茨城:波情報
何と・・・、5/8以来の
です^^;
GW商戦の忙しさを引きずり、5月の休日は
に恵まれず、今日の
は(小ぶりでしたが)やっと満足出来ました^^
本当は福島辺り(豊間
)まで遠征しようかと思っていましたが、ここ数週間の睡眠不足に負けてしまい、近場で我慢しました。
海の子![]()
時刻 09:30
天気 ![]()
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風向 東北東(サイドオン)
サイズ 腰
気温 20.0℃
水温 18.8℃ 今シーズン初めてブーツを脱ぎました^^
セット選べば、何とか2アクション可能でした。
水温も温かく、久しぶりに満足した
でしたよ^^
次はおまけです^^;
昨日の北茨城での商談帰りに撮影した画像をアップします。
北茨城市役所駐車場からの景色です。
すぐ近くに塩屋岬灯台も見えます。
きっと未開拓の
がたくさん点在してるんだろうな・・・。
次は川尻
です。
爺さんが何かを採取してます・・・。
月初なので明日もお休みします^^
のんびりモードで何処か遠くの
へ出掛けようかな・・・。
wave attack![]()
水戸天狗党の悲劇(-明治維新を待てなかった人々-)
明治維新も目前となった1865年、北陸の港町敦賀(福井県)で、はるばる水戸藩(茨城県)からやってきた武士や農民ら350人余りの大量処刑が行われた。
「天狗党」とよばれた彼らは、なぜ敦賀に来たのか。そして、なぜ処刑されなければならなかったのか。幕末最大の悲劇でありながら意外と知られていないこの事件を水戸と敦賀の地に追ってみた。
【水戸藩と尊王攘夷思想】
「天狗党」は、水戸藩の尊王攘夷派の呼び名である。尊王攘夷とは、天皇を尊び外国の勢力を打ち払おうという思想で、幕末にさかんに唱えられ、多くの志士たちをつき動かした。実は、水戸藩こそが、その尊王攘夷思想の発信地だったのである。
水戸藩の尊王攘夷思想は、2代藩主徳川光圀(水戸黄門として有名)が始めた歴史書「大日本史」の編さんを通じて、次第に形成されていった。それが全国に影響をあたえるようになるのは、強硬な攘夷論者であった9代藩主斉昭(なりあき)の時代である。1829年に藩主となった斉昭は、学者の藤田東湖ら下級の武士を登用し、質素倹約・海防と軍備の充実・藩校弘道館の設置・全領の検地を柱とした積極的な藩政の改革を行った。やがて、ペリーの来航で対外危機が高まると、斉昭は幕府の政治にも関わるようになり、斉昭とその側近の東湖は全国の尊王攘夷派のシンボル的存在となったのである。
【暴走する水戸藩】
しかし、結局幕府は開国を実施。斉昭は大老井伊直弼(いいなおすけ)と対立し、安政の大獄で処罰を受けた。これ以降、藩内では「天狗党」とよばれる尊王攘夷派(斉昭の改革を支持してきた派)と「諸生党」とよばれる保守派(改革反対派)との対立が激しくなっていく。
この一方で、尊王攘夷派の浪士たちによる過激な事件がくり返されるようになった。次の3つの事件は、いずれも水戸浪士が中心になって引き起こした事件である。
1860年:桜田門外の変(大老井伊直弼を襲撃した事件。井伊は死亡)
1861年:第1次東禅寺事件(イギリス公使館を襲撃した事件。館員が負傷)
1862年:坂下門外の変(老中安藤信正を襲撃した事件。安藤は負傷)
【筑波山で兵を挙げる】
全国各地で尊王攘夷運動が活発になる中、藤田小四郎(東湖の子)を中心とする水戸藩の尊王攘夷派の急進グループが、ついに行動を起こした。
1864年(元治元)年3月、攘夷の実行を幕府に迫るとして、筑波山(茨城県)で兵を挙げたのである。この挙兵に際し、藤田は長州藩の桂小五郎(木戸孝允)から軍資金の提供を受けていた。
彼ら天狗党には、水戸藩士ばかりでなく、尊王攘夷運動に共感を覚える農民や他藩の武士なども加わって、たちまち数百人の勢力になった。7月以降、天狗党は幕府の追討軍や諸生党の軍と筑波山や水戸の周辺でしばしば戦うが、次第に追いつめられ、10月末、水戸藩領北部の大子(だいご)に逃れた。
【はるか京都を目指して】
そこで天狗党は、当時京都にいた一橋慶喜(斉昭の子、後の15代将軍)の力を借り、朝廷に尊王攘夷を訴えることを決めた。元家老の武田耕雲斎(たけだこううんさい)を総大将とし、11月1日、1000名余りの大部隊で西をめざして出発したのである。
一行の後を幕府の追討軍がひたひたと追いかけていったが、あえて戦いをしかけることはなかった。また、経路となる各藩にも天狗党を討つようにとの命令が出されていたが、多くの藩は衝突をさけてそのまま見過ごした。なにしろ天狗党は、戦いに慣れているうえ、10数門の大砲と多くの鉄砲を備えていたのである。
結局、下仁田(群馬県)で高崎藩の兵と、和田峠で松本・諏訪藩の兵と戦ったのみで、天狗党は大きな損害を受けることなく京都への道を進んでいった。
【女性の居た天狗党一行】
天狗党が通過した各地の記録によれば、一行には,数人の女性も含まれていたという。さらに和田峠の戦いで5人の女性が長刀(なぎなた)と鎖鎌(くさりがま)で戦ったという記述もある。彼女たちは、子や夫とともに一行に加わった者、あるいは炊事の仕事などにかり出された者たちであった。
ところで、天狗党は筑波山で兵を挙げた当時、各地で無理やり軍資金を集めたり、乱暴を働いたりして、人々の反感をかうことがあった。そのため、一行は規律を厳しくし、泊まった宿にはきちんと金を払っていった。島崎藤村の名作『夜明け前』には、そうして整然と木曽路を通過していった天狗党の姿がえがかれている。
【雪の峠を越え、そして降伏へ】
美濃(岐阜県)に入った天狗党の一行は、中山道を通ってまっすぐ京都をめざそうとしたが、その方面には追討の諸藩の軍勢が集結しており、やむなく越前・若狭(福井県)を回っていくルートをとることになった。すでに暦は12月。荷をつけた馬や大砲をひいて、雪におおわれた難所の峠を越えていくのは不可能かと思われたが、一行は奇跡的に峠を越え、越前に入ることができた。
しかし、越前に入ってからも雪の山道は続き、一行をさんざん苦しめた。一方、計1万数千人ともいわれる諸藩の勢力がせまり、一行が新保(現在の敦賀市内)という小さな村落にたどり着いたころには、一行をすっかり取りかこんでしまった。しかも、たのみにしていた一橋慶喜が、その追討軍の指揮を取っているという。
天狗党の首脳は、ついに、先に進むことをあきらめ、新保のすぐ近くに陣をしいていた加賀藩に降伏した。京都へ向けて出発してから50日余り。一行の長い旅も終わりを告げた。
【残酷な大量処刑】
降伏した天狗党の一行は、まず敦賀の寺に収容され、その後、肥料用のにしんを入れておく蔵に移された。火の気も布団もないうす暗い蔵の中では、厳しい寒さと粗末な食事が原因で、20数人が病死していったという。
間もなく、幕府の若年寄の田沼意尊(老中田沼意次の子孫)による取り調べが行われ、天狗党一行に対する刑が決められた。それは、次のように非常に厳しいものであった。
・死罪352人。武田・藤田ら。
・島流し137人。
・水戸藩渡し130人。
あの安政の大獄でも、死罪となったのはわずか8人だけである。この類を見ない大量処刑に驚いた薩摩藩の大久保利通は、その日記に「このむごい行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示したものである」と記している。
【その後の水戸藩】
天狗党が去った水戸藩では、諸生党が実権をにぎり、武田耕雲斎の一族をすべて死罪にするなど、天狗党側の人々を次々と処罰していった。
しかし、時代は大きく動いていた。
薩摩藩・長州藩は討幕への動きを強め、ついに幕府は滅亡する。水戸藩でも、天狗党側が実権を取り返し、諸生党側に対する血生ぐさい復しゅうが行われた。逃げ出した諸生党は、水戸城をめぐる戦いで敗れ全滅してしまうのである。
こうして水戸藩では、幕末の激しい争いの中で多くの人材が失われ、明治の新政府に1人の高官も送り出すことができなかった。
天狗党の人々が敦賀で処刑されてからちょうど100年後の1965年、水戸市と敦賀市は姉妹都市の提携を結んだ。それ以降、毎年両市の小学生の交流会が行われ、天狗党の悲劇を今に伝えている。
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