祝!契約締結!(^_^)v
只今帰宅しました。無事契約は締結しました![]()
連日ハードな商談で疲れていますが・・・、明日も通常通りの出勤ですが・・・、これから自宅で少しだけ祝杯をあげます^^;
この達成感は堪らない。。。ひとりで味わうには勿体ない感動です。。。
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蔦文也監督(池田高校)
愛称「攻めダルマ」。
私が最も好きな指導者です。
徳島県立池田高校野球部の監督として春2度、夏1度の甲子園制覇を遂げ「攻めダルマ」と呼ばれた蔦文也監督です。
監督就任20年目の1971年(昭和46年)夏に甲子園初出場。「さわやかイレブン(たった11人で準優勝、因みに天理高校は投手だけで11人)」旋風を巻き起こし、金属バット採用後は「山びこ打線」の異名を取るパワー野球で高校球界に革命を起こした。
蔦監督は、より遠くへ打球を飛ばす豪快野球で次々に対戦相手をねじ伏せた。高校野球の定義を根底から覆した名物監督だった。
「山あいの子らに1度は大海(甲子園)を見せてやりたい」。1952年(昭和27年)、阿讃山脈と四国山脈に囲まれた池田高の野球部監督に就任すると、まず甲子園出場を目標にした。「そんなことじゃ、いつまでたっても徳島商に勝てんぞ」を口ぐせに、1000本ノックで選手たちを鍛えた。
それから20年かかって、71年夏に甲子園初出場。74年の金属バット採用後は、蔦監督の神髄「攻めまくる野球」を一気に開花させた。
毎日早朝6時から打撃練習を開始。
練習時間は守備1時間に対し、打撃3時間。
「遅い球はいくら打っても意味がないけんのう」と130キロの速球を打てない選手にはバットを持たせなかった。当時300万円をかけた筋力アップ器具を校舎内に設置し、サーキット・トレーニングも重視した。
こうして生まれた「やまびこ打線」は初優勝した82年夏、全国にその名をとどろかせた。サインは「打て」。蔦監督はバントのサインをほとんど出さない強気一辺倒。準々決勝では好投手荒木大輔の早実に20安打を浴びせ、14―2で快勝。広島商との決勝では初回に開始10分で6点を先行しながら「1点ずつ返されたら6―9で負けるんじゃ」と攻めまくり12―2で圧勝。6試合で85安打を放ち甲子園を仰天させた。
絶頂期の蔦監督は講演で「文芸復興期にカルヴァンという人が、運命は努力によって変えられると言っています。ここ一歩で負ける運命を、努力して勝てる運命に変えていこうと思いました」と話したことがある。「努力は無限」とも。
【蔦監督語録】
「この山あいの子供たちに1度、 大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」(1971年夏、監督就任20年目で初の甲子園出場)
「甲子園は1度味をしめると忘れられん。ワシは池田に骨を埋めるつもりじゃ。私学は制約が多いし、他県にもよう出ていかんし・・・」(82年夏、初の全国制覇)
「ワシはバントとかコツコツ当てていく野球は嫌いなんじゃ。野球に理屈はいらん。思い切り、のびのび打てばいいんじゃ」(82年9月、池田ナインを指導しながら)
「ワシがノックバットを離すときは監督を辞める時。ワシャ、死ぬまではなさんぞ」(87年春の甲子園で)
「昔はハングリー精神が、おう盛だった。しかし豊かな時代にそれを求めるのはどうかと思う。ただ選手を甘やかすのはいかん」(92年3月、勇退会見で今後の高校野球の在り方を問われて)
蔦監督は、規約により異動が避けられない県立高校の教員(社会科)でありながら池田高校を40年連続で監督できたのは、蔦の熱意に感化された教育委員会が、蔦を池田高校の全日制と定時制を交互に異動させたためであった。
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