ソメイヨシノのつぼみが、気の早いものでは紅くなり始めています
花起こしの雨になりそうですね
橿原という地名ですが神武天皇の橿原宮に由来して市名が付けられたというのですが、
それでは橿原宮の橿原はどこからきているのか、
あいにく、勉強不足で、存じません
ただ、白橿だの甘橿(味橿(うまかし)ともいうそうです)だのという地名がありますから、
きっとおいしいドングリが採れる土地だったのでしょう
狩猟採集時代には、ドングリは重要な食料ですものね
橿原をカシワラとよぶ人がいらっしゃるのですが、カシハラと発音するのが正しいようです
どっちでもいいやんと、かつては思っていたのですが、カシワラと言われると、どうもやはり違和感があります
橿原神宮も、ぜひ、カシハラジングウと、古めかしく読んでください
ちなみに、ブドウとワインで有名な大阪府の柏原市はカシワラです
二上山をはさんで東と西によく似た地名があるのもおもしろいですね
以前、橿原・明日香・高取の墳墓は貝吹山山系に広がっているというお話をしたと思うのですが、
じつはすこし外れているのが、有名な石舞台古墳と、その近くにある都塚古墳です
どちらも方墳で、とくに都塚古墳は階段状のピラミッド型だったことがわかっています
石舞台古墳が蘇我馬子の墓、都塚古墳が蘇我稲目の墓と考えられているようです
方墳というあまりヤマトらしくない形、いかにも蘇我氏です
石舞台古墳は、野ざらしの石室が巨大で迫力ありますよね
周囲に桜や花桃が植えてあって、春はほんとうにきれいです
夜桜ライトアップもあります
ところで、貝吹山の北東尾根筋にある小谷古墳ですが、
石室に使われている石は、じつは石舞台古墳よりも大きいんです
そして、こちらも表土がなくなって(これは人為的に壊したといわれている石舞台とはちがって雨で流出したもののようですが)石室が露出しています
(小谷古墳は斜面にあって足場がよくないので、近づくのはあまりお勧めできません)
同じ丘陵地の南側には、益田岩船と呼ばれる巨石があります
(尾根伝いには行けないので、整備された山道に入り直してください)
竹林の中の、一段高いところに木立にうずもれるようにあるのですが、
これが、近づくのに一苦労
とちゅう鎖伝いに斜面をよじ登らなければならなかったり、
ちょっとしたフィールドアスレチックです
しかも、まわりが藪で、巨大すぎてレンズに収まりきらない・・・
上に、大きな四角い穴が二つ、見上げるほどの巨大な石です
何のための巨石なのかは、わかっていませんが
土地柄、おそらく石室の未完成品ではないかと思われます
小谷古墳は7世紀のものだそうです
岩船にしても、あの巨大な石をどうやって運んだんでしょう?
白橿中学校の西隣の細い道を山道に入ると、牽牛子塚(けんごしづか)古墳の裏に出ます
この墳墓は、斉明(皇極)天皇と間人皇女(はしひとのひめみこ)の合葬墓ではないかと考えられています(例によって、宮内庁の決めた「斉明天皇陵」は別のところにあります)
階段状になった八角墳で、凝灰岩の巨石を二か所くりぬいて石室を二つ設けています
巨石に二か所、穴?
岩船にも二つ穴があけられていたような・・・?
岩船と牽牛子塚古墳との距離は500メートルぐらい
なにか、お気に召さなかったのでしょうかねぇ
なにしろ斉明天皇は、土石工事が大好きで、あちこちに石の建造物をつくらせたり、水路を掘らせたりしたようですから、自分のお墓に対するこだわりは相当なものだったと思います
それにしても、硬い石に二つも大きな穴をあけるのですから、大変な労力だったことでしょう
ちなみに、斉明天皇は、天智・天武の母で、入鹿の首がぱーんと飛んだとき(645年乙巳の変、一般には大化の改新といっていますが)には、皇極天皇として位についていました
あんまり土木工事をさせるので、掘らせた水路をのちの世の人は「狂心の溝(たぶれごころのみぞ)」と呼んだそうです
狂心。。。人々のうんざりした顔が目に浮かぶようです
古墳めぐりは、桜から若葉の時期がいちばん
夏は藪蚊が凄まじくなります
周りをもうすこし整備してくれるともっといいのですけどね、橿原市さん
プログレス学習教室は3月21日お休みいたします
プログレス学習教室