中国唯一の女帝・則天武后が仕組んだ「藁人形と五寸釘」を使った罠 | メインウェーブ日記

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則天武后は厭勝(えんしょう)を行なったとして、正妻の王皇后と簫淑妃(しょうしゅくひ)を廃位に追い込んだ上、後宮の奥隅にある座敷牢に閉じ込めた
鞭打ち100回の刑に屈さないとみると、手足を切断させた上、酒を満たした中に放り込ませた
則天武后が王皇后と簫淑妃に対して行なった悪行は有名だが、そんな則天武后も連夜の亡霊の出現に恐れをなして都を離れに逃げたという

日本にも厭勝と一字違いの「厭魅(えんみ)」があった
厭魅は呪術で人を呪うこと、または呪い殺すことを指す
その厭魅の事件が8世紀に相次いで起こったが、その多くは冤罪であった

「厭勝」と「厭魅」を巧みに使った権力闘争とその結末について、歴史作家・島崎 晋氏が詳しく紹介する

厭勝を行って宮中を出入り禁止に

呪詛のやり方は一つではなく、藁人形と五寸釘を用い、呪術師に特定の人物を呪詛させるものは厭勝と呼ばれた
同じ呪詛でも厭勝は呪殺まではせず、呪いによって他人を屈服させることを目的とした

厭勝はな競争が繰り広げられた後宮で発覚することが多く、藁人形と五寸釘は十分な物証と見なされた
唐の宮廷で厭勝が発覚したのは、則天武后が皇后に昇格する655年10月より少し前のことだった

則天武后は唐の2代皇帝の後宮と3代皇帝高宗の後宮の両方に在籍経験を持つ稀有な存在だった
上昇志向が異常なまでに強く、正妻の王皇后に従うふりをしながら、後宮でナンバー2の簫淑妃の失寵に成功すると、次は攻撃の矛先を王皇后に向けた

王皇后を正妻の座から引きずり落とすためなら手段を選ばない
自身が腹を痛めて間もない女児を自ら窒息死させ、その罪を王皇后になすりつける
普通の女性には到底真似のできない芸当を則天武后は難なくやってのけた

王皇后への攻撃はさらに続く
王皇后と母の柳氏が後宮に巫者を招き入れ、厭勝を行なった嫌疑をかけられたのである

民間ならともかく、宮中でそれを行なうことは固く禁じられていた
決定的な証拠となる藁人形と五寸釘は発見されなかったが、潔白を証明することもできなかったため、柳氏に対して宮中への出入りを禁止する処分が言い渡され、王皇后は最も頼りにした相談相手を失い、孤立無援の状態に置かれることとなった

殺した2人の亡霊から逃れるために

武后は追撃の手を緩めず、王皇后と簫淑妃を2人ながら廃位に追い込んだ上、後宮の奥隅にある、不潔でじめじめとした座敷牢に閉じ込めた
徹底的に屈辱を味合わせようとの魂胆だったが、高宗が2人に会いに行ったと聞くと計画を変更
高宗に迫り、鞭打ち100回の刑に処すとの詔書を出させた

衰弱した女性が鞭打ち100回も受ければ、途中で命尽きるは必定
王氏は毅然と死を受け入れる態度を示したが、簫氏は腹の虫が収まらず、武后を女狐呼ばわりして、「陛下をたらしこんで、まんまと皇后の座をしとめやがった。私は必ずネコに生まれ代わり、ネズミになったあいつの喉元を食い千切ってやる」と絶叫した

これに腹を立てた武后は鞭打ちを途中で切り上げ、2人の手足を切断させた上、酒を満たした中に放り込ませた

首だけ外に出した状態で放置すること数日
2人が息絶えたことを確認すると、武后はその屍体を切り刻ませた
さらに王氏の姓を蟒氏、簫氏のそれを梟氏に改めさせるなど、2人を辱める行為は死後にまで及んだ

簫氏の粛清には後日談がある
簫氏の報復を恐れた武后はとことんネコを避け、宮中で飼育すること自体を禁じさせた
髪を振り乱しながら血をしたたらせた王氏と簫氏の亡霊が夢中にたびたび出てくるため、宮城の東北の高台にある離宮に移ってみたが、ここでも亡霊の出現がやまない
さすがの武后も亡霊相手ではなす術を知らず、転居したのは亡霊から逃れるためだったと伝えられる

井上内親王の霊魂が祟りをなすことを恐れて皇后の号を復活

よく間違われがちだが、「厭勝」と一字違いの「厭魅」という言葉もある
唐律では10の大罪「十悪」の第5に道「不道」があり、厭魅は巫蠱と並び、不道の一つに数えられている

「不道」とは文字通り、人の道に背くこと
厭魅は呪術で人を呪うこと、または呪い殺すことを指す
唐律の内容は日本にほぼそのまま受け継がれたから、日本でも厭魅は不道の罪として摘発と裁きの対象だった

とりわけ8世紀には厭魅の事件が相次いだ
たとえば、754年には奈良薬師寺の大僧都(官職の上で最上位の僧侶)行信が八幡神宮で主神を務める大神田麻呂(おおがのたまろ)らと共謀して厭魅を行なったとして捕らえられ、中心人物の行信は下野国薬師寺へ配流された

ただし、この事件は厭魅の対象も不明なら動機も不明であった

772年には、第49代光仁天皇の皇后、井上内親王が同天皇を巫蠱した嫌疑で皇后の位を剥奪される事件が起きた
子の他戸(おさべ)親王も皇太子の位を奪われている

井上内親王の悲劇はこれで終わりでなく、773年10月に難波内親王(光仁天皇の同母姉)が死去した際、今度は厭魅した嫌疑をかけられ、母子ともども大和国宇智郡に幽閉
1年半後の4月27日、両名ともに死亡した
状況からして自然死とは考えにくく、自殺か他殺のどちらかである

冤罪であることは公然の秘密であったから、都に天変地異が相次ぐに及んでは朝廷の対応も速く、山部親王(のちの天皇)の体調不良が続く777年12月には遺骨の改葬に加え、その墓を御墓と称し、墓守を置くようにとの命令が光仁天皇から発せられている

800年には皇后の号の復活に加え、御墓は山陵と改称された
その後も慰霊のために霊安寺と御霊神社が創建されるなど、名誉回復と並び、井上内親王の霊魂が怨霊と化し、祟りをなすことが恐れられた
当時権力の中枢にいた人びとには、身に覚えがあったのだろう

(この記事は、現代現代ビジネスの記事で作りました)

則天武后は、中国で唯一の女帝となった人物です

上昇志向・権力欲が強く、ライバルともいえた王皇后らを陥れた悪行でも知られる恐ろしい女性です

ライバルを陥れた悪行、恐ろしい女性では、漢の高祖・劉邦の正室・呂后の悪行・女の執念なども凄まじいものがあります

劉邦の死後、劉邦に寵愛された戚夫人と劉邦の間に生まれた如意を毒殺し、戚夫人の手足・目と耳を奪い、喉をつぶし、厠へ入れたという

鼻だけはつぶさず、死ぬまで厠の臭気をたっぷり吸わせ・・・

この姿が手足を切られ、ブタに似ていてブタ呼ばわりしたという

とても人のすることではない


 

 


中国の悠久の歴史
様々な人間ドラマが生まれてきた
そして中国古典は人間学の宝庫で人生のいろいろなことを教えてくれる
則天武后や呂皇后后についても触れている