私はどちらかといえば、ヨーロッパ志向の人間であり、ヨーロッパに傾倒し、アメリカ調教馬よりヨーロッパ調教馬を高く評価しています。
しかし、そんな私から見てもセクレタリアトの実績・成績・記録などは、アメリカでず抜けており、アメリカ調教馬では、もちろんトップ、ヨーロッパ調教馬に混じっても高い評価をしている馬です。
馬体の毛色が燃えるような赤毛・・・栗毛だったことから、やはりアメリカの伝説的名競走馬、最強を語るときに必ず取り上げられるマンノウォーの異名を継承して2代目「ビッグ・レッド」と呼ばれていました。
セクレタリアトは、1970年にアメリカで生まれました。
セクレタリアトの血統は、父ボールドルーラー母サムシングロイヤル(父プリンスキロ)です。
父ボールドルーラーは、アメリカの大種牡馬、母サムシングロイヤルは、産駒に、セクレタリアトのほかに名種牡馬・サーゲイロード、ファーストファミリー(後に日本に種牡馬として輸入、ホウヨウボーイの父)、ロイヤルタタン(日本へ種牡馬として輸入)などを輩出した優秀な繁殖牝馬です。
セクレタリアトはアメリカのルシアン・ローリン調教師の厩舎に入りました。
セクレタリアトは、1972年の2歳の7月にデビューします。
デビュー戦は、未勝利戦で4着に敗れます。
2戦目の未勝利戦で2着に6馬身差の圧勝をします。
続く3戦目の一般競走を1馬身1/2差で勝つと、サンフォードステークス、ホープフルステークス、フューチュリティステークスをそれぞれ3馬身差、5馬身差、1馬身3/4差で連勝します。
この頃より、アメリカの名馬・マンノーウォーの名を継承し、2代目「ビッグ・レッド」と呼ばれるようになります。
続くシャンペンステークスも1位入線しますが、進路妨害で2着に降着します。
シャンペンステークスに敗れたセクレタリアトでしたが、続いてのローレルフューチュリティ、ガーデンステートステークスを8馬身差、3馬身1/2差で連勝し、9戦7勝2着1回(他に4着1回)で2歳のこの年を終えます。
2歳馬にしてアメリカの年度代表馬となりました。
2歳馬で年度代表馬になるとは、すごいですね。
1973年に3歳のセクレタリアトは、1月にオーナーのクリストファー・チェナリー氏が死去したため、セクレタリアトの種牡馬としての権利が売却され、巨額のシンジケートが組まれました。
この額が英3冠馬のニジンスキーをも上回り、話題となりました。
このシンジケートには、社台ファーム(当時、現在の社台グループ)の総帥・故吉田善哉氏も名を連ねていました。
吉田善哉氏は、アメリカ競馬に傾倒し、ボールドルーラーの血・血統にこだわった生産者であると思っていますが、これにはアメリカの怪物・セクレタリアトの強さなどの存在があったからかもしれません。
セクレタリアトは、ベイショアステークス、ゴーサムステークス(レコード)を4馬身1/2差、3馬身差で連勝すると、続くケンタッキーダービーの前哨戦のウッドメモリアルステークスで3着に敗れます。
しかし本番のアメリカのクラシック3冠の1冠目のケンタッキーダービーは、シャムに2馬身1/2差をつけ、勝ちタイムも1分59秒4のレコードタイムで優勝しました。
それまでのレコードは、かのノーザンダンサーが記録した2分ちょうどで、セクレタリアトの走破タイムは、史上初めて2分を切るタイムでした。
アメリカのクラシック3冠の2冠目のプリークネスステークスは、シャムに2馬身1/2差で快勝しています。
同レースが施行されたピムリコ競馬場の時計計測器が故障しており、記録係が手動計測した1分54秒4(最初は1分55秒でしたが、後に訂正)で、専門誌の計測では、公式タイムと別に、レコードタイムとなる1分53秒4が記録されています。
次にアメリカのクラシック3冠の3冠目・ベルモントステークスに、セクレタリアトは臨みます。
ベルモントステークスは、セクレタリアトの強さを示すベストレースともいえるレースになります。
セクレタリアトは、2分24秒0の驚異のレコードタイムで、2着のトワイスアプリンスに31馬身差(!)をつけて勝ちました。
ここに1948年のサイテーション以来の史上9頭目のアメリカ3冠馬が誕生します。
それにしてもセクレタリアトがベルモントステークスで記録した2分24秒0は驚異的タイムです。
ダート12ハロン(約2400メートル)の世界レコードで、芝に換算すると2分21秒台(!)といわれます。
しかもレースは、楽勝・圧勝の馬なりで・・・。
2分24秒台は、もちろんセクレタリアトだけで、2分25秒台もおらず(!!)、2分26秒台も数頭です。
いかに尋常ではないすごすぎる、驚異的タイムかわかりますね。
もはやこのレコードタイムは更新不可能さえいわれています。
セクレタリアトは、「タイム」誌などの表紙を飾り、アメリカの国民的英雄となりました。
セクレタリアトは、その後、アーリントン招待ステークスで9馬身差で勝ち、ホイットニーハンデで2着に敗れます。
この敗因は後に馬の発熱からといわれています。
続くマールボロカップ招待ハンデをレコードタイムで2着のリヴァリッジ3馬身1/2差で勝ち、重馬場のウッドワードステークスで2着に敗れます。
初代「ビック・レッド」のマンノウォーを冠した初めての芝のレース・マンノウォーステークスをレコードタイムで5馬身差の圧勝をします。
芝のレースでも変わらぬ強さを見せたセクレタリアトは、カナダに遠征し、同じく芝のレース・カナディアン国際チャンピオンシップステークスを6馬身1/2差で圧勝します。
このレースを最後にセクレタリアトは競走馬を引退します。
3歳時のこの年も年度代表馬となっています。
種牡馬となったセクレタリアトは一般に種牡馬としては失敗といわれることが多いようです。
これは周囲の期待があまりにも大きく、同世代のミスタープロスペクターと比較されるためと思われます。
しかし、ブリーダーズカップ・ディスタフ(後のブリーダーズカップ・レディーズクラシック)の勝ち馬でアメリカの年度代表馬のレディーズシークレット、プリークネスステークス、ベルモントステークスのアメリカの2冠馬・リズンスターなどを輩出し、まずまずの成功をしています。
セクレタリアトは父系より母の父として、ストームキャット、エーピーインディ、サマースコール、ゴーンウエスト、セクレト、チーフズクラウンなどを出し成功しています。
セクレタリアトは1989年に死亡しています。
セクレタリアトの走法は、サラブレッドの理想に近いといわれ、日本では日本競馬史上2頭目の無敗の3冠馬となったディープインパクトがセクレタリアトに似た走法といわれたようです。
セクレタリアトは大食漢で、かなりの大型馬でしたが、馬体に欠点はなく、心臓も10キロ弱で、普通の馬の倍以上あるといわれました。
上記の点もセクレタリアトの強さにつながっているといわれています。
私は、セクレタリアトがアメリカの最強馬ではないかと思っています。
(この記事は、サイト「メインウェーブ 」の記事「セクレタリアト 」をそのまま転載したもので、元となる記事には他にもリンクがあります)