『一介の兵士から皇帝に』古代中国・南北朝時代の幕を開けた劉裕とは | メインウェーブ日記

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5世紀から6世紀にかけて、中国では、北方の異民族が建てた王朝と、南へ移動した漢民族の王朝が並立していた

そのうち、南部に相次いで生まれた王朝(宋・斉・梁・陳)のうち、宋を建国したのが劉裕(りゅうゆう)である

貧しい家庭に生まれ軍人となり、ついには皇帝となった劉裕とは、どのような人物だったのだろうか

乱世に生まれた男

劉裕、字を徳輿(とくよ)。幼名を寄奴(きど)

劉裕は、363年に小役人の家庭に生まれたが、出産直後に生母が亡くなり、伯母の手で育てられた
里子を意味する彼の幼名「寄奴」は、このエピソードが由来である

その頃の中国は、三国志で知られる司馬懿の子孫が建国した統一王朝・晋(しん)が滅亡し、皇族の生き残りが長江流域に東晋(とうしん)という政権を樹立していた

劉裕の祖先は、漢の高祖劉邦の弟・劉交(りゅうこう)の子孫であるという言い伝えもあるが、真偽は不明である
それどころか、彼は極端に貧しい家庭で育った

実の父もほどなくして亡くなり、幼い劉裕は継母や弟たちとともに畑を耕し、街で自家製のわらじを売り歩いていた
また彼は学問を嫌い、博打や喧嘩に明け暮れていたともいう

いずれにせよ、若い頃の劉裕はどこにでもいる、うだつのあがらない青年だった
金も地位もない彼が出世の糸口として選んだのは、軍人となることであった

孫恩の乱

399年、孫恩(そんおん)という宗教指導者が、東晋に反乱を起こした

孫恩の信者は、東晋政権に不満を抱く一般庶民や豪族を取り込んでまたたく間に巨大化し、都の安全をおびやかすほどであった

このとき、劉裕が仕えていた武将・劉牢之(りゅうろうし)に、孫恩討伐の命令がくだった

劉裕はこの討伐戦で、わずか数十人の部隊を率いて数千の反乱軍と交戦し、自らも長刀を振るって奮戦する

そして401年、劉裕は都・建康(けんこう)を襲撃した反乱軍を撃退し、進退きわまった孫恩は自害

こうして孫恩の乱は集結し、劉牢之に目をかけられた劉裕の地位や名声は次第に向上していった

桓玄を討つ

孫恩の乱終結後、東晋の有力武将のひとりであった桓玄(かんげん)が、自分の軍団を率いて都へ進撃し、政府の実権を掌握した

劉牢之は、自分の主君を裏切って桓玄に味方したが、政権樹立後は兵権を失い、絶望した彼は自殺する
そして残された劉牢之の部下たちは桓玄から弾圧され、劉裕の仲間たちも次々と殺害されていた

このままでは自分の首もあやうい
桓玄打倒を決意した劉裕は、息をひそめてその機会をうかがっていた

そして403年12月、ついに桓玄は、東晋から禅譲されたという名目で皇帝に即位する

だがその3ヶ月後、劉裕が率いる1700の兵が桓玄にクーデターを起こした
自ら先頭に立って奮戦した劉裕は快進撃を続け、桓玄の率いる本隊を撃破する

そして404年5月、桓玄は逃亡先で討ち取られ、劉裕は東晋王朝を復活させたのである

東晋を乗っ取る

こうして再興されたかに見えた東晋王朝であったが、その実態は劉裕の傀儡政権であった

政治の実権を握った劉裕は、政敵たちを次々に排除
そして南燕(なんえん)や後秦(こうしん)といった、華北に異民族が打ち立てた王朝を討伐し、かつて漢や晋の都であった洛陽と長安を一時的に奪回した

418年に宋公、419年に宋王となった劉裕は、ついに420年、58歳で即位し、宋を建国した

東晋の皇帝・恭帝から禅譲されたという建前ではあるが、実際は簒奪である

一介の貧民にすぎなかった青年が、位人臣を極め、ついに皇帝にのぼりつめたのだった

燃え尽きた晩年

421年、劉裕は、幽閉生活を過ごしていた恭帝を暗殺した

後漢を滅ぼした魏も、魏を滅ぼした晋も、その最後の皇帝を殺害するということはなかった
この前代未聞の暴挙を行った劉裕は、即位以前と比べて明らかに精彩を欠いている

こんな真似をしたのは、王朝の将来を不安視したからであろう
周囲に信頼できる家臣も多くはなく、息子たちはまだ若い
劉裕は孫たちと遊ぶことだけが楽しみの、鬱々とした老後を過ごしていた

ある日劉裕は、故人となったかつての自分の参謀・劉穆之(りゅう ぼくし)を懐かしみ「彼が存命ならば私が天下を治めるのを助けただろうに」「劉穆之が亡くなって私は人に軽んじられるようになった」と漏らしたという

その言葉には、人間を信じられなくなった老人の孤独がにじみ出ており、痛々しいものがある

そして422年、劉裕は古傷がもとで病となり、そのまま回復することなく崩御
宋王朝は479年に滅亡し、斉(せい)という名の王朝に代替わりした

余談だが、宋王朝最後の皇帝・順帝は、禅譲の後、斉の建国者である蕭道成(しょうどうせい)に、幼くして殺害されている

素顔と出自の謎

劉裕は素朴で庶民的な男であった

美女や音楽にも興味を示さず、自分の出自を忘れまいとして、土でできた居宅を皇帝になっても保存していたという

また、彼の人柄を伝えるこんな逸話がある

あるとき、劉穆之が劉裕の悪筆ぶりを嘆き「せめて紙いっぱいに文字をお書きなさい。そのほうが立派に見えますよ」と進言すると、劉裕はそのいいつけを守り、一枚の紙に五、六文字ほどの巨大な字を書きつけて胸を張っていたという

また、前述した通り、彼の一族は漢の高祖劉邦の弟・劉交の子孫であるという言い伝えがあったが、別の記録によると、本当の姓は『項』であったとも伝えられている
彼の本籍である徐州の彭城は、西楚の覇王・項羽が都とした地であった

こうしてみると、劉裕という男は、劉邦と項羽を足して割ったような男である
その経歴と素朴な人柄は劉邦を思わせるし、卓越した武勇は項羽を連想させる

果たして彼は劉邦と項羽、どちらの子孫なのだろうか
信憑性は薄いが、いち中国史ファンとしては妄想をたくましくさせるところである

参考 :
吉川忠夫著『劉裕 江南の英雄 宋の武帝』法蔵館文庫
川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

一介の兵士から皇帝になった劉裕(りゅうゆう)

5世紀から6世紀にかけて、中国では、北方の異民族が建てた王朝と、南へ移動した漢民族の王朝が並立していた

そのうち、南部に相次いで生まれた王朝(宋・斉・梁・陳)のうち、宋を建国したのが劉裕だ

しかし、皇帝即位後は精彩を欠いた

421年、劉裕は、幽閉生活を過ごしていた恭帝を暗殺した

後漢を滅ぼした魏も、魏を滅ぼした晋も、その最後の皇帝を殺害するということはなかった
この前代未聞の暴挙を行った劉裕は、即位以前と比べて明らかに精彩を欠いている

こんな真似をしたのは、王朝の将来を不安視したからであろう
周囲に信頼できる家臣も多くはなく、息子たちはまだ若い
劉裕は孫たちと遊ぶことだけが楽しみの、鬱々とした老後を過ごしていた

ある日劉裕は、故人となったかつての自分の参謀・劉穆之(りゅう ぼくし)を懐かしみ「彼が存命ならば私が天下を治めるのを助けただろうに」「劉穆之が亡くなって私は人に軽んじられるようになった」と漏らしたという

その言葉には、人間を信じられなくなった老人の孤独がにじみ出ており、痛々しいものがある

そして422年、劉裕は古傷がもとで病となり、そのまま回復することなく崩御
宋王朝は479年に滅亡し、斉(せい)という名の王朝に代替わりした

余談だが、宋王朝最後の皇帝・順帝は、禅譲の後、斉の建国者である蕭道成(しょうどうせい)に、幼くして殺害されている


彼の一族は漢の高祖劉邦の弟・劉交の子孫であるという言い伝えがあったが、別の記録によると、本当の姓は『項』であったとも伝えられている
彼の本籍である徐州の彭城は、西楚の覇王・項羽が都とした地であった

こうしてみると、劉裕という男は、劉邦と項羽を足して割ったような男である
その経歴と素朴な人柄は劉邦を思わせるし、卓越した武勇は項羽を連想させる

果たして彼は劉邦と項羽、どちらの子孫なのだろうか

私は、軍の将では優秀(優秀がゆえに他人を信頼しない傾向も)な項羽に憧れる部分もあるが、皇帝を含めた上の将としては有能な人物を使いこなした劉邦への憧れもある



 

 


一介の兵士から皇帝となった劉裕・・・
しかし皇帝即位後は精彩に欠く面も