人類究極のナゾ、「言葉」とはなにか・・・ | メインウェーブ日記

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明治維新以降、日本の哲学者たちは悩み続けてきた
「言葉」や「身体」、「自然」、「社会・国家」とは何かを考え続けてきた
そんな先人たちの知的格闘の延長線上に、今日の私たちは立っている
『日本哲学入門』では、日本人が何を考えてきたのか、その本質を紹介している
※本記事は藤田正勝『日本哲学入門』から抜粋、編集したものです
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不可思議な「言葉」
一般に「言葉とは何か」ということを考えてみると、二通りの理解が成り立つように思われる

第一に考えられるのは、言葉は、考えるための、あるいは考えたものを表現するための道具である、という理解である
つまり言葉は、あらかじめ存在している思考の内容──それは日本語とか英語といった具体的な言語、自然言語以前のものと言わざるをえないであろう──に形を与えるものであるという考えである

それに対して、第二に、思考は言葉を通してはじめて成立するのであり、言葉は思考の単なる道具ではない、という考え方も成り立つ
つまり、思想は言葉という形をえて、はじめて思想として成立するのであり、それ以前に純粋な思想というものがあるわけではない、という考え方である

この二つの考え方は、それぞれ次のような考えに結びついている

第一の見方は、私たちが日本語なり、英語なり、自分の言語(母語)を使う以前に、つまり、水とか、木とか、土とか、あるいは water とか、treeとか、soil といったことばを使う以前に、言いかえれば、ある事柄にそういう名前をつける以前に、もの、あるいは世界が客観的に区分(分節、articulate)されていて、それぞれに、いわば偶然的な仕方で、たとえば日本語であれば「水」という名前を、英語であれば “water” という名前をつけているのだ、という考えと結びついている
ここでは言葉は、一つの符牒として、つまり道具とみなされている

ものは言葉で分節される
それに対して、第二の見方の方は、ものは言葉以前にあらかじめ分節されているのではなく、言葉とともに、はじめて分節される、つまり言葉によって世界の見え方、あるいは世界の現れ方が決まってくる、という考えと結びついている

具体的な例を挙げて説明することにしたい
たとえば「青い」ということばをとってみると、まず、それに対応するものが世界のなかに客観的に存在しており、日本語を使う人はそれを「青い」ということばで、英語を使う人は “blue” ということばで言い表しているというようにも考えられる

しかし厳密に見てみると、どうもそうではないことがわかってくる
日本語ではたとえば「草木が青々と茂っている」と言ったりするが、実際には緑色のことである
「青信号」といったことばもそうであるが、「青い」という日本語は、緑色系統の色をも指すことばとして使われてきた
黄色(yellow,gelb・・・)にせよ、赤(red,rot・・・)にせよ、それぞれの言語でそれが指す範囲は少しずつ異なっている

別の例を挙げれば、日本語では樹木と材木をともに「木」と表現するが、英語では樹木の方は “tree” 材木の方は “wood” と、ドイツ語では樹木は “Baum” と材木は “Holz” ということばで表現される
そして “wood” や “Holz” ということばは材木という意味だけでなく、森という意味をももっている
それに対して日本語の「木」や「材木」が森という意味で使われることはない

こうした例を手がかりに考えると、以上に挙げた二つの見方のうち、第二の見方の方が、言葉の本質をとらえていると言えるであろう
日本語なら日本語、英語なら英語、ドイツ語ならドイツ語というように、それぞれの言語において、いわば一つの連続体であるような知覚対象(自然)が、独自の仕方で区分(分節)されているのである
つまり、それぞれの言語においてそれぞれの仕方で、知覚対象に切れ目が入れられ、そのそれぞれに独自の名前(青や赤、blue や red)が付けられているのである

(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)

言葉には不思議な力があり、言霊(ことだま)といわれてきた

私もある時、自転車をなくしたが、日々「自転車が戻ってきてくれ」とつぶやいていたら、ある時、理由はわからないが、自転車が見つかったことがあった

後で考えてみると、これが言霊の力なのか!?

小さなことだが、つぶやいていたら現実になったことが他にもあった

 

 


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