに、絵の中に富士山を多数描いている広重(1797年生まれ)はどうかというと、やはり広重もほとんど宝永山を描いていません。ただ例外もあり、『東海道五十三次(宝永堂版)』の『原(朝の富士)』では、これは沼津市の原から見た富士山を描いたものですが、これには明らかにボコッとでっぱりが存在します。
また、富士山は浸食が激しく、この50年くらいの間でも削られてギザギザが深く入るようになりました。大勢の人が登山をするようになった影響かと思っていましたが、広重の『原』ではすでに山腹に縦の筋がくっきりと刻まれており、今の富士山の形にかなり近いです。
東海道五十三次シリーズはあまりの人気で、後年いくつも違うバージョンが作られていますが、その後年の『原』では、宝永山も削られた様子も描かれていないことから、あまりにリアルな1作目は不評だったのかなと思います。
今年の秋には、今度は東京国立博物館で3か月にわたり『特別展 内山晋コレクション受贈記念 歌川広重 江戸のベストアングル』が行われます。3期に分けて、「東海道五拾三次」(1期)、「木曽海道六拾九次」(2期)、「名所江戸百景」(3期)が紹介されるというので、これも楽しみです。
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