《暮らしの土台が揺れるとき》第3話 島民は何を食べてきたのか❓ | 「6」 愛の狩人

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《暮らしの土台が揺れるとき》

第3話「島民は何を食べてきたのか❓」

前回、

「食料危機は、食べ物がなくなった時に始まるのではない。
食べ物を作り続けられる条件が失われ始めた時から、すでに始まっているのではないか❓」

というところまで観てみました。

農家が減る。

肥料や燃料は海外の資源とつながっている。

氣候が安定しない。

その中で、

消費者が買える価格と、
生産者が続けられる価格を、

同時に成立させなければならない。

では、

もう少し時間を遡ってみましょう。

そもそも、

この島で暮らしてきた人たちは、何を食べてきたのでしょう❓

今の私たちが「普通の食事」だと思っているものは、

本当に昔から普通だったのでしょうか❓


今の食卓は、昔からあったわけではない

朝にパンを食べる

牛乳を飲む

肉を食べる

パスタを食べる

ラーメンを食べる

スーパーへ行けば、

世界中の食べ物を一年中買うことができます。

今では何の違和感もありません。

けれども、

百数十年前のこの島には、

今とはかなり違う食卓がありました。

もちろん、

江戸時代の人が全国どこでも同じものを食べていたわけではありません。

都市と農村

海辺と山間部

身分

地域

季節

それによって食は大きく違いました。

むしろ、

違っていることの方が自然だった

と言えるのかもしれません。


江戸の食は「米だけ」ではなかった

江戸時代というと、

「日本人は米を食べていた」

という印象があります。

確かに米は非常に重要でした。

しかし農村部まで含めれば、

実際の食生活はもっと多様でした。

農林水産省の資料によると、

明治初期になっても地方では、

米に麦、雑穀、芋、野菜、海藻などを加えて炊く、

「かて飯」

が広く食べられていました。

都市部では白米の比率が高かった一方、

地方では米だけを主食とする地域ばかりではなかったことも確認できます。

遺跡から出土した江戸時代人の骨を調べた研究からも、

米や野菜に加えて、

海産魚や淡水魚など、

その土地で入手できる食物を組み合わせていたことが示されています。

つまり、

「日本食」という一種類の食事があったというより、

その土地で採れるものを、その土地なりに食べていた。

そんな姿の方が近かったのでしょう。

🔗参考資料
農林水産省「明治初期の食生活」

J-STAGE「伏見城跡遺跡から出土した江戸時代人骨の安定同位体による食性分析」


土地によって、食べるものが違う

ここで私は、

今の感覚とはかなり違うものを感じます。

現在は、

北海道でも沖縄でも、

東京でも地方でも、

かなり似たものを食べられます。

それは物流と保存技術が作った大きな恩恵です。

しかし昔は、

土地によって食べるものが違うことが当たり前でした。

海の近くなら魚

山なら山菜や雑穀

畑で採れる豆や野菜

その土地の水

その土地の氣候

そして季節

食べるという行為が、

土地からそれほど離れていなかった。

これは栄養素の話以前に、

食と土地との距離が近かった

ということなのだと思います。


外国人が驚いた日本人の身体

明治初期、

日本へやって来た外国人の中には、

当時の日本人の身体能力に驚いた人たちがいました。

よく知られているのが、

ドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツにまつわる記録です。

当時の人力車夫や脚夫が、

長い距離を走り続ける。

しかも食事は、

米や麦などの穀類を中心とした、

西洋人から見れば非常に質素なものだった。

この逸話はスポーツ庁の対談でも紹介されており、

当時の車夫の持久力と穀類中心の食事との関係が語られています。

また、ベルツが車夫に肉を含む西洋式の食事を試させたところ、かえって調子を崩し、従来の食事へ戻したという逸話も複数の資料で紹介されています。

ただし、

ここから

「昔の日本食だから超人的な身体になった」

と単純に結論づけることはできません。

食事だけではないからです。

毎日の労働

歩く距離

しゃがむ

担ぐ

引く

押す

田畑を耕す

身体を使う生活そのものが、

今とは大きく違いました。

それでも、

当時の外国人が日本人の持久力に注意を向けたという事実は、

第4話で考える「體の使い方」につながる興味深い材料です。

🔗参考資料
スポーツ庁「アスリートにとって効果的な『米』食とは」


だからといって、江戸の食が完璧だったわけではない

ここは大切です。

昔の日本食をそのまま理想化すると、

別のものを見落とします。

江戸では白米を多く食べるようになった都市部を中心に、

脚気

が大きな問題になりました。

精白によってビタミンB1を多く含む部分が失われる一方、

白米へ強く偏った食事を続けたことが一因です。

明治になっても脚気は深刻な問題として残り、

軍隊でも多数の患者が出ました。

その研究が、

後のビタミン発見や日本の栄養学発展へつながっていきます。

つまり、

昔に戻ればよい、

ということではありません。

昔にも問題はあった。

近代科学によって救われたものも、

間違いなくあります。

ここで観たいのは、

善悪ではなく、

何を得て、何を失ったのか❓

ということです。


明治維新で、「食」も近代化された

明治維新は、

政治制度だけを変えたわけではありません。

服装

教育

軍隊

産業

生活習慣

そして、

食べるもの

にも大きな変化をもたらしました。

明治政府は肉食を奨励し、

畜産にも力を入れました。

都市では牛鍋が流行します。

ただし、

最初から国民全体が肉を日常的に食べるようになったわけではありません。

農村では、

それまでの米、麦、雑穀、芋、野菜などを中心とした食事が長く残りました。

つまり、

明治維新を境に突然すべてが変わったわけではない。

古い食生活の上へ、

少しずつ西洋の食文化が重なっていった。

そう見る方が近いのでしょう。

しかし、

ここで一つ大きな変化が始まります。

食が、

土地と暮らしの中から自然に決まるもの

だけではなく、

国家が栄養や身体を考えて設計するもの

にもなっていったのです。


「栄養」という新しいものさし

近代栄養学の発達によって、

私たちは食べ物を、

たんぱく質

脂質

炭水化物

ビタミン

ミネラル

という形で理解できるようになりました。

これは大きな進歩でした。

病気の原因が分かる。

不足している栄養を補える。

子どもの成長を支えられる。

食糧不足の時代には、

特に大きな意味を持ちます。

しかし、

ここで少し見方が変わります。

それまでは、

「この土地で採れたものをどう食べるか❓」

だったものが、

少しずつ、

「必要な栄養素を何から摂取するか❓」

へ変わっていったとも考えられます。

栄養素が同じなら、

遠くから持ってきてもよい。

別の食品に置き換えてもよい。

そんな考え方も可能になります。

これは便利です。

しかし同時に、

食べ物と土地との関係は、

少しずつ見えにくくなっていきます。


そして、もう一度大きく変わった戦後

二つ目の大きな転換が、

敗戦後です。

終戦直後、

日本は深刻な食料不足に陥りました。

子どもたちにも栄養失調が広がり、

学校給食の再開が急がれます。

米国などからの援助物資を受け、

脱脂粉乳や小麦を使った給食が広がりました。

1954年には学校給食法が制定され、

同じ年の答申では、

当時「米偏重」と考えられていた食生活を改善する目的から、

パン食が奨励されています。

ここは、

「アメリカが余った小麦を日本へ押しつけた」

という一言だけで整理するより、

もう少し丁寧に見る必要があります。

実際に米国などから小麦や脱脂粉乳の援助があり、

パン食普及を後押ししたことは確認できます。

一方で日本側にも、

深刻な食糧不足を解消したい、

子どもの栄養状態を改善したい、

という切実な事情がありました。

つまり、

助けられた面もあれば、
その後の食文化を大きく変える入口にもなった。

両方を見る必要があります。

🔗参考資料
農林水産省「学校給食と米飯給食」


パンが「普通」になった

給食でパンを食べた子どもたちは、

やがて大人になります。

パン

牛乳

肉

油を使った料理

洋食

戦後の経済成長とともに、

それらは特別な食事ではなくなっていきました。

厚生労働省も、

高度経済成長期には、

米を含む穀類の摂取が減少し、

肉類や乳類の摂取が増える、

いわゆる

「食生活の欧米化」

が進んだと整理しています。

農林水産省によると、

米の年間消費量は1962年度の一人118.3kgをピークに減少し、

2021年度には約51kg。

一方で肉類の年間消費量は、

1965年度と比べ約3.8倍になっています。

これは、

良い悪いという話ではありません。

食卓が豊かになった。

栄養状態が改善した。

平均寿命も大きく伸びた。

食べ物を選べるようになった。

これは近代化がもたらした大きな成果です。

一方で、

この島の食卓から米が減り、

海外から運ばれる小麦や飼料、油脂などへの依存が増えました。

食べるものが、

土地から少しずつ遠くなっていったのも事実です。

🔗参考資料
厚生労働省「日本人の栄養と健康の変遷」

農林水産省「数字で学ぶ『日本の食料』」


「昔の食に戻ろう」という話ではない

ここまで書くと、

「では米と味噌汁だけに戻ればいいのか❓」

という話に見えるかもしれません。

そうではありません。

昔には昔の問題がありました。

脚気

栄養不足

食料不足

地域によっては飢饉もあった。

現代の医学や栄養学、

物流、

保存技術によって、

救われている命は非常に多い。

それを捨てる必要はありません。

私が氣になっているのは、

便利になったことで、見えなくなったものはないか❓

ということです。


身体は、栄養素だけでできているのだろうか❓

ここから先は、

事実というより、

私自身が感じている問いです。

人間の身体は、

たんぱく質何グラム、

脂質何グラム、

炭水化物何グラム、

という数字だけで出来ているのでしょうか❓

その人が生まれた土地

水

氣候

そこに育つ植物

季節

何世代にもわたって食べ続けてきたもの。

そうしたものと身体の間には、

私たちがまだ十分理解していない関係もあるのではないか❓

これは、

「日本人だから小麦を食べてはいけない」

という話ではありません。

まして、

特定の食品が病気の原因だと、

根拠なく断定したいわけでもありません。

ただ、

世界中どこに住んでいても、

一年中、

同じものを、

同じように食べる。

そのことが本当に自然なのか❓

そこには一度、

問いを置いてもよいように思うのです。


土地の食から、身体の話へ

そして、

食の歴史を眺めていると、

もう一つのものが見えてきます。

身体です。

江戸末期から明治初期の日本を訪れた外国人が驚いた、

人力車夫や脚夫の持久力。

昔の農民の写真を見ると、

今でいう筋力トレーニングなどしていないのに、

非常に発達した身体をしています。

彼らは、

畑を耕す

米俵を担ぐ

山を歩く

しゃがむ

立つ

押す

引く

毎日の暮らしの中で、

身体を使っていました。

では、

彼らは単に筋肉が強かったのでしょうか❓

それとも、

今の私たちとは、

體そのものの使い方が違っていたのでしょうか❓

私自身、

鍬を土へ入れていると、

不思議な違いを感じます。

力を入れているのに、

「ガチャッ」と止まる時がある。

ところが、

身体と鍬と土が合った時には、

同じ土なのに、

「サクッ」

と入る。

力の大きさだけでは説明しづらい感覚です。

ここに、

昔の島民が自然に身につけていた何かが、

残っているのかもしれません。

次回、

《島民はどう體を使ってきたのか❓》

昔の農民の身体

鍬と土

力を入れることと、

力を通すことの違い。

そして現在、

大リーグの最前線で注目され始めている、

山本由伸選手と矢田先生の身体の使い方。

昔の暮らしと、

最先端のスポーツ。

一見まったく違う二つが、

なぜ同じところへつながって見えるのか❓

今度は、

「食べる」から、

「動く」

へ降りてみたいと思います。

 

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