メインウェーブ日記

メインウェーブ日記

気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

■■■このブログでは、以下について記載した記事があります


競馬の名馬やエピソードなど、大相撲の名力士やエピソードなど、ビートルズやビートルズのエピソードや名盤など、お小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネス、プロ野球やラグビーなどのスポーツ、各スポーツの名選手やエピソードなど、その他気になるニュースやスポーツなど

(以下はその一例です)


■競馬

(世界の名馬)~コラム(競馬)

シーバード、リボー、ニジンスキー、セクレタリアト、セントサイモン、キンチェム、オーモンド、ネレイデ、ノーザンダンサーなど

例:伝説の史上最強馬・シーバード

16戦全勝無敗と凱旋門賞連覇・リボー

(日本の名馬)~コラム(競馬)

シンボルルドルフ、ディープインパクト、エルコンドルパサー、サイレンススズカ、オグリキャップなど

例:日本競馬史上最強馬・シンボリルドルフ

日本近代競馬の結晶・ディープインパクト

(コラム)~コラム(競馬)

例:サンデーサイレンスの「遺産」とこれからの社台グループ

ノーザンダンサー系の今後

(世界のホースマン)~コラム(競馬)

例:ドルメロの魔術師~フェデリコ・テシオ

(日本のホースマン)~コラム(競馬)

例:天才、変幻自在の騎乗、オッズを変える男・福永洋一


■大相撲の名力士~コラム(大相撲)

雷電為右エ門、谷風梶之助、双葉山定次、大鵬幸喜など

例:史上最強力士・雷電為右エ門

横綱の中の横綱・谷風梶之助


■ビートルズ~コラム(ビートルズ)、音楽・名盤・ロック(ビートルズ)

例:20世紀最高のロックバンド・ビートルズ

ロックの金字塔・・・サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド


■お小遣いサイト~お小遣いサイト

お財布.com、げん玉など

例:おすすめのお小遣いサイト~お財布.com

おすすめのお小遣いサイト~げん玉


■アフィリエイト~アフィリエイト

例:ネットビジネスの代表的なァフィリエイト



●野球やラグビー

特にプロ野球やラグビーについて

■テニスの男女の名選手

(男子)~コラム(スポーツ)

ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドル、ピート・サンプラス、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダルなど

例:4大大会優勝回数史上1位などのロジャー・フェデラー選手

「土の絶対王者」ラファエル・ナダル選手

(女子)~コラム(スポーツ)

シュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワ、クリス・エバート、セリーナ・ウィリアムズなど

例:「年間ゴールデン・スラム」を達成した女王・・・シュテフィ・グラフ選手


■F1の名ドライバー~コラム(スポーツ)

アイルトン・セナ、ミヒャエル・シューマッハー、アラン・プロストなど

例:「音速の貴公子」「最も速かった」アイルトン・セナ選手

「史上最強ドライバー」ミヒャエル・シューマッハー選手


■各種スポーツ


■その他気になるニュースやスポーツなど

100万人が犠牲になったインド独立の悲劇・・・ガンディーの理想はなぜ打ち砕かれたのか?
【悩んだら歴史に相談せよ!】好評を博した『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者で、歴史に精通した経営コンサルタントが、今度は舞台を世界へと広げた
新刊『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)では、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、世界史に名を刻む35人の言葉を手がかりに、現代のビジネスリーダーが身につけるべき「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」と5つの力を磨く方法を解説
監修は、世界史研究の第一人者である東京大学・羽田 正名誉教授
最新の「グローバル・ヒストリー」の視点を踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を提示する
どのエピソードも数分で読める構成ながら、「正論が通じない相手への対応法」「部下の才能を見抜き、育てる術」「孤立したときに持つべき覚悟」など、現場で直面する課題に直結する解決策が満載
まるで歴史上の偉人たちが直接語りかけてくるかのような実用性と説得力にあふれた“リーダーのための知恵の宝庫”だ

● 宗教の対立に最後まで苦しんだ ガンディーの最期

マハトマ・ガンディー(1869〜1948年)は、インドの宗教家であり政治指導者
イギリスの支配下にあったインドで地方有力者の家に生まれ、イギリスへの留学を経て弁護士資格を取得する
南アフリカで弁護士として活動した後、インドに帰国し、独立運動を指導することとなる。ガンディーは、イギリスの塩の専売制度に抗議する「塩の行進」やイギリス製品の不買運動などを展開し、「非暴力・不服従」の理念を掲げてインドの独立を目指す
第二次世界大戦後、国力が衰えたイギリスはインドの独立を承認するが、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立により、1947年にインドとパキスタンが分離・独立
この分裂時に紛争が発生したが、ガンディーは断食を通じて平和を訴える
しかし、イスラム教徒との融和に反発した過激なヒンドゥー教徒の若者に暗殺される
ガンディーの「非暴力・不服従」の理念は、黒人解放運動の指導者マーティン・ルーサー・キング牧師をはじめ、その後の多くの指導者に大きな影響を与えている

● 輝かしい独立の影で

1947年、長きにわたる闘争の末にインドがイギリスからの独立を果たしたとき、マハトマ・ガンディーの悲願は一見、成就したかのように見えました

しかし、彼自身はこの独立を心から喜ぶことができませんでした
なぜなら、その過程で祖国は引き裂かれ、想像を絶する悲劇が生まれてしまったからです

● ガンディーが描いた夢

ガンディーが目指していたのは、宗教や言語、文化の違いを包み込む多様性に満ちた統一インドでした

ヒンドゥー教徒も、イスラム教徒も、シク教徒も、すべての人が互いを認め合いながら、一つの国に暮らすというビジョンです

● 引き裂かれた大地

しかし、現実はそうはなりませんでした

独立の直前、インドはヒンドゥー教徒を主体とするインドと、イスラム教徒を中心とするパキスタンに分裂
国境を越えた民族・宗教間の大移動が始まり、無数の暴行・略奪・殺戮が各地で発生しました

● 砕かれた理想

その犠牲者は、数十万人とも百万人以上ともいわれます

ガンディーにとって、この分裂と流血は、自らの理想が打ち砕かれた瞬間でもありました

● なぜ理想は届かなかったのか

ガンディーの統一インドという壮大な理想は、残念ながら政治指導者間の対立や、長年くすぶっていた宗教間の不信感という高い壁に阻まれました

独立という大きな変化が、人々の不安を煽り、対立を先鋭化させてしまったのです

● 現代に響く教訓

この歴史的悲劇は、現代を生きる私たちに重要な教訓を投げかけています
それは、異なる価値観を持つ人々が共存する上で「寛容さ」や「対話」がいかに不可欠であるかということです

分断と対立は、いとも簡単に憎悪の連鎖を生み出してしまいます

● 絶望の中の希望

しかし、ガンディーは絶望的な状況下でも、最後まで非暴力の信念を貫き、身を挺して平和を訴え続けました

彼のその姿は、憎しみによって引き裂かれた世界で、私たちが進むべき道を照らす、一条の光であり続けているのです

※本稿は『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)より一部を抜粋・編集したものです

(この記事はダイヤモンドオンラインの記事で作りました)

100万人が犠牲になったインド独立の悲劇・・・ガンディーの理想はなぜ打ち砕かれたのか?
【悩んだら歴史に相談せよ!】好評を博した『リーダーは日本史に学べ』(ダイヤモンド社)の著者で、歴史に精通した経営コンサルタントが、今度は舞台を世界へと広げた
新刊『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)では、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、世界史に名を刻む35人の言葉を手がかりに、現代のビジネスリーダーが身につけるべき「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」と5つの力を磨く方法を解説
監修は、世界史研究の第一人者である東京大学・羽田 正名誉教授
最新の「グローバル・ヒストリー」の視点を踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を提示する
どのエピソードも数分で読める構成ながら、「正論が通じない相手への対応法」「部下の才能を見抜き、育てる術」「孤立したときに持つべき覚悟」など、現場で直面する課題に直結する解決策が満載
まるで歴史上の偉人たちが直接語りかけてくるかのような実用性と説得力にあふれた“リーダーのための知恵の宝庫”だ


ガンディーが目指したのは「宗教の融和」でした
インドの独立は実現しましたが、「宗教の融和」はできませんでした
それでもガンディーは絶望的な状況下でも、最後まで非暴力の信念を貫き、身を挺して平和を訴え続けました

彼のその姿は、憎しみによって引き裂かれた世界で、私たちが進むべき道を照らす、一条の光であり続けているのです


 

 


◆悩んだら歴史に相談せよ!◆
こんなときナポレオンならどうする?
【決断力】 迷わず行動する力
【洞察力】 本質を見抜く力
【育成力】 チーム・組織を育む力
【人間力】 周囲の信頼を得る力
【健康力】 リーダーの健康管理力

◆仕事の悩みが吹き飛ぶ
世界史のリーダー35人の教え◆
●「不条理な状況で孤立しても、決して屈するな」
ウィンストン・チャーチル(イギリス)
●「身近に感じられる目標設定で、すべての人を包み込む」
マハトマ・ガンディー(インド)
●「知らないことに向き合い、決断するのがリーダーの仕事」
マーガレット・サッチャー(イギリス)
●「弱者同士でもうまく連携すれば、強い相手も怖くない」
諸葛孔明(中国・蜀)
●「求められているものを素直に受け止めれば、アイデアは浮かんでくる」
レオナルド・ダ・ヴィンチ(イタリア)
●「最大の危機は栄光の瞬間から始まる」
ナポレオン・ボナパルト(フランス)
●「経歴よりも、とにかく能力があるものを抜てきする」
曹操(中国・魏)
●「相手を承認しながら進めることが成功の鍵」
オクタウィアヌス(ローマ帝国)
●「日頃から準備をしている者に必ずチャンスが訪れる」
アンドリュー・カーネギー(アメリカ)
●「酒に飲まれて醜態をさらしてしまった・・・」
ボリス・エリツィンの反省(ロシア)

◆大切なことはすべてこの本に書いてある!◆
部下が動かない、成果が出ない、孤立感に苦しむ・・・
そんな悩みに直面したとき、歴史に学ぶことは大きなヒントになります

本書『リーダーは世界史に学べ』は、チャーチル、ナポレオン、ガンディー、孔明、ダ・ヴィンチなど、時代も文化も越えた世界史上の人物たちの言葉とエピソードを通して、現代のリーダーが必要とする「決断力」「洞察力」「育成力」「人間力」「健康力」という5つの力を高めるヒントをつかめます

著者は前著『リーダーは日本史に学べ』で好評を博した歴史通の経営コンサルタント・増田賢作氏

小学生の頃から偉人の伝記を読み漁り、歴史の英知を経営現場に応用してきた著者ならではの「ビジネス×歴史」の鋭い視点が光ります

さらに本書では、東京大学名誉教授・羽田正氏が監修を務め、世界史の広く深い視座から内容を補強
「グローバル・ヒストリー」という新たな世界史の潮流も踏まえ、従来の枠にとらわれないリーダー像を描き出します

どのエピソードも数分で読めて、明日から使える“リーダーのための知恵の宝庫”です
「正論では動かない相手への向き合い方」「部下の才能の見抜き方と育て方」「孤立したリーダーが持つべき心構え」など現場で直面する課題に対して、偉人たちが語りかけてくるような実用性と説得力に満ちた内容です

本書を読めば、世界史が最強の味方になるはずです!

中国の歴代皇帝を支えた「後宮」の女性たちは、どのような暮らしをしていたのか
中国文学者で明治大学教授の加藤徹さんが書いた『後宮 宋から清末まで』(角川新書)から、北宋が滅亡する契機となった事件の渦中にいた女性皇族たちの顛末を紹介する――

■中国・北宋で起きた前代未聞の拉致事件

1127年金国の軍勢が宋(北宋)の都・開封を占領し、宋の上皇徽宗(きそう)と皇帝欽宗(きんそう)をはじめ、皇后・皇族3000余名を捕らえ拉致したとされる靖康の変は有名な事件で、関連の書籍も多い

漫画家の青木朋氏が連載中の『天上恋歌〜金の皇女と火の薬師〜』は、靖康の変の前後の宮廷を舞台に金の皇女が活躍する歴史コミックだが、歴史の勘所をおさえ、金の側の言い分や視点も取り込んだ傑作である

紙数の都合上、詳細は他書にゆずり、ここでは靖康の変で運命が激変した皇后たちを取り上げよう

徽宗は結局、金軍に献上するため大規模な後宮を構えたようなものだが、彼が70人も子女をもうけたことは、王朝存続の保険としては意味があった

徽宗や欽宗の二帝以下の皇族が金に連行されたとき、徽宗の九男であった康王趙構は、奇跡的に難を逃れていた
ただし、趙構の生母韋氏も、妻の●(けい)氏も、彼の娘も金に連行されてしまっていた

 ※けいの漢字は开におおざと

金は当初、領土に対する執着は薄かった
金軍は宋に傀儡国家を残し、北に撤収していく
傀儡国家「大楚」の皇帝には、北宋の宰相・張邦昌(ちょうほうしょう)がなったが、彼は愛国者だった
金軍が撤収すると、彼はすぐさま帝位を返上した
そして、民間から元祐皇后孟氏を迎えて垂簾聴政(※)を行ってもらった

※皇后・皇太后が幼い皇帝の代わりに摂政を行うこと

哲宗の皇后だった孟氏はすでに廃され、失脚していた
靖康の変のとき、彼女は都を離れて実家に引きこもっていたため、無事だったのだ

元祐皇后孟氏は、康王趙構を皇帝に指名する
趙構は即位し、南宋の初代皇帝・高宗となった
孟氏は高宗の生母ではなかったが、皇太后として尊ばれた
張邦昌は、宋の復国のシナリオを作成して実行した功労者であったが、金軍のもとで帝位を僭称した罪を弾劾され、自殺を命じられた

もし靖康の変がなければ、孟氏が奇跡のカムバックを果たすことはなかったろう

■皇帝の母と妻は、敵国で辱めを受けた

靖康の変では、高宗(変の当時はまだ康王趙構)の母と妻子も金軍に捕まっている
趙構の生母で徽宗の側妃だった韋氏(後の顕仁皇后。1080年‐1159年)、趙構の正妻・●秉懿(けいひょうい・後の憲節皇后。1106年‐1139年)と側室の田春羅(でんしゅんら)と姜酔媚(きょうすいび)、4歳から2歳までの女児5名、あわせて9名の女性が金軍によって連行された

金軍の北送の旅路は過酷だった
趙構の妻・●氏も含め、妊娠中だった皇室の女性は次々に落馬して流産した。趙構の5人の娘のうち、下の3人は旅の途中で死んだ

旅路の途中も、金国に到着してからも、貴婦人らは金人から言いようのない辱めを受けた
欽宗の美貌の皇后・仁懷皇后朱氏(1102年‐1127年)は金に到着後、屈辱に耐えきれず自殺した

■病に倒れた妻の死すら知らされず

趙構は南宋の初代皇帝・高宗となり、臨安(現在の杭州)を臨時の首都としたが、金との熾烈な戦争は継続中で、北送された家族の安否は不明だった
高宗は、敵国で消息不明の妻を皇后に「遙冊」し、彼女が帰国する日まで皇后を立てぬことを誓う

金人は高宗の家族を洗衣院(※)に入れた
正妻と2人の側室だけでなく、すでに50に手がとどく年齢になっていた生母の韋氏も、まだ4歳の幼女2人も、洗衣院に入れられ、屈辱の日々をしいられた

※金軍の捕虜になった女性たちが収容されたとされる施設
小説風の歴史書『靖康稗史』(せいこうはいし。後世の偽書説あり)に記載されている

側室の田春羅は洗衣院に入れられた翌年に死んだ

1135年、金の第二代皇帝・太宗(靖康の変のときの皇帝)が死去し、第三代皇帝・熙宗が即位すると、高宗の家族はようやく洗衣院から解放され、五国城(現在の黒竜江省ハルビン市依蘭県)に遷された
この年、高宗の父・徽宗が五国城で病没している

1139年、●氏は34歳で五国城において病没した
金人はこれを秘匿し、高宗は妻の死を知らなかった

■皇后たちの波乱の人生

1142年、高宗は、金の第三代皇帝・熙宗と「紹興の和議」を成立させた。高宗の生母の韋氏は解放され、南宋に渡り、息子との再会を果たす
正史『宋史』后妃伝によると、高宗はこのとき初めて妻が三年前に死去したことを知ったという

高宗は政治を休み、喪に服し、丁重な葬儀を行った
1145年、皇后●氏の棺が金から南宋に送られてきたとき、高宗はあらためて深い悲しみにくれた
最終的に、彼女の諡(おくりな)は「憲節」とされた

波瀾の人生を送った韋氏は、高宗の皇太后として大切にされ、幸福な晩年を送り、80歳で死去
死後、「顕仁」と諡(おくりな)された

靖康の変は皇后たちの運命も激変させた
奇跡の復活を遂げた元祐皇后孟氏、自殺した仁懷皇后朱氏
恥辱を生き延びて天寿を全うした顕仁皇后韋氏、遙冊された憲節皇后●氏

高宗の二番目の皇后、憲聖慈烈皇后呉氏(1115年‐1197年)も、靖康の変後の時代を雄々しく生きた傑物である
彼女は高宗・孝宗・光宗・寧宗の四代54年にわたり后位(皇后や皇太后などの位)を保ち、国を裏から支えた逸材である

■命を狙われる夫を軍服を着て支えた皇后

呉氏は、14歳で康王時代の高宗の側室となって以来、ずっと彼を支えてきた
正史『宋史』后妃下によると、彼女は頭が良く、当時の女性としては珍しく文字の読み書きもかなりできたようだ

話を、靖難の変の直後に戻す

高宗の権力は、即位後もしばらく安定しなかった
金軍だけではない
国内の不満分子にも命を狙われた
金国に抑留中の「徽欽二帝」はまだ存命だったため、高宗の即位の手続きの正統性を疑う声も根強かったのだ

高宗は即位の前後、各地を転々と逃げ回った
呉氏は軍服を着用して高宗の左右に侍した
浙江の四明山に逃げたとき、衛兵の一部が反乱をたくらんだ
反乱者が高宗の所在を捜したとき、呉氏は機転をきかせ嘘をつき、難を逃れた

その後、高宗らは船に乗って海上を逃げた
魚が一匹、海面から跳ね上がり、船の中に飛び込んできた
歴史をよく勉強していた呉氏は「吉兆です。白魚入舟の故事の再現です」と言って励まし、高宗を喜ばせた
白魚入舟は敵を降して支配する吉兆である
昔、周の武王が殷の紂王と戦う直前、武王の舟に白魚が自ら飛び込むという珍事が起きた
武王はこれを天の吉兆だと見なし、周軍の士気は大いにあがり、殷軍に勝利したのだ

その後も、呉氏は勉学に励み、高宗からますます寵愛され、貴妃にまで昇った
紹興の和議が成立し、遙冊された皇后・●氏の死が判明した翌年、呉氏は皇后に立てられた

----------
加藤 徹(かとう・とおる)
明治大学法学部教授
日本京劇振興協会非常勤理事、日本中国語検定協会理事
1963(昭和38)年、東京都に生まれる
専攻は中国文化
東京大学文学部中国語中国文学科卒業
同大学院人文科学研究科博士課程単位取得満期退学
90~91年、中国政府奨学金高級進修生として北京大学中文系に留学
広島大学総合科学部助教授等を経て、現職
『京劇「政治の国」の俳優群像』(中公叢書)で第24回サントリー学芸賞(芸術・文学部門)を受賞
----------

(この記事はプレジデントオンラインの記事で作りました)

中国は多民族国家である

多数派民族の漢民族も他の民族に支配されていた時代も・・・

中国の歴史はある意味で民族闘争の歴史でもあるのだ


 

 


国家は巨大な生き物だ
その新陳代謝を支える「内廷」から見る画期的中国史

本来なら西太后は生まれていなかった
中央集権と統一と政権存続を至上とする中華帝国
それを支えた後宮は清朝に完成形を迎えるが・・・
巨大な密室から歴代王朝の興亡を描く画期的中国史

清朝になり、妃選びは容色でなく内面重視が徹底された
個々の皇帝は死ぬ
歴代の王朝は滅びる
だが、絶対的な権威と権力をあわせもつ一人の支配者が君臨する中央集権的な統一国家、という中華帝国のシステムは続き、それを後宮が支えた
宋、元、明、そして清となり、士大夫、外戚、宦官のトリレンマも解消され、後宮制度も完成を迎えたかに思えたが、偶然の産物で西太后が現れる・・・
■軍服を着た異色の皇后。南宋・高宗の呉皇后
■夫がいる宮女まで意図的に襲った、金の海陵王の異常な荒淫
■明の後宮の組織は肥大化し、宦官十万人で餓死者もでた
■皇帝と皇后に礼を尽くさせた乳母
■宮女たちの皇帝暗殺計画。中国史上、屈指の怪事件「壬寅宮変」
■同治帝は後宮で生まれた最後の皇帝となった
■モンゴル王朝の後宮は健全だった
■明時代、皇后までは倍率五千倍
■永楽帝の後宮で起きた、三千人以上が死刑となった魚呂の乱
■明朝第一の悪女、万貴妃。皇子殺しに、皇帝のお手付きとなった女官も殺す
■清の康熙帝に二度廃立された悲劇の皇太子
■乾隆帝の隠れ家は三畳一間だった

女中はいくらで雇えたのか?時代別にみる相場

古代中国で女中として働いた女性は、丫鬟(アーファン、あかん)と呼ばれた

秦、漢時代では婢や婢女、唐から宋には小鬟などと呼ばれ、宋以降になると丫鬟(アーファン、あかん)が広く使われるようになった

本記事では分かりやすさのため、呼称を丫鬟に統一する

まずは、女中を迎えるのに必要だった費用を、史料に基づいて整理していく
当時の貨幣価値は現在とは大きく異なるため単純な比較は難しく、以下の数字はあくまで目安の一つとして捉えていただきたい

秦漢の頃には、奴婢制度が法的に整えられ、女子は婢として扱われた

史書や出土資料の記録から、成年女性は4300銭、未成年は2500銭ほどで取引されたと推測されている

現代の価値にざっくり換算すると約1000元(約2万円台前半)ほどで、主に家事労働や雑役に使われる身分として見られていた
当時は庶民の生活が逼迫し、売買の価格が極めて低く、食糧と交換される例すらあったとされる

唐代の頃になると貨幣経済が発展し、丫鬟の価値も上昇する

唐の法制をまとめた『唐律疏議』には奴婢の扱いが詳しく記され、この時代の丫鬟の買い取り価格はおおむね3万文前後と推定される

現代換算では約110万円ほどになる計算だが、当時の体感でいえば「庶民が家財を売り払ってようやく用意できるレベルの大金」であり、丫鬟が家の中で大きな資産として扱われていたことが分かる

宋代に入ると経済が発展し、丫鬟を買い取るだけでなく、契約を交わして雇う制度が並行するようになる
買い取り価格は依然として数万文規模だったが、契約雇用では期間や待遇を文書で定める方式が広まり、料金は一律ではなく個別交渉で決まるようになっていった

明代になると記録がより具体的になる

粗使いの丫鬟は3両前後で売買され、当時の銀相場に換算すると約4〜11万円に当たる
唐代の約110万円と比べると桁が違うように見えるが、唐は銅銭(文)、明は銀(両)と貨幣単位がまったく異なっており、単純比較はできない

体感でいえば、明の3両は「貧しい農家が一年分の生活費に匹敵する金をかき集めて娘を売る」イメージで、やはり庶民にとっては非常に重い金額であった

容姿や技能に優れた丫鬟は十数両に達し、この時代の小説にも、生活苦から娘を3両で売ったという描写が見える

清代に入ると、相場は時期によって大きく揺れる

清代前半の康熙から雍正にかけては、一般的な丫鬟が5両前後で取引され、乾隆期には25両で一家四人をまとめて買った例もあった
さらに災害が続いた道光や咸豊年間には庶民の経済が逼迫し、相場が3両台にまで下落した

こうした数字からも、丫鬟の価格がそのまま当時の経済を映すバロメーターだったことがうかがえる

また清代後期には、契約制の給金体系も整えられていた

三等の丫鬟は前金10両(約3万〜5万円)と月給1両(約3000〜5000円)、二等は前金25両(約7万5000〜12万5000円)と月給1〜2両(約3000〜1万円)、一等や通房といった上級の丫鬟になると前金50〜2000両(約15万〜1億円超)、月給も5両以上(約1万5000〜2万5000円)が一般的であった

当時の銀1両は150〜220元、約3000〜5000円と換算され、上級の丫鬟にはかなりまとまった額が動いていたことになる

このように丫鬟の相場は、時代ごとの経済事情が色濃く反映されていたのである

丫鬟と主人の距離 〜許される範囲と越えてはならぬ一線

丫鬟は、家の中で多くの役割を担っていたが、その仕事の範囲は単なる家事にとどまらなかった

主人の生活は昼夜を問わず丫鬟の働きに支えられており、時には家庭内の「境界」に触れるような業務も含まれていた

まず日中の仕事であれば、大きな制限はなかった

掃除、洗濯、食事の準備、客の応対などはすべて丫鬟の担当であり、主人が座を移せば茶を運び、書斎では筆墨を整え、散歩では傘を差すなど、生活全般を支える役目が期待された

これは身分に関係なく広く行われていたもので、主家にとっては「家族労働力」の延長であった

しかし境界がはっきりし始めるのは、主人の私的な領域に近い仕事である

たとえば寝室の世話はその代表で、夜具の準備、温度の調整、夜中の飲み水や薬の用意など、信頼された丫鬟だけに任される役目であった

主人夫妻の寝室に出入りできる丫鬟となると、選ばれるのはさらに一部であった
慎み深さ、体調管理、家の秩序を乱さない姿勢が求められ、家事の技能だけでなく人格的な信頼も重視された

ここで問題となったのが、主人と丫鬟の身体的な距離である

明清の礼法では、主人が若い丫鬟に強引に手を出すことは禁止され、告発されれば「民女を辱めた」として処罰される規定も存在した

とはいえ、両者の力関係は大きく、丫鬟が訴えることはほとんど不可能で、建前と現実には深い隔たりがあった

こうした事情の中で、主人の寝所に正式に仕える特別な役目として、通房丫鬟が置かれるようになる

通房丫鬟とは

丫鬟の中には、通房丫鬟と呼ばれる特別な役目が存在した

一般の丫鬟が家事全般を担うのに対し、通房丫鬟は主人の寝室に仕え、夜間の世話、寝具の準備、飲み水や薬の用意など、きわめて近い距離で生活を支えた
役割の性質上、主人の私生活に深く関わるため、選ばれるのは容姿や気立て、忠誠心において特に信頼できる者に限られた

通房丫鬟は、必要に応じて主人の夜の相手を務めることも認められており、妊娠すれば妾に昇格することもあった

清代の小説『紅楼夢』(乾隆期の貴族社会を描いた長編)では、賈宝玉(か ほうぎょく)の丫鬟として仕えた襲人(しゅうじん)が、通房丫鬟として描かれ、寝室の世話を通じて特別な存在になっていく

この描写は創作ながら、当時の制度や価値観をよく反映する例としてしばしば引用される

ただし、特別な立場であるとはいえ、通房丫鬟の人生は決して安定していたわけではなかった

主人に気に入られれば身分上昇の道が開ける一方、正妻の嫉妬を買えば遠方に売られたり、家から追放されたりすることも珍しくなかった

立場が高いほど失うものも大きく、常に不安定な場所に立たされていたのである

女中たちが解放へ向かった道のり

このように、長い歴史の中で、丫鬟は家内労働の担い手として、時に財産の一部として扱われてきた

しかし、時代が近代へ進むにつれて、彼女たちを取り巻く環境は大きく変化していった

清末になると社会の近代化が進み、家内の人身売買を問題視する声が知識層の間から上がり始める

状況が大きく動いたのは、辛亥革命後である

1912年の中華民国成立を受け、臨時政府は封建的な身分制度の廃止を宣言した

とはいえ、各地では依然として旧来の習慣が広く残っていた
都市部の家庭には「養女」として迎えられながら実質的には丫鬟として扱われる少女がおり、見かけ上の改革と実態の乖離が問題となった

香港では19世紀後半から国際的な批判が高まり、20世紀初頭には廃止運動が盛んになった
1923年に女傭服務条例が制定され、丫鬟の新規受け入れや売買が厳格に制限されたものの、取締りは不十分で実態は容易に消えなかった

1926年には中華民国が国際連盟で奴隷制度禁止条約に署名し、世界から旧来の人身売買習慣が非難されるようになる
これを受けて、中国本土や香港、東南アジア華人社会でも改革が急速に進んだ

1930年代に入ると、買い取り女中の制度は名実ともに消滅へ向かった

こうしてみると、丫鬟の存在は古代から清末まで続いた人身売買と家内労働の象徴であり、社会の変化とともにその姿も大きく変わっていった

家の格式を示す存在から、法の保護を必要とする労働者へ
そして近代の改革を経て、ついに自由な個人として扱われるようになったのである

参考 : 『唐律疏議』『紅楼夢』『里耶秦簡』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

女中はいくらで雇えたのか?時代別にみる相場

古代中国で女中として働いた女性は、丫鬟(アーファン、あかん)と呼ばれた

秦、漢時代では婢や婢女、唐から宋には小鬟などと呼ばれ、宋以降になると丫鬟(アーファン、あかん)が広く使われるようになった

本記事では分かりやすさのため、呼称を丫鬟に統一する

まずは、女中を迎えるのに必要だった費用を、史料に基づいて整理していく
当時の貨幣価値は現在とは大きく異なるため単純な比較は難しく、以下の数字はあくまで目安の一つとして捉えていただきたい

秦漢の頃には、奴婢制度が法的に整えられ、女子は婢として扱われた

史書や出土資料の記録から、成年女性は4300銭、未成年は2500銭ほどで取引されたと推測されている

現代の価値にざっくり換算すると約1000元(約2万円台前半)ほどで、主に家事労働や雑役に使われる身分として見られていた
当時は庶民の生活が逼迫し、売買の価格が極めて低く、食糧と交換される例すらあったとされる

唐代の頃になると貨幣経済が発展し、丫鬟の価値も上昇する

唐の法制をまとめた『唐律疏議』には奴婢の扱いが詳しく記され、この時代の丫鬟の買い取り価格はおおむね3万文前後と推定される

現代換算では約110万円ほどになる計算だが、当時の体感でいえば「庶民が家財を売り払ってようやく用意できるレベルの大金」であり、丫鬟が家の中で大きな資産として扱われていたことが分かる

宋代に入ると経済が発展し、丫鬟を買い取るだけでなく、契約を交わして雇う制度が並行するようになる
買い取り価格は依然として数万文規模だったが、契約雇用では期間や待遇を文書で定める方式が広まり、料金は一律ではなく個別交渉で決まるようになっていった

明代になると記録がより具体的になる

粗使いの丫鬟は3両前後で売買され、当時の銀相場に換算すると約4〜11万円に当たる
唐代の約110万円と比べると桁が違うように見えるが、唐は銅銭(文)、明は銀(両)と貨幣単位がまったく異なっており、単純比較はできない

体感でいえば、明の3両は「貧しい農家が一年分の生活費に匹敵する金をかき集めて娘を売る」イメージで、やはり庶民にとっては非常に重い金額であった

容姿や技能に優れた丫鬟は十数両に達し、この時代の小説にも、生活苦から娘を3両で売ったという描写が見える

清代に入ると、相場は時期によって大きく揺れる

清代前半の康熙から雍正にかけては、一般的な丫鬟が5両前後で取引され、乾隆期には25両で一家四人をまとめて買った例もあった
さらに災害が続いた道光や咸豊年間には庶民の経済が逼迫し、相場が3両台にまで下落した

こうした数字からも、丫鬟の価格がそのまま当時の経済を映すバロメーターだったことがうかがえる

また清代後期には、契約制の給金体系も整えられていた

三等の丫鬟は前金10両(約3万〜5万円)と月給1両(約3000〜5000円)、二等は前金25両(約7万5000〜12万5000円)と月給1〜2両(約3000〜1万円)、一等や通房といった上級の丫鬟になると前金50〜2000両(約15万〜1億円超)、月給も5両以上(約1万5000〜2万5000円)が一般的であった

当時の銀1両は150〜220元、約3000〜5000円と換算され、上級の丫鬟にはかなりまとまった額が動いていたことになる

このように丫鬟の相場は、時代ごとの経済事情が色濃く反映されていたのである


女中の仕事範囲は、主人およびその家族の信頼度、女中の忠誠度などにより変わった

主人およびその家族の信頼度、女中の忠誠度が高ければ、家庭のかなり中枢までに・・・


女中たちが解放へ向かった道のり

長い歴史の中で、丫鬟は家内労働の担い手として、時に財産の一部として扱われてきた

しかし、時代が近代へ進むにつれて、彼女たちを取り巻く環境は大きく変化していった

清末になると社会の近代化が進み、家内の人身売買を問題視する声が知識層の間から上がり始める

状況が大きく動いたのは、辛亥革命後である

1912年の中華民国成立を受け、臨時政府は封建的な身分制度の廃止を宣言した

とはいえ、各地では依然として旧来の習慣が広く残っていた
都市部の家庭には「養女」として迎えられながら実質的には丫鬟として扱われる少女がおり、見かけ上の改革と実態の乖離が問題となった

香港では19世紀後半から国際的な批判が高まり、20世紀初頭には廃止運動が盛んになった
1923年に女傭服務条例が制定され、丫鬟の新規受け入れや売買が厳格に制限されたものの、取締りは不十分で実態は容易に消えなかった

1926年には中華民国が国際連盟で奴隷制度禁止条約に署名し、世界から旧来の人身売買習慣が非難されるようになる
これを受けて、中国本土や香港、東南アジア華人社会でも改革が急速に進んだ

1930年代に入ると、買い取り女中の制度は名実ともに消滅へ向かった

こうしてみると、丫鬟の存在は古代から清末まで続いた人身売買と家内労働の象徴であり、社会の変化とともにその姿も大きく変わっていった

家の格式を示す存在から、法の保護を必要とする労働者へ
そして近代の改革を経て、ついに自由な個人として扱われるようになったのである


 

 


中国古典小説の最高峰を、一冊で読み通す
膨大な研究史を踏まえた決定版

「源氏物語」とも並び称される清代の小説「紅楼夢」
長大な物語を、石の神話、恋愛譚、貴族生活崩壊譚、女性列伝、戒淫といった流れごとにダイジェスト
原文の魅力を損なわず読み通すことのできる入門編

中国語の専門学校時代にその学校時代に勧められた書籍
当時はその「価値」にわからなかったが中国史、中国の風俗、生活を知るうえで興味深い

ときは1566年
上杉謙信(輝虎)は、悲願であった関東平定や北条家打倒を目指して出陣。今でいう栃木県や茨城県の方角を目指し、抵抗する勢力を撃破しながら進軍しました

そして手を結んでいた、房総半島の有力大名である里見氏と連携し、今でいう千葉県の北部を制圧しようとします
その際に上杉軍がターゲットの1つに定めたのが、現在の千葉県佐倉市にあった“臼井(うすい)城”でした

当時、臼井城には北条家に従う大名である、千葉氏の有力家臣“原胤貞(はら・たねさだ) ”が、千数百人ほどの手勢で守っていました

彼は上杉勢が迫るとあって対応を考えますが、当初はやや楽観的な見通しもありました
「我が臼井城は天然の要害。それに合戦がはじまれば、千葉様や北条様の援軍も期待できよう」

当時、臼井城の北側や東側や巨大な沼地となっており、上杉勢がこの方角から迫るのは困難でした
この印旛沼(いんばぬま)は現在でも、いくつもの市や町にまたがる巨大さを誇っています

必然的に攻め手の侵攻ルートは絞られ、台地の上にある臼井城からは、対応しやすい構造だったのです
ところが、 原胤貞の当初の見通しに反し、臼井城は危機的状況に陥ってしまうのでした

切り札は参謀の『白井胤治』

まず期待していた援軍ですが、里見軍と連携した上杉勢が万単位の大軍で迫ると、千葉氏は自らの本拠地を守るので手一杯に
臼井城を支援する余裕はありませんでした

北条家も同様に苦しく、ただ一緒に抵抗してくれる味方のため、何とか援軍を派遣してくれましたが、兵力は百騎ほどだったと言われます

それに対して臼井城に押しよせた上杉軍は1万5千人とも言われる大軍、かつ謙信みずからが率いていました
その歴戦の采配により、臼井城の防御線は次々に突破されてしまいます

城の周囲には複数の砦が築かれており、防御側はこれらと連携出来るのも強みでしたが、どこもあっという間に制圧され、残るは臼井城の中心部のみに
端からみれば、もはや落城寸前に見える形です

この戦況に謙信は言いました
「北条討伐は、まだまだ先が長い。この城もその道中の1つに過ぎぬのだ、何ほどのことやあらん」

しかし原胤貞にはまだ、切り札とも言える存在が残されており、それは“白井胤治(しらい・たねはる)”という武将でした
あまり有名な人物ではありませんが、切れ者であったと伝わり、軍師や参謀とも言うべき立場の武将だったのです

彼は言いました
「敵軍はたしかに強大。しかし我らには自らの土地を守る大義があり、兵の士気も高うございます。勝利への采配は万事、お任せくだされ」

ここまで臼井城は多くの防衛線を突破されましたが、各個撃破されて兵力を減らさないよう、あえて早めに退かせた側面もありました
そのため大半の戦力は温存されており、それが1か所に集中する形になっていたのです

意表を突かれる上杉勢
さて、上杉軍が臼井城の中心部を囲んでいると、とつぜん城門が大きく開かれました
上杉兵が「む、ついに降伏して開城か?」「そうであれば、ありがたいのう」などと思った次の瞬間、城兵が怒涛のごとく突撃して来たのです

追い詰めていたと考えていた臼井城の方から、総攻撃を仕掛けて来るとは思わず、上杉軍は不意を突かれました

「今じゃ、敵陣を突き崩せ!」城兵の勢いはすさまじく、中でもひときわ目立っていたのが、全身に赤い鎧をまとっていた武者でした
「我が名は松田康郷(まつだ・やすさと)。さあ上杉の者ども、出会え候え! 」

彼は北条家が援軍に送った武将で、率いる兵こそ少数でしたが、一騎当千の猛者だったのです
ついには上杉軍の本陣近くまで、斬り込む活躍を見せたといいます

さすがの謙信も劣勢を悟り、後退の下知を出しました
「むう、なかなかやりおる。・・よいか者ども、また城兵が打って出てくるやも知れぬ、十分に備えるのだ」

白井胤治の策で攻守はやや逆転したものの、まだまだ戦力的には上杉勢の方が有利であり、謙信は冷静に態勢を整えました

彼にとって臼井城の奪取は、印旛沼やそこへ繋がる利根川の水運を、押さえることにも繋がり、そう簡単に攻略を諦めたくはなかったのです

2段構えの奇策を発動

上杉軍は以後、城内からの急襲を警戒しつつ、やや遠巻きに臼井城を囲むようになりました
しかし城門は固く閉ざされたまま、出撃してくる気配はまったくありません

謙信はやや肩透かしをくらった感覚になりましたが、対北条家の全体を俯瞰したとき、いつまでも臼井城に釘付けは、避けたい状況でした

そこで「そちらが来ないのであれば、こちらから決着をつけてくれる!」とばかり、総攻撃を決断

上杉軍は一気に攻めかかりましたが、臼井城へ上杉兵が殺到した直後、城壁の役目をしていた崖がとつぜん崩壊

上杉勢の多くが巻き込まれ、大混乱が起きます。これも白井胤治の策であり、あらかじめ崩れるように細工をしていたのでした

そして、守備側がこの機を逃すはずもなく、城門が開くと松田康郷らを筆頭に、城兵が突撃を開始。こうなると上杉勢はなすすべなく、雪崩を打って潰走を始めました

もはや城攻めを続行できないほどに崩され、さすがの謙信も表情を歪ませます
「不覚。ここまで出し抜かれるとは、侮ったわ!」
この敗北の被害は大きく、局地戦に留まらない影響が出てしまいました

ここまで上杉勢は急進撃を続け、道中の勢力はいちおう平定して来ましたが、心から従わせた武将ばかりではありません
北条が有利と見れば、いつ従う先をくら替えするか分からない勢力も、少なくありませんでした

そして謙信にとっては本国を遠く離れた、いわばアウェイの地に身を置いている状況です
もし背後の兵站が断たれたり、盛り返した敵勢力に囲まれ、袋叩きにあえば危機的状況に陥ってしまいます

謙信は対北条の前線に展開させていた、すべての部隊に退却の指示を出し、自らも今でいう群馬県の辺りまで撤退しました
ここに上杉軍の関東平定は頓挫し、北条家は防衛に成功したのでした

稀代の名将をジャイアントキリング

さて、北条家としては臼井城にここまでの戦果は期待しておらず、軍神とも言われた名将を相手に、1地方の武将らが大金星を挙げた形になりました
臼井城主の原胤貞や参謀の白井胤治らは、大いに褒め称えられたと言います

また最前線で暴れ回った松田康郷は、その武名を大いに高め、赤い鎧を着ていたことから“松田の赤鬼”という異名がつきました

なお、ここまでの内容は北条家側と上杉家側の記録で、被害の程度に記述の違いがありますが、双方の立場を考えれば腑に落ちる所です
ただ合戦の経緯にも諸説あり、例えば崖を崩した計略も、自然現象だったとする言い伝えもあります

加えて北条家が盛り上げるため、いろいろと脚色をした可能性も有り得ますが、上杉勢が臼井城を攻め、撃退された経緯は事実と思われます

・・ところで上杉謙信はしばしば、戦国大名の中でも最強格と見なされ「合戦でほぼ負けなし」とも言われる武将です
そうした中、手痛い打撃を受けて退却したエピソードは目立っており、彼の生涯で最大の敗北といえるかも知れません

ただ彼も人間である以上、恐らくすべてにおいて完璧とは行かず、思わぬ失敗や相手に出し抜かれてしまうことも、あったのではないでしょうか

戦国時代のエピソードは英雄の活躍に心が踊る一方、時おり無名かつ小さな勢力が、名立たる武将を負かす例もあります

臼井城の合戦に見られるように、不利な武将が知恵をしぼって強者に対抗する歴史は、たいへん面白いひとつです

(この記事は原田ゆきひろの記事で作りました)

上杉謙信は戦国武将でも戦上手で知られ、無敗、軍神、戦国最強ともいわれることも・・・

そんな謙信が手痛い打撃を受けて退却したエピソードは目立っており、彼の生涯で最大の敗北といえるかも知れません

戦国時代のエピソードは英雄の活躍に心が踊る一方、時おり無名かつ小さな勢力が、名立たる武将を負かす例もあります

臼井城の合戦に見られるように、不利な武将が知恵をしぼって強者に対抗する歴史は、たいへん面白いひとつです


(ちなみに真偽はわかりませんが謙信は女性であったとの説もあります)


 

 


越後を本拠に関東・越中・能登を支配した上杉謙信については、江戸時代の兵学者らによって史実と異なることが多く語り継がれてきた
本書は、謙信が生きた時代の史料のみを使って、本物の謙信像を提示する

地域の守護神「氏神」は、氏族の祖神を祀った神社だった

2025年も、残すところあと1ヵ月あまりとなりました

今年は、昨年(2024年)のような大災害(能登半島地震や能登地方での記録的大雨など)こそ起きなかったものの、埼玉県八潮市の道路陥没事故、大船渡市の山林火災、四日市市地下駐車場冠水事故など、各地でさまざまな事故や災害が発生しました

また、世界に目を向ければ、イランとイスラエルの戦争、ロシアによるウクライナ侵攻など、2024年から続く国際紛争は依然として解決の兆しが見られず、混迷の度合いを深めています

このような状況下で日本も、さまざまな課題を抱えたまま2026年を迎えることになるでしょう

だからこそ、初詣で神社仏閣に足を運び、新年の無病息災や平安無事を祈りたいものです

初詣というと、手軽さから自宅近くの神社へ参拝する人が多いようです

こうした神社には、その土地に古くから祀られてきた神様(地主神)、あるいは地域の守り神(守護神)としての役割を担う神様が祀られており、一般に「氏神」と呼ばれています

そのため、氏神様への初詣には、地域を守ってくださる神様へ新年の感謝と祈りを捧げ、家内安全や地域の繁栄を願うという意味が込められているのです

もっとも、現代の「氏神」の定義はこの理解で問題ありませんが、古代においては、有力豪族を含む日本各地の氏族それぞれが、自らの祖神・守護神を祀る神や神社を「氏神」と称していました

そして、その「氏神」が祀られた場所は、多くの場合、その氏族の本拠地やゆかりの地であったのです


古代氏族がその本貫地に祖神を祀る「氏神」を創建する

では、豪族たちは「氏神」としてどのような神社を設けていたのか、代表的な例を紹介しましょう

古代氏族として著名なのは、物部氏・蘇我氏・大伴氏などです

いずれも、ヤマト国家の成立期から大王を支える大臣・大連として重きをなした有力氏族でした

歴史上、日本古来の神を篤く崇拝した氏族といえば、やはり物部氏が挙げられます

欽明大王の時代(6世紀中頃)、百済から仏教が伝わると、崇仏派の蘇我馬子と廃仏派の物部守屋が対立したことは、『日本書紀』や『上宮聖徳法王帝説』に記されています。

新たな信仰である仏教を排斥して、古来の神々を守ろうとした物部氏の氏神としては、奈良県天理市にある「石上神宮(いそのかみじんぐう)」が有名です

祭神は布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)で、古代から軍事・祭祀を司った物部氏との関わりが深い神社です

また、大阪府東大阪市の「石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)」には、物部氏の祖神である饒速日尊(にぎはやひのみこと)と、その子・可美真手命(うましまでのみこと)の二柱が祀られています

神社の鎮座する生駒山西麓は、物部氏が古くから居住した本貫地とされています

一方、物部氏と対立したとされる蘇我氏は、馬子が日本最初の本格的寺院である法興寺(飛鳥寺)を氏寺として建立したことから、一般に仏教と縁の深い氏族という印象が強いですが、奈良県橿原市には「宗我都比古神社(そがつひこじんじゃ)」を創建しており、神社祭祀とも関わりを持っていました

同社の創建は飛鳥寺を建立した蘇我馬子によるものと伝えられ、始祖である蘇我石川宿禰夫妻(曾我都比古神・曾我都比売神)の二柱を、蘇我氏発祥の地の一つとされるこの地に祀ったとされています

そして、大王家に部門として仕えた大伴氏の「氏神」を祀る神社として知られるのが、京都市右京区に鎮座する「住吉大伴神社」です

平安京への遷都に際し、大伴氏が大和国から都へ移った際に、祖神である天忍日命(あまのおしひのみこと)と道臣命(みちのおみのみこと)を祀ったのが始まりとされています

また、大阪府藤井寺市の「伴林氏神社(ともばやしじんじゃ)」も大伴氏と深いゆかりをもつ神社であり、ここでは天忍日命・道臣命の祖にあたる高御産巣日神(たかみむすひのかみ)を祀っています

同神は、天照大神を祀る前に天皇家が祭祀した本来の皇祖神との説もあり、大伴氏が自らの祖神を天皇家と同一の神と位置づけていたことがうかがえ、きわめて興味深いといえるでしょう

この他、日本史上最も栄えたといえる氏族・藤原氏は、奈良県奈良市の「春日大社」を氏神として、守護神・武甕槌命(たけみかづち)、経津主命(ふつぬしのかみ)、そして藤原氏の祖神・天児屋根命(あめのこやねのみこと) などを祀ります

さらに、紀氏は奈良県平群町に「平群坐紀氏神社(へぐりにますきしじんじゃ)」、佐伯氏は富山県立山町に「雄山神社(おやまじんじゃ)」、安曇氏は長野県安曇野市に「穂高神社」、阿蘇氏は熊本県阿蘇市に「阿蘇神社」をそれぞれ「氏神」として創建しました

来る新年の初詣は、祖神を祀る氏神様へ参拝

このように各支族は、祖神や祖先を「氏神」として祀るのが一般的でしたが、必ずしもそれだけに限られていたわけではありません

例えば、渡来人として名高い秦氏は、祖先を秦の始皇帝と伝えていますが、彼らが創建した京都市西京区の「松尾大社(まつのおたいしゃ)」では、古くから当地で祀られてきたとされる大山咋神(おおやまぐいのかみ)を主祭神とし、秦氏の総氏神としています

また、近江地方で栄えた息長(おきなが)氏は、滋賀県米原市の「山津照神社(やまつてるじんじゃ)」を氏神としており、同社の境内には祖先(神功皇后の父・息長宿禰王)を葬ったと考えられる古墳が残されています

これは、先祖の墳墓が神聖視されることによって氏神へと変容した例であるともいえます

このように氏神には、その土地に古くから祀られてきた神様としての側面や、地域の守り神としての役割に加え、各氏族が祖神や祖先を祀った神であるという性格も備わっています

もしご自身の家系を遡って先祖が分かる方、あるいは歴史上好きな氏族がある方は、来年(新年)の初詣には、そうした「氏神」を訪れて参拝してみてはいかがでしょうか

※参考文献
新谷尚紀著『氏神さまと鎮守さま 神社の民俗史』講談社選書刊メチエ
文:高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

理想は氏神様に参拝することでしょうが、利便性もあり自宅の近くの有名神社に私は参拝する予定です

 

 


日ごろ意識することは少なくとも、初詣や秋祭り、七五三のお宮参りと、私たちの日常に神社は寄りそっている
我々にとって、神とは、そして日本とはなにか?
民俗調査の成果をふまえ、ごくふつうの村や町の一画に祭られる「氏神」や「鎮守」をキーワードに、つねに人びとの生活とともにあった土地や氏と不可分の神々や祭礼を精緻に探究
日本人の神観念や信心のかたちとしての神や神社の姿と変容のさまを、いきいきと描き出す

世界にはさまざまな神話・伝承が残っており、それらに登場する超自然的な存在は「妖精」や「モンスター」などと呼ばれ、恐れられてきた

日本においては「妖怪」がそれに該当し、河童・天狗・一つ目小僧・砂かけ婆など、そのバリエーションは豊富である

その中でも、顔に目や鼻、口といった器官が一切なく、つるりとした外見をもつ「のっぺらぼう」は、特に強烈な印象を与える妖怪として知られる

名は広く浸透しているものの、具体的にどのような由来があるのだろうか

「のっぺらぼう」の知られざる背景や伝承をひも解いていきたい


貉(むじな)

「のっぺらぼう」と聞いて連想される代表的な物語のひとつに、ギリシャ生まれでのちに日本へ帰化した作家・小泉八雲(1850~1904年)が『怪談(Kwaidan)』に収めた短編『貉(むじな)』がある

以下に、その概要を簡潔に示す

(意訳・要約)

これは江戸時代の話である。

ある商人が夜道を歩いていたところ、しゃがみ込んで泣いている一人の若い女を見つけた。
心配して声をかけると女は振り向いたが、その顔はなんと目も鼻も口もない、のっぺらぼうのごとき様相であった。

仰天した商人は遁走し、たまたま見つけた蕎麦屋の屋台へと駆け込んだ。
蕎麦屋の店主は後ろを向いたまま「どうしましたお客さん」と尋ねた。

商人は震えながら「恐ろしい女を見た・・・!」と蕎麦屋に伝えた。
すると蕎麦屋は「へえ、その女というのは――こんな顔でしたかい」と商人に振り向く。

その顔には目も鼻も口もなく、まるで卵のように滑らかであった。

このような、同じ怪異に2度にわたり遭遇するパターンの話は「再度の怪」と呼ばれ、日本のさまざまな伝承にて語られている

小泉八雲は古くから伝わるのっぺらぼうの怪異を、この「再度の怪」の構成に当てはめて表現したのである

また、タイトルの「貉(むじな」」とは狐狸の類のことであり、これはのっぺらぼうの正体が、タヌキなどが化けたものだという説から、着想を得て付けられたのだと考えられている

そんな妖怪のっぺらぼうであるが、その伝承は一体いつごろから語られていたのだろうか

のっぺらぼうの歴史

日本における、のっぺらぼう的な怪異の古い例としては、平安時代の『源氏物語』がしばしば取り上げられている

第53帖「手習」には「昔ありけむ目も鼻もなかりける女鬼」という一節があり、これは「昔いたという、目も鼻もない女の鬼」といった意味になる

すなわち平安時代には既に、のっぺらぼうの元となる話が語られていた可能性があるのだ

江戸時代になると、のっぺらぼうは各地の伝承や絵巻物などに頻繁に登場する定番の妖怪として、その地位を確立させた

1663年に刊行された怪談集『曽呂利物語』では、夜な夜な農具を動かす巨大なのっぺらぼうが、京都にて目撃されたと語られている

また、中国の文人・紀昀(1724~1805年)の小説『閲微草堂筆記』や、和邦額(生没年不詳)の『夜譚随録』などには、顔のない化け物についての逸話が語られている

これゆえ、のっぺらぼうの起源は中国にあるという説も存在する

のっぺらぼうの亜種

「のっぺらぼう」の言い伝えには、さまざまな地域差が存在する

まず大阪の和泉地方に伝わるのが、白坊主(しろぼうず)という妖怪である

その姿は着物を着た白い風船のようであり、目・鼻・口どころか、手足の有無すらもはっきりしないという

漫画家の水木しげる(1922~2015年)は、この白坊主を「化けだぬきの子どもが中に入って操縦する乗り物のようなもの」と、『妖怪おもしろ大図解』で解説している

また、俳人・与謝蕪村(1716~1784年)の『蕪村妖怪絵巻』には、ぬっぽり坊主(ぬっぽりぼうず)と呼ばれる、何とも形容しがたいのっぺらぼうが登場する

京都の帷子辻に現れたとされ、顔には何の器官もなく、四つん這いで尻を突き出すという奇妙な姿で描かれ、さらに尻の穴には稲妻のように光る目玉があるという、強烈な設定が付されている

また、のっぺらぼうは、なにも人の姿をしているとは限らない

中には、獣のような姿のモノもいるのだ

江戸時代の浮世絵師・宮川春水(生没年不詳)の絵巻物『怪物図巻』には、尻目(しりめ)なる動物の妖怪が描かれている

赤く毒々しい毛並みの四足獣の姿をしているが、その顔はのっぺらぼうのごとくツルリとしており、目が存在しない(口はある)

しかし肛門には、巨大な眼球が渦を巻くように、ギョロリと睨みを利かせ鎮座している

昨今は先述の「ぬっぽり坊主」が尻目として語られることが多いが、本来はこちらの尻目が初出である

このように、のっぺらぼうは、ただ「顔がない」という単純な特徴だけでは語り尽くせない奥行きを持つ妖怪である

その背後には長い年月の中で積み重ねられた、多種多様な顔のない怪異の物語が息づいているのだ

参考 : 『妖怪おもしろ大図解』『蕪村妖怪絵巻』『怪物図巻』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

世界にはさまざまな神話・伝承が残っており、それらに登場する超自然的な存在は「妖精」や「モンスター」などと呼ばれ、恐れられてきた

日本においては「妖怪」がそれに該当し、河童・天狗・一つ目小僧・砂かけ婆など、そのバリエーションは豊富である

その中でも、顔に目や鼻、口といった器官が一切なく、つるりとした外見をもつ「のっぺらぼう」は、特に強烈な印象を与える妖怪として知られる


のっぺらぼうは人の場合以外・・・なにも人の姿をしているとは限らない

中には、獣のような姿のモノもいるのだ

のっぺらぼうは、ただ「顔がない」という単純な特徴だけでは語り尽くせない奥行きを持つ妖怪である

その背後には長い年月の中で積み重ねられた、多種多様な顔のない怪異の物語が息づいているのだ

 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編

※本記事は、昔から語られる伝承・宗教観・民俗学的な資料、並びに都市伝説として広まっている噂を参考にまとめています
真相は解明されておらず、あくまで「読み物」としてお楽しみください

三途の川は、死後の世界へ向かう途中に現れると語られてきた境界の川です
昔から多くの人がその存在を信じ、今もなお謎に包まれています
今回は、その意味や噂について簡潔にまとめていきます

信じるか信じないかは、ご自身の判断にお任せいたします


三途の川とは何か?

三途の川(さんずのかわ)とは、死後の世界へ向かう途中に現れるとされる 魂の分岐地点 を象徴する存在です
仏教・民間信仰・神話などで語られ、「この川を渡ると生者には戻れない」と言い伝えられてきました

地域や時代により解釈は異なりますが、主に以下のような意味を持つとされています

◯ 生と死の境界
◯ 罪と救いの分岐
◯ この世とあの世の門

つまり、三途の川とは 肉体から魂が離れる瞬間に意識が見る象徴とも考えられています


なぜ三途と呼ばれるのか?

三途の「三」は、以下の 三つの道(死者の行き先) を表していると言われます

◼️ 善行を積んだ者が進む 浄道
◼️ 罪を犯した者が進む 黒道
◼️ 中間に位置する 赤道

さらに、渡り方も善悪によって変わるという伝承が残されています
罪の重さで渡り方が変わるという思考も

⭐︎ ほとんど罪なし 船で優しく渡る
⭐︎ 中程度の罪 胸まで水に浸かりながら進む
⭐︎ 重い罪 激流の中を苦しみながら渡る

ここには、人々の 生き方・道徳観・善悪観 が投影されていると考えられています

三途の川は本当に存在するのか?
▼説① 実在する「異世界の河川」説

一部の霊能者や臨死体験者の中には、
「暗く静かな川が見えた」「向こう岸で誰かが待っていた」
という証言が多く存在します
そのため、都市伝説としては、意識の世界でだけ渡れる川と言われることもあります

▼説② 脳の防衛反応イメージ説

医学的・心理学的には、
臨死体験時の川や光のイメージは、脳が死を受け入れやすくするための防御反応という解釈も存在します

▼説③ 実在する川がモデルになっている説

民俗学では、三途の川に似た言い伝えを持つ地域が多数存在しています
例)青森県・恐山周辺、京都・六道の辻 など
そのため「滝・湖・岬・霧湖」などの自然現象が象徴化された可能性も考えられています


もし三途の川が存在するとしたら?

もし、三途の川が実在すると仮定するなら、次の3つの視点が考えられています
◎ 肉体ではなく意識で渡る川
◎ 善悪の基準を示す精神的境界線
◎ 人が生まれ変わるための境目

もしかすると、「川を見ることそのもの」が魂の準備段階なのかもしれません


まとめ

観点 三途の川の意味
▲ 宗教・伝承 死後の世界への入口
▲ 心理・医学 臨死体験における脳のイメージ
▲ 都市伝説 見た者しか語れない境界

三途の川は、恐怖よりも生き方を問う象徴 として存在しているのかもしれません

最後に・・・
その川が見えるか見えないかは、 生きてきたあなた自身の答えによって変わるのではないでしょうか
信じるか信じないかは、あなた次第です

※本コンテンツのテキストの一部や画像は、生成AIを使用しています

(この記事はFUNDOの記事で作りました)

死後の世界が存在するのかは私はわかりません

しかし、一度死んだ「臨死体験」をした人は洋の東西や信じる宗教のいかんにかかわらず(無宗教も含め)三途の川、お花畑を見たなど「共通点」が多いようです

この共通点は・・・死後の世界は存在するのでは・・・とも思うことも・・・

「死後の世界」は謎で神秘的であるからこそ人々は魅了されるのかも・・・


 

 


「死後の世界」や「生まれ変わり」などが存在するのか!?
本書は“あの世”の謎を解き明かす本です
 

 


妖怪マンガの第一人者による「あの世の世界」案内

お酒はほどほどに楽しむ分には問題ないが、大量に飲むと健康を害することは周知のとおりである
室町・戦国時代にも、過度の飲酒によって寿命を縮めたとされる武将が存在する。本稿では、そのうち三人を紹介することにする


◎足利義尚(あしかが・よしひさ)

足利義尚は第八代将軍・足利義政の子として生まれ、若くして征夷大将軍となった
当時、幕府の権威はすでに失墜していたが、義尚は長享元年(1487)に六角氏討伐を実施し、将軍として幕府の威信回復を図ったことでも知られている


一説によると、義尚は酒食に溺れたと伝えられており、それが寿命を縮めた要因といわれている
義尚が亡くなったのは長享三年(1489)のことで、まだ二十五歳だった

後継となる男子を残さなかったため、次の征夷大将軍には、猶子として迎えていた足利義材(義稙/義視の子)が就いた
なお、義尚の遺体は腐敗を防ぐため、口・鼻・目に水銀が詰められたと伝わっている


◎上杉謙信(うえすぎ・けんしん)

上杉謙信が酒好きであったことは、広く知られている。山形県米沢市の上杉神社には、謙信愛用の「春日杯」と呼ばれる盃が現存し、それは直径約10センチ、深さ約6.5センチもある大ぶりの酒杯だった
謙信が梅干しを肴に酒を飲んだという逸話も有名である


永禄二年(1559)に上洛した際には、関白の近衛前嗣(のちの前久)や将軍・足利義輝と夜明けまで大酒を酌み交わし、翌日は二日酔いで出仕できなかったと記録されている

謙信は天正六年(1578)に「突然の虫気」(脳卒中か)で死去したと伝えられているが、酒の飲み過ぎが寿命を縮めた可能性も否定できない


◎小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)

関ヶ原合戦での裏切りで知られる小早川秀秋は、西軍から東軍に寝返り、西軍の大谷吉継の軍勢を攻撃したことで天下分け目の戦いの行方を決定づけた。戦後、秀秋は備前などを与えられたが、若くして急死した
まだ21歳だった


かつては「吉継の亡霊に取り憑かれて狂死した」ともいわれたが、現在では誤りとされている
実際のところ、秀秋は大の酒好きであり、それが寿命を縮めたと考えられている

医師・曲直瀬玄朔の『医学天正記』にも、秀秋が大量の飲酒によって黄疸の症状を呈していたことが記されている
秀秋には後継者がいなかったため、その死によって小早川家は断絶したのである


主要参考文献

日本史史料研究会監修、平野明夫編『室町幕府全将軍・管領列伝』(星海社新書、2018年)、矢田俊文『上杉謙信』(ミネルヴァ書房、2005年)、光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房、2019年)など

(この記事は渡邊大門の記事で作りました)

上杉謙信は大酒飲みで知られる
本当の酒好きは酒の飲酒時につまみをほとんど食べないといわれるが、謙信もつまみに梅干しを食べる程度だったという
梅干しはかなり塩辛いので酒と梅干しだけでは身体に悪そう・・・
「敵に塩を贈った説」や「領土拡大に熱心でなかったとの説」、「正義感が強かった説」、「宗教心が強い(毘沙門天の生まれ変わりといったとも)」などもあり、「義の人」だったとも・・・
戦に強く戦国武将では武田信玄とともに軍神ともいわれることも・・・
(戦では生涯無敗だったとも・・)

小早川秀秋は関ヶ原合戦での裏切りで知られ、足利義尚は私は知りませんでした


 

 


越後を本拠に関東・越中・能登を支配した上杉謙信については、江戸時代の兵学者らによって史実と異なることが多く語り継がれてきた
本書は、謙信が生きた時代の史料のみを使って、本物の謙信像を提示する

イヴァン4世(1530年〜1584年)は、ロシア史において極めて特異かつ重要な位置を占める君主です

1547年、彼はロシアで初めて「ツァーリ(皇帝)」として戴冠し、国家権力の集中と制度改革を推し進めました

しかしその一方で、彼の治世は苛烈な暴力、粛清、恐怖によっても知られています

彼がいかにして血にまみれた歴史を刻むに至ったのか、その業深き道程を辿ってみました


孤独な幼少期とツァーリ即位

イヴァン4世は1530年、モスクワ大公ヴァシーリー3世とその妃エレナ・グリンスカヤの間に誕生しました

父ヴァシーリーの死去により、わずか3歳で大公位を継承しますが、実際の政治は母エレナが摂政として掌握していました

しかしエレナは1538年に急死し、その後は複数の貴族たちが実権を奪い合うようになります
権力争いの渦中に投げ出された幼いイヴァンは冷遇されるだけでなく、時に虐待を受け、暗殺の恐怖に覚えながら成長したのです

孤独と不自由、そして暴力の中で育ったことで、イヴァンには極端な猜疑心と強い支配欲が芽生えるようになったと考えられています

それでも1547年、イヴァンは16歳になると正式にツァーリとして戴冠しました

これは単なる即位ではなく、ビザンツ帝国の後継者としてのロシアを明示する儀式でもありました

この時期、イヴァンは教会と協力して法律の整備や軍制改革に取り組み、一定の成果を上げており、若き改革者として希望を抱かれていたのです

愛妃アナスタシアの死

イヴァン4世の初期の統治は比較的安定していましたが、それを支えていたのは最初の妃アナスタシア・ロマノヴナの存在でした

アナスタシアは温和で思慮深い女性であり、衝動的な気質を持つイヴァンの心を落ち着かせ、政治の面でも彼を支えていたといわれています

しかし、1560年に彼女が急死すると、イヴァンの精神状態は大きく揺らぎ始めます

彼はアナスタシアの死を貴族たちの陰謀による毒殺だと疑い、周囲へ激しい不信感を抱くようになったのです
それ以降、彼は敵と見なした者たちに対して容赦のない粛清を行うようになり、次第に暴力的な手段が常套化していきます

異常なほどの猜疑心を抱えた彼は、忠実な家臣や聖職者でさえも信用せず、処刑や拷問を命じることが常態化していきました

この時期から、イヴァン4世は理性的な改革者から、恐怖と暴力によって国を支配する「雷帝」へと変貌していったのです

恐怖支配とオプリーチニナ

1564年、イヴァン4世は突然、皇帝の座を自ら降りると宣言し、政務を放棄してモスクワを離れました

この予想外の行動に、国中は騒然となります

政情の混乱に直面した国民や聖職者たちは、ツァーリの復帰を懇願し、イヴァンはそれに応じて復位しました
しかしその見返りとして、彼は「オプリーチニナ」という制度の導入を要求したのです

オプリーチニナとは、国家をふたつに分割し、その一方を皇帝の直轄地として完全な支配下に置く制度でした

そしてこの直轄領には、皇帝の親衛隊である「オプリーチニキ」が配置されました

彼らは黒衣をまとい、馬には犬の首とほうきを吊るして街を巡回していました
これは「敵を嗅ぎ出し、掃き清める」ことを象徴していたとされます

オプリーチニキは皇帝の命令を受け、反逆の疑いをかけられた人々を拷問し、財産を没収し、時には家族全員を処刑することさえありました

また、イヴァン自身も粛清に積極的で、政敵を容赦なく処分していきます

たとえば、東方遠征で功績をあげた貴族シュイスキー父子は、皇帝暗殺を企てたという疑いをかけられ、共に斬首されました
父は息子の目の前で首をはねられ、息子もその後、同じように処刑台へと送られました

その他にも、大貴族シチェヴィレフが残虐な拷問を受けて処刑されたほか、主計官テューティンは家族もろとも惨殺されるなど、凄惨な事件が相次いだのです

そして1570年には、恐怖政治を象徴する「ノヴゴロドの虐殺」が起こります

ノヴゴロドは、リトアニアやスウェーデンとの交易で栄えていたロシア北西部の都市でしたが、オプリーチニキの度重なる干渉により、市民の不満と混乱が高まっていました

イヴァンはこれを反逆の兆候と捉え、モスクワからノヴゴロドへ懲罰遠征を行います

進軍の途中では各地の村々が焼き払われ、住民は殺害されていきました
そしてノヴゴロドに到着すると、市全体を柵で封鎖し、市民の逃亡を防いだ上で、1か月以上にもわたる組織的な虐殺を断行したのです

この大虐殺による犠牲者数は今も議論がありますが、数千人から数万人にのぼるともいわれています
しかもイヴァンはモスクワへ戻った後も、「ノヴゴロドの陰謀に関わった」として、さらに多くの人々に処罰を加えました

その猜疑心はとどまるところを知らず、ついには信頼していた側近ヴャーゼムスキーにまで及びます

イヴァンは彼に毒味役を任せるほど信用していましたが、ある日突然オプリーチニキに命じて屋敷を襲わせ、公の場で処刑させてしまいました

こうしてイヴァン4世は、国家全体を不安と恐怖、そして暴力の空気で覆い尽くしていったのです

凶暴さが招いた悲劇

しかし、イヴァン4世のとめどない凶暴さは、彼自身にも暗い影を落としていきます

イヴァン4世には後継ぎとなる皇太子イヴァン・イヴァノヴィチがいました
この息子は同じく残忍な性格で、父と共に拷問や処刑に好んで立ち合い、その様子を見ては興奮するような性質の人物でした

ところがある時、息子イヴァンの妻エレーナが身重であるにも関わらず、相応しくない軽装をしているのを見咎めたイヴァン4世が、エレーナを殴打したのです

妊娠中の妻に暴力を振るう父を前に、さすがの息子も止めに入らざるを得ませんでした
しかし身内に反抗され逆上したイヴァン4世は、ついに息子にも襲い掛かったのです

イヴァン4世は、鉄鉤のついたこん棒で息子を滅多打ちにしました
やがて我に返った時には、こめかみを割られた息子が血まみれで横たわっており、すでに意識はありませんでした

4日後、息子は息を引き取り、妊婦であったエレーナも流産の末、命を落としました

この事件以降、イヴァン4世は深刻な不眠症に悩まされ、身体も急速に衰弱していきます
皮膚は剥がれ落ち、悪臭を放つほどに健康は崩れ、かつての威容はすっかり失われていました

そして1584年3月8日、イヴァン4世はチェスの最中に突如として倒れ、そのまま息を引き取りました
享年53

幾万の命を奪った暴君は、あまりにも静かにこの世を去ったのです

その後、イヴァン4世が築いたツァーリ権力と中央集権体制、そして領土拡張の基盤は、ロマノフ朝へと受け継がれ、帝政ロシアの骨格となっていきます

彼の政治は確かに血にまみれたものでしたが、国家形成という視点では重要な転換点でもありました

イヴァン4世の名は今なお「恐怖」と結びつけて語られますが、その支配の形が、現代ロシアの原型のひとつを形作ったことも、また否定できない歴史の事実なのです

参考文献:世界禁断愛大全 / 桐生操 他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

イヴァン4世の凶暴すぎる治世は皇帝になりたての時代の虐待と愛妃アナスタシアの死の影響が大きいかも・・・

ロシアを恐怖にしました


イヴァン4世(1530年〜1584年)は、ロシア史において極めて特異かつ重要な位置を占める君主です

1547年、彼はロシアで初めて「ツァーリ(皇帝)」として戴冠し、国家権力の集中と制度改革を推し進めました

しかしその一方で、彼の治世は苛烈な暴力、粛清、恐怖によっても知られています


凶暴さが招いた悲劇

しかし、イヴァン4世のとめどない凶暴さは、彼自身にも暗い影を落としていきます

イヴァン4世には後継ぎとなる皇太子イヴァン・イヴァノヴィチがいました
この息子は同じく残忍な性格で、父と共に拷問や処刑に好んで立ち合い、その様子を見ては興奮するような性質の人物でした

ところがある時、息子イヴァンの妻エレーナが身重であるにも関わらず、相応しくない軽装をしているのを見咎めたイヴァン4世が、エレーナを殴打したのです

妊娠中の妻に暴力を振るう父を前に、さすがの息子も止めに入らざるを得ませんでした
しかし身内に反抗され逆上したイヴァン4世は、ついに息子にも襲い掛かったのです

イヴァン4世は、鉄鉤のついたこん棒で息子を滅多打ちにしました
やがて我に返った時には、こめかみを割られた息子が血まみれで横たわっており、すでに意識はありませんでした

4日後、息子は息を引き取り、妊婦であったエレーナも流産の末、命を落としました

この事件以降、イヴァン4世は深刻な不眠症に悩まされ、身体も急速に衰弱していきます
皮膚は剥がれ落ち、悪臭を放つほどに健康は崩れ、かつての威容はすっかり失われていました

そして1584年3月8日、イヴァン4世はチェスの最中に突如として倒れ、そのまま息を引き取りました
享年53

幾万の命を奪った暴君は、あまりにも静かにこの世を去ったのです

その後、イヴァン4世が築いたツァーリ権力と中央集権体制、そして領土拡張の基盤は、ロマノフ朝へと受け継がれ、帝政ロシアの骨格となっていきます

彼の政治は確かに血にまみれたものでしたが、国家形成という視点では重要な転換点でもありました

イヴァン4世の名は今なお「恐怖」と結びつけて語られますが、その支配の形が、現代ロシアの原型のひとつを形作ったことも、また否定できない歴史の事実なのです

イヴァン4世の凶暴な治世が帝政ロシアの骨格となったようです(是非はともかく)・・・

 

イヴァン4世の最期は壮絶でしたね

 

 


金髪美少年を愛したせいで破滅した作家オスカー・ワイルド、意外なロリコン遍歴をもつ独裁者ヒトラー、拷問フルコースで街ごと死の沈黙に包んだ暴君イヴァン雷帝、「特に上腕二頭筋が美味」と尋問官にうそぶいた主食=人肉のジェフリー・ダーマー・・・
タブーを犯す悦楽とはどんなものか?
人類の歴史とともに古くからある、近親相姦、ロリコン、カニバリズムなど<禁断の愛>に身を捧げた彼らの凄まじい生き方
シリーズ史上、最もグロいエピソード満載の傑作人物伝!

9世紀後半から13世紀半ばにかけて、現在のウクライナ・キーウ周辺を中心に、東ヨーロッパと北方世界に広がっていた国家、キエフ・ルーシ

10世紀、この森と川に抱かれたキエフ・ルーシに、後世まで語り継がれる女性統治者が現れました

その女性の名は「キエフのオリガ」

彼女は夫を殺されたのち、4つの段階に分けて苛烈な報復を行ったという伝承で広く知られています

伝承として語り継がれる4つの復讐劇と、史実の中で見えてくる統治者オリガの姿をたどっていきます


北方からの来訪者

オリガの出自については、諸説あります

12世紀初頭にキエフの修道士ネストルがまとめた、キエフ・ルーシの歴史を記した『原初年代記』には、オリガがプスコフの出身であったと記されています

ただ、この年代記には民族的な背景までは書かれておらず、彼女がどの集団に属していたのかは明らかではありません

一方で、オリガの名前が北欧系に近いことから、当時キエフ・ルーシに深く関わっていた北方の商人兼戦士集団「ヴァリャーグ」と関係していたのではないかという説もあります

生年に関しても、890年〜920年代と推定されており、正確な年代は不明です

若い頃のオリガは、やがてキエフの大公イーゴリ1世と結婚し、大公妃としてその地位を確立していきました

イーゴリ1世はルリック王朝の一員で、広大な領域と多様な部族を束ねる立場にありました

オリガは夫のもとで、各部族の力関係や交易路の管理、税の徴収など、ルーシを支える実務を行いました

しだいに彼女はその鋭い判断力で周囲から認められ、存在感を高めていきます

イーゴリ1世の死と「4段階の復讐」

945年、オリガにとって運命を大きく揺るがす出来事が起きました

夫イーゴリ1世が、東スラブ人の部族ドレヴリャーネ族により殺害されてしまったのです

『原初年代記』には、イーゴリ1世が重い貢納を巡る争いの末、木に縛られて引き裂かれたと記されています

その知らせを受けたオリガの胸には、深い悲嘆とともに、抑えきれない怒りがこみ上げました

そして伝承では、彼女の復讐は4つの段階を踏んで進められたと語られています

第1の復讐:使者を船ごと生き埋め

その最初の出来事は、ドレヴリャーネ族の「求婚の使者」に対する策略でした

ドレヴリャーネ族は、夫イーゴリ1世を殺害したにもかかわらず、自分たちの王子マルの妻になれと、オリガに求婚の使者を送ってきたのです

オリガは彼らを穏やかに迎えるふりをし、「自分たちの慣習に従い、船に乗って来なさい」と命じます

使者たちはその指示を疑うことなく船に乗り、キエフへと現れました

しかし彼らが到着すると、オリガはその船を大きな穴へと運ばせ、そのまま土をかぶせて生き埋めにしまったのです

第2の復讐:賓客として招き入れ、浴場ごと焼き払う

次にオリガは、ドレヴリャーネ族の重臣たちを標的にしました

彼女は使者を失ったことを詫びるように見せかけ、「本当に自分を嫁にしたいのなら、今度は部族の最も重要な人々を送りなさい」と伝えたのです

ドレヴリャーネ族はこれを信じ、代表者たちを丁重に選び、キエフへと派遣しました

オリガは彼らを温かく出迎えるふりをし、「旅の疲れを癒やすために浴場で休むとよい」と勧めます

しかし、重臣たちが浴場に入った瞬間、外から扉が固く閉ざされ、建物は一斉に火を放たれました

逃げ場を失った彼らは、焼け落ちる浴場の中で全員が命を落としたのです

第3の復讐:追悼会で泥酔させ、数千人を討つ

重臣たちを葬ったオリガは、次にドレヴリャーネ族全体をまとめて制圧するための策を講じました

彼女は、夫イーゴリ1世の埋葬地近くで追悼会(トリズナと呼ばれる葬送の宴)を催すと伝え、ドレヴリャーネ族に広く参列を呼びかけました

ドレヴリャーネ族は、これを和解の兆しと勘違いし、大勢で訪れました
オリガは来訪者をもてなすように振る舞い、蜜酒を惜しみなく振る舞います

やがて参加者たちはすっかり泥酔し、身動きもままならない状態になりました

その瞬間、オリガの兵たちが一斉に動きました

トリズナには本来、儀式として模擬戦が行われる慣習がありましたが、彼女はその慣習を逆手に取り、武器を持った兵に酔ったドレヴリャーネ族を襲わせたのです

『原初年代記』では、このときおよそ5000人が討たれたと記されています

第4の復讐:鳩と雀を使った火攻めで城を落とす

オリガの復讐の最終段階は、ドレヴリャーネ族の本拠地イスコルステニに向けられました

彼女はこの町を一年以上包囲し続けましたが、城壁は堅く、決着がつかない状態が続きました

そこでオリガは「包囲を解く代わりに、各家が飼っている鳩と雀を三羽ずつ差し出しなさい」と要求します
取るに足らない要求に見えたため、住民たちはこれに素直に応じました

その後、オリガの軍の兵士たちは、受け取った鳩や雀に硫黄など火のつく素材を結びつけ、いっせいに空へ放ちました

鳩や雀は帰巣本能に従って家々へ戻り、屋根裏や巣穴に潜り込んで火が広がり、イスコルステニ全体が瞬く間に炎に包まれました

町が混乱に陥る中、オリガの軍は一気になだれ込み、抵抗する住民を制圧しました

こうして、ドレヴリャーネ族の拠点は壊滅したのです

この奇策は、伝承の中でもとくに有名な場面であり、オリガの底知れない計略と憎しみを象徴する出来事として語り継がれています

幼き王子を抱えて 悲劇から始まる摂政の誕生

945年にイーゴリ1世が落命したとき、オリガは幼いスヴャトスラフを抱えたまま摂政として政務を引き継ぎました

悲しみの中でも彼女は立ち止まらず、国家を安定させるために動き始めます

まず、混乱していた貢納制度を整理し、「ポゴスト」と呼ばれる徴税と行政の拠点を各地に設置しました
これは税制の整備だけでなく、地方に大公権力を示す効果もあり、統治の安定に大きく寄与したと考えられています

前述したように、ドレヴリャーネ族をめぐる彼女の復讐譚はよく知られていますが、実際には彼らの支配地の再編や反抗の抑制といった政治的措置が中心だったとみられます

伝承の背後には、秩序維持を優先する冷静な判断があったのです

オリガの治世下では、ドニエプル川の交易路が機能し続け、商人や職人が集い、ルーシの経済基盤は着実に整えられていきました

政治と信仰の決断、そして列聖へ

957年、オリガはビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを訪れ、皇帝コンスタンティヌス7世の前で洗礼を受けました

これは単なる宗教的な決断にとどまらず、当時のルーシとビザンツの外交関係にも大きな意味を持つ出来事でした

異教が中心だった当時のルーシにおいて、オリガの洗礼は、ビザンツとの友好関係を深めるきっかけとなったと考えられています

オリガ自身の洗礼は、孫のウラジーミル大公が988年にルーシ全土をキリスト教化する道筋を作る先駆けとなりました

彼女が直接布教にあたった記録は多くありませんが、信仰を受け入れる環境を整えた功績は確かです

また、教会の建設や信仰の受け入れに関わったとされ、後の宗教文化にも影響を残しました

冷徹な4段階の復讐伝承に彩られる一方、摂政としての統治力と外交的手腕、そして信仰への関心が一体となったオリガの生涯は、キエフ・ルーシの秩序と宗教文化の基礎を築いたといえるでしょう

その功績は後世に称えられるとともに、東方正教会により列聖され、今日に至るまで「聖オリガ」として敬われているのです

参考文献:『世界史の中のヤバい女たち』/黒澤 はゆま(著)
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

『ロシア初の聖女』夫を殺された大公妃オリガの残酷すぎる4つの復讐伝説・・・

彼女は夫が殺された後、子の摂政として君臨し、4つの復讐をし、一方で「聖女」としてロシアの信仰にも影響をあたえました


9世紀後半から13世紀半ばにかけて、現在のウクライナ・キーウ周辺を中心に、東ヨーロッパと北方世界に広がっていた国家、キエフ・ルーシ

10世紀、この森と川に抱かれたキエフ・ルーシに、後世まで語り継がれる女性統治者が現れました

その女性の名は「キエフのオリガ」

彼女は夫を殺されたのち、4つの段階に分けて苛烈な報復を行ったという伝承で広く知られています


957年、オリガはビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを訪れ、皇帝コンスタンティヌス7世の前で洗礼を受けました

これは単なる宗教的な決断にとどまらず、当時のルーシとビザンツの外交関係にも大きな意味を持つ出来事でした

異教が中心だった当時のルーシにおいて、オリガの洗礼は、ビザンツとの友好関係を深めるきっかけとなったと考えられています

オリガ自身の洗礼は、孫のウラジーミル大公が988年にルーシ全土をキリスト教化する道筋を作る先駆けとなりました

彼女が直接布教にあたった記録は多くありませんが、信仰を受け入れる環境を整えた功績は確かです

また、教会の建設や信仰の受け入れに関わったとされ、後の宗教文化にも影響を残しました

冷徹な4段階の復讐伝承に彩られる一方、摂政としての統治力と外交的手腕、そして信仰への関心が一体となったオリガの生涯は、キエフ・ルーシの秩序と宗教文化の基礎を築いたといえるでしょう

その功績は後世に称えられるとともに、東方正教会により列聖され、今日に至るまで「聖オリガ」として敬われているのです


 

 


世の中には強烈な強い女性、ある意味「ヤバイ女たち」も・・・
長い人類の歴史の中で、強い男はヒーローと呼ばれ、強い女は魔女と呼ばれてきた
アステカ王国を滅ぼした17歳から、復讐の鬼と化したウクライナ聖人、民を戦乱の世から救った中華最強の悪女まで、世界を変えた女たちはどのような人生を歩んだのか? 
男性社会の序列をはねのけ、その強さゆえに迫害された‶魔女〟たちの活躍と、男性を中心に作られた歴史の裏に隠されてきた素顔に迫る!