メインウェーブ日記

メインウェーブ日記

気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

■■■このブログでは、以下について記載した記事があります


競馬の名馬やエピソードなど、大相撲の名力士やエピソードなど、ビートルズやビートルズのエピソードや名盤など、お小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネス、プロ野球やラグビーなどのスポーツ、各スポーツの名選手やエピソードなど、その他気になるニュースやスポーツなど

(以下はその一例です)


■競馬

(世界の名馬)~コラム(競馬)

シーバード、リボー、ニジンスキー、セクレタリアト、セントサイモン、キンチェム、オーモンド、ネレイデ、ノーザンダンサーなど

例:伝説の史上最強馬・シーバード

16戦全勝無敗と凱旋門賞連覇・リボー

(日本の名馬)~コラム(競馬)

シンボルルドルフ、ディープインパクト、エルコンドルパサー、サイレンススズカ、オグリキャップなど

例:日本競馬史上最強馬・シンボリルドルフ

日本近代競馬の結晶・ディープインパクト

(コラム)~コラム(競馬)

例:サンデーサイレンスの「遺産」とこれからの社台グループ

ノーザンダンサー系の今後

(世界のホースマン)~コラム(競馬)

例:ドルメロの魔術師~フェデリコ・テシオ

(日本のホースマン)~コラム(競馬)

例:天才、変幻自在の騎乗、オッズを変える男・福永洋一


■大相撲の名力士~コラム(大相撲)

雷電為右エ門、谷風梶之助、双葉山定次、大鵬幸喜など

例:史上最強力士・雷電為右エ門

横綱の中の横綱・谷風梶之助


■ビートルズ~コラム(ビートルズ)、音楽・名盤・ロック(ビートルズ)

例:20世紀最高のロックバンド・ビートルズ

ロックの金字塔・・・サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド


■お小遣いサイト~お小遣いサイト

お財布.com、げん玉など

例:おすすめのお小遣いサイト~お財布.com

おすすめのお小遣いサイト~げん玉


■アフィリエイト~アフィリエイト

例:ネットビジネスの代表的なァフィリエイト



●野球やラグビー

特にプロ野球やラグビーについて

■テニスの男女の名選手

(男子)~コラム(スポーツ)

ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドル、ピート・サンプラス、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダルなど

例:4大大会優勝回数史上1位などのロジャー・フェデラー選手

「土の絶対王者」ラファエル・ナダル選手

(女子)~コラム(スポーツ)

シュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワ、クリス・エバート、セリーナ・ウィリアムズなど

例:「年間ゴールデン・スラム」を達成した女王・・・シュテフィ・グラフ選手


■F1の名ドライバー~コラム(スポーツ)

アイルトン・セナ、ミヒャエル・シューマッハー、アラン・プロストなど

例:「音速の貴公子」「最も速かった」アイルトン・セナ選手

「史上最強ドライバー」ミヒャエル・シューマッハー選手


■各種スポーツ


■その他気になるニュースやスポーツなど

吸血鬼といえば、ヨーロッパを代表する怪物のひとつである

特に東欧は吸血鬼伝説の宝庫として知られ、古くから数多くの言い伝えが残されてきた
しかし、人間の生き血を啜る怪物の物語は、ヨーロッパだけのものではない

世界各地に目を向けてみると、姿や性質こそ異なるものの、血を求めて人間を襲う怪物の伝承が、あらゆる地域で語り継がれている

そんな、世界各地に残る奇妙な吸血鬼伝説を探索していこう


東南アジアの吸血鬼伝説

東南アジアは東欧に負けずとも劣らない、吸血鬼伝説の宝庫である

しかも、どことなくスタイリッシュさを感じる東欧のそれとは異なり、血生臭く醜悪極まりない吸血鬼伝説が数多く云い伝えられている

最も有名なのは、タイ王国のピー・ガスー(Phi Krasue)という女吸血鬼である

ピー・ガスーは、日中は普通の人間のようにふるまっており、外見だけでは吸血鬼かどうかを判別することはできない

だが夜になると、ピー・ガスーは胴体と頭部を分離させ、首と内臓だけで宙を舞うという
彼女は血が大好物であり、民家に侵入しては、眠っている人間の生き血をこっそり啜る

しかし内臓むき出しのその身体は非常に脆く、ちょっとでも傷がつくと死んでしまうのだそうだ

ずいぶんと変わった吸血鬼であるが、タイでは非常に人気が高く、映画やドラマにおいて頻繁に題材にされている

ピー・ガスー役をきっかけに注目を集める女優もいるとされ、タイの怪談文化においては特別な存在感を持つ妖怪といえる

また、マレー半島やボルネオ島にはペナンガラン(Penanggalan)という、ピー・ガスーと酷似した吸血鬼が伝わる

ペナンガランも普段は人間のフリをしているが、夜になると首と内臓だけになり、生き血を求めさまようのだという

このような「首と内臓だけで飛ぶ」吸血鬼の伝承は、東南アジアに広く分布しており、古来より人々に恐れられてきたのである

中南米の吸血鬼伝説

中南米は白人による侵略と入植、そして奴隷貿易による移民の流入により、現地の伝承と舶来の伝承が複雑に混ざり合ってきた歴史を持つ

皮肉にもその結果、オリジナリティあふれるさまざまな吸血鬼伝説が、数多く生まれている

コロンビアには、パタソラ(Patasola)なる女吸血鬼の伝承がある

その名は「片足の女」を意味し、文字通り隻脚の姿をしている

ジャングルに生息しており、通りかかった木こりや猟師を誘惑して森の奥へと誘い込み、その血を啜って殺すとされている

一説によると、パタソラは元々人間の女性であり、人妻であったそうだ
だが夫を裏切って不貞を働いた結果、間男ともども夫に惨殺されてしまったという

その際に片足を切り落とされ、もがき苦しみながら絶命した結果、激しい憎しみとともに吸血鬼として蘇ったと伝えられている

カリブ海沿岸地域には、スークヤント(Soucouyant)という奇妙な吸血鬼が伝わる

普段は人間の老婆の姿をしているが、夜になると皮を脱ぎ、火の玉となって飛び立ち始める

そして血を求めて民家に侵入するのだが、その際にどんなに厳重に戸締りをしていても、鍵穴などのちょっとした隙間から入ってきてしまうという

血を吸われ過ぎて死んだ者は新たなスークヤントになるともされ、非常に恐れられていた

だがスークヤントは非常に神経質な性格をしており、十字路に米粒などが積まれていると、数えずにはいられないのだそうだ

そこで人々は集落の周りに米を撒き、スークヤントがそれを数えている隙に、彼女が脱ぎ捨てた皮を見つけ出す
そこへ粗塩を揉み込むことで、スークヤントは人間の姿に戻れなくなり、そのまま絶命するという

日本の吸血妖怪

意外なことに我々の住む日本においても、吸血鬼の伝承は残されている

よく知られるものに、九州各地の海辺に現れるという磯女(いそおんな)が挙げられる。

一見美しい女性のようだが、下半身は蛇のようだとも、幽霊のように透けて見えるともいわれる
その伝承には地域差があるが、大抵のパターンにおいて、男の血を吸って殺してしまう恐ろしい妖怪として描かれる

他にも、狂言の演目『蚊相撲』においては、世にも珍しい「蚊の精」が登場する


(意訳・要約)

ある大名が家来を召し抱えたいと思い、部下に強者を連れてくるよう命じた。
すると部下が町から、屈強な力士を連れてきたではないか。

なんでも彼は、江州守山(現在の滋賀県守山市)から来た者で、相撲にはかなり自信があるとのことだった。

さっそく大名は力士の実力を見るため、自らが取組相手となった。
ところが力士は羽虫のように舞い、大名は翻弄され、まるで血を抜かれたようにフラフラになって倒れてしまった。

実は力士の正体は、蚊が人間に化けたものだったのである。
(江州守山は、かつて蚊帳の産地として知られており「蚊」と結びつけられやすい土地でもあった)

肉体がぶつかり合った瞬間、力士は口から針を伸ばして大名の血を吸い取っていた。
だが力士の正体を察した大名は、部下に耳打ちをしたのち、もう一度取組を行いたいと言った。

人肌に触れ、思う存分血を吸いたい力士は、この提案を受け入れる。
そして再び取組が始まったその刹那、部下は扇をパタパタとあおぎ、力士に向かってこれでもかと風を送り始めた。
すると蚊である力士は、風にあおられて思うように舞えなくなってしまう。

大名はこの機を逃さず、素早く力士の口から針を引き抜いた。
血を吸えなくなった力士は、そのまま敗走したという。

このように吸血鬼の伝説は地域によって大きく異なるが、そこには人々が血や死、夜の闇に抱いてきた根源的な恐怖が、色濃く刻まれているのかもしれない

参考 : 『Jah-het of Malaysia art and culture』『蚊相撲』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

本記事では、吸血鬼の本場(!?)・ヨーロッパ以外の世界各地の吸血鬼の怪異、伝承、伝説を紹介した

ヨーロッパ以外にも吸血鬼伝説はあるのですね

吸血鬼の伝説は地域によって大きく異なるが、そこには人々が血や死、夜の闇に抱いてきた根源的な恐怖が、色濃く刻まれているのかもしれない


ちなみに、蚊やヒル、チスイコウモリなどの「吸血動物」も世界各地にいるらしい



 

 


ヒト、ウシ、ウマ、その他・・・

あらゆる "他者" の血を吸って生きる動物たちのカラー図鑑
血を吸うしくみや、疫病媒介の歴史など、幅広いテーマで彼らの生態を紹介します

フランス革命からナポレオンの時代、そして王政復古に至る激動の時代において、常に政治の舞台裏で絶大な影響力を持ち続けた男がいました

その男の名はジョゼフ・フーシェ

ある時は国王の処刑に賛成する革命家となり、ある時は後の皇帝ナポレオンを支える警察大臣となり、またある時は復活した王政の閣僚となった人物です

まるで風見鶏のように節操がなく、意に沿わない反乱分子を大量に処刑し、虐殺者とも呼ばれたこの男が、常にフランスの権力の中心に残り続けた背景には何があったのでしょうか

教壇から革命の舞台へ

ジョゼフ・フーシェは1769年5月21日、フランス西部の港町ナント近郊で、船長を父に持つ家に生まれました

幼少期は体が弱く、父と同じ海の仕事に就くことはできませんでした
そこで彼はキリスト教の宗教団体であるオラトリオ修道会が運営する学校で学び、やがて自らも同修道会で物理学や数学の教師として教壇に立つようになります

この時期のフーシェは、聖職者の衣装を身にまとった物静かな知識人でした

のちに革命の指導者となるロベスピエールとも、この時期に北部の街アラスの学校で出会い、交流を持ちました

一時期はロベスピエールの妹シャルロットとも婚約寸前までいきましたが、結局この関係は成就しませんでした

しかし1789年にフランス革命が勃発すると、フーシェの人生は大きく変わります

彼は修道会を離れて地元のナントで政治活動を始め、1792年には国民公会の議員に当選してパリへと赴きました
当初のフーシェは、穏健なジロンド派に近い立場を取っていました。しかし、議会の情勢が山岳派へ傾くと、彼は自らの立ち位置を変更します

※ジロンド派とは、フランス革命期の穏健寄りの共和派。山岳派はロベスピエールらが属したジャコバン派寄りの急進共和派で、国王処刑や反革命勢力への強硬策を推進した

1793年1月、国王ルイ16世の処刑をめぐる投票において、フーシェはそれまでの穏健な態度を改め、国王の即時死刑に一票を投じたのです
これが、彼の政治的転換の始まりとなりました

さらにフーシェは、共和国の代表派遣議員として地方へ送られ、そこで積極的な脱キリスト教化政策に身を投じます

かつては物静かに宗教組織で教鞭を執っていたにもかかわらず、変節した彼は、教会から財産を接収し、礼拝を制限して、理性崇拝や脱キリスト教化を推進しました

しかも彼の行動は徹底しており、地方の伝統的な信仰を強く排斥しようとしたのです

リヨンでの大量処刑

1793年の後半、フランス第二の都市リヨンで反革命の暴動が発生し、この反乱を鎮圧した共和国政府は大規模な報復を計画しました

この計画の実行者としてリヨンへ派遣されたのが、フーシェと、同僚ジャン=マリー・コロー・デルボワでした

フーシェがリヨンで行った処刑は、ギロチンだけでは対応できないほど大量のものでした
彼は大砲に散弾を詰め、縛り付けた囚人たちに向けて発射するという方法を採用します

こうした一連の報復処刑により、少なくとも1600人、資料によっては1800人前後が命を落としたとされます
この冷徹な手腕により、彼は「リヨンの虐殺者」という悪名で知られるようになりました

しかし、パリで権力を握りつつあったロベスピエールは、フーシェの行き過ぎた暴力を批判するようになります
危険を察知したフーシェはパリへ戻りますが、ロベスピエールとの対立は決定的となり、ついには自身が属していたジャコバン・クラブから除名され、危うい立場に追い込まれました

ここからフーシェの生存をかけた工作が始まります

同じようにロベスピエールからの粛清に恐怖を抱いていたジャン=ランベール・タリアンや、ポール・バラスといった議員たちと秘密裏に接触したのです

フーシェは議会の裏で議員たちを一人ずつ訪ね歩き「ロベスピエールの胸ポケットには次の処刑候補者の名簿が入っており、そこには君の名前も載っているはずだ」と告げて回りました

この真偽不明の警告によって議員たちの恐怖心を激しく煽り、ロベスピエール打倒に向けた包囲網を構築したのです

1794年7月27日、「テルミドール9日のクーデター」が勃発しました

フーシェによる執拗な裏工作の結果、議会で孤立したロベスピエールはついに逮捕され、その翌日に処刑されました

フーシェは謀略によって、最大の政敵を排除したのです

ナポレオンを手玉に取った情報網

ロベスピエールの死後、フランスは5人の総裁が行政権を担う「総裁政府」という新しい体制へ移行しました

ロベスピエールを倒した立役者の一人だったフーシェですが、あまりのずる賢さを警戒されたのか、政治の表舞台から一時的に追い出されてしまいます

彼は一転して、明日のパンにも困るほどの極貧生活を送ることになりますが、諦めませんでした

かつてクーデターを一緒に計画した仲間で、今は政府の最高権力者の一人となっていたポール・バラスに巧みに近づき、その信頼を取り戻します

そして1799年7月、ついに「警察大臣」という強力なポストに任命されました

ここから、彼の真の才能が発揮されることになります

警察大臣となったフーシェは、フランス全土に目に見えない巨大なスパイ網を張り巡らせました
彼の耳目となったのは、街の一般市民から、かつての貴族、さらには軍の高官や政治家の妻たちに至るまで、あらゆる階層の人々でした

フーシェは彼らから集めた膨大な秘密をもとに、パリの治安状況や、政府を転覆させようとする陰謀の噂を細かくまとめた報告書を毎日作成し、政府のトップへ提出するようになります

誰がどこで何を話し、どんな企みを持っているのか、すべてを把握したフーシェは、いつしか政府のリーダーたちさえも恐れる「情報の怪物」となっていったのです

そうしたなか、1799年11月、エジプト遠征から帰還して国民的な英雄となっていたナポレオンが、武力で政府を倒し、国の実権を握るクーデターを起こしました

警察のトップであったフーシェは、実はこの動きを事前につかんでいました

しかし、あえて阻止せずに見逃すという賭けに出ることで、ナポレオンの権力奪取を影で支え、新しい体制へと滑り込んだのです

ナポレオンはフーシェの類まれな有能さを認めていましたが、同時に裏切りも辞さないその危険性を誰よりも警戒していました

そのため、ナポレオンは独裁者となり、さらに皇帝として即位してからも、フーシェを警察大臣として手元に置き、利用し続けました

これによりフーシェは、ナポレオンという新たな支配者の独裁体制を治安維持の面から支えることになったのです

しかしフーシェは決してナポレオンに心から忠誠を誓っていたわけではありませんでした
それどころか、主君であるナポレオンの動向さえも監視の対象にしていたのです

彼は、ナポレオンの妻であるジョゼフィーヌが、浪費による借金に苦しんでいることに目をつけました

フーシェは警察資金を用いて彼女の金銭問題を助け、その見返りとして、ナポレオンの私生活に関する情報を得ていたとも伝えられています

さらに、ナポレオンが終わりなき戦争に突き進むようになると、フーシェは「この男はいつか破滅する」と見限ります

彼はナポレオンに隠れて天才的な外交官タレーランと接近し、さらに敵国イギリスとの和平交渉にも関わるなど、ナポレオン失脚後も自らが権力を維持するための準備を進め始めたのです

この裏切りを知って激怒したナポレオンは、1810年にフーシェを罷免します

しかし、それから5年後の1815年、戦争に敗れて島に流されていたナポレオンが脱出して「百日天下」と呼ばれる奇跡のカムバックを果たした時、ナポレオンは憎いはずのフーシェを再び警察大臣に任命せざるを得ませんでした

どれほど生意気で信用できなくても、フーシェが持つ圧倒的な情報力と、国内をコントロールする手腕がなければ、もはや国を維持できないことをナポレオン自身が痛いほど知っていたからです

王政復古と最後の選択

1815年6月、ナポレオンはワーテルローの戦いで完敗し、その政治生命は完全に絶たれました

皇帝の没落によって国家が混乱に陥るなか、誰よりも素早く動いたのがフーシェでした

彼はナポレオンに退位を迫って退陣させると、自らが臨時政府のトップに就任し、事実上の最高権力者の座を手に入れたのです

ここからフーシェは、新政権へのアプローチを始めます

当時、フランスには敗戦国となったパリを目指して連合国軍が迫っており、かつて革命によって国を追われていたブルボン朝のルイ18世が、王政を復活させようと帰国の途に就いていました

これはフーシェにとって、最大の危機のはずでした。

なぜなら彼は過去のフランス革命において、国王ルイ16世の処刑に賛成票を投じた当事者だったからです
王政が復古すれば、真っ先に処刑されてもおかしくない立場でした

しかし、フーシェは国王の弟であるアルトワ伯に接触し「自分が持つ警察組織とスパイ網の力を使えば、新政権の治安を維持してみせる」と持ちかけます

国王側も、国内の不満分子を抑え込むにはフーシェの圧倒的な統治能力が必要不可欠であると判断し、彼を再び警察大臣のポストに任命しました
自身の兄を死に追いやった仇敵を閣僚に迎えるという人事は、当時のフランス社会に大きな衝撃を与えました

再び権力を握ったフーシェは、新しい王への忠誠を示すため、かつての革命の同志たちを裏切る行動に出ます
彼らを国内から追放するためのリストを自ら作成し、署名して提出したのです

しかし、この冷徹な保身も長くは続きませんでした

やがて議会で王党派の過激な勢力が圧倒的多数を占めるようになると、過去に国王を殺害したフーシェへの批判は急速に強まります
その結果、フーシェはわずか数ヶ月で警察大臣を更迭され、外交公使としてフランスから遠ざけられました

さらに翌年、国王殺害者を国内から永久追放する法律が成立したことで、彼は二度と祖国の土を踏むことができなくなったのです

1820年12月、ジョゼフ・フーシェは亡命先のトリエステで、61年の生涯を閉じました

死の間際、彼は自らが集めてきた膨大な秘密書類や報告書の多くを焼却させました
彼が握っていた情報とは、無数の人々の弱みであり、フランス国家の裏の歴史そのものだったからです

共和派からは「ロベスピエールを裏切った男」、ナポレオン派からは「皇帝の没落を見越して動いた裏切り者」、王党派からは「ルイ16世を殺した憎き仇」であったフーシェは、まさにカメレオンのような政治家でした

どれほど政権が目まぐるしく変わっても、常に権力の中枢に残り続けたのです

しかし、フーシェが自身の生存戦略のために作り上げた近代的な警察機構と情報収集システムは、結果的にその後も長く受け継がれ、フランスの国家基盤の礎となったことは、彼が遺した偽らざる功績であるといえるでしょう

参考文献 :
『ジョゼフ・フーシェ-ある政治的人間の肖像』/シュテファン・ツヴァイク(著),山下 肇(訳),山下 萬里 (訳) 他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

ジョゼフ・フーシェ・・・

彼は、フランス革命からナポレオンの時代、そして王政復古に至る激動の時代において、常に政治の舞台裏で絶大な影響力を持ち続けた男でした

ある時は国王の処刑に賛成する革命家となり、ある時は後の皇帝ナポレオンを支える警察大臣となり、またある時は復活した王政の閣僚となった人物です

まるで風見鶏のように節操がなく、意に沿わない反乱分子を大量に処刑し、虐殺者とも呼ばれたこの男が、常にフランスの権力の中心に残り続けました

彼は、情報収集能力の高さと卓越した時勢を読む交渉力で・・・

ナポレオンの百日天下で皇帝に復活した時でさえ、政権になくてはならぬ情報力・国家の重要機密を握り、処刑もされずに政府の中心で活躍・・・

しかし、王制復古後は、(情報力と交渉術の)保身も長く続きませんでした

やがて議会で王党派の過激な勢力が圧倒的多数を占めるようになると、過去に国王を殺害したフーシェへの批判は急速に強まります
その結果、フーシェはわずか数ヶ月で警察大臣を更迭され、外交公使としてフランスから遠ざけられました

さらに翌年、国王殺害者を国内から永久追放する法律が成立したことで、彼は二度と祖国の土を踏むことができなくなったのです

1820年12月、ジョゼフ・フーシェは亡命先のトリエステで、61年の生涯を閉じました

死の間際、彼は自らが集めてきた膨大な秘密書類や報告書の多くを焼却させました
彼が握っていた情報とは、無数の人々の弱みであり、フランス国家の裏の歴史そのものだったからです

共和派からは「ロベスピエールを裏切った男」、ナポレオン派からは「皇帝の没落を見越して動いた裏切り者」、王党派からは「ルイ16世を殺した憎き仇」であったフーシェは、まさにカメレオンのような政治家でした

どれほど政権が目まぐるしく変わっても、常に権力の中枢に残り続けたのです

しかし、フーシェが自身の生存戦略のために作り上げた近代的な警察機構と情報収集システムは、結果的にその後も長く受け継がれ、フランスの国家基盤の礎となったことは、彼が遺した偽らざる功績であるといえるでしょう




 

 


「サン=クルーの風見」
フーシェにつけられた仇名である
フランス革命期にはもっとも徹底した教会破壊者にして急進的共産主義者
王制復古に際してはキリスト教を信ずることのきわめて篤い反動的な警務大臣
フーシェは、その辣腕をふるって、裏切り、変節を重ね、陰謀をめぐらし、この大変動期をたくみに泳ぎきる

仏教の宗派でも浄土真宗と日蓮宗はある意味異端であると思う

これはこれらの宗派の開祖である親鸞と日蓮が独特だからだ

ここでの異端は、仏教では独特ということで、邪教などの否定的意味ではない


浄土真宗は、浄土宗の開祖・法然の弟子であった親鸞から始まった宗派だ
阿弥陀如来を本尊とするところは浄土宗と同じだが、「悪人正機説」、髪を坊主にしないなど他の宗派に比べ戒律が自由で、位牌でなく位牌軸で戒名といわれる名称も違ったはず・・・
浄土真宗は、多くの諸派に分裂しています

日蓮宗の実践の中心は、「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えることが重要とされます
布教の苦難、流罪などにもあっていますが、数々の奇跡を起こしたとも・・・
法華経の身が人々を救い、他宗教、多宗派の批判が強かったイメージです
日蓮宗の大きな団体の一つに創価学会があります


浄土真宗と日蓮宗は、仏教の中では独自・独特な教えの宗派だと思います


宗派でなく、個人でいえば、とんちなどでも知られ破戒僧ともいわれた一休、和歌をたしなみ自然を愛した人造人間も作ったミステリアスな西行、数々の奇跡、逸話、伝説のある空海も魅力ある僧ですね


私は無宗教ですが、宗教、神話、伝説、謎、不思議、怪異などに惹かれます


 

 


進化心理学の巨人ダンバーが描く、人類と信仰の20万年

仏教、キリスト教、ヒンドゥー教、神道・・・
世界の主要な宗教は、なぜ同じ時期に同じ気候帯で誕生したのか?
カルト宗教はなぜ次々と生まれ、人々を惹きつけるのか?

科学が隆盛を極める現代においても、宗教は衰えるどころかますます影響力を強めている
ときに国家間の戦争を引き起こすほど人々の心に深く根差した信仰心はなぜ生まれ、いかにして私たちが今日知る世界宗教へと進化したのか?

「ダンバー数」で世界的に知られ、人類学のノーベル賞「トマス・ハクスリー記念賞」を受賞した著者が、人類学、心理学、神経科学など多彩な視点から「宗教とは何か」という根源的な問いに迫った、かつてないスケールの大著

世界で最も誕生日が有名な人物といえば、やはりイエス・キリストだろう

12月25日は、キリスト教の始祖であり救い主とされるイエスの誕生を祝う「クリスマス」として世界中で広く知られている

ただしこれは「イエスが12月25日に生まれた」という意味ではない

世間的には「12月25日はイエスの誕生日」と思われがちだが、正確には「イエスの誕生を祝う日」であり、イエスが本当は何月何日に生まれたのかを示す確かな記録は残されていないのである

なぜ12月25日なのか?

これには、キリスト教がローマ帝国内で公認され、やがて広く定着していく過程が関係している

もともとキリスト教はユダヤ教から派生した宗派であり、派生した当時は「ユダヤ教イエス派」とでも呼ぶべき、ユダヤ教のマイナー宗派に過ぎなかった

だが、キリスト教はユダヤ教の律法至上主義(ユダヤ教のルールを厳格に守る事。豚を食べてはダメ、安息日は働いてはダメなど)と、選民思想(ユダヤは神から選ばれし民であるとの思想)を受け継がなかった点において大きく異なる

ユダヤ人以外にも門戸を開いていったキリスト教は、ローマ帝国内のさまざまな人々に受け入れられていった

長きにわたって迫害されてきたが、4世紀の末にテオドシウス帝の命により、ローマで正式にキリスト教が国教として定められた

公認される立場に変わっていく過程において、キリスト教には様々な暦が定められたが、実はこの暦はキリスト教以前に存在した土着宗教の暦が元になったものもある

例えば2月2日は、聖母マリアのお浄めや幼子イエスの神殿奉献を記念する「聖燭祭」、その前日の2月1日はケルトの祭日「インボルク」とされ、古代ローマでは浄化と結びつく月だった

12月25日は、ユリウス暦では冬至と結びつく日である

太陽の力が最も弱まり、そこから再び日が長くなっていくこの日は「新しい太陽が生まれる日」とも考えられていた
ローマでは12月25日が「不敗の太陽」ソル・インウィクトゥスの誕生日とされ、ローマ兵の間で広まったミトラ信仰とも結びつけられた

こうした冬至や太陽信仰のイメージが、キリスト教の中で「救い主の誕生」と重ね合わされていったのだろう

また初期キリスト教には、イエスの受胎を3月25日と考え、そこから9か月後の12月25日を誕生の日とする考え方もあった

つまり12月25日は、もともとあった冬至の象徴性と、キリスト教内部の暦の考え方が重なり合う中で定着していったと考えられる

実在の人物としての「ナザレのイエス」

多くの歴史学者の間では、イエスは実在した人物であると考えられている

また、歴史研究においては「イエス・キリスト」ではなく「ナザレのイエス」と呼ばれる
(ベツレヘム生まれ説とナザレ生まれ説があるが、ナザレで育ったことは確かであろうというのが定説であることからこう呼ばれる)

一般的には西暦元年生まれと思われがちだが、歴史研究では紀元前6〜4年ごろに生まれたと見る説が多い

そのため、世間に広まっている「イエス・キリストは西暦元年12月25日に生まれた」というイメージは、少なくとも歴史的には正確ではない

イエスが具体的にいつ生まれたのかは、新約聖書にも歴史書にも明確な描写がない
だが、新約聖書の『ルカによる福音書』にはイエス誕生のエピソードが載っている

2章8節にはイエスが生まれたころ「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた」との描写がある

12月のベツレヘムは雨が多く、気温も低い
寒く雨の多い時期に、羊飼いが一晩中野宿して羊の番をしていたと考えるのは、やや不自然である
新約聖書の描写を信じるならば、イエスが真冬の12月25日に生まれたとは考えにくい

では、本当はいつなのか

これは今なお残る歴史のミステリーである
もし本当の誕生日が判明したなら、世紀の大発見といってもいいだろう

参考:
植田重雄『ヨーロッパ歳時記』
鶴岡真弓『ケルト 再生の思想——ハロウィンからの生命循環』
山我哲雄 『キリスト教入門』
文 / ニコ・トスカーニ 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

世間一般では、西暦元年12月25日がイエス・キリストの誕生日とおもわれがちだ・・・
しかし違うようだ

12月25日は、キリスト教の始祖であり救い主とされるイエスの誕生を祝う「クリスマス」として世界中で広く知られている

ただしこれは「イエスが12月25日に生まれた」という意味ではない

世間的には「12月25日はイエスの誕生日」と思われがちだが、正確には「イエスの誕生を祝う日」であり、イエスが本当は何月何日に生まれたのかを示す確かな記録は残されていないのである

では、なぜ12月25日なのか?

12月25日は、ユリウス暦では冬至と結びつく日である

太陽の力が強まり始める冬至と太陽信仰、さらにはキリストの誕生日が12月25日ごろではとされる想定の説などで救世主・キリストの誕生日とされたようだ

しかし、キリストの誕生が描かれたとされる旧約聖書が正しいとすると、12月25日の誕生には矛盾点もある

結局のところは、キリストの誕生日はいつかは謎であり、ミステリーということになる



 

 

 


キリスト教抜きには、キリスト教圏、英語圏の文化などは語れないともいわれる
キリスト教徒であるないにかかわらず、キリスト教を知ることは、英語圏の考え、英語を理解する一助となるだろう

罪人の娘だった潘氏は、なぜ皇后になれたのか

三国時代、呉を建国した孫権の後宮には、多くの妃たちが仕えていた

その中で最後に皇后となったのが、潘氏(潘淑 : はんしゅく)、後の潘皇后である

しかし、その出自は決して華やかなものではなかった

潘氏は会稽郡句章県(現在の浙江省寧波市)の役人の娘として生まれたが、父が法を犯して処刑されたため、姉とともに連座して宮中の織室(しょくしつ)へ送られた

織室とは、宮廷で用いる衣服や織物を作る部署であると同時に、罪人やその家族が労役に従事する場所であり、潘氏は官奴婢(かんぬひ)として宮中で働くことになったのである

ところが、その境遇は思いがけない形で変わる

宮中で潘氏を見かけた孫権は、彼女に目を留め、後宮へ召し入れたという

後世の伝承では、潘氏は世に並ぶもののないほどの美女で「江東の絶色」と称えられ、織室では「神女」と呼ばれ、その評判を聞いた孫権が絵師に肖像を描かせたとも伝えられている

こうして罪人の娘として織室へ送られた一人の女性は、後宮の一員となり、やがて孫権の人生だけでなく、呉の皇位継承にも関わる存在となっていくのである

唯一の生前冊立皇后となった潘氏

後宮へ入った潘氏は孫権の寵愛を受け、赤烏7年(244年)、内殿で皇子・孫亮(そんりょう)を出産した

建康の歴史を著した『建康実録』には「内殿で生まれた」と記されており、孫権の子の中でも、生年と誕生場所が明確に伝わる数少ない例である

また、正史である陳寿の『三国志』には、潘氏が懐妊中、龍の頭を授かる夢を見たという逸話も記されている
龍は皇帝や天子と結びつけられる存在であり、この夢も後に孫亮が呉の2代皇帝となることを暗示するものとして語られたのだろう

孫権は晩年になると、後継者選びという難題に直面する

皇太子だった孫和(そんか)と魯王・孫覇(そんは)の対立は宮廷を二分する政争へと発展し、多くの重臣まで巻き込んだ末に、両者とも後継の座から退くことになった

その結果、赤烏13年(250年)、新たに皇太子となったのが幼い孫亮だった

すでに60代後半となっていた孫権が、多くの年長の皇子を差し置いて幼い孫亮を後継者に選んだことは宮廷内でも大きな衝撃だった
反対する臣下も少なくなく、晋の献公が寵姫の子を太子に立てて国を乱した故事を引いて諫める者まで現れたが、孫権はこれを退け、孫亮を皇太子に据えた

こうして翌251年、潘氏は皇后に冊立される

孫権はそれまで生前の妃を皇后に立てることへ消極的で、徐夫人や歩夫人、さらに前皇太子・孫和の生母である王夫人についても皇后冊立を見送ってきた経緯がある

その孫権が晩年になって初めて正式に皇后へ立てたのが、潘氏だった

父の罪によって織室へ送られた一人の女性は、孫権の寵姫となり、皇太子の生母となり、ついには呉の皇后へと上り詰めたのである

突然の死

しかし皇后となった翌年、潘氏は突然その生涯を閉じることになる

神鳳元年(252年)、孫権は重い病に倒れ、70歳を超えた皇帝の病状は深刻であった

潘皇后は病床の孫権を献身的に看病したが、その疲労から自らも病に伏せてしまう

ところが、その最中に思いもよらぬ事件が起きたのである

「侍疾疲勞,因以羸疾,諸宮人伺其昏臥,共縊殺之,託言中惡。」

意訳 : 孫権の看病で疲れ果て、自らも衰弱して病に伏した。すると宮女たちは潘皇后が昏睡して横になるのを見計らい、共謀して縊殺した。そして「中悪」だったと言った。

正史『三国志』呉書「妃嬪伝」より

「中悪」とは、急な病や邪気にあたったような急死を意味する
つまり宮女たちは潘皇后をしめ殺した後、急病で亡くなったかのように取り繕ったのだ

やがて真相が明るみに出ると、この件に関わった6〜7人が処刑されたという

その二か月後、孫権も崩御し、潘皇后は孫権とともに蔣陵へ合葬された

潘皇后は、なぜ殺されたのか?

では、なぜ宮女たちは潘皇后を殺したのだろうか

潘氏はもともと低い身分から後宮へ入った女性だったが、この時点では呉の皇后であり、孫権もまだ存命だった
いくら病に伏していたとはいえ、皇帝の妻を宮女たちが殺すのは、あまりにも危険な行為である

正史『三国志』では、潘皇后が宮女たちに縊殺されたことまでは記しているものの、犯行の動機については何も説明していない
そのため後世になると、さまざまな史書や歴史家が、それぞれ異なる解釈を示すようになった

一つの手がかりとされるのが、孫権の病中に潘皇后が取った行動である

正史によれば、潘皇后は中書令・孫弘に、前漢の呂后(りょこう)が皇帝の死後に政治を主導した故事を尋ねていたという

呂后は、高祖・劉邦の死後に若い皇帝を擁して実権を握り、政敵たちを容赦なく粛清したことで知られる人物である

当時の潘皇后もまた皇太子・孫亮の生母であり、孫権が崩御すれば皇太后となり、幼帝を後見する立場になる
つまり呂后の前例を尋ねたことは、彼女が孫権の死後、自ら政権に関わる可能性を意識していたことをうかがわせる

そのため、潘皇后の政治介入を恐れた有力者たちが宮女たちの背後にいたのではないか、というのが一説である

また、正史は潘皇后について「性險妒容媚」、つまり性格は険しく嫉妬深い一方で美貌に恵まれていたと評し、さらに袁夫人ら多くの妃を讒言によって陥れたとも記しているため、宮中で少なからぬ恨みを買っていたようである

一方、後世の史書では事件の原因についてさまざまな解釈が見られる

『建康実録』は、病に伏した潘皇后の看病を続けていた宮女たちが、その苦労に耐えかね、昏睡した皇后を殺害したとしており、『資治通鑑』は、潘皇后の虐待に耐えかねた宮女たちが犯行に及んだと記している

南宋の歴史家・胡三省は、もし潘皇后が皇太后となれば、側近である宮女たちはむしろその権勢の恩恵を受ける立場にあったはずであり、自ら皇后を殺害する理由としては不自然で、宮女たちは実行役にすぎなかったと見ている

いずれにせよ正史が伝える潘皇后像を見る限り、後宮内では恨みや嫉妬を買っており、政権中枢の人々からも警戒されていたことは確かであろう

罪人の娘として織室へ送られ、皇后にまで上り詰めた彼女の周囲には、殺意が生まれるだけの火種がすでにいくつも積み重なっていたのである

参考 : 『三国志』呉書「妃嬪伝」『建康実録』『資治通鑑』『拾遺記』他

文 / 草の実堂編集部

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

三国時代、呉を建国した孫権の後宮には、多くの妃たちがいたが、その中で最後に皇后となったのが、潘氏(潘淑 : はんしゅく)、後の潘皇后である

彼女は罪人の子の出自ながら、その美貌で皇后となり、孫権の子(後の2代皇帝)を生み、さらには皇太后となった

しかし、宮女たちに絞殺された

彼女は、性格は険しく嫉妬深い一方で美貌に恵まれていたと評し、さらに袁夫人ら多くの妃を讒言によって陥れたとも記しているため、宮中で少なからぬ恨みを買っていたようである

絞殺された原因に後世で様々な解釈・要因がされた

もし彼女が皇太后となれば、側近である宮女たちはむしろその権勢の恩恵を受ける立場にあったはずであり、自ら皇后を殺害する理由としては不自然で、宮女たちは実行役にすぎなかったと見ている

いずれにせよ潘皇后像を見る限り、後宮内では恨みや嫉妬を買っており、政権中枢の人々からも警戒されていたことは確かであろう

罪人の娘として織室へ送られ、皇后にまで上り詰めた彼女の周囲には、殺意が生まれるだけの火種がすでにいくつも積み重なっていたのでは・・・

生き残るための処世術も難しい場合もある



 

 


魏・蜀・呉、三国の興亡を描いた『三国志』には、「桃園の誓い」「三顧の礼」「出師の表」「泣いて馬謖を斬る」など心打つ名場面、また「水魚の交わり」「苦肉の策」「背水の陣」「髀肉の嘆」など名言や現代にも通じる格言も数多く登場する
また、曹操、劉備、孫権、孔明、関羽、張飛、趙雲、周瑜、司馬懿など個性豊かで魅力的な登場人物に加え、官渡の戦い、赤壁の戦い、五丈原の戦い等、歴史上重要な合戦も多い
英雄たちの激闘の系譜、名場面・名言が図解でコンパクトにすっきりわかる『三国志』の決定版!
長い中国史で「三国志」の時代はわずかだ
しかしこの時代は個性的、魅力的人物が多く登場した

9割の生物が絶滅した大事件も!? これまでに5回起きた大量絶滅「ビッグファイブ」とは
過去に地球上の生物を襲った5度の「大量絶滅事件」
9割の生物が絶滅した大事件も

地球の歴史の中では、無数の生き物が一気に姿を消した5度の「大量絶滅事件」が起こっており、「ビッグファイブ」とも呼ばれます

1回目は、古生代の「オルドビス紀」の終わりに起こりました
当時の地球は急激に寒冷化し、海面が大きく下がったことで、多くの海洋生物が絶滅したのです

2回目は、同じく古生代の「デボン紀」後期にあたる「フラスメニア階」から「ファメニア階」にかけてです
火山活動や酸素濃度の変化が原因と考えられ、サンゴや魚類など海の生き物が大きな影響を受けました

3回目は、古生代と中生代の境目にあたる「ペルム紀」の終わりに起きた最大規模の絶滅です
シベリアでの大噴火が地球規模の気候変動を引き起こし、全生物の約90%が姿を消したといわれています

4回目は、中生代の「三畳紀」の終わりに発生しました
火山活動による温室効果ガスの増加で気候が乱れ、海の生物や一部の爬虫類が絶滅しました
その後、ジュラ紀に移行し、恐竜が地上の主役として台頭します

5回目は、中生代と新生代の境目「白亜紀」の終わりに起きたものです
メキシコ・ユカタン半島に落下した巨大隕石の衝突が原因とされ、恐竜をはじめ多くの生物が姿を消しました

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 絶滅動物の話』監修:今泉忠明

(この記事は、ラブすぽの記事で作りました)

生命史を変えた5大絶滅事件・・・

① 古生代「オルドビス紀」
急激な寒冷化で海面が下がり、多くの海洋生物が絶滅

② 古生代「デボン紀」後期
火山活動や酸素濃度の変化によって、サンゴや魚類などが多く絶滅

③ 古生代「ペルム紀」終期
シベリアでの大噴火が地球規模の気候変動を引き起こし、全生物の約90%が姿を消した

④ 中生代「三畳紀」終期
火山活動による温室効果ガスの増加で気候が乱れ、海の生物や一部の爬虫類が絶滅

⑤ 中生代「白亜紀」終期
巨大隕石によって、恐竜をはじめ多くの生物が姿を消した

このように、地球環境の大きな変化が大量絶滅を引き起こし、そのたびに生命史が塗り替えられてきました
これらは、あくまで「自然の脅威」でした
しかし、6度(たび)「自然の脅威」が起こり地球上の生命が大量絶滅する可能性もありますが、6度(たび)目は「人間の脅威」によって地球上の生命が大量絶滅する可能性も・・・
核兵器などによる戦争など・・・
なにせ全部の世界中の核兵器で何度も地球を破壊できるともいわれてますから・・・
人類が「愚かな選択」をしないと願います


 

 


人類だって絶滅するかもしれない?
いつ、どうして生物は絶滅する?
どんどん絶滅している!1年間に4万種!
絶滅したくない!どうすれば切り抜けられる?
みんな絶滅!「大量絶滅事件」

シリーズ累計300万部突破!『眠れなくなるほど面白い図解シリーズ』
おもしろい!だからもっと知りたい!
絶滅動物の話

40億年に及ぶ地球のヒストリー
その中で繰り返されてきた生き物たちの絶滅
もはや私たちが出会うことのかなわない彼らのあまりに興味深いエピソードを紹介

絶滅とは何か
「弱いから」滅び、「強いから」生き残るわけではない
なぜ彼らは滅び、また生き残ったのか

我々人類こそが絶滅の原因だった生き物たちもいる
発見から30年もたたずに食い尽くされたステラーカイギュウ
人類が現れるまで無敵だった巨大ナマケモノ、メガテリウム

あるいは進化の果てに潰えた者たち
さすがに大きくなりすぎたジャイアントペンギン
肉食をやめたら生活が合わなかったアルクトテリウム

環境や競争に敗れた末、絶滅の運命をたどることもある
たどり着いた最後のすみかが噴火で沈没したオオウミガラス
クローンで復活するも「2度の絶滅」をしたピレネーアイベックス

絶滅は過去のできごとではない
種の断絶が危ぶまれる生き物は、我々が生きるこの世界にも存在する
トラ、オオサンショウウオ、ヤンバルクイナ、ホッキョクグマといった絶滅危惧種がそれだ

絶滅といえばこれ、謎多きニホンオオカミや「最後の1頭」が2012年に死亡したピンタゾウガメも
触れれば触れるほど知りたくなる
もう永遠にいなくなってしまった、いつかはいなくなってしまうかもしれない彼らの物語
ひょっとすると、人類もいつかは・・・?

仏教における最高位は如来とされることが一般的です
如来が他の仏と違うのは悟りを開いていることです
(もともとは、如来は釈迦如来だけだったが、後にそれ以外の如来もできた)

しかし、宗派によっては、最高位の如来は違います


宗派による最高仏・・・

密教など・・・大日如来
浄土宗・浄土真宗など・・・阿弥陀如来
上記以外の宗派など・・・釈迦如来

ざっくりいうと、上記のようになると思います
(宗派や考えによって別説・異説のある場合も)

釈迦如来は仏教の開祖、大日如来は太陽の化身あるいは太陽とされる、阿弥陀如来は南無阿弥陀仏と唱えればすべての人を救うという

ちなみに、浄土真宗では多くの宗派では読まれたり写経されている「般若心経」は読まれないし、写経もしません
これは般若心経の空の思想が煩悩・執着しない世界を目指すとしているが、実際には人間は目指せない(人間は煩悩・執着を断てない)
阿弥陀如来にすがることで救われるとしているためといわれます

般若心経を読んだり、写経するか否かはその人の宗教観や仏教徒の場合は宗派観次第だと思います


 

 


仏教における最高位とされる悟りを開いた如来・・・
如来像について徹底解説

・釈迦如来
・弥勒如来
・阿弥陀如来
・薬師寺如来
などなど・・・

黒田官兵衛は、あまりにも頭が切れるので、豊臣秀吉や徳川家康に警戒された!

官兵衛に天下をうかがう・狙う気が本当にあったのかはわからないが、頭が切れすぎたため、その可能性を考えてしまう

官兵衛はまず織田信長に注目した

小寺氏の近習であった官兵衛は、小寺氏周囲が小寺氏に近かった有力大名・毛利氏との同盟を推すが、織田信長を推した

信長の先進性・将来性を感じたのだろう

時代や勢いを見る官兵衛の眼力に驚かされる

信長との関係強化は、官兵衛と信長の家臣・豊臣秀吉を結びつけた

その後、荒木村重の謀反を翻意されるため、官兵衛は村重の居城で交渉するが、幽閉されてしまう

幽閉された官兵衛が信長を裏切った思い、信長は人質になっていた官兵衛の嫡男(松壽丸、後の長政)の処刑を秀吉に命じる

しかし、官兵衛が裏切るはずがないと、秘かに松壽丸を処刑せず、秀吉と軍師の竹中半兵衛は匿った

1年後に官兵衛は救出されたが、幽閉で足が不自由になっていたという

信長は松壽丸を処刑してしまったと思ったので秘かに匿われていた事実に安堵しただろう

村重の謀反などで毛利方についた小寺氏は大名として滅亡・・・

官兵衛は秀吉配下で軍師に・・・

官兵衛は鳥取の兵糧攻めや高松の水攻めなどで大活躍・・・

この水攻めの最中にあの「本能寺の変」が起こる

主君の暗殺に動揺する秀吉に官兵衛は即時の和睦と信長のかたき討ちを進言・・・
さらに「天下取りの機会」であることも発言・・・

この発言に冷徹ながら冷静で的確な進言と思うと同時に恐怖と警戒も秀吉は感じたようだ

「頭が切れすぎて官兵衛は危険だ」と・・・

その後も官兵衛は軍師として日本統一に大活躍したが、秀吉は功績に見合わない処遇で九州へ・・・

これは秀吉が官兵衛を自分の次の天下人になる可能性があると警戒したためとも・・・

秀吉の警戒を感じた官兵衛は隠居し、警戒を解こうと努力・・・

秀吉の死後は、関ヶ原の戦い本戦には参加していないが、「九州の関ヶ原」で九州統一寸前まで東軍で大活躍・・・

関ケ原の戦いが長引けば、九州はおろか天下をうかがう進軍をしたのではともいわれる

(実際には関ケ原の戦いはわずか1日だった)

関ケ原の戦い本戦に参加した長政には大加増があったが、官兵衛には大加増もなく、しかも加増も断っている

徳川家康にも警戒されていると感じたのかも・・・

関ケ原の戦いの後、家康に大加増され、感謝された握手を求められた長政に対し、官兵衛は握手を求められた逆の手で家康を刺せた(殺せた)のでは・・・と官兵衛が発言したとも・・・
これは伝説かもしれませんが、官兵衛ならひょっとしてとも感じます

さらに死期が迫った官兵衛は重臣を罵倒・・・これは重臣らに早く長政の代になってほしいと思わせる官兵衛なりの「気づかい」だったとも・・・

そして、「そのこと」を打ち明け、死の直前にも「そのこと」を長政に耳うちしたとも・・・

官兵衛は死ぬまで頭が切れすぎる男だったようです

 


時代の趨勢を読み、織田陣営についた黒田官兵衛は、瞬く間に頭角を現した
秀吉の右腕として中国経略、九州遠征、小田原合戦など各地を転戦
官兵衛の働きなくして秀吉による全国統一もなかった
「稀代の軍師」とも呼ばれる武将の活躍の実態はいかなるものだったのか
関ヶ原合戦に際して天下を目指したとする説の真偽は――
茶の湯や連歌に優れ、キリスト教信仰を貫くなど、名将の知られざる側面にも光を当てる意欲的評伝
 

 


【晋遊舎歴史探訪シリーズ】
2014年のNHK大河ドラマ(主演:岡田准一)に決定した戦国一の軍師
その頭脳が生み出す戦術と生き様を徹底解剖!

◆【巻頭特別インタビュー】歴史作家・井沢元彦氏が語る「天才軍師 黒田官兵衛の真実」
◆天才軍師はいかにして敵を攻略したのか―知略が冴え渡る官兵衛七番勝負、備中高松城水攻め、鳥取城兵糧攻め、石垣原の戦い・・・
◆生い立ち、領国経営術、キリスト教信仰まで「天才軍師 黒田官兵衛という男/秀吉の天下統一を助けたもう一人の天才・竹中半兵衛

ほか

10の基準で読み解く「一度は行きたい世界遺産」

10の登録基準に沿って代表的な世界遺産を紹介
景観だけではない、真の魅力が見えてきます

【登録基準(ⅹ)絶滅危惧種の生息域でもある、生物多様性を示す遺産】

ガラパゴス諸島 ダーウィンが見た進化の楽園!

「ガラパゴス諸島」は、南米のエクアドル本土から西に約1000km、赤道直下の東太平洋に浮かぶ島々です
大小19の島と周辺の岩礁からなり、海底火山の噴火により誕生しました
形成以来、一度も大陸と陸続きになったことがないため、動植物は風や海流に運ばれたり、飛来したりした生物の子孫と考えられています
隔絶された環境の中、生物はそれぞれの島の条件に適応し、独自の進化を遂げていきました
現在、陸地の97%が保護地区に指定され、4島を除いて人は住んでいません

大陸から遠く離れたこの地では、海を越えられる鳥類や海生生物、爬虫類が多く見られる一方、それらの天敵となる大型の肉食哺乳類や両生類はほとんど存在しません
こうした環境のもと、生物は独自の進化を遂げました
現在、島々で見られる植物の約3分の1、鳥類の80%以上、爬虫類のほぼすべてが固有種と考えられています

また島の周辺には複数の海流が流れ込み、海洋生物の種類も豊富です
確認された約2900種のうち、およそ18%が固有種と、非常に高い固有率を誇ります
寒流の影響で、赤道直下にありながら熱帯と温帯が混ざり合うような気候も独特な生態系を支える要因になっています

ここがスゴイ!認定ポイント「世界で唯一、水中の海藻を食べるイグアナが住む島」
「ガラパゴ」はスペイン語でカメの意味
島名の由来となったガラパゴスゾウガメをはじめ、数多くの固有種が生息しています
たとえば世界で唯一、海に潜って海藻を食べるウミイグアナや、天敵がいないことで翼が退化し、飛べなくなったガラパゴスコバネウなどがいます

ダーウィンの進化論はここから生まれた

1835年にガラパゴス諸島を訪れた英国の博物学者チャールズ・ダーウィンは、島々の生物をよく観察し、同じように見える生き物でも島ごとに違いがあることに気付きました
たとえば、スズメ目の小鳥であるフィンチは、餌の違いにより、くちばしが多様化していることで知られます
こうした気付きは、環境の違いが生物の姿や暮らしの進化に影響するという「進化論」の発想につながりました

食べるものによりくちばしの形が異なるフィンチ

【オオガラパゴスフィンチ】
硬い実を食べるため、大きくて太いくちばし

【ムシクイフィンチ】
昆虫を捕まえるため、細くて長いくちばし

【サボテンフィンチ】
サボテンの花などを食べるため、やや細長いくちばし

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 世界遺産』監修:宮澤 光 / イラスト:どくだみ三銃士

【監修者紹介】
宮澤 光(みやざわ・ひかる)
NPO法人世界遺産アカデミー主任研究員
北海道大学大学院博士後期課程を満期単位取得退学
仏グルノーブル第Ⅱ大学留学
2008年より現職
跡見学園女子大学非常勤講師
世界遺産に関するさまざまな書籍の編集・執筆・監修を手掛けるほか、「チコちゃんに叱られる!」(NHK)などの多くのメディア出演や、全国各地で100本を超す講演・講座を実施している
著書に『13歳からの世界遺産』(マイナビ出版)、『世界遺産のひみつ』(イースト・プレス)など

(この記事は、ラブすぽの記事で作りました)

よくガラケーといわれるのは、ガラパゴス携帯(電話)の略称で日本市場進化をした携帯(電話)のことです

同じように、形成上、一度も大陸と陸続きになったことがないため、ガラパゴス諸島の動植物は独自の進化をしました
この独自の進化は天敵となる大型肉食哺乳類がほとんどいなかった、人間がほとんどいなかったなどもあると思います
また島の周辺には複数の海流が流れ込み、海洋生物の種類も豊富です
ダーウィンの進化論は、ガラパゴス諸島の独自の進化がきっかけとも・・・

似たような経緯に、カンガルーやコアラなど有袋類で独自の進化をしたオーストラリアがあります
(オーストラリアには、以前は肉食のフクロオオカミもいましたが、今は絶滅)


 

 


観光地としてではなく“教養としての世界遺産”を知る1冊!

世界遺産の魅力は「美しい」「すごい」といった見た目の偉大さだけでなく、長い年月をかけて育まれてきた地球の歴史や人類の営み、知恵、祈り、そして時には痛みや葛藤までもがさまざまな形で刻まれていること

それらが教えてくれるのは、宗教や価値観の違い、自然の力、人間の創造性などを通して、地球がどれほど多様で豊かな場所であるか、また時に、戦争や環境問題、観光のあり方など、今この瞬間にも世界が直面している課題です

なぜその場所が世界遺産に選ばれたのか
そこにどのような時間が流れ、何が「守るべき価値」とみなされたのか
世界遺産に登録された背景を知ることは、私たちが世界を理解し、学ぶための重要な手掛かりになるはずです

本書では、登録基準やテーマごとに世界遺産の魅力を紹介するとともに、
・世界の多様性に気づく
・世界の成り立ちをつかむ
・世界の課題を見つめる
という3つの視点で、世界遺産の成り立ちや背景、守り続ける難しさや課題について紐解きます
読み進めるうちに「世界を見る目」が変わり、世界がぐっと身近に感じられる――
そんな、教養としての世界遺産への旅を始めてみましょう

二人の天才軍師 両兵衛

豊臣秀吉は、戦国の世で最初に天下統一を成し遂げた
そして秀吉には全幅の信頼を置いて頼りにした二人の天才軍師がいた

一人は若き日の秀吉を支えた「竹中半兵衛(たけなか はんべえ)」
織田信長が卓越した才覚を認め、家臣に欲しがったほどの逸材である

もう一人はその竹中半兵衛の後を引き継ぎ、秀吉を天下人へと導いた「黒田官兵衛(くろだ かんべえ)」である

果たして最強の軍師はどっちだったのか?

戦術、交渉術、人間力、危機管理能力、秀吉からの信頼度、という5つの観点から筆者なりに個人的見解も含めて比較検証してみた

竹中半兵衛とは

竹中重治(通称:半兵衛)は、天文13年(1544年)美濃斎藤氏の家臣で大御堂城主・竹中重元の嫡男として生まれる

斎藤道三が戦死した長良川の戦いが初陣で道三に味方していたが、その後は斎藤義龍・龍興に仕えた
温和な性格、細身で色白、まるで女性のような面立ちだったという

軍師としては「敵を制すること神の如し」、三国志の諸葛孔明に例えられて「今孔明」と呼ばれていた

黒田官兵衛とは

黒田孝高(通称:官兵衛)は、天文15年(1546年)播磨国姫路の黒田職隆の嫡男として生まれた
父・職隆は小寺政職に仕え、官兵衛は政職の近習として仕えた

小寺家では当時、毛利と織田、どちらにつくか選択を迫られており、黒田官兵衛だけが当時飛ぶ鳥を落とす勢いのある織田につくのが得策と判断して重臣たちを説得

小寺家は信長に臣従し家臣・秀吉に仕えた

軍師としては「戦国一の切れ者」と恐れられていた

※ここからは竹中半兵衛は「半兵衛」と記し、黒田官兵衛は「官兵衛」と記させていただく

①戦術

半兵衛の戦術

半兵衛は秀吉に仕える前は、美濃の斎藤龍興の家臣であった

半兵衛は永禄7年(1564年)2月、主君・龍興に対してクーデターを起こす
難攻不落と呼ばれた稲葉山城をたった1日、しかもわずか17人で落とし、主君・龍興を城から追い出し占拠したのだ

主君・龍興は酒に溺れ政務をおろそかにしており、重臣たちを遠ざけていた
半兵衛は龍興から逆心の疑いをかけられていたために、弟を稲葉山城に人質として差し出していた

半兵衛は弟に「12月になったら仮病になれ」と命じ、弟はそれを実行する
半兵衛は16名の供を連れて、稲葉山城に弟の見舞いに出掛けた

半兵衛たちの格好は軽装で、持っていたのは幾つかの長持(長方形の箱)だけだったが、実は中身は刀などの武具であった
入口で止められた時には「中身は見舞いの品である」と説明し、簡単に城に持ち込むことに成功した

2月6日の夜、半兵衛たちは見張りの斎藤秀成を斬り「竹中の兵が大勢で城内に攻め込んで来た」と吹聴した
城内は大混乱となり、着の身着のままで城を逃げ出す者が続出して、龍興と側近たちも状況を把握出来ないまま城を逃げ出してしまう

わずか17人で城を奪取することに成功したのである

そして待機していた義父・安藤守就の2000人の兵に合図し、安藤軍が攻めてくると龍興はどうにも出来なくなってしまい、半兵衛のクーデターは成功した
この時、半兵衛はわずか21歳(※19歳という説もある)であったという

織田信長が長年攻めあぐねていた稲葉山城をたった1日・たった17人で落としてしまった

信長は半兵衛にこう持ち掛けた

「稲葉山城を明け渡すならば美濃国を半分与えよう」

しかし、半兵衛はこれを拒絶し、なんと半年後には反省した主君・龍興に稲葉山城を返してしまった
半兵衛に惚れ込んだ信長は、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)を使ってなんとか半兵衛を家臣にしようとした

秀吉は渋る半兵衛のもとに足しげく通い、3度目で口説き落としたとされているが、この話は中国の三国志で劉備玄徳が諸葛孔明を3度目(三顧の礼)で口説き落とした話をもとにした創作である

本当は信長が美濃を平定した後に、美濃の家臣団の多くが信長の家臣となり、半兵衛もその中に含まれ秀吉の与力となったのだ
与力とは信長の直接の家臣でありながら、軍事行動の時には秀吉軍の一員として働くという身分であった

こうした経緯で半兵衛は秀吉に仕えることになった

半兵衛の戦術 その2

近江・浅井長政を攻める小谷城の戦いで、秀吉と半兵衛は共に小谷城近くの横山城にいた

長政は横山城攻略のために、あたかも別の場所に向かう振りをして横山城の脇を通過した
これにつられて出て来た秀吉軍を、長政は反転して迎え撃とうとしていた

秀吉はこの策にまんまと引っ掛かり出撃命令を出したが、半兵衛は長政の狙いを見抜き秀吉に「すぐに兵を引き揚げて私に1000の兵を貸して欲しい」と進言した
半兵衛は秀吉軍の出撃を止めさせて、1000の兵で近くの山中に鉄砲隊をすみやかに配置した

なかなか出陣しない秀吉軍に業を煮やした長政軍が横山城に接近すると、半兵衛はそれを不意打ちして見事に撃退した

いよいよ小谷城攻めも大詰めを迎え、後は小谷城を落とすところまで来たところで、半兵衛は信長に呼び出され「城内にいるお市と娘たち3人を救出せよ」と難題を命じられた
信長の妹であるお市の方は長政と仲が良く、小谷城落城の時には一緒に自害してしまうことも十分考えられた

ここで半兵衛は情報収集に動き、反・信長に積極的なのは長政の父・久政で、長政は仕方なく信長を裏切ったという情報を得た
しかも、長政とお市の方は本丸にいて、父・久政は小丸という離れた場所にいることも分かった

半兵衛は本丸と小丸の間にある京極丸を占拠して浅井親子の連絡網を断った上で小丸を攻撃
その間に本丸の長政のもとに使者を送り、お市の方と3人の娘たちを引き渡すように説得した

小谷城は落城し、久政・長政親子は自害したが、お市の方と3人の娘たちは無事に引き渡された

知略に長けた半兵衛の機転と戦術であった

官兵衛の戦術

官兵衛は城攻めを得意としたという。特長ある3つの城攻めを紹介する

最初は天正5年(1577年)福原城の戦いで、福原城には毛利方1000人が籠城していた

官兵衛は城の三方を囲み一方だけを空けておいた
この戦術は孫子の「囲師必闕(いしひっけつ)」と呼ばれ、四方を囲むと追い込まれた敵が予期せぬ力を発揮することがあるため、一方だけを空けておき死に物狂いの攻撃を避けるための策である
ここで官兵衛は、城から逃げる道と見せかけた場所に軍勢を配置し、敵を一網打尽にした

次は天正9年(1581年)山名氏旧臣のおよそ2000人の兵が籠城していた鳥取城攻めで見せた「渇え殺し(かつえごろし)」だ

官兵衛は鳥取城を攻める1年前の秋に商人たちを派遣して、収穫されたばかりの米を通常の倍の値段で買い取っていた
金に目がくらんだ農民たちは、鳥取城に納めるはずの米や備蓄米まで売り払ってしまったのだ

この後、官兵衛が城下の村々を焼き払ってしまうと領民たちは鳥取城へ逃げ込んだ

鳥取城は通常の倍近い4000人ほどの人で溢れかえり、兵糧はすぐに底がつき、城内の人たちは家畜や馬までも食べたが、多くの人たちが餓死していった
非情なまでの兵糧攻め「渇え殺し」に、4ヶ月ほどで鳥取城は開城され明け渡された
人肉を喰らうものが出るほど凄惨たる状況だったという

最後は天正10年(1582年)備中高松城攻めで見せた「水攻め」である

備中高松城は湿地帯の真ん中にあり、大軍が容易に近づくことが出来ず、秀吉軍は攻めあぐねていた

そこで官兵衛は「水攻め」を決断
湿地帯の南に3kmに及ぶ堤防(高さ8m・奥行24m)を築き上げた

官兵衛が「土嚢を(どのう)1袋・100文(現在の価値で約1152円)で買い取る」と近隣の農民たちに呼びかけると、瞬く間に大量の土嚢が集まり、わずか2週間足らずで堤防は完成した
そして、城の西側を流れる足守川を堰き止めた
その方法は、大量に石を積んだ舟を足守川に並べて一気に舟底に穴を開け、沈没させて川を堰き止めるというものであった

この頃は梅雨の時期であったこともあり、湿地帯の水位は瞬く間に上昇して備中高松城は浸水した

毛利方でも猛将と知られた城主・清水宗治は自害
秀吉と毛利の間で和睦が結ばれた
※実はこの時に本能寺の変が起きていた
明智光秀が毛利へ信長を討ったという密書を間者に持たせていたが、長い堤防を守るために配置していた秀吉軍にその間者が捕まった

秀吉と官兵衛は誰よりも早く本能寺の変のことを知り、秀吉は官兵衛に諭されてあわてて毛利と和睦を結び、明智光秀を討つために引き返した(中国大返し)

半兵衛の戦術・官兵衛の戦術、共に甲乙つけがたいが、筆者としては、城攻めに関しては多彩な戦術を駆使した官兵衛が少しリードしているように感じた

②交渉術

半兵衛の交渉術

半兵衛の交渉術が発揮されたのは、浅井久政・長政親子を攻めた小谷城攻めである

信長と秀吉は、半兵衛に浅井家家臣たちの寝返り工作を命じた

そして半兵衛は浅井家の重臣・堀秀村や宮部継潤らを信長に寝返らせた
半兵衛は「戦わずして勝つ」ことを理想として、出来るだけ戦を避ける策を講じたという

また半兵衛は、自分のことを良く思わない同僚たちとの交渉術にも長けていて、例えば相手を褒めちぎって喜ばせておいてから「もう少し足軽の位置を左にすると秀吉公は感心するでしょう」など、相手のプライドを傷つけず得になるようなアドバイスもしていた

半兵衛は、人の心理をうまく使って思うままに相手を動かすことに長けていたのである

官兵衛の交渉

天正18年(1590年)小田原征伐において、官兵衛は長期に渡って籠城していた北条氏政・氏直親子を説得して無血開城させている

武田信玄や上杉謙信でさえも落とすことの出来なかった天下の要塞・小田原城である
さすがの秀吉でもなかなか落とすことが出来なかった

しかし北条親子も、味方の城のほとんどが降伏して勝ち目が無いことは分かっていた

交渉役として出向いた官兵衛は、酒・二樽と魚・十尾を贈り届けたという
五代にわたって100年以上もこの地を守り抜いて来た北条家に、敬意を示す意味で酒と魚を贈り懐柔しようとしたのだ。

北条はその返礼として鉛玉と火薬を贈り返して来た。鉛玉と火薬は「もう戦う気はない、北条は降伏する」という意思表示であった

交渉に臨む際、官兵衛は礼装に身を包み、帯刀せずに丸腰で単身小田原城に乗り込んだという

礼を尽くして説得にあたった官兵衛に対し、北条親子は小田原城を明け渡すことをついに承諾した

筆者としては、半兵衛の「戦わずして勝つ」という理念は素晴らしいが、難攻不落の小田原城を無血開城させ秀吉を天下人とした官兵衛の交渉術が、実績としては上と思われる

③人間力

半兵衛の人間力

実は秀吉の軍師として2人が同時に仕えていた期間は4年間ほどであった

官兵衛が秀吉について間もない頃、次々と毛利方の大名を織田方に寝返らせたことで官兵衛は秀吉から感状を送られていた
それを有頂天になって自慢しながら半兵衛に見せると、何と半兵衛はその感状を破いたという

そして半兵衛は「こんなものを残しておいて見せびらかしても、そなたのためにならない」と官兵衛を諌めたという。

信長の家臣・荒木村重が裏切って毛利方につくことになり、村重と交流があって親しかった官兵衛は信長から説得を命じられて、村重の居城・有岡城に入った
しかし村重は、説得に来た勘兵衛を捕えて牢に幽閉してしまった

いつまでたっても戻らない官兵衛に信長は「官兵衛までも裏切ったか」と思い、人質として差し出されていた官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)を殺すように秀吉に命じた

この時、これに断固反対したのが半兵衛だった
半兵衛は信長に「人質を殺せば官兵衛は深く恨み、完全に信長公の敵となるでしょう」と進言し、織田家にとって大きな損失になると直談判をした
しかし信長はそれを聞き入れず、松寿丸を殺すように指示をした。ここで半兵衛は一計を案じて松寿丸を殺したことにして美濃の自分の屋敷に匿ったのである

もし、このことが信長に知られれば半兵衛の命はない。しかし、半兵衛は一緒に秀吉に仕えているうちに官兵衛は絶対に裏切っていないと信じていたのだ

そして1年後に官兵衛は有岡城から救出された

官兵衛は、危険を負ってでも自分を信じ、息子を助けてくれた半兵衛に深く感謝したという

官兵衛の人間力

官兵衛は「知謀をもって敵城を降参せしめ和議を調え、人を殺さずして勝事を好みたまう」を旨としていたという
降参した敵の家臣も極力生かすように努め、望む者は自らの家臣として迎え入れることも多かったそうだ

裏切り・だまし討ちが日常茶飯事の戦国時代で「官兵衛の言うことならば信用出来る、官兵衛ならば約束を反故にしない」と敵将も官兵衛の言葉に耳を傾けたという

半兵衛も勘兵衛も人間力の高さを感じさせるが、半兵衛の「信長の命に背いてでも官兵衛の嫡男の命を守った」というエピソードで、筆者は人間力は半兵衛の勝ちとしたい

④危機管理能力

半兵衛の危機管理能力

36歳で亡くなった半兵衛の危機管理能力についてのエピソードは、余り残ってはいない

ただ、半兵衛は高い馬には乗らなかったという
乱世の世の中、いつでも危機に直面する時のために備えて高い馬を所有しなかったという

安い馬を好んでいたのは、「緊急時にいつでも馬を乗り捨ててもいい」と思っていたからだという

官兵衛の危機管理能力

備中高松城を水攻めにしていた時に、偶然秀吉は間者の密書によって主君・信長が討たれたことを知る(本能寺の変)

泣き崩れる秀吉に官兵衛は「今こそ貴殿が天下人となる好機」だと告げた

官兵衛の言葉で我に返った秀吉は、官兵衛に毛利との和睦を結ばせ、主君の仇・明智光秀を討つべく「中国大返し」を決断した

もし、本能寺の変が起きたことを毛利が知ってしまえば和睦はなくなり追撃される危険性もあるが、官兵衛と秀吉は中国大返しを決行した

秀吉と官兵衛は主だった重臣のみに本能寺の変のことを伝えた
そして石田三成ら後方支援を得意としていた武将たちに街道への松明(たいまつ)や握り飯などの準備の他、武器・弾薬と荷物になる重たい物は豊臣水軍を使って運ばせるように手配した

強行軍を走り抜き、秀吉の居城・姫路城につくと、秀吉は兵たちに「これから信長様を討った明智光秀を倒して天下人となる」と告げた

「ここで手柄を立てた足軽は侍大将に、侍大将は大名になれるであろう」と兵たちの士気を高め「天下人となるのだからもう姫路城への籠城はない、ここには戻って来ないからこの城にある金銀などを兵たちに分け与える」と宣言した

その金額は現在の価値に換算すると、約66億円という大盤振る舞いであった

中国大返しは見事に成功し、士気を高めた秀吉軍は山崎の合戦で明智軍に大勝利した

この件で秀吉は一気に天下人へと駆け上がっていった

筆者とすれば、危険を恐れすぎずリスクをきちんと把握した上で、大胆な決断で秀吉を天下に導いたという点で、危機管理能力は官兵衛の勝ちである

⑤秀吉からの信頼度

半兵衛の信頼度
天正6年(1578年)三木城攻めが半兵衛の最期の戦いとなった。

この戦いの最中に半兵衛は病に倒れてしまい、36歳という短い生涯を終えた
秀吉は半兵衛の亡骸にすがりついて泣き崩れたという

病弱であった半兵衛には野心がなく、如何に敵を攻めるかを考えた生粋の軍師であった
私利私欲がなかった半兵衛は、秀吉が全幅の信頼を置ける数少ない家臣であった

官兵衛の信頼度

山崎の合戦後、四国征伐、九州征伐と目覚ましい武功を挙げた官兵衛だが、秀吉から与えられたのは豊前12万石だけであった

実はこんなエピソードがある

家臣たちと談笑していた秀吉が「わしが死んだなら、誰が天下を取ると思うか?」と問いかけた
家臣たちは徳川家康や前田利家など有力大名の名を挙げたが、秀吉は「違う!官兵衛こそが天下を取るであろう」と言ったという

数々の戦いを共にして来た中で、秀吉は官兵衛のあまりの切れ者振りにいつしか恐れを抱くようになっていたのだ

家臣たちとのやり取りを伝え聞いた官兵衛は、黒田家を存続させるために44歳で隠居し、家督を嫡男・長政に譲り「黒田如水」と号した

秀吉からの信頼度は、全幅の信頼を置いた半兵衛の勝ちである

おわりに

筆者の個人的見解も交えて、竹中半兵衛VS黒田官兵衛を5つの視点から比較検証してみたが、結果は「3対2」と僅差で官兵衛の勝ちであった

半兵衛の方が寿命が短く、どうしても実績的に劣ってしまうハンデがあるので、半兵衛の寿命が長かったらもっと凄い実績を残していた可能性は高い

竹中半兵衛・黒田官兵衛、どちらか1人ではなく2人がいたからこそ、秀吉は天下人になることが出来たと言えるだろう

(この記事は、草の実堂の記事で作りました)

豊臣秀吉の天下統一は竹中半兵衛・黒田官兵衛の二人の天才軍師「両兵衛」による力も大きかった

二人がいたから天下統一が出来た面も多い

しかし、天下に対する向き合い方では違いがある

半兵衛は私利私欲がなく純粋な軍師だったように感じるが、官兵衛には「切れ者」ゆえに天下もうかがう所もあったように思う

「本能寺の変」が起こり「これは天下取りのチャンス」とした官兵衛の冷静さと冷徹さ、したかさに「さすが」と思うと同時に恐怖と警戒を秀吉は感じただろう

私は半兵衛に諸葛亮孔明、官兵衛に司馬懿仲達を感じさせる
(どちらも中国の三国時代の軍師で政治家、政敵を徹底的につぶす司馬懿は官兵衛以上に冷徹な気もする)

 

官兵衛も凄いが、半兵衛の早世も惜しまれます
 

 


豊臣秀吉を天下人にした天才軍師「両官衛」(黒田官兵衛と竹中半兵衛)について考察
 

 


今月の特集1は、
〈竹中半兵衛と黒田官兵衛――本当は何者だったのか?〉です

秀吉の「軍師」として語られてきた竹中半兵衛と黒田官兵衛ですが、彼らの事績はあまり検証されてこなかったのではないでしょうか
そこで今回の特集では、改めて二人について掘り下げてみたいと思います
史料から見えてくる二人の功績、秀吉の近くで果たした役割など、最新研究から両者の真の姿と、秀吉との関係を明らかにします

特集2は、〈新選組、誕生前夜――名もなき若者たちの素顔〉
「新選組」が結成される前、近藤勇、土方歳三、沖田総司らは、どんな日々をおくっていたのでしょうか
新選組誕生前夜の隊士たちの姿に迫ります

特別企画は、〈朝ドラで話題! 大関和と鈴木雅〉
大関和と鈴木雅は、現在放送中のNHK連続テレビ小説『風、薫る』の主人公たちのモチーフとなった人物
「看護婦」の礎を築き、また女性の自立が難しかった時代に、道を切り拓いていった二人の生涯を紹介します