天才軍師・諸葛孔明の最大のライバル司馬懿とは何者か? | メインウェーブ日記

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三国時代の天才軍師といわれる諸葛孔明がもっとも苦戦したのが、司馬懿(しばい)だ
天才の最大のライバルは、どんな人物だったのか
諸葛亮と対峙する前、青年期の彼の来歴を、その時代とともに振り返る(井波律子『裏切り者の中国史』より一部編集のうえ引用する)

魏の曹操を支える清流派

後漢王朝(二五~二二〇)は、その成立の当初から外戚と宦官の勢力争いに揺れつづけた

二世紀後半、貪欲な宦官派がヘゲモニーをとるや、ただでさえ不安定な後漢王朝の統治力は加速度的に失われ、中国全土は群雄割拠の騒乱状態におちいった
しのぎをけずる激戦のすえ、三世紀前半、北中国を支配する曹操(そうそう)(一五五~二二〇)の魏、益州(四川省)を支配する劉備(りゅうび)(一六一~二二三)の蜀、江南を支配する孫権(そんけん)(一八二~二五二)の呉の三国分立、三極分化へと、天下の情勢は固まってゆく

三国分立とはいえ、圧倒的優勢を誇ったのは、曹操の魏だった
曹操は、建安十三年(二〇八年)、「赤壁の戦い」で、孫権と劉備の連合軍に大敗を喫し、天下統一こそならなかったものの、政治・文化の中心地である北中国を支配し、南中国の地方政権にすぎない蜀や呉をはるかに凌駕する、強力な政権を保持しつづけた

曹操を群雄のトップに押し上げた軍師の荀イク(じゅんいく[特殊文字])(一六三~二一二)は、もともと後漢末、きびしい弾圧にさらされながら、宦官およびこれと結託する悪徳官僚を批判しつづけた、知識人グループ「清流派」の有力なメンバーであった
曹操こそ乱世をおさめ、太平の世をもたらす人物だと見込んだ荀イクは、初平二年(一九一)、東郡(河南省濮陽県付近)に自立の拠点を得たばかりの曹操の協力者となった

以来、荀イクは、清流派知識人のネットワークを通じて、次々に有能な人材を推挙し、着々と曹操政権の基盤を固めた
こうして荀イクがデザインした強力な頭脳集団に支えられ、曹操は、建安五年(二〇〇)、軍事力にまさるライバルの袁紹(えんしょう)を撃破したのを皮切りに、華北さらには北中国を制覇しえたのだった
その後、政治・経済のテクノクラートとなった清流派出身の知識人は、軍人をおさえて曹操の魏政権の中枢を占めるに至る

荀イクの推薦、曹操の誘い

のちに曹操の子孫の立てた魏王朝の脅威となった、司馬懿(しばい)あざな仲達(一七九~二五一)も、もともとは荀イクに推挙され、曹操の傘下に入った清流派知識人である
父の司馬防(しばぼう)(一四九~二一九)は、後漢末、首都洛陽の知事をつとめた人物であり、若き日の曹操を洛陽北部尉(洛陽北部の警察署長)に推薦したこともあったという
司馬防には、「八達」と称される八人の優秀な息子があった
八人ともあざなに「達」がつくため、こう呼ばれたのである
司馬懿はその二男だった

司馬懿は、曹操が「官渡の戦い」で袁紹を撃破し、華北の覇者となった翌年の建安六年(二〇一)、二十三歳のとき、出身地河内郡(河南省)の地方役人になった
まもなく荀イクの推薦により、曹操は彼を中央に任用しようとした

しぶしぶ曹操の傘下に入る
曹操にしてみれば、昔、父の司馬防に世話になったこともあり、息子の司馬懿を引き立ててやろうという気もあったのだろう
しかし、司馬懿のほうは、権謀術数に富む曹操の政治手法に違和感をもち、病気(風痺すなわち関節麻痺)を口実に召聘に応じなかった
仮病でないかと疑った曹操が人をやって、就寝中の司馬懿を針でつかせたところ、司馬懿はピクリともせず、完璧に関節麻痺を装いとおした

しかし、曹操はいったんこれと目をつけた者は、どうあっても傘下に加えなければ気のすまない性格である
建安十三年(二〇八)、北中国を完全制覇し、丞相となるや、ふたたび司馬懿を召し出し、文学掾に任用しようとした
応じなければ、逮捕も辞さない構えである
かくて司馬懿はやむなく出仕に踏み切ったのだった

『晋書』武帝紀は、司馬懿が曹操政権に加わった最初の風景を、以上のように描いている

演技か本心か定かでないが、司馬懿が欣喜雀躍して曹操の傘下に入ったのでないことだけは、確かだ
ちなみに、このときすでに長兄の司馬朗(しばろう)(一七一~二一七)は曹操政権のスタッフであり、すぐ下の弟の司馬孚(しばふ)(一八〇~二七二)も、まもなく曹操の息子曹植(そうしょく)(一九二~二三二)の文学掾に起用されている

年若く、活躍する機会がない
しぶしぶ出仕したにしては、その後の司馬懿は、官吏として順調に昇進をつづけた
司馬懿に幸いしたのは、曹操の後継者として最有力視される、曹操の息子曹丕(そうひ)(一八七~二二六)とウマが合ったことだった
こうして早くから曹丕と深く結び付いたことが、後年、司馬懿を大きく飛翔させる原動力となる

とはいえ、文武両面にわたって、超一流の人材がひしめく曹操政権において、頭角をあらわすのは、容易なことではなかった

司馬懿は、曹操が群雄の一人として旗揚げした当初から、曹操に協力した荀イクら第一世代の重臣に比べると、格段に年も若く(荀イクより十六歳下)、いわば曹操政権の第二世代に属している
このため、表舞台に出て、はなばなしい活躍をする機会に恵まれないまま、数年が経過した
がまん強く機会を待ったかいあって、とうとう時節到来、司馬懿に出番がまわってくる

曹操への進言、受け入れられず
北宋の歴史家司馬光(しばこう)(一〇一九~一〇八六)が著した編年体の歴史書『資治通鑑』に、司馬懿が本格的に登場するのは、建安二十年(二一五)からである

この年、曹操は大軍を率いて、漢中(陝西省西南部)に依拠する道教系の新興宗教、五斗米道の教祖張魯(ちょうろ)の討伐に向かった
首尾は上々、曹操は張魯を降伏させ、首尾よく漢中を制覇することができた
おりしも、この前年の建安十九年(二一四)、劉備は漢中に隣接する蜀を手中におさめたばかりであった

当時、丞相主簿(しゅぼ)(総務部長格)として、曹操に随行していた司馬懿は、蜀の国内情勢がまだ安定していない今こそ、千載一遇の好機、蜀に進撃すべきだと進言した
「いま漢中が陥落したため、益州ははげしく動揺しております。軍を進め攻撃したならば、必ず瓦解するでありましょう。聖人は天の与えた時にたがってはならぬもの、時機を失ってはなりません」と

しかし、曹操は「すでに隴(甘粛省)を得たのに、このうえまだ蜀を望むとは」と、強引な彼にしてはめずらしく弱気なところを見せ、司馬懿の時宜をえた提案を受け入れなかった
この『資治通鑑』の記述から、けっきょく曹操を動かすことはできなかったものの、建安二十年の時点で、司馬懿の存在感が増しているさまが読み取れる

世代交代で出番が回ってくる
ちなみに、曹操の最良の軍師だった荀イクは曹操とそりが合わなくなり、すでに建安十七年(二一二)、迫られて服毒自殺をしている
晩年に入った曹操は権力欲をつのらせ、後漢王朝最後の皇帝献帝に取ってかわろうとしはじめた
もともと後漢末の清流派知識人が、宦官の専横による政局の腐敗をきびしく糾弾したのは、後漢王朝の浄化を願ったためであった
そんな彼らにはむろん、後漢王朝じたいを否定する発想はない

こうした清流派の伝統を受け継ぐ荀イクが、簒奪の意図をあらわにした曹操と、最終的に対立する羽目になったのも、当然といえば当然である荀イクの死の二年後の建安十九年(二一四)、荀イクに勝るとも劣らぬブレーンだった荀攸(じゅんゆう)(荀イクの従子、一五七~二一四)も病死した

こうして曹操政権を支えた第一世代の重臣が、一人また一人と退場するにつれ、その欠を補うべく、司馬懿が徐々に前面に出てくるわけだ
さらに司馬懿に幸いしたのは、建安二十二年(二一七)、曹丕が魏王曹操の後継者に指名され、太子となったことだった
これによって、曹丕と結び付きの深い司馬懿の展望は、いっきょに開ける。[後略]

(この記事は、現代ビジネスの記事で作りました)

司馬懿仲達は三国時代を終わらせた人物だ

最初は後漢の地方役人から魏に仕え、結果的に魏を裏切り晋王朝を築き、三国時代を終わらせた

最初はしぶしぶ魏に仕えた

司馬家は官位の三公の一つ・司馬の名を姓に賜った名門で仲達自身も「司馬の八達」といわれた秀才

利発で名門の仲達から見れば「成り上がり物」の曹操の魏に仕えることをよしとしなかっかようだ

しかし、曹操の「出来る」仕事ぶり、将としての魅力などにもひかれ、ウマが合った曹丕(曹操の子)がやがて太子、二代目魏王(初代魏王・曹操に継ぐ)となり重用された

元々優秀で時節もあり重用された仲達・・・

曹丕の死後、権力闘争に勝ち、魏から政権を奪い、三国時代を終わらせ、晋王朝を築いた

仲達はフィクション要素もある「三国志演義」では諸葛孔明に翻弄される武将で描かれているが、実際の仲達は数字に強く、頭が切れ、即断即決、権謀術数荷も優れ、冷静で、冷酷な面もあったようだ

 


中国史は人間ドラマの歴史でもある
その中には権謀術数矢いわゆる「裏切り」もある
いわゆる「裏切り者の歴史・中国史」をひもとく
 

 


混迷の三国時代を終わらせ、いわゆる三国志の覇者・勝利者となったのは司馬仲達だ
裏切り者、権謀術数の寝業師のあまり人気のないイメージもある仲達だが、混迷の時代の三国志の覇者に学ぶべき点も多い

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