メインウェーブ日記

メインウェーブ日記

気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

■■■このブログでは、以下について記載した記事があります


競馬の名馬やエピソードなど、大相撲の名力士やエピソードなど、ビートルズやビートルズのエピソードや名盤など、お小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネス、プロ野球やラグビーなどのスポーツ、各スポーツの名選手やエピソードなど、その他気になるニュースやスポーツなど

(以下はその一例です)


■競馬

(世界の名馬)~コラム(競馬)

シーバード、リボー、ニジンスキー、セクレタリアト、セントサイモン、キンチェム、オーモンド、ネレイデ、ノーザンダンサーなど

例:伝説の史上最強馬・シーバード

16戦全勝無敗と凱旋門賞連覇・リボー

(日本の名馬)~コラム(競馬)

シンボルルドルフ、ディープインパクト、エルコンドルパサー、サイレンススズカ、オグリキャップなど

例:日本競馬史上最強馬・シンボリルドルフ

日本近代競馬の結晶・ディープインパクト

(コラム)~コラム(競馬)

例:サンデーサイレンスの「遺産」とこれからの社台グループ

ノーザンダンサー系の今後

(世界のホースマン)~コラム(競馬)

例:ドルメロの魔術師~フェデリコ・テシオ

(日本のホースマン)~コラム(競馬)

例:天才、変幻自在の騎乗、オッズを変える男・福永洋一


■大相撲の名力士~コラム(大相撲)

雷電為右エ門、谷風梶之助、双葉山定次、大鵬幸喜など

例:史上最強力士・雷電為右エ門

横綱の中の横綱・谷風梶之助


■ビートルズ~コラム(ビートルズ)、音楽・名盤・ロック(ビートルズ)

例:20世紀最高のロックバンド・ビートルズ

ロックの金字塔・・・サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド


■お小遣いサイト~お小遣いサイト

お財布.com、げん玉など

例:おすすめのお小遣いサイト~お財布.com

おすすめのお小遣いサイト~げん玉


■アフィリエイト~アフィリエイト

例:ネットビジネスの代表的なァフィリエイト



●野球やラグビー

特にプロ野球やラグビーについて

■テニスの男女の名選手

(男子)~コラム(スポーツ)

ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドル、ピート・サンプラス、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダルなど

例:4大大会優勝回数史上1位などのロジャー・フェデラー選手

「土の絶対王者」ラファエル・ナダル選手

(女子)~コラム(スポーツ)

シュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワ、クリス・エバート、セリーナ・ウィリアムズなど

例:「年間ゴールデン・スラム」を達成した女王・・・シュテフィ・グラフ選手


■F1の名ドライバー~コラム(スポーツ)

アイルトン・セナ、ミヒャエル・シューマッハー、アラン・プロストなど

例:「音速の貴公子」「最も速かった」アイルトン・セナ選手

「史上最強ドライバー」ミヒャエル・シューマッハー選手


■各種スポーツ


■その他気になるニュースやスポーツなど

現代社会では、多様性やジェンダーをめぐる議論が盛んに行われている

しかし、こうしたテーマは決して新しいものではなく、古代から人々の想像力の中に存在してきた

神話や伝承には、性別の境界を越えた存在や、男女双方の特徴を備えた神・怪物の物語が数多く語られている

今回は、そうした「両性具有」「ジェンダーレス」の姿を描いた神話や伝承をいくつか紹介する


ギリシャ神話

ギリシャ神話の中でも特に有名な両性転換の逸話に、予言者テイレシアスの物語がある

詩人オウィディウス(紀元前43〜紀元後17頃)の『変身物語』によれば、テイレシアスは元来男性であったという

ある時、キュレネー山で交尾中の蛇を見つけた彼は、どういうわけかこれを杖で叩きのめした
すると蛇の祟りか、摩訶不思議にもテイレシアスの肉体は、女性へと変貌してしまった

女性と化して7年ほど経った頃、テイレシアスは再び交尾中の蛇を見つけたので、これを再び打ちのめすと、男に戻ることができた

このテイレシアスの奇妙な体験を聞きつけたギリシャ神話の主神・ゼウスと、その妻・ヘラは、彼に「男と女では、どちらが快楽が大きいのか?」と質問を投げかけたという
(※ゼウスは女の方が快楽は大きい、ヘラは男の方が快楽は大きい、という主張で言い争っていた)

テイレシアスが「女の方が、男の9~10倍ほど気持ちよくございます」と答えたところ、ヘラは激怒し、彼を盲目にしてしまった

これを憐れんだゼウスは、代償として長寿と予言の力を与えたと伝えられている

『変身物語』には、他にも両性の逸話が語られている

それは、ヘルメスとアフロディーテの子・ヘルマプロディトスの物語である

彼は容姿端麗の若者であったが、ある日サルマキスという泉のニンフ(女の妖精)に見初められた

サルマキスは繰り返し言い寄ったが、彼はその誘いを拒み続けた

やがて業を煮やしたサルマキスは、水浴びをするヘルマプロディトスに飛びかかり、無理矢理肉体関係を持とうとする
サルマキスは彼にしがみつき「神よ、どうか私たちを引き離さないでください」と祈った

すると不思議にも二人の肉体は融合し、両性具有の怪人として生まれ変わったという

ヘルマプロディトスの尊厳を完全に無視した、なんとも身勝手な伝承である

日本の伝承

江戸時代の妖怪絵師・鳥山石燕(1712〜1788年)の『今昔百鬼拾遺』には、否哉(いやや)と名づけられた怪異が描かれている

後ろ姿は美しい女性のようであるが、水面に映る顔は醜い男のものであるという

石燕はその由来について「中国の東方朔が奇怪な虫に『怪哉』と名づけたことにちなむ」と記している

現在ではこの妖怪は「いやみ」と呼ばれており「女装した老人」の怪異として描かれることが多い

古代エジプト神話

エジプトといえば乾燥した砂漠の国を思い浮かべるが、古代においてはナイル川の氾濫が豊かな沃土をもたらし、人々の生活を支える源であった

このナイル川を神格化した存在が、ハピ(Hapy)である

その姿は肥満体の男性として表されるが、胸部には奇妙にも、女性のように豊満な乳房が垂れ下がっている
これは、ナイル川の荒々しさと豊かさを男女混合の肉体で表現したとも、単に脂肪で弛んだ乳を描いたものだともいわれる

ハピは古代エジプトで篤く信仰され、氾濫期には人々が供物を川に捧げて豊作を祈願したと伝えられる

こうした古代的儀礼は時代とともに衰退し、20世紀には祝祭としての「ワファー・アン=ニール」が主となった

このように、神話や伝承に描かれた両性具有の姿は、性の境界を越えた存在を通じて、人間が古代から多様性や豊穣、そして生命の根源を探り続けてきたことを示しているといえるだろう

参考 :
『変身物語』『今昔百鬼拾遺』
The Complete Gods and Goddesses of Ancient Egypt
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

現代社会では、多様性やジェンダーをめぐる議論が盛んに行われている

しかし、こうしたテーマは決して新しいものではなく、古代から人々の想像力の中に存在してきた

神話や伝承には、性別の境界を越えた存在や、男女双方の特徴を備えた神・怪物の物語が数多く語られている


神話や伝承に描かれた両性具有の姿は、性の境界を越えた存在を通じて、人間が古代から多様性や豊穣、そして生命の根源を探り続けてきたことを示しているといえるだろう


 

 

 

 


オウィディウスがストーリーテラーとなったギリシア神話の「変身物語」

西太后とは

清朝が衰退へと向かう時代に、帝国の命運を背負った女性がいた

彼女の名は西太后(慈禧太后)

半世紀にわたり実権を掌握し、今も語り継がれている存在だ

本来は皇帝の生母という立場にすぎなかったが、幼帝・同治帝や光緒帝の後見として政権を掌握し、垂簾聴政(すいれんちょうせい)と呼ばれる形で国家を事実上支配した

これは、幼い皇帝の玉座の背後に簾(すだれ)を垂らし、その奥から太后が政務に口を出す制度で、名目上は皇帝が政務を執る体裁を取りながら、実際には太后が決定権を握る仕組みであった

西太后が権勢をふるった時代、清朝は近代列強の圧力に揺さぶられ、国内は混乱と腐敗に覆われていた

そうした激動の時代にあって、西太后は宮廷文化や建築にも強い関心を示し、頤和園の再建など後世に残る事業を行ったことでも知られている

とはいえ、莫大な出費をともなう贅沢な暮らしぶりは当時から批判を集め、彼女は清末を象徴する存在であると同時に「浪費の象徴」としても語り継がれている

では、もし彼女の一日の生活費を現代の価値に換算したら、どれほどの額になるのだろうか


千種類を超える御膳「一口だけ」で撤去される食卓

宮女や太監(宦官)の回想によれば、西太后の食卓はまさに別世界だった

毎日用意される料理は千種類を超え、さらに点心が四百種類ほど加わる。しかもそれらはすべて一流の料理人が腕を振るった最高級品で、金や玉の器に美しく盛り付けられた

しかし、驚くべきはその食べ方である。太后は料理を一口だけ口にすると、すぐに下げさせたという

歴史研究者の金易と沈義玲が、宮女・栄児の証言をもとに編纂した『宫女谈往录(きゅうじょたんおうろく)』には、西太后の食事作法について次のように記されている

如果老太后尝了一口说一句‘这个菜还不错’,就再用匙酌一次,跟着侍膳的老太监就把这个菜往下撤,不能再留第三匙。假如要留第三匙,站在旁边的四个太监中为首的那个就要发话了,喊一声‘撤’!这个菜就十天半个月的功夫都不会露面了。

意訳 :

もし西太后が一口食べて「これは悪くない」と言えば、二口目までは出される。しかし三口目を置いておくことは決して許されず、そばに控える四人の太監の筆頭がすぐに「撤(下げよ)!」と声をかけ、その料理は片づけられた。そして十日から半月は再び食卓に上がることはなかった。

『宫女谈往录』伝膳より

このように、気に入った料理でも西太后は二口しか食さず、三口目を口にすることは決してなかった

どれほどの御馳走が並んでも西太后が口にするのはごくわずかで、残りは廃棄されるか、下賜として宮女や太監の口に入ったという

食材も調理技法も贅の限りを尽くした御膳が、ほとんど手を付けられず消えていく。その光景は、ただの浪費ではなく「権威を見せつけるための儀式」でもあった

西太后の食卓は、味わう場というよりも、彼女の地位と権力を示す舞台だったのである

化粧と衣装も桁違い 日替わりの贅沢

食卓だけでなく、西太后の身支度もまた桁外れの贅沢さを誇っていた

朝の化粧には、外国からの進貢品である高価な紅の化粧料や香粉が用いられ、専属の化粧係がつきっきりで手入れをした

顔に塗る粉ひとつ取っても、石臼で丁寧にすり潰し、綿紙で漉してから温水で湿らせ、体温に近い加減に整えてから使用するという手間のかけ方であった

夜になると、顔や首、腕にまで白粉をつける拭粉(ふくふん)が行われた
眠る時でさえ、すっぴんではなく化粧を整えた姿でいるのが当たり前だったのである

衣装についても同じである
西太后の衣は、絹織物や錦繍、毛皮や宝石を散りばめた刺繍など、最高級の素材と職人技を集めたものばかりであった

しかもそれらは毎日替えられ、着用後は入念に手入れされて再び保管された

こうした化粧品や衣装の維持費は、一日で少なくとも数万元(数十万〜百万円規模)に上ったと考えられる

宮廷を支えた膨大な人件費

千種類を超える料理や四百種の点心、豪奢な衣装や化粧品、そして四六時中仕える太監や宮女たち

これらをすべて合わせると、西太后の一日がいかに莫大な支出であったかが見えてくる

研究者や回想録をもとにした試算では、その生活費は現代に換算して一日あたり数百万元、すなわち日本円でおよそ1〜2億円前後とされる
さらに高めに見積もる説では、千万元規模、すなわち3〜4億円に達したとも言われている

いずれにせよ、常識では考えられない浪費であることに変わりはない

ただし、ここでいう生活費は西太后個人の身の回りの出費だけではなく、宮廷全体の維持・運営にかかる経費である

紫禁城は数千人が働く巨大なシステムであり、どの時代の皇帝や后妃にも莫大な費用がかかっていた
とはいえ、西太后の時代は特に食膳や祭礼に巨費を投じ、その浪費ぶりが際立っていたのである

しかもこれは日常の出費にすぎない
誕生日や節句といった祝祭日になれば支出はさらに跳ね上がり、ときには国家の財政を揺るがすほどの巨額が投じられたという

西太后の一日は、食と装い、そして無数の人々の労力が織り成す巨大な舞台だった

その華やかさは清朝の権威を示す象徴であると同時に、衰退を早めた浪費の証でもあったのである

参考 :『宫女谈往录』金易・沈義玲 『慈禧太后一日的开销大约多少』文学城論壇 他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

西太后とは

清朝が衰退へと向かう時代に、帝国の命運を背負った女性がいた

彼女の名は西太后(慈禧太后)

半世紀にわたり実権を掌握し、今も語り継がれている存在だ

本来は皇帝の生母という立場にすぎなかったが、幼帝・同治帝や光緒帝の後見として政権を掌握し、垂簾聴政(すいれんちょうせい)と呼ばれる形で国家を事実上支配した

これは、幼い皇帝の玉座の背後に簾(すだれ)を垂らし、その奥から太后が政務に口を出す制度で、名目上は皇帝が政務を執る体裁を取りながら、実際には太后が決定権を握る仕組みであった

西太后が権勢をふるった時代、清朝は近代列強の圧力に揺さぶられ、国内は混乱と腐敗に覆われていた

そうした激動の時代にあって、西太后は宮廷文化や建築にも強い関心を示し、頤和園の再建など後世に残る事業を行ったことでも知られている

とはいえ、莫大な出費をともなう贅沢な暮らしぶりは当時から批判を集め、彼女は清末を象徴する存在であると同時に「浪費の象徴」としても語り継がれている

では、もし彼女の一日の生活費を現代の価値に換算したら、どれほどの額になるのだろうか


西太后は贅沢の限りをつくした・・・

研究者や回想録をもとにした試算では、その生活費は現代に換算して一日あたり数百万元、すなわち日本円でおよそ1〜2億円前後とされるさ
らに高めに見積もる説では、千万元規模、すなわち3〜4億円に達したとも言われている

いずれにせよ、常識では考えられない浪費であることに変わりはない

ただし、ここでいう生活費は西太后個人の身の回りの出費だけではなく、宮廷全体の維持・運営にかかる経費である

紫禁城は数千人が働く巨大なシステムであり、どの時代の皇帝や后妃にも莫大な費用がかかっていた
とはいえ、西太后の時代は特に食膳や祭礼に巨費を投じ、その浪費ぶりが際立っていたのである

しかもこれは日常の出費にすぎない
誕生日や節句といった祝祭日になれば支出はさらに跳ね上がり、ときには国家の財政を揺るがすほどの巨額が投じられたという

西太后の一日は、食と装い、そして無数の人々の労力が織り成す巨大な舞台だった

その華やかさは清朝の権威を示す象徴であると同時に、衰退を早めた浪費の証でもあったのである

 

 


清朝末期にひときわ輝きを放った一代の女傑・西太后
その権力・支配・カリスマは皇帝をしのぐともいわれた

性根が悪く、犯罪は朝飯前

欲しいものを手にいれるためなら人殺しも厭わない女性

そんな「毒婦」と呼ばれた女性たちの逸話は、人々の心を惹きつけるようです

日本最大の悪女とも評される「妲己のお百(だっきのおひゃく)」の伝説について取り上げてみたいと思います


スケールの大きな逸話が残る毒婦

「妲己のお百」は、江戸時代中期の宝暦年間(1751〜1764年頃)に生きていた・・・とされる女性です
しかし、その実態は伝説に彩られ、謎に満ちています

それゆえ、後世に「日本最大の悪女」や「日本一の毒婦」として語り継がれるようになりました

お百は、京都(大阪とも)生まれとされ、美貌と才覚を兼ね備えた女性でした
しかし、夫殺し・詐欺・脱獄・藩の乗っ取りなど、悪事の逸話は枚挙にいとまがありません

こうしてお百の悪事の物語は、さまざまなエピソードが加わり、稀に見るスケールの大きな毒婦像が形づくられていったのです

お百の物語は、小説、講談、歌舞伎、落語など多様なジャンルで題材とされ、今なお現代でも落語家や講談師によって語り継がれています

12歳で色茶屋に売られた美貌の才女

お百に関する記録本として代表的なのが、江戸時代の講釈師・馬場文耕の作品といわれる『秋田杉直物語』です

それによると、お百は京都の貧しい家に生まれ、12歳で祇園の色茶屋に売られました
もともと美貌の持ち主であったうえに、愛嬌と聡明さを兼ね備えており、14歳頃には座敷に上がるようになったと伝えられています

さらに、書や能、香道などの教養に通じ、儒学や仏教、詩歌・連歌・俳諧といった学問や文芸にも明るかったといわれています
貧しい環境に育った彼女が、いつどこでどうやって教養を身につけたのかは不明です

おそらく、一を聞いて十を知るような察しのよさや、人を惹きつける天性の才を備えていたのでしょう

そして、そんなお百の利発さに目をつけたのが、大坂の富豪・鴻池善右衛門(こうのいけ ぜんえもん)でした

彼は、お百の美貌と才覚に惚れ込み、身請けをしたと伝えられています

役者との密通がばれ、吉原の揚屋の妻に

ところが、お百は商家の妾として落ち着くことはありませんでした

自分の美貌に自信を持っていたせいか、役者の津打門三郎(津山友蔵)と密通してしまいます

当然ながら、善右衛門は怒ったものの「世間に知られては己やお店の恥」と、二人を夫婦にして江戸に移住させたのでした

おそらく、「この女は危険だ」といった商売人の勘が働いたのかもしれません

ところが、まもなく門三郎は病死してしまいました

そこでお百は、門三郎の実兄の松本幸四郎(後の四代目市川團十郎)を口説き落とそうとします

ところが、幸四郎は拒絶
きっと、お百に関わってはいけない危険な匂いを感じたのでしょう

次に、お百は吉原の揚屋・海老屋の妻になりますが、案の定、そこでもうまくいかずに別れてしまいます

そして今度は、田町にある遊女を置く色茶屋・尾張屋の後妻に収まったのでした

ここで出会ったのが、佐竹藩(久保田藩、秋田藩)の奥家老で、のちに「秋田騒動」の首謀者となる那珂忠左衛門(なか ちゅうざえもん)でした

懲りないお百は、忠左衛門に口説かれて密通し、それが尾張屋に知られると、那珂家に迎え入れられることになります

このように、お百は次々と新たな男性と関係を結んでは、別れを繰り返していました

実に自由奔放で積極的な女性だったようです

色茶屋の後妻から武家の妾に

こうして那珂家の妾となったお百でしたが、当初は周囲から「厳格な武家のしきたりなど身につけていないだろう」と見られていました

しかし、ここでも持ち前の才覚を発揮します

お百は、佐竹家の奥方や、那珂の勤務先である松平隠岐守の奥方に香道を指南し、さらに歌舞伎や遊楽を勧めるなどして、次第に周囲の女性たちの心をつかんでいきました

やがて、「秋田騒動(宝暦事件)」として知られる藩政の混乱が久保田藩で起こります

もともとは銀札(銀の兌換券)をめぐる財政問題でしたが、奥家老の那珂忠左衛門が主君・佐竹義明を骨抜きにして藩を乗っ取ろうと企み、その計画にお百も関わったとされています

お百は「妹」と称する女性を藩主に近づけさせるなど、陰謀を後押ししたと後世で語られました

結局、忠左衛門は処刑されましたが、お百は「自分は奉公人にすぎない」と言い逃れ、罪を免れたと伝えられています

その後、お百は享保の打ちこわしの標的となった悪徳商人・高間伝兵衛の甥である、高間磯右衛門に引き取られました

このように、お百は数えきれないほどの男性遍歴を繰り返しているのですが、その場その場でなんとかなっているのが、彼女の悪運の強さなのかもしれません

奉公先の妻を罠に嵌めて、後釜に座る

『秋田杉直物語』を脚色し、実録風の読本として刊行された『今古実録 増補秋田蕗』では、さらにお百の毒婦ぶりが強烈になっています

その物語におけるお百は、雑魚場の魚売り(漁師とも)の新助の妹で、評判の器量よし

ところがある日、お百は海坊主の怨念に取り憑かれ、すっかり荒々しい性格になり、肩から胸元にかけて赤い痣が生じました

その後、お百は取引先である桑名屋に奉公に入り、主人の徳平衛と密通し、妻のお高を追い出そうと企てます

お百は「お高は番頭と密通し、身ごもった子も番頭の子だ」と言いふらしました

これを信じ込んだ徳平衛はお高を折檻し、庇った奉公人の佐吉とともに、裸のまま雪の中に追い出してしまったといいます

お高は引き取られた先で子供を産むものの、海坊主の祟りなのか、赤子は痣だらけでした

そしてお高は、お百を恨みながら死んでいったのでした

お百の最期

お百の最期については諸説あります

ひとつは秋田騒動に関わり、秋田二十万石を横領しようとした企みが露見して捕縛されたという説です

また、江戸伝馬町の牢に入れられながらも脱獄に成功し、追手の目明しを殺害したという説や、再び捕らえられて佐渡に流されたものの、島守の男をたぶらかして島抜けしたという逸話も残されています

いずれも確かな史実とは言えませんが、「お百ならばやりかねない」と思わせるような迫力を備えている点が興味深いところです

これら数々の物語をめぐって、作家で時代考証家でもある綿谷雪は「女として、人間として、妲己のお百には他に比肩し得ないスケールの大きさと重厚さがある」と評しています

「妲己のお百」は、夏目漱石の『坊ちゃん』や、江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』など、近代文学の中にもその名が登場しています

さらに歌舞伎や講談、映画の題材としても繰り返し取り上げられ、落語のネタとしても人気を集めてきました

実在した人物と伝えられる一方で、実名や経歴を裏づける確かな史料は存在していません

それでもなお、長きにわたり数多くの作品に描かれ続けてきたのは、美貌と才覚を操りながら男たちを渡り歩いた毒婦という妖しい姿が、人々の想像力を惹きつけてきたためかもしれません

参考:平林たい子『平林たい子毒婦小説集 (講談社文芸文庫)』2006年
講談:妲己のお百~十万坪の亭主殺し
文 / 桃配伝子 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

性根が悪く、犯罪は朝飯前

欲しいものを手にいれるためなら人殺しも厭わない女性

そんな「毒婦」と呼ばれた女性たちの逸話は、人々の心を惹きつけるようです

日本最大の悪女とも評される「妲己のお百(だっきのおひゃく)」の伝説・・・


日本史最大の悪女?美貌と才覚で男を翻弄した「妲己のお百」の伝説・・・


お百の最期

お百の最期については諸説あります

ひとつは秋田騒動に関わり、秋田二十万石を横領しようとした企みが露見して捕縛されたという説です

また、江戸伝馬町の牢に入れられながらも脱獄に成功し、追手の目明しを殺害したという説や、再び捕らえられて佐渡に流されたものの、島守の男をたぶらかして島抜けしたという逸話も残されています

いずれも確かな史実とは言えませんが、「お百ならばやりかねない」と思わせるような迫力を備えている点が興味深いところです

これら数々の物語をめぐって、作家で時代考証家でもある綿谷雪は「女として、人間として、妲己のお百には他に比肩し得ないスケールの大きさと重厚さがある」と評しています

「妲己のお百」は、夏目漱石の『坊ちゃん』や、江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』など、近代文学の中にもその名が登場しています

さらに歌舞伎や講談、映画の題材としても繰り返し取り上げられ、落語のネタとしても人気を集めてきました

実在した人物と伝えられる一方で、実名や経歴を裏づける確かな史料は存在していません

それでもなお、長きにわたり数多くの作品に描かれ続けてきたのは、美貌と才覚を操りながら男たちを渡り歩いた毒婦という妖しい姿が、人々の想像力を惹きつけてきたためかもしれません


 

 


処女鮮血パック王女から巨根狂皇后まで

イブが素直な好奇心から禁断の果実をむさぼったことに始まる「人類原罪の歴史」は、
近親相姦、SM、幼児虐殺黒魔術、玉座の娼婦など乱倫の世界へ美女悪女たちの導く!

・3000人の幼児の肉体をすりつぶして作る史上最強の媚薬で太陽王を骨抜き!
・生涯1000人以上の男とベッドを共にする「玉座の上の娼婦」エカテリーナ大帝
・人間ミンチに舌なめずりしたアフリカ女王
・近親相姦は「蜜の味」、ローマ皇帝ネロとその母
・安禄山に後門開発され、SMにはまった楊貴妃
・ヒトラーを殺人狂に導いた姪の絶妙フェラ・テク ほか

高血圧の根本原因は「なまった体」

高血圧と診断された人の約9割は、特別な原因が見当たらない「本態性高血圧」といわれます
しかし、血圧が上がるという症状は、「以前とは体の状態が違うよ!」というサイン
それを何も調べずに原因不明と言ってしまっていいのでしょうか?

実は、本態性高血圧の原因はわかっています
若い頃と比べて、暮らしの中で変化したことを思い浮かべてみてください。よく粗食が健康によいといわれますが、若いときのほうが平気で暴飲暴食できていたはず
それなのに昔に比べて血圧が上がってしまった原因、それは「運動不足」です

血圧が上がるということは、心臓が全身に酸素を送るためにポンプ力を高めているということ
年をとると筋肉や血管、心肺機能が老化し、若い頃と同じポンプ力では酸素が全身に行き届かなくなります
運動不足なら、なおさら体の機能は衰えています
つまり、なまった体こそ、高血圧体質をつくり出しているのです

血圧上昇の犯人!4大要素をチェック
原因① カチカチの筋肉
運動不足で使われなくなった筋肉は、伸縮性が悪くなりカチカチに
周囲を走っている血管を圧迫するようになり、血行が悪化

原因② カチカチの血管
血管が柔らかいと小さなポンプ力でも血液を流せるが、硬いと血液が流れにくく、高いポンプ力が必要になり血圧が上がる

原因③ 心肺機能の衰えた肺
肺活量が少なくなると、代わりに心臓が心拍数を上げることで酸素量を安定させる。結果、心臓が過剰に動くことで血圧が上昇

原因④ 無自覚な水分不足
運動をしないと喉が渇きにくく、水分の摂取量が減りがちに。体内の水分不足により血液がドロドロになり、血液の流れが悪化

POINT
加齢+運動不足による4大要素が高血圧の原因
生活習慣を見直すことから始めよう


【出典】『薬なし減塩なし!1日1分で血圧は下がる』著:加藤雅俊

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


「血圧の薬って一生飲み続けなけるべき?」「薬をやめたいけど、やめるのが怖い!」
そんな人のために、高血圧治療の誤解を解き、薬に頼らずとも血圧を下げられる方法をご紹介
1日1分でもできる降圧ストレッチの実践法です

1582年(天正10年)、織田信長は京都・本能寺にて明智光秀に討たれた

歴史に名高い「本能寺の変」である

織田秀信(おだひでのぶ)は、この2年前に信長の嫡子で後継者であった信忠の長子として生まれ、幼名を三法師といった

本能寺の変では、彼の父・信忠も信長救援のため京都に留まり、やがて自刃して果てた

その後、中国地方から急ぎ引き返した秀吉が「中国大返し」を敢行し、山崎の合戦で明智光秀を滅ぼすと、三法師は歴史の表舞台に姿を現すことになる

織田家の重臣や一族が清洲城に集まり、今後の政権運営と後継者の選定を協議した

これがいわゆる「清洲会議」である

当時、候補として名前が挙がったのは信長の次男・信雄や、三男・信孝であった

しかし、信長は生前すでに嫡男・信忠に家督を譲っていたため、その正統性を継ぐ人物として信忠の遺児・三法師(のちの秀信)が注目されたのである

後世の軍記物語では「秀吉が三法師を担ぎ上げて主導権を奪った」と描かれることが多いが、実際には信長の意思を踏まえて三法師を後継とする方針が既定路線であったとする説が有力である

とはいえ、この決定に際して秀吉が積極的に周旋し、会議の流れを自らに有利に導いたことも確かであろう

こうして三歳の幼子・三法師が織田家の家督を継ぐこととなり、信雄と信孝がその後見役として位置づけられた

この瞬間から、織田政権の実権をめぐる駆け引きが本格化していくのである

三法師をめぐる確執で柴田勝家・信孝が滅亡

こうして三法師は、わずか三歳にして織田弾正忠家の家督を相続した

その領地として与えられたのは近江国中郡20万石にすぎなかったが、本能寺の変直前の織田領は800万石を優に超えていたというから、直轄領としてはあまりにも少なかった

さらに清洲会議の取り決めでは、三法師は安土へ戻ることとされていた
ところが信孝は、彼を岐阜城に留め置いて監視を続けた
おそらく信孝としては「三法師を自由にすれば秀吉に利用される」と考えたのであろう

当然のことながら、これに納得できない秀吉は、必然的に信孝と対立することになる

やがて信孝は柴田勝家と結び、秀吉包囲の構えを取ったが、賤ヶ岳の合戦で敗北

勝家は自害し、信孝も失脚して切腹を強いられ、三法師をめぐる抗争は秀吉の勝利で幕を閉じたのである

秀吉の「関白宣下」で主従関係の立場が逆転

この後、三法師の後見には、織田家の家督代理となった信雄が就いた

しかし信雄は、小牧・長久手の戦いで秀吉と戦った末に和睦し、やがて臣従することになる

1585年(天正13年)、秀吉は朝廷から関白宣下を受け、翌年には豊臣姓を賜り、太政大臣に任ぜられた
こうして織田家の威勢は衰え、豊臣政権の権威が織田を凌駕することとなった

そして、1590年(天正18年)の小田原征伐後の所領替えをめぐる問題で信雄が改易されると、すでに元服して「織田秀信」と名乗っていた三法師は、改めて織田宗家の当主に据えられた

とはいえ、その実態は豊臣政権の庇護を受ける一大名として存続するにすぎなかった

豊臣大名としての生き方を貫いた生涯

1592年(文禄元年)9月、関白豊臣秀次の弟・秀勝が没すると、その遺領である美濃国13万石と岐阜城は秀信に与えられ、やがて「岐阜中納言」と称されるようになった

なお、秀信の「秀」の字は秀吉から賜ったものであり、加えて羽柴姓・豊臣姓も授けられている

このように秀吉は、秀信を旧主筋の子孫として冷遇することなく、むしろ厚遇した
秀信もまた、その厚意に応えるかのように、常に豊臣大名としての立場を貫いた

1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いが勃発すると、豊臣家を守る立場から西軍に属し、岐阜城に籠城して多勢の東軍を相手に奮戦した

しかし兵力差はいかんともしがたく、城は落ちて降伏するに至る

このとき、福島正則が自らの武功と引き換えに助命を嘆願したと伝えられ、秀信の命は救われた

ただし美濃十三万石は没収され、秀信は高野山へと蟄居を命じられることになった

高野山では、かつて祖父・信長が同地を攻めた因縁から当初は入山を拒まれ、ようやく受け入れられた後も冷遇され、安穏な隠棲生活とは程遠い境遇であった

そして、関ケ原から5年後の1605年(慶長10年)5月、秀信は高野山を下り(追放ともされる)山麓に移ったのち、わずか26歳で生涯を閉じた

死因については病没説のほか、一説には自害であったとも伝えられている

織田家の当主でありながら、織田氏に取って代わった秀吉を恨むことなく生き抜いた秀信

その生涯には、どこか清々しさを帯びた清涼の風が吹き渡っているように感じられるのではないだろうか

※参考文献
和田裕弘著『織田信忠―天下人の嫡男』中公新書刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

1582年(天正10年)、織田信長は京都・本能寺にて明智光秀に討たれた

歴史に名高い「本能寺の変」である

織田秀信(おだひでのぶ)は、この2年前に信長の嫡子で後継者であった信忠の長子として生まれ、幼名を三法師といった

本能寺の変では、彼の父・信忠も信長救援のため京都に留まり、やがて自刃して果てた

その後、中国地方から急ぎ引き返した秀吉が「中国大返し」を敢行し、山崎の合戦で明智光秀を滅ぼすと、三法師は歴史の表舞台に姿を現すことになる

織田家の重臣や一族が清洲城に集まり、今後の政権運営と後継者の選定を協議した

これがいわゆる「清洲会議」である

当時、候補として名前が挙がったのは信長の次男・信雄や、三男・信孝であった

しかし、信長は生前すでに嫡男・信忠に家督を譲っていたため、その正統性を継ぐ人物として信忠の遺児・三法師(のちの秀信)が注目されたのである

後世の軍記物語では「秀吉が三法師を担ぎ上げて主導権を奪った」と描かれることが多いが、実際には信長の意思を踏まえて三法師を後継とする方針が既定路線であったとする説が有力である

とはいえ、この決定に際して秀吉が積極的に周旋し、会議の流れを自らに有利に導いたことも確かであろう

こうして三歳の幼子・三法師が織田家の家督を継ぐこととなり、信雄と信孝がその後見役として位置づけられた

この瞬間から、織田政権の実権をめぐる駆け引きが本格化していくのである


豊臣大名としての生き方を貫いた生涯

1592年(文禄元年)9月、関白豊臣秀次の弟・秀勝が没すると、その遺領である美濃国13万石と岐阜城は秀信に与えられ、やがて「岐阜中納言」と称されるようになった

なお、秀信の「秀」の字は秀吉から賜ったものであり、加えて羽柴姓・豊臣姓も授けられている

このように秀吉は、秀信を旧主筋の子孫として冷遇することなく、むしろ厚遇した
秀信もまた、その厚意に応えるかのように、常に豊臣大名としての立場を貫いた

1600年(慶長5年)、関ケ原の戦いが勃発すると、豊臣家を守る立場から西軍に属し、岐阜城に籠城して多勢の東軍を相手に奮戦した

しかし兵力差はいかんともしがたく、城は落ちて降伏するに至る

このとき、福島正則が自らの武功と引き換えに助命を嘆願したと伝えられ、秀信の命は救われた

ただし美濃十三万石は没収され、秀信は高野山へと蟄居を命じられることになった

高野山では、かつて祖父・信長が同地を攻めた因縁から当初は入山を拒まれ、ようやく受け入れられた後も冷遇され、安穏な隠棲生活とは程遠い境遇であった

そして、関ケ原から5年後の1605年(慶長10年)5月、秀信は高野山を下り(追放ともされる)山麓に移ったのち、わずか26歳で生涯を閉じた

死因については病没説のほか、一説には自害であったとも伝えられている

織田家の当主でありながら、織田氏に取って代わった秀吉を恨むことなく生き抜いた秀信

その生涯には、どこか清々しさを帯びた清涼の風が吹き渡っているように感じられるのではないだろうか


 

 


父信長から才覚を認められ、十九歳で織田家家督を継いだ信忠。将来を嘱望されながら本能寺の変で非業の死を遂げた武将の生涯を辿る

「平維盛(たいらのこれもり)率いる平家軍が、夜間に水鳥の羽音に驚いて敵前逃亡した」

この有名な逸話は、鎌倉幕府の編年史である『吾妻鏡』や、軍記物語として語り継がれた『平家物語』に記され、富士川の戦いを象徴する出来事として広く知られている

しかし戦後になって、この逸話に疑義を呈する言説が生まれた

作家の吉川英治は、著作である『随筆 新平家』において、平家方が水鳥の羽音を敵襲と勘違いし逃亡したという筋書きを「余りに幼稚すぎよう」と否定する
それに続いて「平家を走らせたものは、水鳥でなく飢饉である」と、気象統計を根拠とした研究を紹介している

だが、平家方が水鳥の羽音に驚いて逃亡した、というエピソードは完全な創作なのだろうか

また、富士川の戦いの中心人物は源頼朝であったとする『平家物語』や『吾妻鏡』の記述は、本当に史実なのだろうか

『吾妻鏡』に描かれた合戦

鎌倉幕府の正史である『吾妻鏡』は、富士川の戦いを次のように記している※以下意訳

治承4(1180)年8月17日、長年伊豆で流人生活を送っていた源頼朝が、以仁王の令旨を奉じて挙兵した。

8月23日の石橋山の戦いでいったんは平家方に敗れた頼朝だが、安房に落ちのびてから上総、下総、武蔵、相模を転戦
これと並行して、頼朝の命令を受けた甲斐源氏が挙兵した

10月上旬、南関東一帯を制圧した頼朝が鎌倉に入ってから間もなく、武田信義をはじめとする甲斐源氏が駿河に侵攻。富士川の麓で平家方である目代(国司の代理である役人)の橘遠茂を撃破した。

そして10月16日、平維盛を大将とする数万騎の追討軍が駿河国へ入ったとの知らせを受けた頼朝は、20万騎を率いて西へと向かい、18日には黄瀬川において甲斐源氏の軍勢と合流
20日には富士川に軍を進め、追討軍と対峙した。

しかし、その夜半、思わぬ出来事が起きた。奇襲を狙った武田信義の兵に驚いた水鳥たちが一斉に飛び立ち、その羽音に驚いた追討軍が大混乱に陥る。かくして、源氏は戦わずして勝利した。

『吾妻鏡』治承四年十月二十日条より

以上が『吾妻鏡』に描かれた顛末である

戦前から圧倒的に不利だった平家方

急速に勢力を伸ばす頼朝や甲斐源氏に対して、平家方の対応は遅れた

当時の情報伝達の遅さが原因になったのだろうか、9月に入ってからようやく追討軍の編成を始めた平家方は、平維盛を大将、伊藤忠清を次将として21日に新都福原を出発

しかし、出陣の日取りをめぐる内部対立によって出陣はまたも遅れ、京都を発ったのは29日のことであった

この初動の遅れは致命的であった

『平家物語』は以下のように追討軍の様子を語っている

「平家の追討軍は3万騎あまりを率いて、国や宿場ごとに追討の宣旨を読んだが、頼朝の威勢を恐れて従う者はなかった。駿河の清見関まで下ったけれども、国の者は誰も従わない」

『平家物語』「富士川」より

現地に行く間に味方が増えるに違いない、と思っていたであろう追討軍であるが、ふたを開けてみればそうはならなかった
関東や東海における平家方の武士は源氏方に次々と敗れ、京都より東では追討軍に味方する者は誰もいなくなっていたのである

これでは戦にならない
10月の中旬に富士川の西岸に陣を張った追討軍であったが、その様子は惨憺たるものであった

関白・九条兼実の日記『玉葉』治承4(1180)年11月5日の記述によると

「10月18日、追討軍は富士川に陣をしいた。翌19日に決戦するため、軍勢を数えると4000騎あまりであったのに、軍議をしているあいだに数百騎が敵に降ってしまった。その後も兵の脱走は止まらず、追討軍で残っているのはせいぜい2000騎になってしまった。対する武田信義の軍は4万をくだらない。これでは相手にならないと判断した追討軍は兵を引いた」

とある。

また、公家・中山忠親の日記『山槐記』によると頼朝の軍は「数万騎」と記されており、兵数に関しては両軍とも『吾妻鏡』『平家物語』が記した数よりずっと少なかったのだと思われる

「水鳥の逸話」は創作ではなかった?

こうして追討軍は、戦わずして撤退した

この撤退の様子が、有名な「水鳥のエピソード」につながる

『平家物語』では、次のように書かれている

「十月二十三日の夜半、富士の沼に群れていた水鳥が一斉に飛び立ち、その羽音を源氏の襲撃と誤解した平家の兵たちは大混乱に陥り、我先にと逃げ去った。その有様は凄まじく、弓を取る者は矢を忘れ、矢を取る者は弓を忘れ、他人の馬に乗る者もあれば、自分の馬を他人に奪われる者もいた。つないだ馬に跨がれば杭の周囲をぐるぐると駆け回る始末で、近隣から呼び寄せていた遊女たちも踏み倒されて悲鳴をあげるなど、潰走は無秩序をきわめていた。」

『平家物語』「富士川」より

さて、この「平家は水鳥の羽音に驚いて逃走した」という話だが、本当にそんなことがあったのだろうか

作り話めいた逸話にも見えるが、同時代の記録にも類似の記述が存在する

公家・中山忠親の日記『山槐記』治承4年(1180)11月6日条には、次のように記されている

「伊藤忠清らが戦意を喪失していたところ、宿の傍らの池にいた数万の鳥がにわかに飛び立ち、その羽音は雷のように響いた。官軍(平家)は源氏の軍勢が攻め寄せたのだと疑い、夜中に撤退した。」

これは中山忠親が現地で見聞きしたことではなく、戦の事情を知る者から聞いたという伝聞を綴ったものである

だが、少なくとも当時の貴族のあいだではこのような話が広まっていたとみなしてよいだろう

つまり『平家物語』の記述は、まるっきりの創作ではなかったのだ

戦に参加していなかった頼朝

富士川の戦いにはもうひとつ重要な点がある

『平家物語』や『吾妻鏡』では、この富士川の戦いの中心にいたのは源頼朝であったかのように描かれているが、実際はどうだったのだろうか

『玉葉』治承4(1180)年11月5日の記述によると

「10月16日に追討軍は駿河に着いたが、目代をはじめとする有力武士3000騎あまりは、甲斐の武田城を攻撃してことごとく討ち取られてしまっていた。目代以下80人あまりが首をはねられ、道端にさらされたという。10月17日、追討軍に武田から使者が来て、浮島ヶ原という場所で戦いましょう、という提案があった」

とあり、ここには頼朝の名前はまったく出てこない

平家方が戦おうとしていたのも武田信義の軍であり、頼朝は現地にはいなかったのではないだろうか

そもそも、甲斐源氏が頼朝の命令によって挙兵した、という『吾妻鏡』の記述が不可解である

公家・吉田経房の日記である『吉記』は、治承4年(1180年)11月8日に

「11月7日、伊豆国の流人である源頼朝と、甲斐国の住人である武田信義に追討の宣旨がくだされた」

と記している

武田信義が頼朝の影響下にあるのなら、このような書き方になるだろうか
両者は上下の関係にない、お互い自立した別勢力であると世間に見なされていたのではないか

不思議な点は他にもある

『吾妻鏡』治承4(1180)年9月20日の記述には

「土屋三郎宗遠が甲斐へ向かった。頼朝が関東の精鋭を率いて駿河へ赴き、平氏の来陣を待ち受けるので、すぐに北条時政の案内で黄瀬川周辺へ来るようにと武田信義らに伝えたという」

とあるが、前述したように、まだこの時点では征討軍は都を出発していないのである

頼朝が平家方の内部事情を知っていたとも考えられず、そうすると頼朝が甲斐源氏と黄瀬川で合流したという記述も信憑性があやしくなる

プロパガンダとしての『吾妻鏡』

『玉葉』が語るように、史実における富士川の戦いは、甲斐源氏と平家方の追討軍によって行われた合戦であったのだろう

では、なぜ『吾妻鏡』は、それを頼朝の主導で行われたかのように綴っているのだろうか

それには、『吾妻鏡』が持つ政治性がかかわっている

『吾妻鏡』は、「源頼朝が平家を打倒し武家政権を打ち立て、やがてその政治は天命を受けた北条氏に受け継がれる」という構成がなされている

つまり、北条得宗家が執権政治の正当性を主張するためのプロパガンダであり、当然、政権の創始者である頼朝は美化される必要がある

源頼朝と武田信義、そして平家との接点がうまれるこの戦いは、政治的な意図による改ざんにはうってつけだったのではないだろうか
あたかも、頼朝が挙兵前から源氏一族の中心であったかのような書き方ができるからだ

『吾妻鏡』に限らず、政権の公式記録には多かれ少なかれ政治的な意図による脚色や編集が加わるのが常である

富士川の戦いにまつわる数々のエピソードは、その一端を示しているといえるだろう

参考資料 :
『戦争の日本史6 源平の争乱』上杉和彦著 吉川弘文館
『敗者の日本史5 治承・寿永の内乱と平氏』元木泰雄著 吉川弘文館
『中世日本の歴史3 源平の内乱と公武政権』川合康著 吉川弘文館
『平家物語の合戦 戦争はどう文学になるのか』佐伯真一著 吉川弘文館
『現代語訳吾妻鏡1 頼朝の挙兵』五味文彦・本郷和人編 吉川弘文館
『吾妻鏡 鎌倉幕府「正史」の虚実』籔本勝治著 中央公論新社
文 / 日高陸(ひだか・りく) 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「平維盛(たいらのこれもり)率いる平家軍が、夜間に水鳥の羽音に驚いて敵前逃亡した」

この有名な逸話は、鎌倉幕府の編年史である『吾妻鏡』や、軍記物語として語り継がれた『平家物語』に記され、富士川の戦いを象徴する出来事として広く知られている

しかし戦後になって、この逸話に疑義を呈する言説が生まれた

作家の吉川英治は、著作である『随筆 新平家』において、平家方が水鳥の羽音を敵襲と勘違いし逃亡したという筋書きを「余りに幼稚すぎよう」と否定する
それに続いて「平家を走らせたものは、水鳥でなく飢饉である」と、気象統計を根拠とした研究を紹介している

だが、平家方が水鳥の羽音に驚いて逃亡した、というエピソードは完全な創作なのだろうか

また、富士川の戦いの中心人物は源頼朝であったとする『平家物語』や『吾妻鏡』の記述は、本当に史実なのだろうか


プロパガンダとしての『吾妻鏡』

『玉葉』が語るように、史実における富士川の戦いは、甲斐源氏と平家方の追討軍によって行われた合戦であったのだろう

では、なぜ『吾妻鏡』は、それを頼朝の主導で行われたかのように綴っているのだろうか

それには、『吾妻鏡』が持つ政治性がかかわっている

『吾妻鏡』は、「源頼朝が平家を打倒し武家政権を打ち立て、やがてその政治は天命を受けた北条氏に受け継がれる」という構成がなされている

つまり、北条得宗家が執権政治の正当性を主張するためのプロパガンダであり、当然、政権の創始者である頼朝は美化される必要がある

源頼朝と武田信義、そして平家との接点がうまれるこの戦いは、政治的な意図による改ざんにはうってつけだったのではないだろうか
あたかも、頼朝が挙兵前から源氏一族の中心であったかのような書き方ができるからだ

『吾妻鏡』に限らず、政権の公式記録には多かれ少なかれ政治的な意図による脚色や編集が加わるのが常である

富士川の戦いにまつわる数々のエピソードは、その一端を示しているといえるだろう


 

 


紅白の起源ともいわれたる源平の争乱

ホレーショ・ネルソンは、18世紀から19世紀初頭にかけて活躍したイギリス海軍の提督である

サン・ビセンテ岬の海戦、ナイルの海戦、そしてトラファルガーの海戦と、ヨーロッパの運命を左右する数々の決戦で勝利を収め、名声を不動のものとした

国民からは熱烈に支持され、死後には国家的英雄として称えられる存在となった

ネルソンが「イギリス海軍の英雄」と称されるまでの軌跡を、その人生とともに辿っていきたい

幼少期からの勇敢さ

ホレーショ・ネルソンは1758年、イギリス東部ノーフォークの牧師の家に生まれた

11人の兄弟姉妹の6番目で、家を継ぐ権利は長男に限られていたため、自らの道を切り開かねばならなかった

頼りとしたのは海軍軍人であった叔父であり、これが彼を大海原へと導くきっかけとなる

体は虚弱で病気がちだったが、気性は負けん気に満ちていた

1773年、若きネルソンは北極探検に参加し、氷原でホッキョクグマを追いかけて撃とうとしたという

病弱な少年が、命知らずの行動で仲間を驚かせたこの出来事は、後の「恐れを知らぬ提督ネルソン」の原点ともいえるだろう

フランス革命後の快進撃

フランス革命が1789年に勃発すると、その余波は瞬く間にヨーロッパ全体へ広がっていった

革命政府の拡張政策に各国が警戒を強め、ついに1793年、イギリスもフランスに宣戦布告

ここから長きにわたる英仏戦争が始まった

ネルソンは地中海方面で奮戦し、1794年のカルヴィ包囲戦では砲弾の破片を浴びて右目の視力を失った

さらに1797年、カナリア諸島サンタ・クルス・デ・テネリフェ攻撃で激しい銃撃を受け、右腕を切断する重傷を負う

視力と片腕を失いながらも、彼は失意に沈むどころか、ますます戦意を燃やし続けた

そして1798年、エジプト遠征中のナポレオン艦隊がアブキール湾に停泊しているとの報を受けると、ネルソンは夜を衝いて突入する※ナイルの海戦

イギリス艦隊は敵の両舷を挟撃し、仏旗艦ロリアンは大爆発を起こして沈没
ほとんどのフランス艦が壊滅し、ナポレオンの野望に大きな打撃を与えた

ナイルの海戦の大勝利はヨーロッパ全土を震撼させ、ネルソンの名は一躍「祖国の救い主」として轟き、彼はイギリス貴族に列せられることとなった

英雄の愛

若き日のネルソンは、勝気な性格だけでなく整った容貌の持ち主としても知られていた

戦場での輝かしい活躍とともに、彼は瞬く間に英雄視される存在となったが、名声の陰には常に囁かれる噂があった

その中心にいたのが、エマ・ハミルトンである

エマは貧しい家に生まれ、若くして画家や貴族たちのモデルや愛人を経ながら華やかな社交界に登場し、やがて60歳を迎えた駐ナポリ英国大使ウィリアム・ハミルトン卿の妻となった女性だった

1798年、ナイルの海戦で大怪我を負ったネルソンがナポリで療養した際、彼を看病したのがエマである

やがて二人は深い関係に陥り、ついにはハミルトン卿も含めた三人で社交界に姿を現すという異例の関係を築いた

この「奇妙な同盟」はヨーロッパ中の話題となり、英雄ネルソンを称賛する声と同じくらい、非難と好奇の眼差しを集めることとなった

最後の戦い

ネルソンはしばしの間、エマと娘ホレイシアと共に束の間の安らぎを過ごした

しかし1805年、ナポレオンの覇権を賭けた大決戦が迫る

フランスは同盟国スペインの艦隊を糾合し、ヴィルヌーヴ提督の指揮のもと三十三隻の大艦隊を編成

対するイギリスはネルソン率いる二十七隻

数で劣るイギリスに勝機はあるのか、全ヨーロッパが息をのんだ

10月21日、トラファルガー沖

ネルソンは独自の戦術「ネルソン・タッチ」を駆使し、敵の横隊を縦陣で切り裂いて分断した

各個撃破を狙うこの果敢な戦法は、彼の指揮の真骨頂であった

数的不利を覆したイギリス艦隊は連合軍を次々と打ち破り、海戦史に残る大勝利を手にした

この勝利が、その後一世紀にわたりイギリスが「海の覇者」として君臨する礎となった

しかし栄光のただ中で、ネルソンは倒れた。
敵艦ルドゥターブルのマスト上から放たれた銃弾がネルソンの肩を貫き、背骨に達したのである

船室へ運ばれた彼は静かに最期を迎え、「私は義務を果たした」と言葉を残したという
享年47

通常、戦死者は海に葬られるのが慣例だった
だが、国民的英雄ネルソンは異例の扱いを受け、遺体はブランデーに浸されて母国へと運ばれた

帰国時に液体の量が減っていたことから「水兵たちが勇気を授かろうと密かに口をつけた」との噂が広まり、やがてそれは「ネルソンの血」と呼ばれる伝説となった

のちにイギリス海軍の常用酒であるラム酒と結び付けられ、今でもラム酒を「ネルソンの血」と呼ぶことがあるという

トラファルガーの海戦とナイルの海戦で連敗を喫したナポレオンは、ついにイギリス本土への侵攻を断念した

以後、大海原はイギリスのものとなり、その覇権は一世紀以上にわたり揺るがなかった

12歳で海軍に身を投じて以来、幾多の傷を負いながらも最後まで祖国のために戦い抜いたネルソン

その名は今なお「イギリス海軍の英雄」として語り継がれ、海に生きる者たちの心を鼓舞し続けている

参考 :
【ネルソン提督大事典】コリンホワイト(著), Colin White (原名),山本史郎 (翻訳)他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

ホレーショ・ネルソンは、18世紀から19世紀初頭にかけて活躍したイギリス海軍の提督である

サン・ビセンテ岬の海戦、ナイルの海戦、そしてトラファルガーの海戦と、ヨーロッパの運命を左右する数々の決戦で勝利を収め、名声を不動のものとした

国民からは熱烈に支持され、死後には国家的英雄として称えられる存在となった


1805年、ナポレオンの覇権を賭けた大決戦が迫る

フランスは同盟国スペインの艦隊を糾合し、ヴィルヌーヴ提督の指揮のもと三十三隻の大艦隊を編成

対するイギリスはネルソン率いる二十七隻

数で劣るイギリスに勝機はあるのか、全ヨーロッパが息をのんだ

10月21日、トラファルガー沖

ネルソンは独自の戦術「ネルソン・タッチ」を駆使し、敵の横隊を縦陣で切り裂いて分断した

各個撃破を狙うこの果敢な戦法は、彼の指揮の真骨頂であった

数的不利を覆したイギリス艦隊は連合軍を次々と打ち破り、海戦史に残る大勝利を手にした

この勝利が、その後一世紀にわたりイギリスが「海の覇者」として君臨する礎となった

しかし栄光のただ中で、ネルソンは倒れた
敵艦ルドゥターブルのマスト上から放たれた銃弾がネルソンの肩を貫き、背骨に達したのである

船室へ運ばれた彼は静かに最期を迎え、「私は義務を果たした」と言葉を残したという
享年47

通常、戦死者は海に葬られるのが慣例だった
だが、国民的英雄ネルソンは異例の扱いを受け、遺体はブランデーに浸されて母国へと運ばれた

帰国時に液体の量が減っていたことから「水兵たちが勇気を授かろうと密かに口をつけた」との噂が広まり、やがてそれは「ネルソンの血」と呼ばれる伝説となった

のちにイギリス海軍の常用酒であるラム酒と結び付けられ、今でもラム酒を「ネルソンの血」と呼ぶことがあるという

トラファルガーの海戦とナイルの海戦で連敗を喫したナポレオンは、ついにイギリス本土への侵攻を断念した

以後、大海原はイギリスのものとなり、その覇権は一世紀以上にわたり揺るがなかった

12歳で海軍に身を投じて以来、幾多の傷を負いながらも最後まで祖国のために戦い抜いたネルソン

その名は今なお「イギリス海軍の英雄」として語り継がれ、海に生きる者たちの心を鼓舞し続けている


 

 


「常勝将軍」といわれたナポレオンに勝つなどイギリスの国民的英雄・ネルソン提督の大事典

睡眠は人間に不可欠な生理的欲求のひとつである

十分な眠りを欠けば肉体も精神も休まらず、やがて疲労は重大な過失や疾患の原因となる

成人には通常7~9時間の睡眠が必要とされるが、日本人の平均睡眠時間は世界的に見ても短く、慢性的な寝不足が社会問題とされている

こうした「眠り」は、神話や幻想の世界においてもしばしば主題とされてきた

人間の眠りを妨げる妖怪じみた存在から、逆に安眠をもたらす慈しみ深い精霊まで、その姿は多彩である

各地に伝わる「眠り」にまつわる怪異伝承を紹介していく


中東・コーカサス地方における伝承

古代ペルシャ(現在のイラン)は、ゾロアスター教発祥の地として広く知られている

ゾロアスター教は「善と悪の永遠の闘争」を説く宗教であり、後世の神話体系にも大きな影響を与えた
そこに登場する悪魔たちは「ダエーワ」と総称され、あらゆる災厄をもたらす存在として恐れられた

その中でも人間の眠りを支配する存在が、ブーシュヤンスター(Bushyasta)である

聖典『アヴェスター』によれば、彼女は黄緑色の痩せ細った身体と異様に長い腕を持つ女悪魔で、夜明けの頃に人間の枕元へ現れ「眠り続けよ」と囁く

すると人はさらに深い眠りに落ち、目覚めることができなくなるのだという

一見すれば心地よい安眠をもたらす守護者のようにも映るが、夜明けは人々が活動を始めるべき刻である
そこで再び眠りに沈められれば、遅刻や怠惰を招くのは必然であった

ゾロアスター教において早起きは大きな徳目とされていたため、目覚めを妨げるブーシュヤンスターは、人間を怠惰へと堕落させる悪魔として憎まれたのである

一方、隣国アルメニアにも、眠りにまつわる怪異が伝わる

イラン学者ジェームズ・ロバート・ラッセルの著作『Zoroastrianism in Armenia』によれば、ムラプ(Mrapʻ)と呼ばれる悪魔が人間を眠りへと誘う存在として恐れられた

古代アルメニアでは「眠ること」自体が忌むべき行為と考えられていたとされ、その象徴であるムラプは人々にとって不倶戴天の敵とみなされたのである

さらに同書には、悪夢を見せる「クピリク(Xpil(i)k)」や、眠る人間の首を締め上げる「ガボス(Gabos)」など、睡眠にまつわる悪霊の存在が多数記録されている

日本における伝承

天保十二年(1841)に刊行された怪談集『絵本百物語』には、寝肥(ねぶとり)と呼ばれる奇病の記録が見える

それは女性に特有の病とされ、ただ眠っているだけで身体が異常に肥え、やがては百貫を超える巨体へと変貌してしまうという

寝肥に罹った女は稲妻のごとき轟音のイビキをかき、かつての女性的魅力をすべて失い、やがては男から顧みられなくなると描かれている

この「寝肥」は、単なる怪異譚というよりも、嫁いだ後に家事を怠り、寝てばかりいる怠惰な妻を風刺した寓話であったとも考えられる

江戸後期の社会風俗を映し出した、民間的な教訓譚の一端といえるだろう

ギリシャ神話の眠りの神

ギリシャ神話は、世界で最も広く知られる神話体系のひとつである

その物語群には、睡眠を司る神々や怪異の伝承も数多く残されている

眠りそのものを擬人化した神として名高いのが、ヒュプノス(Hyphnos)である

彼は冥界にある館に住み、兄である死神タナトス(Thanatos)と共に暮らしているとされる

タナトスが「絶対の死」を象徴する恐怖の神であるのに対し、弟ヒュプノスは安らぎをもたらす存在であり、人々に優しい眠りを授ける神として敬われた

その力は極めて強大で、いかなる者であっても瞬時に眠りへと誘うことができたという
主神ゼウスすら彼の眠りの力に抗うことはできず、深い眠気に屈してしまったと伝えられている

また、睡眠と並んで語られるのが「夢」である

夢を司る神はオネイロス(Oneiros)と呼ばれ、数多くの精霊的存在がその名の下に従っていた
中でも著名なのが三柱「モルペウス、イケロス、パンタソス」である

モルペウスは「人の姿を伴う夢」を見せる神で、自在にあらゆる人物へと姿を変えることができた

彼は黒檀の寝台に横たわり、ケシの花に囲まれて眠るとされ、その名は麻薬モルヒネの語源となった

イケロスは「動物が現れる夢」を与えるが、それは可愛らしい幻想ではなく、しばしばおぞましい悪夢であったという

パンタソスは「無機物や抽象的な夢」をもたらし、現実離れした幻影を人の脳裏に映し出したと伝えられている

おわりに

古今東西の伝承に登場する「眠りの怪異」は、眠りが単なる生理現象ではなく、人々にとって神秘的で不可思議なものと感じられてきた証ともいえるだろう
睡眠は肉体を癒すと同時に、魂を異界へと導く門でもあった

だからこそ、その奥には悪魔や精霊、あるいは神々の姿が映し出され、物語として語り継がれてきたのである

私たちが今も夢や眠りに不思議な魅力を感じるのは、そうした古代からの感覚を無意識に受け継いでいるからかもしれない

参考 :『アヴェスター』『Zoroastrianism in Armenia』『絵本百物語』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

睡眠は人間に不可欠な生理的欲求のひとつである

十分な眠りを欠けば肉体も精神も休まらず、やがて疲労は重大な過失や疾患の原因となる

成人には通常7~9時間の睡眠が必要とされるが、日本人の平均睡眠時間は世界的に見ても短く、慢性的な寝不足が社会問題とされている

こうした「眠り」は、神話や幻想の世界においてもしばしば主題とされてきた

人間の眠りを妨げる妖怪じみた存在から、逆に安眠をもたらす慈しみ深い精霊まで、その姿は多彩である


古今東西の伝承に登場する「眠りの怪異」は、眠りが単なる生理現象ではなく、人々にとって神秘的で不可思議なものと感じられてきた証ともいえるだろう
睡眠は肉体を癒すと同時に、魂を異界へと導く門でもあった

だからこそ、その奥には悪魔や精霊、あるいは神々の姿が映し出され、物語として語り継がれてきたのである

私たちが今も夢や眠りに不思議な魅力を感じるのは、そうした古代からの感覚を無意識に受け継いでいるからかもしれない


 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編

清朝末期の動乱と西太后の専権

19世紀末、中国の清朝は列強の圧力にさらされ、かつての強大な国力を失いつつあった

アヘン戦争やアロー戦争を経て、外国勢力は次々と中国の港や利権を切り取っていった

こうした衰退の只中にあったのが、清の第11代皇帝・光緒帝(こうしょてい)の時代である

光緒帝は1875年に3歳で即位したが、実権は伯母にあたる西太后が握っていた

西太后は、前の皇帝である同治帝が若くして亡くなったあと、幼い光緒帝を後継に立て、自らが後見人として実権を握った

宮廷では御簾(みす)の奥に座り、皇帝に代わって政務を決裁する「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」という形式がとられた
これは名目上は皇帝が政務を行う姿を保ちつつ、実際には太后が国の方針を決めるやり方であり、西太后はこの仕組みを用いて清朝の政治を思うままに操ったのである

光緒帝が成長した後も、彼女の影響力は揺るがなかった

彼女は自らの権力基盤を守ることを第一とし、皇帝の独自性を強める動きを厳しく警戒した
光緒帝が近代化と政治改革を打ち出すようになると、西太后は危機感を募らせ、その背後にいた側近や妃嬪にまで疑いの目を向けるようになった

後に悲劇の妃となる珍妃(ちんひ)が生きたのは、こうした緊張した時代であった

列強の圧迫と国内の改革のせめぎ合い、その板挟みの中で皇帝の最愛の妃となり、やがて権力闘争に巻き込まれていくのである


光緒帝に最も愛された才色兼備の「珍妃」の素顔

珍妃は、満洲八旗の名門・他他拉氏(タタラし)の出身で、1876年に生まれた

父は戸部右侍郎の長叙、母は侍妾の趙氏であった
姉の瑾妃(きんひ)とともに、1889年の「選秀女」と呼ばれる宮廷の后妃選抜に参加し、姉は瑾嬪、妹の珍妃は珍嬪に任じられた
わずか13歳の時である

宮中に入った珍妃は、ただ美しいだけではなかった
書や絵を得意とし、囲碁にも通じ、さらには洋風の文化にも関心を示した

当時、写真機は中国でまだ新しいものであったが、珍妃はこれをいち早く手に入れ、宮中に導入したと伝わる

宮中でカメラを持ち込むこと自体が極めて異例であり、彼女の新しいものを恐れぬ気性がうかがえる

こうした彼女の個性は、光緒帝の心を強く惹きつけた

帝はもともと西太后の強い支配のもとで自由を奪われがちであったが、珍妃と過ごす時間の中で安らぎを見いだしたとされる

珍妃は帝の身近にあって日常を共にし、ときには政治の在り方についても意見を述べ、改革への意欲を後押しした

一方で、性格が穏やかで控えめだった姉の瑾妃とは対照的に、珍妃は活発で物怖じせず、時に言葉にとげを含むこともあった

だが光緒帝にとっては、他の誰よりも自分を理解してくれる存在であり、最も寵愛した后妃であった

若くして才色を兼ね備え、時代の新しい風を取り入れようとした珍妃

彼女の存在は、閉塞した宮廷においてひときわ異彩を放っていたのである

西太后との確執と幽閉生活

入内当初、珍妃はその書の腕前や機知を西太后にも気に入られ、しばしば代筆を任されるほどであった

しかし、光緒帝からの寵愛が際立つにつれて、次第に西太后から疎まれるようになっていった

珍妃は光緒帝とともに新しい国づくりを夢見ており、帝の改革への意欲を支えていた
しかし、西太后にとってはこれは危険な兆しであった。皇帝の意思が強まり、自身の支配が揺らぐことを恐れたからである

やがて珍妃の行動は「宮廷規範を乱すもの」として糾弾されるようになる

光緒20年(1894年)、珍妃が懐妊3ヶ月だったとき、西太后は彼女に廷杖の刑(裸での棒打ち)を科した
めった打ちにされた珍妃は流産し、以後は婦人科の病に悩まされることとなる

この事件に連座し、珍妃に仕えていた宦官や女官たち、数十名までもが処刑され、彼女の周囲は徹底的に粛清された

さらに、珍妃の兄が官職売買に関わったとされる事件が発覚すると、西太后は珍妃の宮殿を徹底的に調べ、帳簿を押収
これを口実に珍妃は一時、身分を「貴人」に降格される屈辱を受けた

決定的な転機となったのは、1898年の「戊戌(ぼじゅつ)の政変」である

光緒帝は、康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)といった改革派の学者を登用し、教育制度や官僚制、軍備、産業に至るまで大規模な改革を宣言した(戊戌の変法)

その構想は、日本の明治維新にも比せられる「立憲君主制を志向した近代化改革」であり、皇帝の権威を保ちながらも清朝を近代国家へと転換させようとする試みであった

珍妃も帝を励まし、背後から支えたとされる

しかし、この急進的な改革は保守派の強い反発を招き、西太后はクーデターを断行した

こうして光緒帝は北京の離宮、瀛台(えいだい)に幽閉され、改革派の要人たちは次々と粛清されてしまった
この改革はわずか103日間しか続かなかったため、「百日維新」とも呼ばれている

珍妃もまた連座し、冷宮の一つとされた「北三所」と呼ばれる一室に閉じ込められた
※冷宮(らんごん)とは、皇帝の寵愛を失った妃嬪を幽閉するためにあてられた区画の総称で、紫禁城内の空き殿舎や一室が、その都度「冷宮」として使われた

かつて改革を語り、光緒帝と未来を夢見た才女は、暗い冷宮の中で孤独に日々を過ごすことを強いられたのである

「義和団の乱」勃発

1900年夏、北京の都は戦火に包まれていた

当時、中国各地では外国勢力の横暴やキリスト教布教への反発から、民衆が「義和団」と呼ばれる集団を結成し、排外運動を繰り広げていた

やがてこの蜂起は「義和団の乱」と呼ばれ、勢いを増して北京にまで押し寄せたのである

西太后はこれを利用できると考え、一時は義和団に肩入れして列強に宣戦を布告した
だが義和団は統制を欠き、暴徒化

怒った列強は、八カ国連合軍を編成して進軍し、北京城下へと迫ったのである

形勢不利と見た西太后は、やむなく光緒帝を伴って西安への逃亡を決断した

その出立を前に、長年疎ましく思ってきた珍妃の処遇が問題となった

そして西太后は、ついに処刑を命じたのである

名目としては「幽閉中に意見を述べて西太后を怒らせたため」という説や、「もし敵に捕らえられ辱められては皇室の面目に関わる」として殉節を理由に処刑が命じられたとも伝わる

珍妃の最後 井戸に消えた若き命

実行命令を受けたのは、宦官の崔玉貴(さいぎょくき)たちであった

珍妃は幽閉されていた北三所から呼び出され、夜明け前の静まり返った宮中を連れ出された

着いた先は、紫禁城の一角にある古井戸の前だった

井戸の石枠には苔がびっしりと生え、長いあいだ使われていなかったせいで、周囲にはひんやりとした湿気が漂っていたという

珍妃は当時、まだ24歳の若さであった

珍妃は最期に「一度だけ老仏爺(西太后)に会いたい」と願ったが、その望みは聞き入れられなかったという

井戸の縁に追い詰められた珍妃は、崔玉貴の手で突き落とされ、さらに石が投げ込まれて命を絶たれたと伝えられる

宮廷にあって才色兼備と称えられ、光緒帝からも厚く寵愛されていたが、その命は理不尽に断たれたのである

翌日、井戸は石と土で封じられ、表向きには「珍妃は病没した」との風聞が流された
幽閉中の光緒帝は、最愛の妃の死をただちに知ることもできなかった

一年後、清が北京に戻ると、西太后は世論を憚り、珍妃の遺骸を井戸から引き上げさせた

遺骨は北京西郊の田村に仮葬され、のち1913年、光緒帝の陵墓である崇陵の妃園寝(皇帝の妃を葬る区画)へ改葬された

死後には「恪順皇貴妃」の諡号が与えられたが、それはあまりにも遅い名誉回復であった

現在、故宮を訪れると「珍妃井」と呼ばれるその井戸が残されている

ただし井戸は後世に縮小・改修されており、珍妃が落とされた当時の姿そのままではない

それでも、この場所が若き妃の最期の舞台であったことに変わりはない

皇帝に寄り添い、改革を後押ししながらも、権力の渦に翻弄されて命を絶たれた珍妃の悲劇は、今なお語り継がれている

参考 : 『清史稿』王照『方家園雑詠紀事』『清実録 徳宗景皇帝実録』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

清朝末期の動乱と西太后の専権

19世紀末、中国の清朝は列強の圧力にさらされ、かつての強大な国力を失いつつあった

アヘン戦争やアロー戦争を経て、外国勢力は次々と中国の港や利権を切り取っていった

こうした衰退の只中にあったのが、清の第11代皇帝・光緒帝(こうしょてい)の時代である

光緒帝は1875年に3歳で即位したが、実権は伯母にあたる西太后が握っていた

西太后は、前の皇帝である同治帝が若くして亡くなったあと、幼い光緒帝を後継に立て、自らが後見人として実権を握った

宮廷では御簾(みす)の奥に座り、皇帝に代わって政務を決裁する「垂簾聴政(すいれんちょうせい)」という形式がとられた
これは名目上は皇帝が政務を行う姿を保ちつつ、実際には太后が国の方針を決めるやり方であり、西太后はこの仕組みを用いて清朝の政治を思うままに操ったのである

光緒帝が成長した後も、彼女の影響力は揺るがなかった

彼女は自らの権力基盤を守ることを第一とし、皇帝の独自性を強める動きを厳しく警戒した
光緒帝が近代化と政治改革を打ち出すようになると、西太后は危機感を募らせ、その背後にいた側近や妃嬪にまで疑いの目を向けるようになった

後に悲劇の妃となる珍妃(ちんひ)が生きたのは、こうした緊張した時代であった

列強の圧迫と国内の改革のせめぎ合い、その板挟みの中で皇帝の最愛の妃となり、やがて権力闘争に巻き込まれていくのである


西太后との確執と幽閉生活

入内当初、珍妃はその書の腕前や機知を西太后にも気に入られ、しばしば代筆を任されるほどであった

しかし、光緒帝からの寵愛が際立つにつれて、次第に西太后から疎まれるようになっていった

珍妃は光緒帝とともに新しい国づくりを夢見ており、帝の改革への意欲を支えていた
しかし、西太后にとってはこれは危険な兆しであった。皇帝の意思が強まり、自身の支配が揺らぐことを恐れたからである

やがて珍妃の行動は「宮廷規範を乱すもの」として糾弾されるようになる

光緒20年(1894年)、珍妃が懐妊3ヶ月だったとき、西太后は彼女に廷杖の刑(裸での棒打ち)を科した
めった打ちにされた珍妃は流産し、以後は婦人科の病に悩まされることとなる

この事件に連座し、珍妃に仕えていた宦官や女官たち、数十名までもが処刑され、彼女の周囲は徹底的に粛清された

さらに、珍妃の兄が官職売買に関わったとされる事件が発覚すると、西太后は珍妃の宮殿を徹底的に調べ、帳簿を押収
これを口実に珍妃は一時、身分を「貴人」に降格される屈辱を受けた

決定的な転機となったのは、1898年の「戊戌(ぼじゅつ)の政変」である

光緒帝は、康有為(こうゆうい)や梁啓超(りょうけいちょう)といった改革派の学者を登用し、教育制度や官僚制、軍備、産業に至るまで大規模な改革を宣言した(戊戌の変法)

その構想は、日本の明治維新にも比せられる「立憲君主制を志向した近代化改革」であり、皇帝の権威を保ちながらも清朝を近代国家へと転換させようとする試みであった

珍妃も帝を励まし、背後から支えたとされる

しかし、この急進的な改革は保守派の強い反発を招き、西太后はクーデターを断行した

こうして光緒帝は北京の離宮、瀛台(えいだい)に幽閉され、改革派の要人たちは次々と粛清されてしまった
この改革はわずか103日間しか続かなかったため、「百日維新」とも呼ばれている

珍妃もまた連座し、冷宮の一つとされた「北三所」と呼ばれる一室に閉じ込められた
※冷宮(らんごん)とは、皇帝の寵愛を失った妃嬪を幽閉するためにあてられた区画の総称で、紫禁城内の空き殿舎や一室が、その都度「冷宮」として使われた

かつて改革を語り、光緒帝と未来を夢見た才女は、暗い冷宮の中で孤独に日々を過ごすことを強いられたのである

「義和団の乱」勃発

1900年夏、北京の都は戦火に包まれていた

当時、中国各地では外国勢力の横暴やキリスト教布教への反発から、民衆が「義和団」と呼ばれる集団を結成し、排外運動を繰り広げていた

やがてこの蜂起は「義和団の乱」と呼ばれ、勢いを増して北京にまで押し寄せたのである

西太后はこれを利用できると考え、一時は義和団に肩入れして列強に宣戦を布告した
だが義和団は統制を欠き、暴徒化

怒った列強は、八カ国連合軍を編成して進軍し、北京城下へと迫ったのである

形勢不利と見た西太后は、やむなく光緒帝を伴って西安への逃亡を決断した

その出立を前に、長年疎ましく思ってきた珍妃の処遇が問題となった

そして西太后は、ついに処刑を命じたのである

名目としては「幽閉中に意見を述べて西太后を怒らせたため」という説や、「もし敵に捕らえられ辱められては皇室の面目に関わる」として殉節を理由に処刑が命じられたとも伝わる

珍妃の最後 井戸に消えた若き命

実行命令を受けたのは、宦官の崔玉貴(さいぎょくき)たちであった

珍妃は幽閉されていた北三所から呼び出され、夜明け前の静まり返った宮中を連れ出された

着いた先は、紫禁城の一角にある古井戸の前だった

井戸の石枠には苔がびっしりと生え、長いあいだ使われていなかったせいで、周囲にはひんやりとした湿気が漂っていたという

珍妃は当時、まだ24歳の若さであった

珍妃は最期に「一度だけ老仏爺(西太后)に会いたい」と願ったが、その望みは聞き入れられなかったという

井戸の縁に追い詰められた珍妃は、崔玉貴の手で突き落とされ、さらに石が投げ込まれて命を絶たれたと伝えられる

宮廷にあって才色兼備と称えられ、光緒帝からも厚く寵愛されていたが、その命は理不尽に断たれたのである

翌日、井戸は石と土で封じられ、表向きには「珍妃は病没した」との風聞が流された
幽閉中の光緒帝は、最愛の妃の死をただちに知ることもできなかった

一年後、清が北京に戻ると、西太后は世論を憚り、珍妃の遺骸を井戸から引き上げさせた

遺骨は北京西郊の田村に仮葬され、のち1913年、光緒帝の陵墓である崇陵の妃園寝(皇帝の妃を葬る区画)へ改葬された

死後には「恪順皇貴妃」の諡号が与えられたが、それはあまりにも遅い名誉回復であった

現在、故宮を訪れると「珍妃井」と呼ばれるその井戸が残されている

ただし井戸は後世に縮小・改修されており、珍妃が落とされた当時の姿そのままではない

それでも、この場所が若き妃の最期の舞台であったことに変わりはない

皇帝に寄り添い、改革を後押ししながらも、権力の渦に翻弄されて命を絶たれた珍妃の悲劇は、今なお語り継がれている


 

 


清朝は中国最後の王朝
北方の異民族(漢人以外)がどのように中国を統治したのか
ヌルハチからラストエンペラーまで栄光と苦悩の270年

酸味のある食材のメリットとデメリット
体温の低い人は胃酸の分泌が少ない

酢や梅干し、レモンに代表される柑橘系の果物など、酸味のある食材にはヘルシーなイメージがあると思います
また、何となく体調や胃腸の具合が思わしくない、そんなときに酸っぱい物が欲しくなる人もいるのではないでしょうか

クエン酸をはじめとする酸味成分には、体内の老廃物を排出する効用があり、疲労回復効果も認められています
また、胃酸の分泌を高めて胃の働きを活発にするため、みなさんが感覚的に酸味を欲するのは正しいことといえます

ただし、胃にとっては必ずしも万能というわけではありません
とくに胃の粘膜が薄くなっている状態で、酸味によって胃酸の分泌が促進されれば、「胃が荒れる」原因をつくってしまうからです
肝心なのは胃粘膜と胃酸の量のバランスがとれていること。
この2つがもともと不足気味の人は、必要以上に酸味をとることはおすすめしません

目安としては「体が冷えている、汗をかきにくい、体温が低い」、こんな傾向がある人は注意してください
これらは水分代謝の悪い人に見られる症状で、体内の水分がスムーズに巡らないことが胃粘膜や胃酸、汗などの分泌物を少なくしています
逆に水分代謝が良好な人は、胃粘膜や胃酸の分泌も盛んなため、酸っぱい物も問題ありません
胃のムカムカを酸味食材ですっきりさせるのもいいでしょう


ヘルシーな「酸味食材」は万能ではない!?
酸味のある食材とは
レモン・オレンジ・グレープフルーツ・梅干し・酢・パイナップル・キウイフルーツ・ヨーグルトなど

(メリット)
● 消化促進
● 体内の老廃物を排出
● 疲労回復
● 胃酸の分泌を高めて活発にする
● 食欲増進
● 消化酵素を含む唾液の分泌を促し、消化を助ける

(デメリット)

● 胃の粘膜が薄いと胃が荒れてしまう可能性も
● とりすぎると胃酸の分泌が過剰になり、胸やけ、胃痛の原因に

酸っぱい物が向くタイプ
・体温が高い
・食欲旺盛で健康体
・発汗もスムーズ

▽理由
水分代謝が盛んなため、胃の粘膜や胃酸、汗の分泌も活発に行なわれる

酸っぱい物が向かないタイプ
・いつも体が冷えている
・体温が低い
・汗をかきにくい

▽理由
水分代謝がうまく行われないため、胃の粘膜や胃酸の分泌も少なく不足しがち

胃酸が少なすぎる人にもおすすめ
殺菌作用のある胃酸が少ないと、「細菌」が胃で殺菌されず、腸へ届きやすくなって腸内環境が悪化する原因に
適度に酸っぱい物を食べるのがおすすめ

胃酸が出すぎている人は控えよう
ストレス、暴飲暴食、刺激物のとりすぎは、胃酸の分泌を促します
さらに酸味を取り入れることで胃酸過多になり、胸やけ、胃痛の原因につながります


【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です