ブレーキをかけるのではなく、ブレーキのかけ方を教える
こんばんは。
プレイフルコーチの
ヤディです。
日曜の午後、
工事中で行き止まりのある道路。
運転席に座る息子の手が震えている。
助手席の父親は、
腕を組んでその様子を見つめていた。
「ゆっくりでいい。
アクセル踏んでごらん。」
エンジンがうなり、
小さな車体がぎこちなく前へ進む。
カクン、とブレーキの音。
父の体が少し前に揺れた。
「おっと、止まり方ちょっと急だったな。」
「怖くて…早く止めたくなっちゃって。」
父は笑いながら窓の外を指差した。
向こうに赤いコーンがまばらに並んでいる。
「見えるか? あのコーンの手前で止まれるようにしてみよう。
どこでブレーキを踏むか、自分で決めていい。」
息子はうなずきながら、
少し深呼吸をした。
エンジンの音、
風の音、
自分の心臓の音。
それらを頼りに、
再びアクセルを踏んだ。
今度は、静かに減速して、
スッと止まる。
父は何も言わなかった。
ただ、目線だけで
「それだよ」と伝えた。
親子の関係は、
たぶんずっと
こんなものではないでしょうか
親は、安全を確保したい。
子は、速度を上げたい。
どちらも正しい。
でも問題は、
どちらがブレーキを握っているかだ。
「ブレーキをかける」のは
簡単だ。
危ない瞬間に、
止めればいい。
でも、
「ブレーキのかけ方」を
伝えるのは難しい。
それは、
相手に“任せる”ことだから。
踏むタイミングも、
力の加減も、
その人が感じ取るしかない。
親が先にブレーキを
踏んでしまえば、
安全な道は続くだろう。
でも、
“自分の運転感覚”は
育たない。
「ブレーキって、怖いね。」
息子がぼそっと言った。
「止めるのが、怖いの?」
「ううん…止まりたいのに、
間に合わなかったら
どうしようって。」
父は頷いた。
「それは、
誰でも同じだよ。
大事なのはね、
止まりたいと思った時に、
自分の手で踏めること。
誰かに代わりに踏まれると、
心が置いてかれる。」
しばらく静寂。
遠くで、
別の車のエンジン音が響く。
人生でも同じことが起きる。
親が代わりに
ブレーキを踏むと、
子どもは
自分の感覚を失う。
しばらくは安心だけれど、
いざ自分の足で
走ろうとしたときに、
怖くて進めなくなる。
親がせねばならないのは、
止めることではなく、
“止まり方を考える機会”を
渡すこと。
問いを置き、
沈黙で待つこと。
「今、どうすれば安全だと思う?」
「どんな時に、止まらなきゃって感じた?」
問いを投げかけ、
考える余白を残すと、
子どもの中に
小さなセンサーが生まれる。
それが“ブレーキの感覚”になる。
父はルームミラーに映る
自分の顔を見た。
いつの間にか、
息子だけでなく
自分の運転まで反省していた。
仕事でも、
家庭でも、
いつもアクセルとブレーキの間を
行き来している。
誰かのために止まろうとして、
時には自分の足元がもつれる。
そういえば、昔
自分の父も、
似たような顔をしていた気がする。
最後のカーブを曲がり終えると、
息子が笑って言った。
「なんか、ゲームみたいだね。」
「そうだな。」
父も笑った。
「でもな、
このゲーム、終わりがないんだよ。」
息子は笑いながら、
再びアクセルを踏んだ。
慎重に、
でも前へ。
親も子も、
それぞれのハンドルを握っている。
お互いに少しずつズレながら、
それでも、
一緒に進んでいく。
ブレーキのかけ方を伝えるとは、
そんな共同作業のようなものだ。
正解はない。
マニュアルもない。
ただ、
“感じる”ことを忘れない。
親の役割は、
道案内ではなく、
同じ画面の中に立つ
プレイヤーであること。
ゲームのように挑戦し、
ときどき失敗し、
相手のプレイを見て学ぶ。
親が
“プレイヤーであること”を
忘れた瞬間、
ゲームは一方通行になる。
ブレーキを踏む相手と、
踏まれる相手。
それでは、面白くない。
教習所を出て、
夕焼けの中を歩く。
息子がふとつぶやく。
「もう少し速くてもいいかな。」
父は笑って答えた。
「それなら、
次はアクセルの練習だな。」
二人の間に、
風のような沈黙が流れた。
誰も答えを言わないまま、
それでも、
たしかに会話は続いていた。
親も子も
どちらの足にも、
アクセルとブレーキがついている。
踏みすぎてもいい。
怖くてもいい。
大切なのは、
それを“自分のタイミングで”踏めるように
なること。
親の役目はただ、
隣の席から、
その音を静かに聴いていること。
耳を澄まして。
子どもとの対話を取り戻したい
親御さんがいたら、
是非体験セッションにお待ちしてます。
