古代中国の衣服観
古代中国の人びとは、衣服を「身体のどこを覆うか」という発想では捉えていなかった
重要だったのは、身体全体をどう包み、どう整えて見せるかである。そこには、現代のような下着と外衣を分ける考え方はまだ存在していなかった
この衣服観を知る手がかりの一つが、戦国時代から前漢期にかけて成立した儒教の経典『礼記(らいき)』である
『礼記』は、儒教社会における日常生活や儀礼のあり方をまとめた史書だが、そこに描かれる衣服は、身体の一部に密着するものではなく、「衣(きぬ)」と「裳(も)」を組み合わせて全身を包む構造が基本となっている
布をどう重ね、どう整えて身にまとうか、その所作そのものが、礼として重視されていた
この背景には「身体を私的なものとして意識する感覚が、現代ほど強くなかった」という事情がある
衣服は、身体を直接管理する道具というよりも、社会の中での立場や秩序を外から示す役割を強く担っていた
布の量や重なり方によって体面を保つことができる以上、下半身だけを特別に覆う衣類を設ける必然性は生まれにくかったのである
先秦時代「裳」によって下半身を覆う
先秦時代の女性の下半身衣服を理解するうえで、中心となるのが前述した「裳(も)」である
裳とは、現代で言えばスカートに近い下装だが、その構造ははるかに素朴で、前後2枚の布を腰帯で結びつけた巻き布に近いものだった
裳の素材や仕立ては、身分や生活環境によって異なった
貴族階層では絹製の裳が用いられ、布幅も広く、丈も長かった
一方で、農作業や家事に従事する女性は麻布の裳を用い、動きやすさを優先した
だが、いずれの場合も下半身を覆う基本構造は共通しており、裳そのものが下着と外衣を兼ねる存在だった
先秦時代の女性の下半身は、決して無防備だったわけではない
裳という一枚の布に、礼制と生活の知恵が凝縮されていたのである
この単純な構造が、後の時代に多様な下装へと発展していく土台となった
漢代「绔」の登場と防寒・実用性の工夫
漢代に入ると、女性の下半身衣服には明確な変化が見え始める
基本は依然として裳であったが、その内側や補助として「绔(く)」と呼ばれる衣類が用いられるようになった点が重要だ
この绔の特徴は、股の部分を縫い合わせない構造にある
史料では「穷绔(きゅうく)」とも記され、左右の脚をそれぞれ布で覆い、紐で腰に結び留める仕組みだった
現代のズボンのように一体化した形ではなく、あくまで防寒や動作補助を目的とした衣類である
宮廷女性の装いからも、漢代の変化はうかがえる
たとえば前漢・成帝の寵姫として知られる趙飛燕(ちょうひえん)は、軽やかな装いで知られる人物だが、その下では寒冷期や移動に備えて、绔が用いられていたと考えられている
見た目の美しさと、身体を守る機能が並行して存在していたのである
ただし、ここでも注意すべきなのは、绔が現代的な意味での「下着」ではないという点だ
肌に密着させ、下半身を完全に覆う発想はまだなく、あくまで、当時の女性の装いを補助するための実用的な下装だったのである
唐宋以降「裙と裤」の発展
唐代以降、女性の下半身衣服は、見た目的にも大きく変化していく
唐代を象徴する下装が「石榴裙(せきりゅうくん)」である
石榴(ざくろ)の実になぞらえた鮮やかな赤色を特徴とする裙(くん)で、唐代の女性の間で流行した下装である
豊かな布量と華やかな色彩によって、女性の美しさや魅力を象徴する装いとされ、後には女性そのものを指す比喩としても用いられた
男性が女性に心酔し、ひれ伏すことを意味する「拜倒石榴裙下(はいとうせきりゅうぐんか)」という成語も生まれている
一方で、その裙の内側には「裤(く)」と呼ばれる脚衣が用いられるようになる
これは漢代に見られた「穷绔」と同じく、股を縫い合わせず左右の脚をそれぞれ覆う構造を持つが、布幅がさらに広がり、装いの一部として意識されるようになった
宋代に入ると、衣服は一転して落ち着いた方向へ向かう
理学思想の広まりとともに、装いにも簡素さと節度が求められ、「旋裙(せんくん)」と呼ばれる前後に開きのある裙が定着した
もともとは騎乗時の利便性を意識した構造だが、次第に日常着としても広まり、褙子(はいし)と呼ばれる羽織り状の衣服と組み合わせて着用されることが多かった
明清時代には、下半身衣服はさらに洗練される
明代の「馬面裙(まめんくん)」は、前後左右に分かれた裙門と細かな襞を特徴とし、歩くたびに波のような動きを見せた
清代になると、旗袍の下に幅広の裤を合わせる装いが一般化し、刺繍や装飾によって個性や身分を表現する要素も強まっていく
だが、この時代においても身体に密着する下着が主役になることはなかった
近代的な下着文化とは異なるものの、独自の論理を持つ完成された体系だったとも言えるだろう
いつ「下着」が生まれたのか
こうして見てくると、古代中国に「下着がなかった」という事実は、欠落や未発達を意味するものではないことが分かる
むしろ外衣の構造そのものが、礼制と実用を同時に成立させる完成度の高い体系を形づくっていたのである
下半身専用の下着が本格的に生まれるのは、清末から民国期にかけて、西洋的な衣服観と生活様式が流入してからのことである
現代の感覚で見れば、「何も履いていなかった」「恥ずかしい」と映るかもしれない
しかしそれは身体観や羞恥観が異なるだけで、古代中国の女性たちは、下着に頼らずとも、衣服の構造と重ね方によって、自らの身体と社会的立場をきちんと守っていた
下着の不在は、文明の未熟さではない
そこには、その時代なりの合理性と美意識、そして身体をどう捉えるかという一貫した思想があったのである
参考 : 『礼記』『漢書・輿服志』『旧唐書・輿服志』沈从文『中国古代服饰研究』他
文 / 草の実堂編集部
(この記事は草の実堂の記事で作りました)
古代中国の衣服観
古代中国の人びとは、衣服を「身体のどこを覆うか」という発想では捉えていなかった
重要だったのは、身体全体をどう包み、どう整えて見せるかである。そこには、現代のような下着と外衣を分ける考え方はまだ存在していなかった
この衣服観を知る手がかりの一つが、戦国時代から前漢期にかけて成立した儒教の経典『礼記(らいき)』である
『礼記』は、儒教社会における日常生活や儀礼のあり方をまとめた史書だが、そこに描かれる衣服は、身体の一部に密着するものではなく、「衣(きぬ)」と「裳(も)」を組み合わせて全身を包む構造が基本となっている
布をどう重ね、どう整えて身にまとうか、その所作そのものが、礼として重視されていた
この背景には「身体を私的なものとして意識する感覚が、現代ほど強くなかった」という事情がある
衣服は、身体を直接管理する道具というよりも、社会の中での立場や秩序を外から示す役割を強く担っていた
布の量や重なり方によって体面を保つことができる以上、下半身だけを特別に覆う衣類を設ける必然性は生まれにくかったのである
『古代中国』下着は存在しなかったし、今日でいう下着の概念もなかったようだ
古代中国に「下着がなかった」という事実は、欠落や未発達を意味するものではないことが分かる
むしろ外衣の構造そのものが、礼制と実用を同時に成立させる完成度の高い体系を形づくっていたのである
下半身専用の下着が本格的に生まれるのは、清末から民国期にかけて、西洋的な衣服観と生活様式が流入してからのことである
現代の感覚で見れば、「何も履いていなかった」「恥ずかしい」と映るかもしれない
しかしそれは身体観や羞恥観が異なるだけで、古代中国の女性たちは、下着に頼らずとも、衣服の構造と重ね方によって、自らの身体と社会的立場をきちんと守っていた
下着の不在は、文明の未熟さではない
そこには、その時代なりの合理性と美意識、そして身体をどう捉えるかという一貫した思想があったのである
四千年以上に及ぶ中国の歴史を、「服飾」というテーマで切り取り、時代ごとの特徴を簡潔にまとめました
服飾の歴史からは、各時代の政治や社会、テクノロジーの進歩、美意識の移り変わりなど、さまざまな分野の知識を得ることができます
出土品や絵画を元にした再現イラストで、当時の人々のビジュアルが鮮やかによみがえります
コラムでは、各時代の風習や化粧の流行、着こなしのバリエーションなどにも言及
近年の発掘調査による最新の研究結果にも触れています
中国の歴史と服飾の変遷をつかむための入門書として最適の1冊です
時代順に掲載:
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