政治の正体①【民主主義と世論操作「国民は悪くない」という嘘】テレビやマスコミは危険!メディア統制 | 和み雪 降る夜 

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「民主主義」と「愛国心」を考えるブログ
腐った政治家のせいにするのは止めよう。
無責任な国民こそが、日本の有害因子なのだから。

「政治」の正体①

 

民主主義と世論操作「国民は悪くない」という嘘

 

 一度は聞いたことがあるだろう、「国民は悪くないんだよ」とか、「国民が無知なのは、圧力を加えている政府が悪い。」とか、「政府の手口が巧妙だから国民は騙されて仕方がない」という言葉。「大衆=被害者」という考え方で、一見すると優しい言葉なのだが、この穏健的な姿勢こそが実は政治を腐らせる「癌(ガン)」である。「国民は悪くない」として、優しく慰められて甘えている限り、いつまでたっても「国民が覚醒しない」ことは、冷静に考えれば気が付くはずなのだが、この台詞を言っている人たちに悪気はない。優しさのつもりかもしれないが、この穏健的な言葉の背景には、大衆の知的レベルを下げる作用がある。

 

 民主主義とは、一般大衆が自分に関係する取り決めの参加手段を持ち、情報が公開されている社会、というのが一般的な定義だが、実際の民主主義では、一般大衆に自己管理することを禁じ、情報媒体を限定して厳格に統制している。大衆に民主主義に参加しているかのように思い込ませ、実際には巧妙に全体主義的な統制を広げている。その統制に利用されているのが「世論操作」である。この「世論操作」を駆使すれば、平和主義的な反戦論者の国民を、極めて短期間で主戦論者(戦争をすること主張すること)に変えさせることすら可能である。

 

 最初の「世論操作」の成功として有名なのが、1916年のアメリカ合衆国のウッドロウ・ウィルソン政権である。世論操作委員会(クリール委員会)に加わったジャーナリスト(リップマン)は、国家政策の「世論操作」は、知識層に支持されれば大きな効果を上げて、国民の「合意の捏造」が可能であると主張した。この「世論操作」によって、平和主義的だった国民を恐怖に脅えさせて、わずか6か月という短い期間で、狂信的なまでの主戦論を導き出すことで戦争に駆り立てたのである。つまり「世論操作」という手法によって、大衆が望んでいないことを承諾させることを、実践して見せたのである。

 

 支配層は「大衆の期待する民主主義政治には大きな欠陥がある」と言う。全ての国民が等しく選挙権を持ちつつ、全ての国民が政治に参加する素養を満たしていない。人は様々で、政治知識が乏しい者、自分で考えることが苦手な者、社会的な責任が乏しい者(無職や学生や弱者や重病人)など、政治という高度な組織システムを考察するレベルに達していない者が多数いる。大半の大衆が「公益が何であるか」を理解しておらず、利己的で物事を理解できない。自分達のことを自分で管理させるには愚かすぎて、本当に政治に参加させたら社会に問題が起こりかねないと警鐘を鳴らすのである。その理論によれば、現実の民主主義政治では、それを理解し管理できるのは少数の「知的層エリート」だけであり、民衆の意見を取りまとめて統治につなげていく段階で、「知的層エリート」という階級が必要になってくる。目立たない様に「知的層エリート」と呼ばれる者たちが、残りの人々「烏合の衆」をどう扱うかを決定し上手に黙らせるのである。

 

 いわゆる「労働者の組織化」(労働組合)であるが、これは大衆が政治に参加しようとする試みであった。死者が出るようなストライキの歴史がある中で、1937年、アメリカ合衆国のペンシルバニア州の鉄鋼ストライキの時、経営者側は武力ではなく「世論操作」を戦略に使った。大衆に対して、ストライキ参加者は社会の害であり、公共の利益に反した行動をとっていると印象付けたのである。実は、1935年にワグナー法の制定により、労働者が組織化し団結する権利を勝ち取ったのであるが、ストライキをやっているような連中は、「調和を乱し、問題を起こしている」という「世論操作」によって、人々の関心を他へ逸らすことに成功したのである。

 

 実際に、第二次世界大戦後には、労働組合の数は減少し、それと共に労働組合と結び付いた非常に豊かな労働階級の文化も衰退し、崩壊した。これは米国が恐ろしい速度で経済界に牛耳られる社会へと移行したためである。米国では国家として最低限の保証さえしようとしてはいない。組合は事実上存在しないに等しく、それに代わる組織もない。少なくとも社会構造から見て、大衆の声を反映できる理想とはかけ離れていることは明らかである。こうして企業にメディアは独占され、多様性を失った。メディアは真実を伝える機能を失い、経済界が政治を握るようになっていった。

 

 1960年代になると、再び大衆が民主的に組織化し、活発な活動を行い、政治への参加を目指し始めた。このような事態は本来は民主主義の進歩であるはずだが、「世論操作」を牛耳る支配層にとって、民主主義的な大衆の活動が「世論」に影響が出るのではないかと焦った。なんとかして大衆を無関心や服従という本来あるべき姿に戻さなければならないと支配層は考えた。

 

 具体的には、広告代理店(広告業界)やメディアによって、一般大衆をテレビの前にじっと座らせて、人生で大切なのはたくさん物を買って、テレビドラマにあるような裕福な中流階級のように暮らしをすることだと信じ込ませることである。それが足りなければ、「敵」を設定して生活を脅かすと信じ込ませて恐怖心をかきたてる。あらゆる手段を使って、そのためなら資金も労力も惜しまず、「烏合の衆」が大声を発し、じたばたし始めないように、彼らの関心をどこかよそへ逸らさせて、何かを考え始めさせないようにさせるのである。

 

 1970年代になると、米国では軍事力の行使に対する拒否反応があらわれた。なぜ他人を殺したり爆撃する必要があるのか?と目覚め始めた。国民がこのようなことに拒否反応を示せば、世論は平和主義的な流れになってしまう。そこで、「戦争の意義」を認めさせるために、戦争の価値が正当に評価され、武力に対する拒否反応が全くない社会を築こうとしたのである。歴史を完全に偽り、誰かを攻撃するために、国際テロリストや、麻薬密売人などを作り出して、自作自演の犯罪や戦争や命の犠牲もいとわず、侵略者や悪者に対する正当防衛であると思わせたのである。これはメディアが完全に統制され、教育制度すら体制寄りであれば可能であった。実は、米国で一般に公開されている世界の現状は、事実とはかけ離れたものであり、事の真相は幾重にも重なった嘘の下に隠されている。兵士を含む多くの人々が実際には何が起こっているのか理解し始めないように、政府が何を行おうとも立派で正しいとされるような状態を、嘘によって体制を維持し続けるのだ。

 

 確かに現実を見てみると、「腐った政治が許せない!」とか、「今の政治家はクズばかり」、という怒りの声をよく見かけるが、「政治を変えるにはどうしたらいいか?」という建設的な議論はあまり見かけない。怒りや文句が99%、建設的考察1%といったところか。政治を良く知らないまま、自分は何も行動を起こさないで、安全な場所で文句や暴言を吐いてストレス発散する「烏合の衆」が大半ということか、誰かの論説を聞いて知った気分になっているだけということか。自分の意見を持つためには、頭脳や経験や知恵が必要だし、勇気も責任も必要になってくる。それに比べれば誰かの意見に「そうだ、そうだ」と、便乗する位なら誰でもできる。そうやって、十分に議論を深めないまま無責任で浅はかな意見がどんどん拡散されていく様子はあちこちで見かける。

 

 この行動は国防論でもしばしば見かける。北朝鮮は危険だから、「国を守るのは軍隊と兵器だ」とか、「軍事費を増やせば平和が守れる」という人達は、「具体的にどうするのか?」という議論には発展していない。つまり仮想敵国の設定はどうするとか、その根拠や分析とか、兵器開発の物理的背景はどうするとか、外交や貿易の問題すら考えず、とにかく敵をやっつける、兵器開発しなければ日本はやられてしまう、としか答えられない。実は国防なんて何も知らないのに、安倍政権が北朝鮮を挑発するのに便乗して、無責任な発言を繰り返し愛国家を気取っているだけで、自分で考えた結論ではないから、現実の国防議論を向けられると、意見を維持できないか黙ってしまうのである。

 

 この両者に共通しているのは、政治を良くしたい、平和を維持したいとしながら、税金さえ払っていればいい、自分には関係ない、政治家に任せれば大丈夫、という他力本願なのだ。そう考えると、大半の大衆は、政治という高度な組織システムを考察するレベルに達していないというのは事実だ。政治を劣化させないためには、こうした他力本願の層を黙らせておくのは、ある程度は必要なのかもしれない。

 

 しかし、わざと愚民を生み出すような低レベルな教育をやってみたり、わざと頭がバカになるような低俗な文化や不道徳で有害な娯楽を大衆に与えたり、歴史をねつ造して国民に教えるのはいかがなものか?過剰で嘘ばかりの「世論操作」にも目に余るものがある。更に驚くのは、公然と「黒いものを白にする」行為の数々である。国民に嘘をつき騙し(森友学園)、公文書データを削除したり(6月1日財務省のすべてのパソコンを丸ごと処分)、政治家関係者の犯罪をもみ消したり(山口敬之の強姦隠し)、政治家の友達に金を流すシステムを作ったり(加計学園)、不道徳で人格的に問題がある人間を政治家に祭り上げてみたり(安倍首相)、不適切な人材を大臣にしたり(稲田防衛大臣、金田法務大臣)、国会を冒涜してみたり(共謀罪)、国有財産を私物化したり(国有地問題、自衛隊派兵と撤収)、皇室さえ利用したり(資格取得前のフリーター段階での早々な眞子様の婚約発表)、政治漫画に圧力を加えてみたり(疾風の勇人という政治漫画に安倍晋三の祖父である岸信介が登場したシーンで連載中止)など、これを大衆に納得しろと言うのは、あまりにも無理がある。いくら何でもやり過ぎである。これでは、大衆の目にも「最近の政治家は変だ」と気が付き始めてしまう。

 

 軍事国家では暴力が国民の調教道具となるが、実は、民主主義では「世論操作」が、暴力に変わる調教道具なのである。だから、テレビや雑誌をポカンと眺めていることは、本当に危ない。知らないうちに、頭や体を殴られ続けているのと同じくらい危ない。可能な限り警戒し防御しないと、知力も感性も破壊されてしまう。

 

 残念ながら政治家は大半が優秀ではない。「烏合の衆」と揶揄される大衆と、レベルは大して変わらないのが現実である。中には、不道徳であるだけでなく、善悪の区別もつかない人格欠陥者も混じっている。官僚の人事権を官僚から政治家に握らせた途端(2014年内閣人事局)、この有様の内閣を見れば政治家の素地の低さが露呈している。メディアすら国民のためではなく、企業のためにだけ機能しているだけでなく、政治家もまた「企業のセールスマン」となっている。つまり経済界が政治の実質を握っている面がある以上、利己的な国民がある以上は、それに迎合する政治家(経済界)が利己的な方向で腐るのは仕方がない。政治家が私腹を肥やすような政治を変えたいのなら、まず国民(有権者)が利己主義を捨てることだ

 

 加えて言えば、政治家の本質は、有権者(経済界)の願いや傾向が反映している。企業が政治を握っているのなら、企業に権力を与えないためにも、企業に頼らきらない自助努力と、贅沢志向や拝金思想に流されないことが極めて重要な鍵となる。既存メディア(雑誌、テレビ、新聞)に情報収集を頼らない努力も必要となる。少し大変だが自分で調べることや、仲間や友達や家族と情報交換したり、信頼できる大衆ネットワークを利用することなどである。幸せや生活のあり方を企業に依存してばかりでは、大衆はいつまでも政府(経済界)に支配され続け、コントロールされたまま抜け出せず、政治は絶対に変わらない。便利とか大丈夫とか言って、すぐに企業に甘えるのではなく、家族や隣人や仲間と助け合いながらも、まずは自分たちで動いてみることである。

 

 ”良薬は口に苦し(注意されることは不愉快だが自分のためになる)”と言うことわざがあるが、楽しくて優しく見えるものよりも、身に染みる厳しいものの方が、自分の役に立つこともある。

 

 政治を民のために変えたければ、「政治家になるしか道がない」というは嘘である。また、「政治家に期待するしかない」というのも嘘である。できることは沢山ある。それは第一に、政府の情報操作や価値観誘導に流されないような、強さや賢さを身に着けることである。それを各人が自問自答することが、まず大切ではないのか?もちろん、全ての大衆に考える能力があるわけではない。だからこそ、私やあなた、自分で考えることができる大衆の存在は、健全な政治においてとても貴重な存在なのだ。自分で考える素養を持った者の「役割と責任」は大きくて重い。ネットや書籍が充実している現代において、遊んでばかりで真実を知る努力をしない怠け者たちを、擁護するの姿勢にもそろそろ無理がある。「国民は悪くない」という言い訳が通用するのは、大衆を劣化させたがる勢力に対してだけだ。

 

(民主主義と世論操作と、「国民は悪くない」という嘘 by 雪華天)

 

次回 「政治の正体2 政治の引力」に続く・・・☆

 

参考図書 メディアコントロール ノーム・チョムスキー