打撃で川上哲治のライバルとなりえた男・鬼頭数雄 | メインウェーブ日記

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鬼頭数雄は、打撃で川上哲治のライバルになりえる可能性のあった男・・・

 

高校野球(当時は旧制中学野球)で、中京商(現・中京大中京高)の夏3連覇を達成した第19回全国中等学校優勝野球大会の優勝メンバー・・・

伝説の試合・中京商対明石中延長25回にも先発出場・・・

日本大に進学・・・

1936年に、大東京軍ができると、同大を中退し、同球団に入団・・・

 

同年春期から中堅主でクリーンアップのレギュラー・・・

左投げながら二塁も2試合守った最初の選手・・・

(日本プロ野球でわずか3人の珍しい記録)

(他に山田伝、西本幸雄)

 

1937年秋には、22盗塁で、島秀之助と盗塁王のタイトルを分け合う・・・

(同シーズンの打率は、3割2分1厘)

1937年は、春秋通じて年間最多の127安打で戦前の年間最多安打・・・

 

1939年は、3割0分4厘で打撃成績5位・・・

 

1940年は、打率3割2分1厘で首位打者・・・

この年はリーグ打率2割0分6厘の「投高打低」の中、川上哲治と鬼頭のみが打率3割台で、日本プロ野球初のタイトル争いといわれる・・・

結局、川上・3割1分1厘、鬼頭・3割2分1厘で、鬼頭に軍配・・・

なお、この年は所属するライオン(大東京軍から改名)が勝率2割4分0厘で「所属チームの勝率より高い打率の首位打者」・・・

(プロ野球では3人のみの珍しい記録)

(他に岡村俊昭、内川聖一)

この年の124安打は戦前のシーズン最多安打・・・

 

1941年に南海に移籍・・・

この年は打率1割9分9厘に終わる・・・

 

1942年から兵役で、1944年7月に戦死、27歳没・・・(ただし戦死公報が入ったのは、翌1945年5月)

 

小柄ながら柔らかい打撃フォームの川上哲治以上の努力家といわれ、華やかさのないいぶし銀タイプで、もし戦死しなければ、川上と首位打者争いを演じ、川上のライバルとなっていたかもしれない・・・

 

打撃成績・・・

6年、打率2割7分7厘、9本塁打、190打点、80盗塁

首位打者1回、盗塁王1回、

最多安打1回(当時は表彰なし)