嘘つきと詐欺師が増えた日本【道徳と経済のバランス・就職する意味・天皇制の理由】明治維新 | 和み雪 降る夜 

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嘘つきと詐欺師が増えた日本
道徳心と経済のバランス「道徳なき経済は犯罪である」
危険なブラック企業は、こうして誕生した!
 
 近年、日本人にも「嘘つき」や「詐欺師」が増えてしまった。これは近代日本の致命的な汚点である。「金が儲かれば何でもいい」という「拝金主義」は資本主義が自制機能を失って暴走した成れの果てである。自制機能とは、すなわち経済をコントロールする「道徳心」のことである。昔から「道徳心」の欠如者はいたが、近代日本における自制機能の欠如は目に余るものがある。「嘘つき」や「詐欺師」が増えたのは一般国民だけでなく、日本国を牽引すべく政治家や起業家にも増えてしまった。なぜここまで日本人は劣化したのか?
 
 明治維新で富国強兵として産業が立ち上げられた当時の資本主義には、「商売をする上で重要なのは、競争しながらも道徳観を守ることである(渋沢栄一)」という教えや、「道徳なき経済は罪悪であり、経済なき道徳は戯言である(二宮尊徳)」という教えが存在していた。それは当時の企業活動に、「道徳と経済」の絶妙なバランスを重んじられていた証であり、日本国民に対しても、天皇陛下の御言葉として、「道徳心」の大切さが教えられていたことにも表れている。現代の一部の欧米人において、自由主義よりも道徳を重んじる傾向が見られるが、実は日本の道徳心を分析して模倣したに過ぎないと言われている。
 
 「道徳」が機能していた昔の日本社会においては、「会社」は「会=人が集う」と「社やしろ=建物」であり、考えや理念が統一されたものの集まりとして結束されていたから、企業は社員に「道徳」を教える場として機能していた。当時の若者たちは、企業に就職する事によって、企業から「道徳」を教えらえていたのである。就職とは、もともと「社会性」や「道徳心」を身に着ける場でもあったのだ。人間性を重んじた企業理念さえあれば、社員たちが企業の歯車だとしても、活躍できる誇りや働く喜びが生まれたのである。
 
 そういう文化レベルの高さがあったからこそ、現実的な足元から手堅かったため、日本の産業は機械文化レベルが低くても、外国から植民地にならずに強く歩んでこられたのである。今思えば、ペリー来航以降の日本の革命(富国強兵)の在り方が、諸外国の共産主義や自由主義に比べて、いかに現実的で人間心理に基づく緻密さを持つ、正当なものであったかを痛感できる歴史である。
 
 ところが現代の日本において、就活者の大半が「お金を得る手段」としてだけで就職先の企業を選び、ラクして高い給料をもらえるかどうかとか、好きな仕事ができるかだけを決め手にしている。企業側も、社員たちに「社会性」や「道徳」を教える責任感など皆無である。会社は「人間性」や「道徳」を教わる現場でなくなってしまった。これこそ「ブラック企業の特徴」であり、「ブラック企業の原点」である。
 
 こうした就職において若者(国民)の悲劇が始まる。就職先が「金が儲かれば何でもいい」という拝金思想だった場合は、出世するために「道徳」を捨てざるを得ない。企業は社員の道徳教育をおざなりにしたまま、お金や株価だけを追わせるようになり、金銭ノルマ達成や株価上昇のために無理なことを目指し、人道無視した無理を社員に押し付ける。企業理念に機械的な「金もうけ」と「道徳無視」しか無ければ、社員は働く喜びも生きる意味も感じられなくなる。あたかも拝金主義が国を豊かにすると勘違いしているような、例えば堀江貴文氏に代表されるような人格片輪の経済活動に、あっというまに流されていく。これは末期的な経済構造である。
 
 企業から「道徳」を教えてもらえない現代の若者は、よほど自分で努力しない限り、年齢とともに幼稚化する。昔なら就業によって人間性が成熟していくが、今の若者は勤続年数や年齢を重ねても人間として成熟できないからだ。いつか若者が子育てする立場になっても、親自身が「道徳」が分からないままだから、未来を担う子供たちに豊かな「道徳教育」を与えられない。それを恐れてか、結婚しないでプラプラする若者が増えるのは、お金が無いばかりが理由ではない。お金があっても人間性が未熟で幼児化しているから、家庭を持つ責任から逃げる。子孫繁栄の責任や意味にも気が付かないまま年を取る。少子化問題の原因の本質は、「道徳欠如」と「大人の幼稚化」に「自由主義」が複合して起こる。そうやって、自分自身の理想世界の実現にしか興味が沸かない国民が、どんどん量産されるのである。
 
 このように、企業が道徳教育を放棄した責任は重い。企業が拝金主義だけに傾斜することは、実は未来を担う国民形成にとって重篤な罪である。これは、社員への道徳教育を企業に求めさせなかった政府の責任である。
 
 劣化した経済で国民が失うのは「人間性」や「道徳心」だけではない。加速すれば「男女の性」や「羞恥心」何もかも全て金に変えて売り飛ばすから、人間本来の「誇り」や「生きがい」も奪われていく。代わりにお金で買えるモノだけが、残されていく。お金というのは「誰かが作った価値観の基準値」だから、お金で得たモノは、誰かが自分を褒めてくれたり、誰かが羨ましがったりしてくれないと喜びが得られない。自分自身の誇りとして感じられなくなる。
 それなのに、喰う者と喰われる者(弱肉強食)を唱え、嘘をついたり人を騙したり傷つけたり、もしかしたらお金のために誰かを殺す。お金という価値基準が生み出した「損得勘定」だけで人生が暴走して、金のためだったら何でもするから、更にドツボにハマる。何が幸せなのかすら自分でわからなくなる。人間性が無ければ、豊かなお金の使い方なんてできないから、人としては完全に自滅していく。だから余計にお金にすがるしかなくなる。このような世界では、マトモな精神を保つ方が難しい。
 
 拝金主義に劣化した資本主義では、人間は本質的に豊かになれない。資本主義が拝金主義に暴走して行きつく先は戦争だというのは世界的に知られた言葉である。虚像の経済は人間界を破壊し、人類を破滅に追い込む。戦争大国アメリカを見ていれば分かるだろう。おそらくアメリカ人の大半は、日本人よりもっと大多数の国民が、何が幸福だかなんて分かっていない。
 
 人間が本質的に豊かになれない経済活動は虚像である。「損得勘定」と「経済」を履き違えてしまうと、高レベルな資本主義が、低レベルな「拝金主義」に急降下してゆき、「損得勘定」だけが企業理念として残り、そこはもう明らかに人間が生息できる社会システムではなくなる。正しい経済活動は人間を豊かにするが、間違った経済活動は人間を壊滅させるからだ。
 
 そんなに金が欲しければ、どんどん働けばいいのに、社会システムや労働現場を変える努力をせずに、自らの「道徳心」を手放してしまう。こうして金のためなら他人を騙すという、最も安易な「嘘つき」と「詐欺師」がどんどん増えてゆく。欠如した道徳心を誤魔化すために、正義の追及から、いかに上手に逃げるかが彼らの仕事の軸となる。更に「男女の性」や「ブライバシー」を切り売りさせて、お金と引き換えに「自尊心や誇り」を捨てさせる。相手の「自尊心」を捨てさせるペテン師トークこそが仕事の腕だなんていう頭のおかしい企業家まで沸く。こんなもの人間の心を空洞化させるだけで、経済理念でもなんでもない。ただのクズ人間のやることである。マトモな人間なら、こんな経済活動に喜びや誇りなど感じらるわけがない。心は売ったら最後、もう二度と取り戻せない。
 
 間違った経済が定説化すれば、日本には「嘘つき」と「詐欺師」と「不道徳者」で溢れてしまう。間違った経済は、間違った社会と、間違った人生観を生み出す。「道徳心」も「社会的意義」も「生きる意味」もわからなくなって、ひたすら世間の流れに身を任せ、何も考えずに自由(金)をむさぼって生きるだけの屍(しかばね)と化していく。国民が屍(しかばね)だらけでは、国家は弱体化して、衰退して、いつか破滅する。人間性を無視した経済構造は人間が生息できる社会ではないからだ。それに気がついていたからこそ、先代の日本人は「経済と道徳のバランス」を重んじてきたのである。「富国強兵」は先代の日本人の優秀な知恵だった。今こそ歴史を紐解き、先代の日本人から学ぶ時なのだ。
 
 日本がこうした「経済と道徳のバランス」を失ったのは、やはり敗戦の結果が大きい。アメリカ型の資本主義が押し付けられたことと「道徳教育」を奪われたことによる損失だろう。一部の欧米人たちは、日本民族の古来の「道徳心」の在り方を見直し始めている。かつての天皇制が、日本民族の「道徳教育」に大いに貢献していたことに気が付き始めたのである。「教育勅語」が気持ち悪いという、トンデモナイに日本人たちがいるが、天皇が国民を天皇の子として愛し、国民が天皇を親のように敬う構造を国家体制に持ち込んだのは、紛れもなく「道徳心」を構築する手段だったのである。天皇が国民の「道徳の規範」として、個人の欲による経済の暴走を自制し、更には国家を統一したのである。
 
 左派の人たちは天皇を憎んでいる。しかし戦争が長く続いたのは、天皇制を悪用した政府に問題があったのであり、天皇制そのものが悪だと言う見方は間違っている。現代日本は民主主義でありつつ、天皇は道徳心の象徴として存在し続けている。敗戦国であっても、政府さえ道徳を重んじて国民の方を向いてくれれば、日本はいかようにも良い国になり得たはずである。全ての「悪」を「政府」が作り出している。天皇ではない。
 
 天皇制に変わる欧米風の自由主義は、一見すると聞こえがいいが、規範の存在が全く無く、自らだけで自戒の念を持てるような、優秀な人間は滅多にいない。個人は放っておけば各々が好き勝手に生きるから、人類に規範が必要なのは当然のことなのである。
 ”人間の多様化が社会を豊かにする”と言ったって限度がある、「道徳」という線引きがそこに無ければ、ただの人類の暴走だ。個人に「道徳心」を戒めたり、個人の道徳心を導いたりする役目が、私たちには絶対に必要なのである。人間は好き勝手に生きたがるように見えても、実は正しい規範を示されることを心では望んでいる。幸せは一人で築けないことを知っているし、社会性が幸福を作ることを知っているからこそ、誰もが、「優秀な規範」が欲しいのだ。
 
 その役目を、「皇室」だったり「政治家」が担っている。この「規範」が曖昧だったり、「規範」になる者が頼りなかったりすると、国民は指針を失い、安易な「テレビ」や「芸能人」や「専門家モドキ」に毒される。アメリカのハリウッド映画やら文化が導入されて「アメリカ人になりたい」みたいな日本人が、恥ずかしくもなく沸いたりもする。敗戦後の70年間を、日本人としての規範が完全に奪われたまま進んでしまったことは、国家として非常に危険なことだ。この危険性と脆弱性に、どれだけの日本人が気が付いているだろうか?恥知らずな政治家が誕生する現象は、「規範」の価値が失われたことに原因の一つがある。
 
 世界的に見ても、日本の産業革命(明治維新)が素晴らしかった理由は、人間に「規範」が必要なことを熟知していたからである。昔の日本人は、諸外国のように理想や空想におぼれることなく、極めて現実派だったのだ。だからこそ諸外国に負けなかった。天皇制と称して国家構造に「規範」を組み込み、「道徳と経済」を調和させようと試みた明治維新は、世界に類を見ない、産業革命の歴史だったのである。これは日本人の誇りである。
 
(嘘つきと詐欺師が増えた日本 by 雪華天)
 
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