メインウェーブ日記

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気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

■■■このブログでは、以下について記載した記事があります


競馬の名馬やエピソードなど、大相撲の名力士やエピソードなど、ビートルズやビートルズのエピソードや名盤など、お小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネス、プロ野球やラグビーなどのスポーツ、各スポーツの名選手やエピソードなど、その他気になるニュースやスポーツなど

(以下はその一例です)


■競馬

(世界の名馬)~コラム(競馬)

シーバード、リボー、ニジンスキー、セクレタリアト、セントサイモン、キンチェム、オーモンド、ネレイデ、ノーザンダンサーなど

例:伝説の史上最強馬・シーバード

16戦全勝無敗と凱旋門賞連覇・リボー

(日本の名馬)~コラム(競馬)

シンボルルドルフ、ディープインパクト、エルコンドルパサー、サイレンススズカ、オグリキャップなど

例:日本競馬史上最強馬・シンボリルドルフ

日本近代競馬の結晶・ディープインパクト

(コラム)~コラム(競馬)

例:サンデーサイレンスの「遺産」とこれからの社台グループ

ノーザンダンサー系の今後

(世界のホースマン)~コラム(競馬)

例:ドルメロの魔術師~フェデリコ・テシオ

(日本のホースマン)~コラム(競馬)

例:天才、変幻自在の騎乗、オッズを変える男・福永洋一


■大相撲の名力士~コラム(大相撲)

雷電為右エ門、谷風梶之助、双葉山定次、大鵬幸喜など

例:史上最強力士・雷電為右エ門

横綱の中の横綱・谷風梶之助


■ビートルズ~コラム(ビートルズ)、音楽・名盤・ロック(ビートルズ)

例:20世紀最高のロックバンド・ビートルズ

ロックの金字塔・・・サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド


■お小遣いサイト~お小遣いサイト

お財布.com、げん玉など

例:おすすめのお小遣いサイト~お財布.com

おすすめのお小遣いサイト~げん玉


■アフィリエイト~アフィリエイト

例:ネットビジネスの代表的なァフィリエイト



●野球やラグビー

特にプロ野球やラグビーについて

■テニスの男女の名選手

(男子)~コラム(スポーツ)

ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドル、ピート・サンプラス、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダルなど

例:4大大会優勝回数史上1位などのロジャー・フェデラー選手

「土の絶対王者」ラファエル・ナダル選手

(女子)~コラム(スポーツ)

シュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワ、クリス・エバート、セリーナ・ウィリアムズなど

例:「年間ゴールデン・スラム」を達成した女王・・・シュテフィ・グラフ選手


■F1の名ドライバー~コラム(スポーツ)

アイルトン・セナ、ミヒャエル・シューマッハー、アラン・プロストなど

例:「音速の貴公子」「最も速かった」アイルトン・セナ選手

「史上最強ドライバー」ミヒャエル・シューマッハー選手


■各種スポーツ


■その他気になるニュースやスポーツなど

古代中国の衣服観

古代中国の人びとは、衣服を「身体のどこを覆うか」という発想では捉えていなかった

重要だったのは、身体全体をどう包み、どう整えて見せるかである。そこには、現代のような下着と外衣を分ける考え方はまだ存在していなかった

この衣服観を知る手がかりの一つが、戦国時代から前漢期にかけて成立した儒教の経典『礼記(らいき)』である

『礼記』は、儒教社会における日常生活や儀礼のあり方をまとめた史書だが、そこに描かれる衣服は、身体の一部に密着するものではなく、「衣(きぬ)」と「裳(も)」を組み合わせて全身を包む構造が基本となっている

布をどう重ね、どう整えて身にまとうか、その所作そのものが、礼として重視されていた

この背景には「身体を私的なものとして意識する感覚が、現代ほど強くなかった」という事情がある

衣服は、身体を直接管理する道具というよりも、社会の中での立場や秩序を外から示す役割を強く担っていた

布の量や重なり方によって体面を保つことができる以上、下半身だけを特別に覆う衣類を設ける必然性は生まれにくかったのである


先秦時代「裳」によって下半身を覆う

先秦時代の女性の下半身衣服を理解するうえで、中心となるのが前述した「裳(も)」である

裳とは、現代で言えばスカートに近い下装だが、その構造ははるかに素朴で、前後2枚の布を腰帯で結びつけた巻き布に近いものだった

裳の素材や仕立ては、身分や生活環境によって異なった

貴族階層では絹製の裳が用いられ、布幅も広く、丈も長かった
一方で、農作業や家事に従事する女性は麻布の裳を用い、動きやすさを優先した

だが、いずれの場合も下半身を覆う基本構造は共通しており、裳そのものが下着と外衣を兼ねる存在だった

先秦時代の女性の下半身は、決して無防備だったわけではない

裳という一枚の布に、礼制と生活の知恵が凝縮されていたのである
この単純な構造が、後の時代に多様な下装へと発展していく土台となった

漢代「绔」の登場と防寒・実用性の工夫

漢代に入ると、女性の下半身衣服には明確な変化が見え始める

基本は依然として裳であったが、その内側や補助として「绔(く)」と呼ばれる衣類が用いられるようになった点が重要だ

この绔の特徴は、股の部分を縫い合わせない構造にある

史料では「穷绔(きゅうく)」とも記され、左右の脚をそれぞれ布で覆い、紐で腰に結び留める仕組みだった

現代のズボンのように一体化した形ではなく、あくまで防寒や動作補助を目的とした衣類である

宮廷女性の装いからも、漢代の変化はうかがえる

たとえば前漢・成帝の寵姫として知られる趙飛燕(ちょうひえん)は、軽やかな装いで知られる人物だが、その下では寒冷期や移動に備えて、绔が用いられていたと考えられている

見た目の美しさと、身体を守る機能が並行して存在していたのである

ただし、ここでも注意すべきなのは、绔が現代的な意味での「下着」ではないという点だ

肌に密着させ、下半身を完全に覆う発想はまだなく、あくまで、当時の女性の装いを補助するための実用的な下装だったのである

唐宋以降「裙と裤」の発展

唐代以降、女性の下半身衣服は、見た目的にも大きく変化していく

唐代を象徴する下装が「石榴裙(せきりゅうくん)」である

石榴(ざくろ)の実になぞらえた鮮やかな赤色を特徴とする裙(くん)で、唐代の女性の間で流行した下装である

豊かな布量と華やかな色彩によって、女性の美しさや魅力を象徴する装いとされ、後には女性そのものを指す比喩としても用いられた

男性が女性に心酔し、ひれ伏すことを意味する「拜倒石榴裙下(はいとうせきりゅうぐんか)」という成語も生まれている

一方で、その裙の内側には「裤(く)」と呼ばれる脚衣が用いられるようになる

これは漢代に見られた「穷绔」と同じく、股を縫い合わせず左右の脚をそれぞれ覆う構造を持つが、布幅がさらに広がり、装いの一部として意識されるようになった

宋代に入ると、衣服は一転して落ち着いた方向へ向かう

理学思想の広まりとともに、装いにも簡素さと節度が求められ、「旋裙(せんくん)」と呼ばれる前後に開きのある裙が定着した

もともとは騎乗時の利便性を意識した構造だが、次第に日常着としても広まり、褙子(はいし)と呼ばれる羽織り状の衣服と組み合わせて着用されることが多かった

明清時代には、下半身衣服はさらに洗練される

明代の「馬面裙(まめんくん)」は、前後左右に分かれた裙門と細かな襞を特徴とし、歩くたびに波のような動きを見せた

清代になると、旗袍の下に幅広の裤を合わせる装いが一般化し、刺繍や装飾によって個性や身分を表現する要素も強まっていく

だが、この時代においても身体に密着する下着が主役になることはなかった

近代的な下着文化とは異なるものの、独自の論理を持つ完成された体系だったとも言えるだろう

いつ「下着」が生まれたのか

こうして見てくると、古代中国に「下着がなかった」という事実は、欠落や未発達を意味するものではないことが分かる

むしろ外衣の構造そのものが、礼制と実用を同時に成立させる完成度の高い体系を形づくっていたのである

下半身専用の下着が本格的に生まれるのは、清末から民国期にかけて、西洋的な衣服観と生活様式が流入してからのことである

現代の感覚で見れば、「何も履いていなかった」「恥ずかしい」と映るかもしれない

しかしそれは身体観や羞恥観が異なるだけで、古代中国の女性たちは、下着に頼らずとも、衣服の構造と重ね方によって、自らの身体と社会的立場をきちんと守っていた

下着の不在は、文明の未熟さではない

そこには、その時代なりの合理性と美意識、そして身体をどう捉えるかという一貫した思想があったのである

参考 : 『礼記』『漢書・輿服志』『旧唐書・輿服志』沈从文『中国古代服饰研究』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

古代中国の衣服観

古代中国の人びとは、衣服を「身体のどこを覆うか」という発想では捉えていなかった

重要だったのは、身体全体をどう包み、どう整えて見せるかである。そこには、現代のような下着と外衣を分ける考え方はまだ存在していなかった

この衣服観を知る手がかりの一つが、戦国時代から前漢期にかけて成立した儒教の経典『礼記(らいき)』である

『礼記』は、儒教社会における日常生活や儀礼のあり方をまとめた史書だが、そこに描かれる衣服は、身体の一部に密着するものではなく、「衣(きぬ)」と「裳(も)」を組み合わせて全身を包む構造が基本となっている

布をどう重ね、どう整えて身にまとうか、その所作そのものが、礼として重視されていた

この背景には「身体を私的なものとして意識する感覚が、現代ほど強くなかった」という事情がある

衣服は、身体を直接管理する道具というよりも、社会の中での立場や秩序を外から示す役割を強く担っていた

布の量や重なり方によって体面を保つことができる以上、下半身だけを特別に覆う衣類を設ける必然性は生まれにくかったのである


『古代中国』下着は存在しなかったし、今日でいう下着の概念もなかったようだ


古代中国に「下着がなかった」という事実は、欠落や未発達を意味するものではないことが分かる

むしろ外衣の構造そのものが、礼制と実用を同時に成立させる完成度の高い体系を形づくっていたのである

下半身専用の下着が本格的に生まれるのは、清末から民国期にかけて、西洋的な衣服観と生活様式が流入してからのことである

現代の感覚で見れば、「何も履いていなかった」「恥ずかしい」と映るかもしれない

しかしそれは身体観や羞恥観が異なるだけで、古代中国の女性たちは、下着に頼らずとも、衣服の構造と重ね方によって、自らの身体と社会的立場をきちんと守っていた

下着の不在は、文明の未熟さではない

そこには、その時代なりの合理性と美意識、そして身体をどう捉えるかという一貫した思想があったのである


 

 


四千年以上に及ぶ中国の歴史を、「服飾」というテーマで切り取り、時代ごとの特徴を簡潔にまとめました
服飾の歴史からは、各時代の政治や社会、テクノロジーの進歩、美意識の移り変わりなど、さまざまな分野の知識を得ることができます
出土品や絵画を元にした再現イラストで、当時の人々のビジュアルが鮮やかによみがえります
コラムでは、各時代の風習や化粧の流行、着こなしのバリエーションなどにも言及

近年の発掘調査による最新の研究結果にも触れています
中国の歴史と服飾の変遷をつかむための入門書として最適の1冊です

時代順に掲載:
上古・殷代・西周時代・春秋時代・戦国時代・秦代・漢代・魏晋時代・南北朝時代・隋代・唐代・五代十国時代・宋代・遼代・西夏時代・金代・元代・明代・清代・中華民国時代・中華人民共和国時代

神社の原点はいったいどこにあるのか

読者の皆さんは、「神社」と聞いて何を思い浮かべますか?

神域の入り口に立つ「鳥居」、樹々に包まれた昼なお薄暗い石畳の「参道」、その先に建つ「社殿」

また、神社によっては「狛犬」や、小川に架かる「橋」などを思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう

ですが、仕事柄、日本全国の神社を訪ねることが多い筆者は、神社の境内に立つたびに、ふと思うのです

「そもそも神社って何だろう?」「神様って何だろう?」と・・・

とはいえ、その答えはあまりにも深遠で、考えれば考えるほどわからなくなってしまいます
ですので、考察には踏み込まずにおきましょう

そこで本記事では、「神社の原点」というテーマに絞ってお話ししていきたいと思います

「神社」という言葉は明治時代以降に定着した

「神社の原点」を考えるうえで、まずは「神社」という言葉について、少しご説明しておきましょう

「神社」の「神」は、もちろん「カミ様」を指します。そして、「社」は「ヤシロ」のことです
この二つをあわせて「神社」と呼ぶようになったわけです

「そんなことは当たり前じゃないか、いまさら何を言っているんだ!」と思う方もいるかもしれません

ですが実は、この「神社」という言葉は、昔から使われていたわけではなく、明治時代以降に定着したものなのです

では、そもそも神社は何と呼ばれていたのでしょうか?

『古事記』や『日本書紀』によると、神社は「やしろ」、神宮は「かみのみや」または「かむみや」などと呼ばれていたのです

さて、ここで注目していただきたいのが、「やしろ」という読み方です

またまた文字遊びのようになって恐縮ですが、「やしろ」は、「屋」=「建物」、「代」=「その代わり」という意味で、建物を建てるため(でもまだ建っていない)の場所を表現していると解釈することができます

つまり「やしろ」「屋」は、神様をお迎えするための小屋・祭壇であり、これが後に社殿へと発展していくのです

原初の神社には「社殿」は存在していなかった

そもそも、神社には「社殿」が存在していませんでした

そこにあったのは、神様が降臨されるための「聖域」としての場所だけだったのです

しかし、せっかくおいでいただいた神様をそのままお迎えするのは失礼にあたると考えられ、簡素な神殿が建てられるようになりました

しかもその神殿は、いわゆる「マツリ」の時だけ設けられ、「神マツリ」が終わると取り払われてしまっていたのです
これが、神社の原初の姿でした

ただし、いくら神様が果てしない御神徳をお持ちであっても、何の縁もない場所に都合よく降臨してくださるわけではありません

そのため、「聖域」とは神様をお招きしやすい場所、すなわち、巨岩や巨樹など神霊の依り代(よりしろ)がある場所であったのです

このような神霊の依り代として祭祀の対象となったものが、岩であれば「磐座」、樹木であれば「御神木」と呼ばれます

また、そのような「聖域」において、木の枝などを立てて囲み祭壇としたものは「神籬」、岩や石を積み並べて祭場としたものは「磐境」と呼ばれ、いずれも神霊の依り代とされました

神社の原点は聖域にある神霊の依り代だった

こうして人間によって「神マツリ」が頻繁に行われるようになると、「やしろ」、すなわち「聖域」には常設の社殿が造られるようになります

考えてみれば当然のことです

社殿があれば、神様がそこに常在してくださるため、願い事があるたびに、いちいち「神マツリ」を行って神霊にご降臨いただく手間が省けるからです

このような言い方は、神様に対して失礼にあたるかもしれませんが、神霊の常在を願う人間の気持ちこそが、神社における建築物を生み出したのだと言っても過言ではないでしょう

人間とは我儘な存在です
それは、相手が神様であっても変わりません
そもそも、お祭りは、かつて夜、つまり闇の中で行われるものでした

例えば、伊勢神宮の式年遷宮において斎行される重要な神事「遷御の儀」は、浄闇(じょうあん)、すなわち清らかな夜に執り行われます

また、祇園祭の「宵宮祭」も同様に、八坂神社の境内の灯をすべて消した浄闇の中、白装束の神官たちの手によって、神霊が神輿に遷されます

そもそも、昼間の明るい日差しの中でうろうろしている神様などいらっしゃるはずもなく、昼間に行われる「お祭り」や、神霊の常在を願って設けられた「社殿」も、すべて人間の都合によってつくられたものなのです

さて、あらためて「神社の原点」に立ち返ってみましょう

それは、神霊が降臨するための「聖域」、すなわち依り代の存在にあります

もともとは神様が一時的に訪れる場所でしたが、やがて人々の祈りとともに、その地に神を常にお迎えする「鎮まりの場」として定められていったのです

神様の御神徳は大変ありがたいものです
神は人間の穢れを浄化し、幸福を授けてくださる尊い存在です

皆さん、神社へお参りの際には、どうか神様への感謝の念をお忘れなきよう
くれぐれも、お賽銭箱にお金を乱暴に投げ入れたりなさいませんように・・・

※参考文献
招福探求巡拝の会著 『日本全国一の宮巡拝パーフェクトガイド』メイツユニバーサルコンテンツ刊
古川順弘著 『神社に秘められた日本史の謎』宝島社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

神社の原点はいったいどこにあるのか

読者の皆さんは、「神社」と聞いて何を思い浮かべますか?

神域の入り口に立つ「鳥居」、樹々に包まれた昼なお薄暗い石畳の「参道」、その先に建つ「社殿」

また、神社によっては「狛犬」や、小川に架かる「橋」などを思い浮かべる方もいらっしゃるでしょう

ですが、仕事柄、日本全国の神社を訪ねることが多い筆者は、神社の境内に立つたびに、ふと思うのです

「そもそも神社って何だろう?」「神様って何だろう?」と・・・


神社の原点はどこにあるのか?

それは「やしろ」と呼ばれた神霊の依り代だった

それは、神霊が降臨するための「聖域」、すなわち依り代の存在にあります

もともとは神様が一時的に訪れる場所でしたが、やがて人々の祈りとともに、その地に神を常にお迎えする「鎮まりの場」として定められていったのです

神様の御神徳は大変ありがたいものです
神は人間の穢れを浄化し、幸福を授けてくださる尊い存在です

皆さん、神社へお参りの際には、どうか神様への感謝の念をお忘れなきよう
くれぐれも、お賽銭箱にお金を乱暴に投げ入れたりなさいませんように・・・



 

 


★ 古代から続く格式と伝統

★ 全国の「一之宮」全社を、その縁起から現在の姿までご紹介します

◆◇◆ 本書について ◆◇◆

一宮のほとんどは、『延喜式神名帳』に記帳されている古い歴史をもつ神社である
『延喜式』とは、延喜5年(905)に醍醐天皇の命により藤原時平が編集に着手して延長3年(925)に完成した法令集で、式とは律令を適用する際の施行細則をいい、朝廷が定めた儀式や作法、事務手続きなどの規定を網羅したものである

従って『延喜式』に名を連ねる一宮は、長い歴史に培われ、地元の民衆の篤い崇敬の対象となった社格の高い神社といえるのである

また、ひとつの旧国に2つ以上の一宮が存在する場合があるが、この理由は平安時代の終焉とともに貴族の時代が終わり、中央集権体制が崩壊すると、貴族に替わり政権を握った武家というパトロンを得た神社が新たに一宮として出現したことによる

本書では全国の一宮と一宮の宮司による全国一の宮会が近年制定した新一宮を紹介している
内容は、各一宮のいわれや歴史、ご祭神、そしてご神徳を中心に解説をしている
一宮参拝の手引として、一人でも多くの人に一宮への参拝をしていただきたい
 

 


神社がわかると、日本の歴史が見えてくる! 
◆伊勢神宮、出雲大社・・・。全国の有名神社から読み解く古代日本の姿とは?
◆古代豪族から近代の軍人まで。歴史上の人物を祀った神社はなぜ生まれたのか?
◆八幡、稲荷、伊勢・・・。代表的な信仰はどのように広まったのか?古代から近現代まで、誰も触れてこなかった神社の正体に迫る!

地球上で起きていること、どれだけわかる?

私たちが日常的に当たり前だと感じていることでも、あまり意識していないことや、知っているようで知らないことってありますよね
そんな地球に生きる私たちが知っておきたい「理系雑学」をご紹介します
太陽系を含む地球の歴史から、大自然や気候、動植物、資源など、地球にまつわるさまざまな疑問をスッキリ解説!

あらためて考えると、私たちはこの地球について、実はほとんど知らないのかもしれません

※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました


バナナの種ってどこにあるの?種がないのにどうやって増やすのか

私たちがふだん食べているバナナには種が見当たらないが、もともと種がなかったわけではない
バナナを輪切りにしてみると、その中心部に小さな黒い点がいくつも見える
じつはこれが種の名残なのだ
バナナは、マレー半島やフィリピンなど熱帯アジア原産の果樹だが、小豆粒ほどの大きさの堅い種がぎっしりと詰まった野生の「種ありバナナ」を、現地では今でも見ることができる

種のないバナナが生まれたのは、偶然によるものだと考えられている
遺伝子や染色体の突然変異によって偶然生まれた種のないバナナは、果実が大きく食べやすかったことから、人間にとってとても都合がよかった
そこで今日まで大切に育てられてきたわけだ
種なしバナナの歴史は古く、紀元前5000年頃にはすでに栽培が行なわれていたともいわれている

では、種のないバナナをどのように増やすのだろうか
じつは、地下茎からタケノコのように出てくる新芽を株分けすることで、子孫をつくっていくのだ
次世代のバナナを育てる手順は、まず新芽の中からよい芽を選別し、苗として育成
ある程度大きくなったところで広い畑に植え替え、十分に大きくなったところで果実を収穫する

世界中で栽培されているバナナの種類は、大きく生食用と料理用に分けられ、300種類以上あるといわれている
さらに、現在日本で食べられているバナナの約8割がフィリピン産で、エクアドルや台湾からも輸入されている

著=雑学総研/『人類なら知っておきたい 地球の雑学』

(この記事はレタスクラブの記事で作りました)

私たちがよく知っているバナナには種がありません

もちろん元々バナナにも種があったそうです

バナナの黒い点がその名残だという


バナナは、マレー半島やフィリピンなど熱帯アジア原産の果樹だが、小豆粒ほどの大きさの堅い種がぎっしりと詰まった野生の「種ありバナナ」を、現地では今でも見ることができる

種のないバナナが生まれたのは、偶然によるものだと考えられている
遺伝子や染色体の突然変異によって偶然生まれた種のないバナナは、果実が大きく食べやすかったことから、人間にとってとても都合がよかった
そこで今日まで大切に育てられてきたわけだ
種なしバナナの歴史は古く、紀元前5000年頃にはすでに栽培が行なわれていたともいわれている

では、種のないバナナをどのように増やすのだろうか
じつは、地下茎からタケノコのように出てくる新芽を株分けすることで、子孫をつくっていくのだ
次世代のバナナを育てる手順は、まず新芽の中からよい芽を選別し、苗として育成
ある程度大きくなったところで広い畑に植え替え、十分に大きくなったところで果実を収穫するという



 

 


地球(を含めた宇宙)には謎や不思議、ギモンが多くあります
空はなぜ青く、夕焼けは赤いのだろうか!?とか・・・
そんな「理系雑学」を楽しくわかりやすく解説

4人の目の見えない人が、村にやって来た生き物に触れてみます

ある人は「蛇」と言い、また別の人は「木」、さらに「扇」「槍」・・・
真実はどこにあるのでしょうか
世界で300万部以上のベストセラー『Ikigai』を執筆したスペイン出身のエクトル・ガルシア氏とフランセスク・ミラージェス氏
2人がインドの知恵から学んだことをまとめた『NAMASTE とらわれない自分のつくり方』より一部抜粋・再構成のうえ、インド最古の寓話から学ぶ3つの哲学を紹介します

■インド最古の寓話「ゾウが持つ4つの真実」

これはインド文化で最古の哲学的寓話だ
多くのバリエーションがあるが、最も有名なのは、ラーマクリシュナと詩人のジョン・ゴッドフリー・サックスの話だ

それは次のような話である

小さな村にゾウがやって来た
そのゾウを確かめようと、4人の目の見えない人が集まった
ひとりめの男はゾウの鼻に触り、びっくりして叫んだ
「大蛇だ!」

しかし、ほかの人たちはひるまず、大胆にもゾウのほかの部分に触った
「これは動物じゃない。木の幹だ」と、ゾウの足に触ったふたりめの男が言った

3人めはゾウの耳をなでて言った
「違う、これは扇だ」
最後の4人めは牙の滑らかな手触りを確かめて言った
「槍のように固くてスベスベしている」

そのようすを見ていた村人が、4人を仲裁しようと口を開いた

「お前たちはみな、少しだけ正しい。だが、真実の一部分を語っているにすぎない。みんなの意見をまとめたときの本質を理解していないのだ。ゾウは、ヘビでも、木でも、扇でも、槍でもない。長い鼻と牙と巨大な耳と足をもつ動物だ。

私たちはみな、なんらかのかたちで盲目だ。だから、次のことを教訓にしなければならない。『真実を知りたいなら、自分の意見を主張するだけでなく、広い心で他人と意見を交わさなければならない』」

この寓話では、目の不自由な人は誰もゾウのことがわからないが、自分の考えを正しいと確信し、その考えを押し通している

言わんとすることは、あるテーマに関してどれだけ確信をもって自分の意見を主張しても、反対の意見をもっている人も自分が正しいと信じているということだ

真実は誰のものでもない

科学の世界では、この寓話と似たたとえが、肉眼で確認した、あるいは特定の分野の専門家の手法で確認した真実とされるものを検証するときに使われる

たとえば、1932年にノーベル物理学賞を受賞し、量子力学のパイオニアと考えられているヴェルナー・ハイゼンベルクは、次のように警告した

「測定用の装置は観測者がつくっている。私たちが観測するものは自然そのものではなく、私たちの研究方法にさらされた自然であるということを、肝に銘じておかなければならない」

通常、ある科学の分野が問題に直面すると、さまざまな科学者のグループがいろいろな仮説を主張するが、どの仮説が正しいか誰も説明できない
科学に多大な貢献をし、歴史に名を残すような人は、仮説間の矛盾を取り除いて、ひとつの理論への統合に成功している

■ゾウの寓話から学ぶ3つのこと

科学の分野に限らず、ゾウの寓話は次の3つの方法で私たちの生活に生かすことができる

①真実への道
・真実に近づくには、ひとつの意見だけを信用してはならない
それは自分の意見にも当てはまる
多様な可能性を受け入れて、一見すると矛盾する考えを組み合わせることが必要になる

・つねに他人の意見に心を開き、その知識を利用できれば、真実の解釈を広げられる
②コミュニケーションとコラボレーション
・他人が間違っていると決めてかかってはならない。他人の立場になって、自分のほうが間違っているかもしれないと考えてみよう
・『四つの約束』(コスモス・ライブラリー)の著者であるドン・ミゲル・ルイスが言うように、他人が悪意をもっていると決めてかかってはならない
・他人との対話によって、より完全で、より包括的な見方ができるようになる

③部分と全体
・何かを知ることは、その事柄を完全に理解することではない
寓話に出てくる目の見えない人のように、真実の一部分しか把握していないこともよくある
・ある問題について、多くの側面と多くの視点があると知ると、その問題の解決に近づく
最後に、この寓話を補強するアリストテレスの言葉を引用してみよう

「全体は各部分の総和よりも重要である」

(この記事は東洋経済オンラインの記事で作りました)

本記事で語られるインド寓話・・・

これは寓話で「目の見えない人」とは「部分的に、一部だけを検証している」というある意味「たとえ」だ

「真実を見る」には「多様性を受け入れる」「自分の意見だけでなく、他人の意見も受け入れる」「部分的にだけだはなく、全体を見る」

■ゾウの寓話から学ぶ3つのこと

科学の分野に限らず、ゾウの寓話は次の3つの方法で私たちの生活に生かすことができる

①真実への道
・真実に近づくには、ひとつの意見だけを信用してはならない
それは自分の意見にも当てはまる
多様な可能性を受け入れて、一見すると矛盾する考えを組み合わせることが必要になる

・つねに他人の意見に心を開き、その知識を利用できれば、真実の解釈を広げられる
②コミュニケーションとコラボレーション
・他人が間違っていると決めてかかってはならない。他人の立場になって、自分のほうが間違っているかもしれないと考えてみよう
・『四つの約束』(コスモス・ライブラリー)の著者であるドン・ミゲル・ルイスが言うように、他人が悪意をもっていると決めてかかってはならない
・他人との対話によって、より完全で、より包括的な見方ができるようになる

③部分と全体
・何かを知ることは、その事柄を完全に理解することではない
寓話に出てくる目の見えない人のように、真実の一部分しか把握していないこともよくある
・ある問題について、多くの側面と多くの視点があると知ると、その問題の解決に近づく
最後に、この寓話を補強するアリストテレスの言葉を引用してみよう

「全体は各部分の総和よりも重要である」

問題にとらわれすぎない
全体を「本質を見る」ことが重要なのかも・・・

「木を見て森を見ず」にならないように気を付けなければならない


 

 


手放すことで、人生はもっと自由になる!

忙しすぎる毎日
増え続ける情報
人間関係のストレス、モノへの執着
「本当の自分を生きていない」と感じるとき、必要なのは「足すこと」ではなく、「手放すこと」かもしれません

本書は、全世界で300万部のベストセラー『Ikigai』の著者、エクトル・ガルシア&フランセスク・ミラージェスがインドの旅を通して出会った「とらわれを手放す生き方」を探る新たなライフスタイル実践書です

地球上で起きていること、どれだけわかる?

私たちが日常的に当たり前だと感じていることでも、あまり意識していないことや、知っているようで知らないことってありますよね
そんな地球に生きる私たちが知っておきたい「理系雑学」をご紹介します
太陽系を含む地球の歴史から、大自然や気候、動植物、資源など、地球にまつわるさまざまな疑問をスッキリ解説!

あらためて考えると、私たちはこの地球について、実はほとんど知らないのかもしれません

※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました


ライオンも負ける!? 「ライオンゴロシ」という名の生物の正体とは

地球上には、「百獣の王」と称されるライオンすら倒してしまう生物がいる
それは英語で「devil's claw」(悪魔のかぎづめ)、日本語では「ライオンゴロシ」という、じつにまがまがしい名前で呼ばれているのだが、はたしてどんな生き物なのか

「ハルパゴフィトン・プロカムベンス」という学名を持つライオンゴロシとは、じつは植物である
アフリカ南部やマダガスカルの砂漠地帯に生育するゴマ科の植物で、「巨大な逆さに曲がったトゲを持つ植物」を意味する学名のとおり、鋭いトゲのある実が特徴だ
木質の実は、本体の長さが約5センチメートル、幅は約2.5センチメートルで、本体からは先端にカエシのついたトゲが15本ほど生えている

万が一、ライオンがこの実を踏んでしまい、足にでも刺さってしまうと大変なことになる
歩くことが困難になり、口で外そうとしようものなら、今度は唇に刺さってしまう

さらに、トゲの先端にカエシがついていることから、抜こうとしてもがくほどに深く食い込んでいく。食べ物を食べられなくなり、水を飲むことすら困難になり、ついには餓死することになってしまうのだ

その後、ライオンの死骸は、ほかの生き物に食べられることで土に還っていくが、ライオンゴロシの実は、残った骨や大地にしみ込んだ血液などを栄養分として芽を出す
そして、新たな茂みをつくり出すと、次の獲物となるライオンが足を踏み入れるときを待ち続けるのである

(この記事はレタスクラブの記事で作りました)

世の中には恐ろしい生物がいるようです

英語でデビルズ・クロウ(悪魔のかぎづめ)、日本語では「ライオンゴロシ」といわれる

これは実はゴマ科の「植物」で「巨大な逆さに曲がったトゲを持つ植物」を意味する学名のとおり、鋭いトゲのある実が特徴だ

万が一、ライオンがこの実を踏んでしまい、足にでも刺さってしまうと大変なことになる
歩くことが困難になり、口で外そうとしようものなら、今度は唇に刺さってしまう

さらに、トゲの先端にカエシがついていることから、抜こうとしてもがくほどに深く食い込んでいく。食べ物を食べられなくなり、水を飲むことすら困難になり、ついには餓死することになってしまうのだ

その後、ライオンの死骸は、ほかの生き物に食べられることで土に還っていくが、ライオンゴロシの実は、残った骨や大地にしみ込んだ血液などを栄養分として芽を出す
そして、新たな茂みをつくり出すと、次の獲物となるライオンが足を踏み入れるときを待ち続けるのである

「サイレント・キラー(静かな殺し屋・沈黙の殺し屋)」といったところか・・・


 

 


地球(を含めた宇宙)には謎や不思議、ギモンが多くあります
空はなぜ青く、夕焼けは赤いのだろうか!?とか・・・
そんな「理系雑学」を楽しくわかりやすく解説

仏教は、釈迦ことゴータマ・シッダールタの教えを基盤とする宗教である

この世界は苦しみに満ち溢れており、生きとし生ける者すべては、その苦痛から逃れることはできない

たとえ死んでも幾度となく生まれ変わり、その都度苦しまなければならない
ゆえに悟りを開き、輪廻転生の輪から外れ、苦しみからの解放を目指すというのが、仏教の基本的な教義である

仏教が日本に伝来して約1500年が経ち、寺院や年中行事は人々の生活に深く根付いた

同時に、日常語の中にも仏教の専門用語を起源とする言葉が数多く残されている

意外と知られていない仏教由来の言葉を取り上げていきたい


摩訶不思議

「摩訶不思議」という言葉がある

とてつもなく不思議なことを表す言葉だが、この「摩訶」とは一体何なのか

摩訶は、サンスクリット語(古代インドの言葉)の「mahā」に漢字を当てたもので、「偉大な」「大いなる」といった意味を持つ言葉である

かの有名な『般若心経』は、正式には「摩訶般若波羅蜜多心経」と題され、この摩訶は経の持つ崇高さや広大さを示す語として用いられている

そして「摩訶不思議」の「不思議」もまた、仏教に由来する言葉である

不思議は元々「不可思議」といい、仏の力や真理は人間の思考や能力では到底測りきれない、という意味を持っていた

それが次第に「可」の字が省かれ、現代では理解を超えた出来事全般を指す言葉として使われるようになったのである

なお、不可思議は数の単位としても知られており、10の64乗という途方もない数を表す

まさしく人間の感覚では到底理解不能な数といえよう

ごたごた

「ごたごた」とは、物事が複雑に絡み合い、収拾がつかない様子を表す言葉である

言い訳や余計な説明を重ねる相手に対し、「ごたごた抜かすな!」などと叱責する際にも用いられる

この語の由来については諸説あるが、その一つに、鎌倉時代の僧・兀庵普寧(ごったんふねい、1197~1276)に結びつける説がある

普寧は南宋出身で、来日後は鎌倉の建長寺で住職を務めた人物である

彼の話は非常に難解であり、弟子たちはその意味を理解するのに頭を悩ませたという
また、気難しい性格だったのか、他の僧侶との揉め事も絶えなかったそうだ

こうした人物像と「兀庵」という名が重なり、「ごたごた」という言葉の語源になったとされる

とはいえ、元々大陸出身である普寧は、来日後に言語の壁に直面していた

実際、彼の言葉をまとめた『兀庵和尚語録』には「語音未だ通ぜず」とあり、来日当初の普寧が言語の壁に苦しんでいたことがうかがえる

中国語と日本語の違いが彼の言葉を一層分かりにくく感じさせた可能性は否定できず、そうした印象が後世の連想を呼び、「ごたごた」の語源と結び付けられたのかもしれない

工夫

「工夫」とは、あれこれと思案し、より良い方法を見つけ出そうとすることである

「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」と言うように、もっともベターな結果を出すための精神論に用いられることも多い工夫であるが、やはりこの言葉も仏教を端に発している

中国で成立した禅宗は、ひたすら座禅を組むことで自己と向き合い、悟りを目指す仏教の一派である

禅僧たちは修行そのものを「工夫」と呼び、日々の実践に心身を傾けてきた

禅宗は鎌倉時代に日本へ伝わり、武士の精神世界をはじめ、茶道や懐石料理など、日本文化の形成にも大きな影響を与えた

そして、絶えず自らを磨き続ける「工夫」の精神は、日本人の気質とも結び付き、後のものづくり文化や技術発展の土台となっていったのである

なお、「工夫」と同じ漢字を用いる言葉に工夫(こうふ)がある

こちらは主に肉体労働者を指す語で、「人夫工手間」と呼ばれた手間賃に由来するとされる

この語が禅に取り入れられ、工夫(くふう)の思想が生まれたと語られることもあるが俗説と考えられている

娑婆

逮捕された暴力団の組長などが、刑期を終えて出所する際に「娑婆に出る」と表現することがある

この娑婆とは、仏教において私たちが生きるこの世界そのものを指す言葉である

それが転じて現代では、刑務所や軍隊、閉鎖病棟といった隔絶された環境から見た外の世界、すなわち一般社会を意味するようになった

娑婆はサンスクリット語の「sahā」に漢字を当てたもので、煩悩と苦しみに満ち、忍耐を求められる厳しい世界を表す語である

漢訳仏典では「忍土」「堪忍土」などとも訳され、さまざまな経典において、この世は苦に満ちた場所であると強調する文脈で繰り返し用いられてきた

考えてみれば、人類の社会は決して平穏とは言い難い
戦争や環境問題、食糧不足など、苦しみの種は尽きることがなく、今後も忍耐を求められる状況は続くだろう

娑婆という言葉が示す世界観は、現代においてもなお、現実味を失っていないのかもしれない

参考 : 『般若心経』『兀庵和尚語録』
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

普段使っている言葉・・・実は仏教用語だった・・・はよくあります

本記事では「摩訶不思議」「ごたごた」「工夫」「娑婆」を取り上げましたが、他にも


・・・
挨拶 / 阿吽 /  天邪鬼 / ありがとう / あわれ / 行脚 /  安心 / 按摩 / / 意地 / 以心伝心 / 韋駄天 / 一期一会 / 一大事 / 一念 / 一味 / 一蓮托生 / 一子相伝 / 一心  / 引導 / 因縁 / 有学・無学 / 浮世 / 有頂天 /  うろうろ / 永遠 / 会釈 / 縁起 / 演説 / 往生 / 大げさ / おかげ /  億劫 / 隠密

我 / 開眼 / 開発 / 餓鬼 / 覚悟 / 学者 / 学生 / 火災 / 我慢 / 歓喜 / 観察 / 堪忍 / 甘露 / 機嫌 /  苦 / 空 / 苦行・荒行 / 愚痴 / 供物 / 供養 / 袈裟 / 結界 / 玄関 / 香 / 業 / 講 / 小僧 / 根気 / 言語道断 / 魂魄 / 金輪際

砂糖 / 差別 / 作務 / 三学 / 山号 / 三途 / 三宝 / 持戒 / 止観 / 四苦八苦 / 地獄 / 実際 / 自然  / 邪魔 / 沙門 / 舎利 / 自由 / 出世 / 寿命 / 精進 / 少欲知足 / 図に乗る / 相続 / 相対

退屈 / 大黒天 / 醍醐味 / 対治 / 大丈夫 / だるま / 端正 / 旦那 / 断末摩 / 智慧 / 知恩 / ちくしょう / 知事 / 中道 / 長老 / 徹底 / 投機 / 堂堂廻り / どっこいしょ / 弔い / 弔い上げ

人 

ばか・馬鹿 / 旗 / 鉢 / 花まつり / 般若 / 琵琶 / 無事 / 布施 / 分別 / 報恩 / 法螺 / 本尊 / 本門

瞑想 / 迷惑 / 滅 / 滅法 / 妄想 / 問答

油断

利益 / 輪廻 / 霊魂 / 蓮華 / 六道 / 露地・露路

など

・・・

(参考:じつは身近な仏教用語)

けっこう仏教用語が使われ、生活に浸透していますし、用語の由来、意味などを考えると「なるほど!」「そうだったのか」と思います





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「愛」「あいさつ」「大丈夫」「のれん」「煩悩」といった日常生活の言葉をはじめ、「四苦八苦」「仏の顔も三度まで」「ほらをふく」など、仏教由来のものはそこかしこにあります

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豊臣秀吉が天下統一のために行った関東攻め、いわゆる小田原征伐では、後北条氏に追随した多くの城が、豊臣軍の強大な兵力の前に成す術もなく落城していった

多くの城が早期に抵抗を諦め、豊臣氏に降伏したことから、大規模な戦闘が起きることは少なかった

しかし八王子城を舞台にして起きた「八王子城合戦」では、苛烈な戦闘の末に多くの犠牲者が出たと伝えられている

一部では「関東屈指の心霊スポット」という不名誉な肩書を背負わされている八王子城ではあるが、この地で一体どんな悲劇が起きたというのだろうか

「八王子城合戦」で起きた悲劇について、くわしく掘り下げていきたい


八王子城の歴史

八王子城は、現在の東京都八王子市の、かつては「深沢山」、今では「城山」と呼ばれる山の上に築かれた山城である

八王子という名は神仏習合の神である「八王子権現」に由来し、醍醐天皇の時代に深沢山麓で修業していた華厳菩薩妙行が、牛頭天王とその眷属である8人の王子(御子神)を目の当たりにし、その地に八王子権現を祀ったことからその名が付けられたという

また他説として、深沢山に日吉大社の末社(山王社)があったことから、日吉大社の神体山にちなんで「八王子山」と呼ばれており、山名から取って八王子城と名付けられたという説も存在する

後北条氏の第3代当主である北条氏康の三男・北条氏照が、小田原城の支城として標高460mの位置に築いた八王子城は、関東の西を守る軍事上の重要な拠点として機能していた城だった

織田信長が築いた安土城を参考に構築された八王子城は、移転前に氏照が本拠としていた滝山城とは異なり、周囲を石垣で固めた山城という時代に逆行した造りではあったが、周辺の複雑な地形を活かした堅牢な城であったという

城主の氏照が入城した1587年当時は、御主殿などを含む主要な部分だけが完成しており、氏照が小田原城守備のために城を出た後も、八王子城合戦当日まで増築が繰り返されたと伝えられている

八王子城合戦

豊臣軍が小田原征伐の一環として八王子城を包囲したのは、1590年6月23日のことである

豊臣方の攻撃軍には、前田利家・上杉景勝ら有力大名の軍勢が加わり、その兵力は数万に及んだとも伝えられている

その日、城主である北条氏照と家臣の多くが本城の小田原城の守備のため城を空けており、八王子城は城主不在、城代は氏照の家臣・横地吉信(よこちよしのぶ)がつとめ、少数の重臣たちと、領内で動員された雑兵たちが城を守っている状況であった

その他にも、領内から動員・保護された民衆(女性や子どもを含む)が籠もっており、その数は数千人規模であったとされる

23日未明、濃い霧に包まれた八王子城に対し、豊臣軍の攻撃が開始された

主力部隊は東正面に位置した大手口と北側の搦め手から侵攻し、降伏を拒んだ八王子城の兵たちは豊臣軍とぶつかり合い、両軍ともに多くの死傷者を出す激しい戦いとなった

豊臣軍からも多くの犠牲者が出て一時攻撃の足が止まったものの、やがて豊臣方が城周辺の地形を把握し、搦手方面から攻勢を強めたことが、形勢逆転の一因になったとも考えられている

未明に始まった戦闘はその日のうちに決着がつき、兵たちの必死の抵抗もむなしく、八王子城は陥落してしまった

城代をつとめていた横地吉信は、落城前に八王子城を脱出して檜原村に向かったが、その道中の小河内村の付近にて切腹し自害したと考えられている

「御主殿の滝」で起きた悲劇の伝説

八王子城が築かれた城山の、氏照の居館があった南麓の曲輪には、城山川にかかる「御主殿の滝」と呼ばれる小さな滝がある

この滝には、八王子城落城にまつわる悲劇として、今日まで語り継がれている伝説がある

それによれば、氏照の正室である比左をはじめ、御主殿に立てこもっていた女性や子どもたちは、もはや抵抗は叶わないと悟り、御主殿を守っていた武将たちとともに城山川上流へと向かった

そして失意のうちに自刃し、次々とこの滝に身を投じたという

麓の村では「城山川の水が血で赤く染まった、炊飯すると米が赤く染まった」という逸話もあり、やがて犠牲者を弔う風習へと姿を変え、この地域では現在も、小豆の汁で米を炊いた赤飯、いわゆる「あかまんま」を供える習わしが残っている

豊臣軍に捕らえられた後北条氏の将兵やその妻子の首級は、小田原へと運ばれ、船上に並べられて城の堀に浮かべられた、あるいは城門近くに晒されたと伝えられる

堅城と賞された八王子城が落城し、味方や妻子の首が晒し物にされる光景は、すでに下がりつつあった小田原城に籠る後北条氏の兵たちの、士気をさらに低下させるには十分な効果があった

八王子城の落城後、翌日には小田原城に黒田孝高と織田信雄の家臣が入り、降伏勧告を行っている

落城から2週間足らずの7月5日、後北条氏当主の北条氏直は、これ以上の抗戦は無意味と判断し、城兵の助命を願って降伏の意思を示した

その4日後の7月9日、小田原城は開城し、後北条氏の降伏が豊臣秀吉に伝えられた

城主を失い、時を止めた八王子城

北条氏直は、自身の切腹と引き換えに兵の救済を求めたが、徳川家康の娘婿であったことから、切腹は見送られた

その代わりに前当主である北条氏政と宿老の松田憲秀、同じく宿老の大道寺政繁、そして御一家衆筆頭として北条氏照に切腹が命じられた

氏照は兄・氏政とともに、7月11日、豊臣秀吉の命により切腹して果てた

両名の首は後日、京都の聚楽第門前の橋で晒されたことが、当時の日記史料に記されている

落城後の八王子城は徳川氏の直轄領となった後に廃城となり、明治以降も国有林とされたため、合戦当時の状態のまま保存されていた

1992年から行われた大規模な発掘調査では多くの遺物や遺構が出土し、戦国時代当時から存在した庭石なども今なお残されている

合戦時に起きた惨事から、心霊現象が起きる「肝試しスポット」として認知されている側面もあるが、八王子城跡は「日本100名城」にも選ばれた、戦国時代の文化を現代に伝える重要な遺跡だ

本来この地が持つ歴史的な意味を踏まえ、先人たちと現在も保全活動を行う方々に敬意を持って現地を訪れたいところである

参考 :
八王子市公式ホームページ
前川實(著)『決戦!八王子城 ― 直江兼続の見た名城の最後と北条氏照』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

豊臣秀吉の関東攻め、いわゆる小田原征伐は「秀吉の天下統一の総仕上げ」ともいえるもので、大勢は(秀吉の天下統一へ)決しており、多くが早めに降伏し、激しい戦闘は少なかったという

そんな中で八王子城合戦は激しい戦闘と女・子どもの身投げの悲劇もあった戦いとして知られます

(個人的には一連の小田原征伐では映画「のぼうの城」にもなった忍城の攻防も印象的です)


「御主殿の滝」で起きた悲劇の伝説

八王子城が築かれた城山の、氏照の居館があった南麓の曲輪には、城山川にかかる「御主殿の滝」と呼ばれる小さな滝がある

この滝には、八王子城落城にまつわる悲劇として、今日まで語り継がれている伝説がある

それによれば、氏照の正室である比左をはじめ、御主殿に立てこもっていた女性や子どもたちは、もはや抵抗は叶わないと悟り、御主殿を守っていた武将たちとともに城山川上流へと向かった

そして失意のうちに自刃し、次々とこの滝に身を投じたという

麓の村では「城山川の水が血で赤く染まった、炊飯すると米が赤く染まった」という逸話もあり、やがて犠牲者を弔う風習へと姿を変え、この地域では現在も、小豆の汁で米を炊いた赤飯、いわゆる「あかまんま」を供える習わしが残っている

豊臣軍に捕らえられた後北条氏の将兵やその妻子の首級は、小田原へと運ばれ、船上に並べられて城の堀に浮かべられた、あるいは城門近くに晒されたと伝えられる

堅城と賞された八王子城が落城し、味方や妻子の首が晒し物にされる光景は、すでに下がりつつあった小田原城に籠る後北条氏の兵たちの、士気をさらに低下させるには十分な効果があった

八王子城の落城後、翌日には小田原城に黒田孝高と織田信雄の家臣が入り、降伏勧告を行っている

落城から2週間足らずの7月5日、後北条氏当主の北条氏直は、これ以上の抗戦は無意味と判断し、城兵の助命を願って降伏の意思を示した

その4日後の7月9日、小田原城は開城し、後北条氏の降伏が豊臣秀吉に伝えられた

城主を失い、時を止めた八王子城

北条氏直は、自身の切腹と引き換えに兵の救済を求めたが、徳川家康の娘婿であったことから、切腹は見送られた

その代わりに前当主である北条氏政と宿老の松田憲秀、同じく宿老の大道寺政繁、そして御一家衆筆頭として北条氏照に切腹が命じられた

氏照は兄・氏政とともに、7月11日、豊臣秀吉の命により切腹して果てた

両名の首は後日、京都の聚楽第門前の橋で晒されたことが、当時の日記史料に記されている

落城後の八王子城は徳川氏の直轄領となった後に廃城となり、明治以降も国有林とされたため、合戦当時の状態のまま保存されていた

1992年から行われた大規模な発掘調査では多くの遺物や遺構が出土し、戦国時代当時から存在した庭石なども今なお残されている

合戦時に起きた惨事から、心霊現象が起きる「肝試しスポット」として認知されている側面もあるが、八王子城跡は「日本100名城」にも選ばれた、戦国時代の文化を現代に伝える重要な遺跡だ

本来この地が持つ歴史的な意味を踏まえ、先人たちと現在も保全活動を行う方々に敬意を持って現地を訪れたいところである


 

 


いわゆる「八王子城合戦」は一連の小田原征伐では、激しい戦闘が少なかった中で、激しい戦闘と多くの犠牲者・悲劇が生まれた戦いです

明の建国と、朱元璋

明の初代皇帝・洪武帝(朱元璋 しゅげんしょう)が即位した14世紀後半の中国は、長い戦乱をようやく終えた直後の社会であった

元末の動乱は各地を荒廃させ、農村は疲弊し、治安も制度も崩れきっていた

明は新王朝とはいえ、実態はまだ不安定で、皇帝の権威が自然に尊重される状況ではなかった

この不安定さの中で即位した朱元璋は、歴代皇帝の中でも特異な経歴を持つ人物であった

彼は名門の出ではなく、正真正銘の貧農の子として生まれ、飢饉で家族を失い、托鉢僧や乞食同然の生活を経験し、科挙や貴族的教養とは無縁のまま、頂点に立った皇帝であった

その出自は、彼に「民を思う皇帝」という一面を与えた一方で、強烈な不信感と猜疑心も植え付けた

朱元璋が生きた時代、「殉葬」はすでに過去の慣行であった
https://blog.seesaa.jp/cms/article/edit/list
殉葬とは、君主が亡くなると、その配偶者や側近の命を奪い、墓に共に収める制度である

漢代以降、皇帝の殉葬は急速に廃れ、宋・元を通じて、少なくとも国家制度としては否定されていた

後宮の女性たちが、皇帝の死とともに命を奪われることは、原則として想定されていなかったのである

それにもかかわらず、朱元璋の死後、その意向を受けて殉葬が実施され、数十名の側室たちが命を落とすことになった


後宮に広がった噂と46人の選別

洪武31年、朱元璋の病状が重いことは、すでに後宮でも隠しきれなくなっていた

やがて後宮に、ひとつの噂が広がる

それは「皇帝が崩御した場合、妃嬪の一部が殉葬される」というものであった

この噂は根拠のない流言ではなかった

朱元璋はすでに遺詔の草案を用意させており、その中には明確な条件が記されていたとされる

それは「皇帝の子を産んでいない側室は、死後に皇帝に従わせる」という規定であった

この条件は一見すると合理的に見える

皇子の母となった妃嬪は、将来の皇族と直結する存在であり、政治的にも完全に排除することができない
一方、子を持たない側室は、皇帝の死とともに後宮に存在し続ける理由を失う

朱元璋は、そこに一切の情を挟まなかった

彼女たちに逃げ場はなかった
後宮は高い塀に囲まれた閉鎖空間であり、外に助けを求める術もない
恐怖は個々の妃嬪の胸に沈殿し、やがて集団的な絶望へと変わっていった

では、実際にどれほどの人数が犠牲になったのか

『明史』は太祖の崩御に際して「宮人多從死者」と記すのみで、具体的な数は示していない

ただし後世の記録や注記を含めると、孝陵に葬られた后妃は46人に及んだとされる

この中には、朱元璋の死に伴って命を落とした側室たちに加え、生前に亡くなり、のちに合葬された后妃も含まれていたと考えられる

「殉葬」はどのように実行されたのか

殉葬は、公開の場で行われた処刑ではない

儀礼の名の下、静かに、そして迅速に進められた
実務を担ったのは太監(宦官)である

名簿は太監によって管理され、本人たちに事前に告げられることはなかったとされる

それがかえって恐怖を増幅させた

太監たちは遺詔に基づき、事前に作成された名簿を管理し、対象者を一人ずつ呼び出していった

側室の妃嬪たちは「皇帝に従う」という名目で後宮を出され、そのまま孝陵へ向かわされた

そこに待っていたのは「葬られる者」のために用意された空間であった

殉葬の具体的な方法については、同時代から後世にかけての記録や慣行を踏まえると、多くは絞殺、あるいは密閉空間に閉じ込める形で命を奪われたと考えられている

いずれにせよ、自ら死を選ぶ余地はなく、国家の意思として命が処理された

一方、殉葬された者たちの家族は、国家によって一定の処遇を受けた

『明史』には、殉死者の遺族が「太祖朝天女戶」と呼ばれ、官職や俸給を与えられた例が記されている
これは悲劇に対する補償というより、殉葬を制度として正当化し、社会に組み込むための措置だった

こうして数多くの妃嬪たちが、朱元璋の死とともに歴史の表舞台から消えた
彼女たちの名の多くは残されていない

声を持たず、選択肢も与えられず、ただ制度として消費された存在だったのである

なぜ朱元璋は殉葬を復活させたのか

朱元璋の殉葬は、彼が築いた国家観と人間観が、死後にまで及んだ結果である

彼は生前から「秩序」を何よりも重んじた

法は絶対であり、情は排されるべきものだった
功臣であろうと容赦なく粛清し、家族であっても法の外に置かなかった
その姿勢は、死後の世界に対しても変わらなかったのだ

また朱元璋は、生涯を通じて人を信用しきれなかった皇帝である

極貧の出自、裏切りと猜疑の連続、権力を得てからの粛清
その人生は、他者への不信によって形作られていた
後宮の側室たちも、彼にとっては例外ではなかった

殉葬は、朱元璋の死後も惰性のように続き、約60年後、第6代正統帝/第8代天順帝として重祚した英宗の遺詔によって禁止され、ようやく制度として否定されることになる

つまり殉葬の復活は、明という王朝が完全に成熟する前段階で生じた、歪みの象徴だったとも言えるだろう

秩序と恐怖によって国家を築いた男が、最後に行き着いた当然の帰結だったのかもしれない

参考 : 『明史』「列傳第一后妃一」「列傳第二后妃二」『史記』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

明の初代皇帝である朱元璋は貧農も貧農のド貧農の乞食同然から皇帝に成り上がった人物だ

その出自は、彼に「民を思う皇帝」という一面を与えた一方で、強烈な不信感と猜疑心も植え付けた

彼は「秩序」を重んじ、その出自もあるのか功臣だろうが自分の家族だろうが人を信じない猜疑心の強い人物であった

それは生前はもちろん死後にも及んだ

それが「殉死の復活」につながったのでは・・・


明の建国と、朱元璋

明の初代皇帝・洪武帝(朱元璋 しゅげんしょう)が即位した14世紀後半の中国は、長い戦乱をようやく終えた直後の社会であった

元末の動乱は各地を荒廃させ、農村は疲弊し、治安も制度も崩れきっていた

明は新王朝とはいえ、実態はまだ不安定で、皇帝の権威が自然に尊重される状況ではなかった

この不安定さの中で即位した朱元璋は、歴代皇帝の中でも特異な経歴を持つ人物であった

彼は名門の出ではなく、正真正銘の貧農の子として生まれ、飢饉で家族を失い、托鉢僧や乞食同然の生活を経験し、科挙や貴族的教養とは無縁のまま、頂点に立った皇帝であった

その出自は、彼に「民を思う皇帝」という一面を与えた一方で、強烈な不信感と猜疑心も植え付けた

朱元璋が生きた時代、「殉葬」はすでに過去の慣行であった
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殉葬とは、君主が亡くなると、その配偶者や側近の命を奪い、墓に共に収める制度である

漢代以降、皇帝の殉葬は急速に廃れ、宋・元を通じて、少なくとも国家制度としては否定されていた

後宮の女性たちが、皇帝の死とともに命を奪われることは、原則として想定されていなかったのである

それにもかかわらず、朱元璋の死後、その意向を受けて殉葬が実施され、数十名の側室たちが命を落とすことになった


なぜ朱元璋は殉葬を復活させたのか

朱元璋の殉葬は、彼が築いた国家観と人間観が、死後にまで及んだ結果である

彼は生前から「秩序」を何よりも重んじた

法は絶対であり、情は排されるべきものだった
功臣であろうと容赦なく粛清し、家族であっても法の外に置かなかった
その姿勢は、死後の世界に対しても変わらなかったのだ

また朱元璋は、生涯を通じて人を信用しきれなかった皇帝である

極貧の出自、裏切りと猜疑の連続、権力を得てからの粛清
その人生は、他者への不信によって形作られていた
後宮の側室たちも、彼にとっては例外ではなかった

殉葬は、朱元璋の死後も惰性のように続き、約60年後、第6代正統帝/第8代天順帝として重祚した英宗の遺詔によって禁止され、ようやく制度として否定されることになる

つまり殉葬の復活は、明という王朝が完全に成熟する前段階で生じた、歪みの象徴だったとも言えるだろう

秩序と恐怖によって国家を築いた男が、最後に行き着いた当然の帰結だったのかもしれない


こうして「殉死させられた」数多くの妃嬪たちが、朱元璋の死とともに歴史の表舞台から消えた
彼女たちの名の多くは残されていない
「殉死」とともに歴史の闇に「葬られた」のだ


 

 


貧農から皇帝に上り詰め、巨大な専制国家の樹立に成功した朱元璋
日本でいえば豊臣秀吉並みの出世か
そして、彼の二面性、複雑さも本書から感じる

2025年のノーベル化学賞を受賞したのは、京都大学の北川進氏でした

北川氏はMOFを1997年に発表
均一な微細孔と高い比表面積などを特徴とする多孔性物質です

有機金属構造体(MOF: Metal-Organic Framework、以下MOF)とも呼ばれる多孔性配位高分子(PCP: Porous Coordination Polymer、以下PCP)です
自由に設計できることから、「分離」「貯蔵」「吸着」「変換」といった様々な機能を発揮します
現在、実用化の範囲はまだ限られていますが、今後は活用の幅が広がると期待されています

例えば、二酸化炭素や水などを自由に「分離」「貯蔵」「吸着」「変換」できることから環境問題、水問題の解決への応用が期待されています

よくジャングルジムの構造に例えられますが、柔軟な構造で応用範囲も広いと期待されています

世間から最初はあまり注目されていなかったMOF・・・
北川氏は「一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしている」とする「無用の用」は中国の思想書「荘子」に出ており、よくMOFを例え、引き合いに出します


 

 


荘子は中国思想の老子と並ぶ道家思想の古典です
無為自然などで知られます
本書は荘子全4冊のー(内篇)で、他に二(外篇)、三(外篇・雑篇)、四(雑篇)があります
(ちなに「無用の用」は内篇の人間世篇にあります)