メインウェーブ日記

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気になるニュースやスポーツ、さらにお小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネスと大相撲、競馬、ビートルズなど中心

■■■このブログでは、以下について記載した記事があります


競馬の名馬やエピソードなど、大相撲の名力士やエピソードなど、ビートルズやビートルズのエピソードや名盤など、お小遣いサイトやアフィリエイトなどのネットビジネス、プロ野球やラグビーなどのスポーツ、各スポーツの名選手やエピソードなど、その他気になるニュースやスポーツなど

(以下はその一例です)


■競馬

(世界の名馬)~コラム(競馬)

シーバード、リボー、ニジンスキー、セクレタリアト、セントサイモン、キンチェム、オーモンド、ネレイデ、ノーザンダンサーなど

例:伝説の史上最強馬・シーバード

16戦全勝無敗と凱旋門賞連覇・リボー

(日本の名馬)~コラム(競馬)

シンボルルドルフ、ディープインパクト、エルコンドルパサー、サイレンススズカ、オグリキャップなど

例:日本競馬史上最強馬・シンボリルドルフ

日本近代競馬の結晶・ディープインパクト

(コラム)~コラム(競馬)

例:サンデーサイレンスの「遺産」とこれからの社台グループ

ノーザンダンサー系の今後

(世界のホースマン)~コラム(競馬)

例:ドルメロの魔術師~フェデリコ・テシオ

(日本のホースマン)~コラム(競馬)

例:天才、変幻自在の騎乗、オッズを変える男・福永洋一


■大相撲の名力士~コラム(大相撲)

雷電為右エ門、谷風梶之助、双葉山定次、大鵬幸喜など

例:史上最強力士・雷電為右エ門

横綱の中の横綱・谷風梶之助


■ビートルズ~コラム(ビートルズ)、音楽・名盤・ロック(ビートルズ)

例:20世紀最高のロックバンド・ビートルズ

ロックの金字塔・・・サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド


■お小遣いサイト~お小遣いサイト

お財布.com、げん玉など

例:おすすめのお小遣いサイト~お財布.com

おすすめのお小遣いサイト~げん玉


■アフィリエイト~アフィリエイト

例:ネットビジネスの代表的なァフィリエイト



●野球やラグビー

特にプロ野球やラグビーについて

■テニスの男女の名選手

(男子)~コラム(スポーツ)

ジミー・コナーズ、ビョルン・ボルグ、ジョン・マッケンロー、イワン・レンドル、ピート・サンプラス、ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダルなど

例:4大大会優勝回数史上1位などのロジャー・フェデラー選手

「土の絶対王者」ラファエル・ナダル選手

(女子)~コラム(スポーツ)

シュテフィ・グラフ、マルチナ・ナブラチロワ、クリス・エバート、セリーナ・ウィリアムズなど

例:「年間ゴールデン・スラム」を達成した女王・・・シュテフィ・グラフ選手


■F1の名ドライバー~コラム(スポーツ)

アイルトン・セナ、ミヒャエル・シューマッハー、アラン・プロストなど

例:「音速の貴公子」「最も速かった」アイルトン・セナ選手

「史上最強ドライバー」ミヒャエル・シューマッハー選手


■各種スポーツ


■その他気になるニュースやスポーツなど

「南朝 宋」少年皇帝の登場

いまから1500以上前、中国は「南北朝時代」と呼ばれる分裂の時代を迎えていた

北では鮮卑(せんぴ)という異民族が建てた北魏(ほくぎ)が強大な力を誇り、南では漢人の王朝が江南に興り、時代ごとに交替していった

そのひとつが宋(そう)である
後の北宋や南宋と区別するため、ここでは劉宋と記す

劉宋は、西暦420年、劉裕(りゅうゆう)が建てた王朝で、長江の南に都・建康(現在の南京)を置いていた

もともと江南は豊かな米どころであり、文化の中心でもあったが、王朝の権力争いは常に血で血を洗う激しさを見せていた

そんな劉宋の第5代皇帝となったのが、劉子業(りゅうしぎょう)である

西暦464年、まだ16歳の若さで帝位に就いた

父は孝武帝(劉駿 りゅうしゅん)、母は文穆皇后(王憲嫄 おうけんげん)で、血筋だけ見れば、帝位を継ぐにふさわしい家柄の嫡子だった

だが若くして父を亡くし、また周囲に彼を正しく導く人物もいなかった

そのため幼い皇帝は、次第に奇行と暴虐に傾き、宮廷を震撼させる存在となっていった

即位直後の異常な兆し

こうして帝位に就いた劉子業(りゅうしぎょう)だったが、華やかな即位式の裏で、すでに彼の行動には異常性が垣間見えていた

父・孝武帝の死は、本来であれば国中が悲嘆に包まれるべき出来事である

しかし、劉子業は柩の前で涙を見せず、後殿で宮女と追いかけっこに興じ、朝臣たちを唖然とさせたという
幼さゆえの軽率と片付ける者もいたが、これは後に宮廷を揺るがす暴虐の前触れにすぎなかった

さらに、母である王太后が重病に倒れ、臨終の床から息子を呼び寄せたときのこと

誰もが皇帝の見舞いを待ち望んだが、劉子業は「病人の部屋には鬼がいる、恐ろしくて行けぬ」と言い放ち、ついに足を運ばなかった
王太后はその怒りを抱いたまま世を去り、母子の絆は最期の場面で断ち切られてしまった

政務においても、不穏な兆しが見え始める

孝武帝の遺命により、江夏王・劉義恭(りゅうぎきょう)、名将・柳元景(りゅうげんけい)、重臣・顔師伯(がんしはく)、老将・沈慶之(しんけいし)らが新皇帝の補佐を担うことになっていた

ところが実際には、孝武帝のもとで力を振るっていた戴法興(たいほうこう)や巢尚之(そうしょうし)が内外の政務を握り、若い皇帝の意志はしばしば退けられた

父の死に冷淡と見られ、母を臨終の床で怒らせ、政務の場でも権限を奪われる

こうした孤立と抑圧が積み重なり、少年皇帝の性格はさらに偏り、やがて自らの力を誇示しようとする衝動へと変わっていった

恐怖政治の始まり

即位からわずか一年、劉子業の周囲は血に染まりはじめた

最初の犠牲となったのは、父・孝武帝の時代から権勢を振るっていた戴法興(たいほうこう)である

若い皇帝の意志をたびたび抑え込んできた彼は、465年、宦官の讒言をきっかけに失脚させられ、郷里に帰されたのち、やがて自邸で殺害された
棺は壊されて焼かれ、子らも連座して命を奪われ、財産も没収されたと伝えられる

だが、これだけでは止まらなかった

続いて標的となったのは、補佐役の江夏王・劉義恭、柳元景、顔師伯らである
彼らは暴政を憂い、密かに廃立を相談していたが、計画は露見し、劉子業は永光元年(465年)に禁軍を動かして一斉に誅殺した

なかでも、劉義恭への仕打ちは常軌を逸していた

劉義恭は初代皇帝・劉裕の五男で、三代に仕えた功臣として知られていたが、捕えられて四肢を断たれ、眼をえぐられ蜜に漬けられたと伝わる

この残虐な所業は「鬼目粽(きもくそう)」と呼ばれ、後世まで悪名高く語り継がれた

こうして功臣や宗室を血で粛清した劉子業は、もはや誰も諫められぬ暴君となり、宮廷は恐怖政治の舞台へと変わっていった

血縁さえも弄ぶ暴君

政敵を血で粛清した劉子業の狂気は、やがて身近な親族へと向かった

もっとも衝撃的だったのは、叔母の新蔡公主・劉英媚(りゅうえいび)を、後宮に強引に連れ込んだ事件である

彼女は元々、将軍の何邁に嫁いでいたが、劉子業はこれを無理やり宮中に留めて、自分の側室の一人とした

そして、外向けには「公主はすでに亡くなった」と偽り、女官の遺体を取り繕って夫のもとに送り返したという
真相を知った何邁は憤激し、反乱を企てたが、事が露見して一族もろとも滅ぼされた

さらに、実の姉である山陰公主・劉楚玉(りゅうそぎょく)との関係も異常だった

彼女は「陛下の後宮には無数の美女がいるのに、私は夫ひとりだけでは不公平です」と訴え、劉子業はその願いを受け入れ、数十人の男を遊び相手として与えたという

姉弟そろっての逸脱した行動は、宮廷内外を震撼させた

皇族の叔父たちに対する仕打ちも凄惨であった

湘東王・劉彧(りゅういく)らを宮中に囚え、肥えた体をからかって「豚王」と呼び、竹の籠に閉じ込めて泥水に沈め、家畜のように餌を食わせて嘲笑した

こうした、血縁までも弄んだ劉子業の暴虐は、宮廷を恐怖で満たした

やがてその刃は、彼自身へと向けられることになる

暴君の最期

恐怖に満ちた宮廷のなかで、ついに暴君を討つ動きが芽生えた

首謀者となったのは、かつて「豚王」と嘲られ辱めを受けた叔父、湘東王・劉彧(りゅういく)だった
彼は側近の寿寂之(じゅじゃくし)らと密かに結託し、甥である劉子業を討つ機会をうかがっていた

永光元年(465年)の冬、劉子業は都・建康にある離宮、華林園の竹林堂で、巫術を行っていた

これは「鬼を祓う」と称して宮女や家臣を矢で射殺し、血を捧げるという荒唐無稽な儀式であった

その最中、寿寂之が抜刀し、皇帝の背後から斬りかかったのである

戊午夜,帝於華林園竹林堂射鬼。時巫覡云:「此堂有鬼。」故帝自射之。壽寂之懷刀直入,姜產之為副。帝欲走,寂之追而殞之。時年十七。

【意訳】

465年11月29日(西暦466年1月1日)の夜、帝は華林園の竹林堂で「鬼を射る」儀式をしていた。
巫覡(ふげき 呪術を行う者)が「この堂には鬼がいる」と言ったためである。

そこへ寿寂之が刀を懐に忍ばせて突入し、配下の姜產之が副として従った。
帝は逃げようとしたが、寿寂之に追われて殺された。享年17。

『宋書』巻七「本紀第七 前廃帝紀」より

劉子業は、絶命の間際に「寂寂」と叫んだという逸話もあるが、それが刺客・寿寂之の名を呼んだものか、それとも己の末路を嘆いたものかは定かではない

こうして、劉子業の短い治世の幕は閉じられた

その後は劉彧が即位し、劉宋はしばらく命脈を保ったものの、内乱と外圧に押されてやがて歴史の舞台から姿を消していった

一年半足らずの治世ながら、劉子業はその暴虐ゆえに史書では「前廃帝(ぜんはいてい)」と記され、暴君として歴史に刻まれた

その名は千年を超えてなお、人々の記憶に暗い影を落とし続けている

参考 :『宋書』巻七「本紀第七 前廃帝紀」『南史』『資治通鑑』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「南朝 宋」少年皇帝の登場

いまから1500以上前、中国は「南北朝時代」と呼ばれる分裂の時代を迎えていた

北では鮮卑(せんぴ)という異民族が建てた北魏(ほくぎ)が強大な力を誇り、南では漢人の王朝が江南に興り、時代ごとに交替していった

そのひとつが宋(そう)である
後の北宋や南宋と区別するため、ここでは劉宋と記す

劉宋は、西暦420年、劉裕(りゅうゆう)が建てた王朝で、長江の南に都・建康(現在の南京)を置いていた

もともと江南は豊かな米どころであり、文化の中心でもあったが、王朝の権力争いは常に血で血を洗う激しさを見せていた

そんな劉宋の第5代皇帝となったのが、劉子業(りゅうしぎょう)である

西暦464年、まだ16歳の若さで帝位に就いた

父は孝武帝(劉駿 りゅうしゅん)、母は文穆皇后(王憲嫄 おうけんげん)で、血筋だけ見れば、帝位を継ぐにふさわしい家柄の嫡子だった

だが若くして父を亡くし、また周囲に彼を正しく導く人物もいなかった

そのため幼い皇帝は、次第に奇行と暴虐に傾き、宮廷を震撼させる存在となっていった


『叔母を無理やり・・・』中国史上最も狂っていた少年皇帝・劉子業・・・


血縁までも弄んだ劉子業の暴虐は、宮廷を恐怖で満たした

やがてその刃は、彼自身へと向けられることになる

暴君の最期

恐怖に満ちた宮廷のなかで、ついに暴君を討つ動きが芽生えた

首謀者となったのは、かつて「豚王」と嘲られ辱めを受けた叔父、湘東王・劉彧(りゅういく)だった
彼は側近の寿寂之(じゅじゃくし)らと密かに結託し、甥である劉子業を討つ機会をうかがっていた

永光元年(465年)の冬、劉子業は都・建康にある離宮、華林園の竹林堂で、巫術を行っていた

これは「鬼を祓う」と称して宮女や家臣を矢で射殺し、血を捧げるという荒唐無稽な儀式であった

その最中、寿寂之が抜刀し、皇帝の背後から斬りかかったのである

戊午夜,帝於華林園竹林堂射鬼。時巫覡云:「此堂有鬼。」故帝自射之。壽寂之懷刀直入,姜產之為副。帝欲走,寂之追而殞之。時年十七。

【意訳】

465年11月29日(西暦466年1月1日)の夜、帝は華林園の竹林堂で「鬼を射る」儀式をしていた。
巫覡(ふげき 呪術を行う者)が「この堂には鬼がいる」と言ったためである。

そこへ寿寂之が刀を懐に忍ばせて突入し、配下の姜產之が副として従った。
帝は逃げようとしたが、寿寂之に追われて殺された。享年17。

『宋書』巻七「本紀第七 前廃帝紀」より

劉子業は、絶命の間際に「寂寂」と叫んだという逸話もあるが、それが刺客・寿寂之の名を呼んだものか、それとも己の末路を嘆いたものかは定かではない

こうして、劉子業の短い治世の幕は閉じられた

その後は劉彧が即位し、劉宋はしばらく命脈を保ったものの、内乱と外圧に押されてやがて歴史の舞台から姿を消していった

一年半足らずの治世ながら、劉子業はその暴虐ゆえに史書では「前廃帝(ぜんはいてい)」と記され、暴君として歴史に刻まれた

その名は千年を超えてなお、人々の記憶に暗い影を落とし続けている


 

 


全二九四巻にもおよぶ膨大な歴史書『資治通鑑』のなかから、侯景の乱、安禄山の乱など名シーンを精選
破滅と欲望の交錯するドラマを流麗な訳文で

長編アニメ『千夜一夜物語』の制作現場で、初めて手塚治虫氏と机を並べ、「天才的な仕事ぶりに驚愕した」というやなせたかし氏

自伝『人生なんて夢だけど』では、手塚氏と自身について、「神様と毛虫、月とスッポン」と書いています

一緒に旅行をしたこともあり、テレビ番組で共演したこともあったという二人の交流には、忘年会での宴会芸や絵本の会での親密な時間、そしてアニメ制作現場での葛藤と感動といったエピソードが詰まっています

やなせ氏と手塚氏の交流エピソードを紹介します(以下敬称略)

漫画界の地図を大きく塗り替えた手塚治虫

1947年1月、大阪の「育英出版」から刊行された手塚治虫の『新宝島』は、40万部を売り上げる大ヒットとなり漫画界に衝撃を与えました

すい星のごとく現れた手塚治虫に、子どもたちは夢中になります

子どもたちにとってあこがれの存在となった手塚でしたが、既成漫画家たちは邪道だと酷評し、その功績を認めませんでした

そんな手塚を、やなせたかしはどう見ていたのでしょうか

「手塚治虫」という名前は知っていたものの、彼の活躍は別世界の出来事だと思っていたそうです

やなせの目指していた漫画家とは、当時所属していた「漫画集団」に名を連ねる大御所たち
芸術的な「大人漫画」を描きたいと思っていた彼には、手塚の描く子ども向けの漫画は眼中になかったのです

1952年に上京した手塚は、『鉄腕アトム』、『ジャングル大帝』、『リボンの騎士』といったヒット作を連発

1954年には、関西の長者番付・画家部門でトップに輝き、26歳にして売れっ子漫画家の仲間入りを果たしました

ところが、時代が移り変わり、劇画ブームが到来すると「手塚治虫は時代遅れ」と言われ、ノイローゼになったことがありました

そんな手塚の苦悩する姿に、やなせは深い共感を抱いていました

「無名と有名の差はあるし、収入も天と地ほど違っていても、自分の走るレールはよく見えず、脱線転覆しそうになりながら、ただシャニムニ走っていたのと、考えてみれば同じようなものである」

『アンパンマンの遺書』より

時代の寵児となっても悩み、もがき続ける手塚治虫に、やなせは進むべき道が見えず、ただがむしゃらに走り続けていた自分の姿を重ねていたのでした

「漫画集団」で同じ時を過ごした二人

1954年、やなせは漫画家の団体「漫画集団」に参加します

この集まりは、漫画家同士の親睦を深める役割も担っており、1950年代から70年代にかけては、旅行や忘年会など、にぎやかなイベントが盛んに行われていたそうです

中でも箱根で行われる大忘年会には、大勢の漫画家が参加し、夜通し大宴会が繰り広げられました

忘年会では、宴会芸の披露が恒例となっており、太鼓の演奏、どじょうすくい、さらには裸踊りまで、個性豊かな名人芸が次々と飛び出します

一方で、少女の格好で童謡を歌った谷内六郎が貧血で倒れ、赤塚不二夫が下ネタ全開の芸で警察沙汰になるなど、ハチャメチャな一幕もあったようです

そんな赤塚について、やなせは「宴会芸にも全力で臨む、真面目で一途な人」と評しています

ちなみに、手塚はアコーディオンやピアノを演奏したそうです

年に一度ハメを外して一晩中大騒ぎする忘年会は、やなせにとって、漫画家同士が語り合える貴重な時間でもありました

手塚の圧倒的な才能に驚愕『千夜一夜物語』

「今度、長編アニメ(千夜一夜物語)を作るのですが、美術監督をお願いできませんか?」

そんな突然の電話が、やなせのもとにかかってきたのは、1967年の秋のことでした

一応、顔見知りではありましたが、人気絶頂の手塚が、なぜ畑違いの自分に依頼してきたのか、やなせには皆目見当もつかなかったそうです

とりあえず仕事を引き受けてはみたものの、アニメの世界は右も左も分からない全くの素人
一から教えてもらいながら、キャラクターデザインの仕事をこなしていきました

キャラクターのイメージは次々に浮かび、「自分にはキャラクターデザインの才能があるのかも」と思っていた矢先、やなせは壁にぶち当たります

蛇島に登場する裸の女性たちが描けないのです
ストーリーをもったキャラクターであればなんとか描けるのですが、その他大勢となると全くイメージが浮かびません

困り果てているやなせを見かねて、手塚はそのシーンのキャラクターデザインも絵コンテも、すべて自ら描き上げました

「それにしても手塚治虫の天才っぷりは素晴らしかった。机を並べて描いていた時には、あまりの凄さに声も出ないくらいでした。羨ましいなんて思うのも僭越で、愛らしくって魅力的。絵を描くスピードは百万馬力!誰にも真似できません」

『わたしが正義について語るなら』より

手塚の圧倒的な才能に、ただ舌を巻くばかりのやなせでした。

「漫画家の絵本の会」で交流を深めた二人

1973年、『詩とメルヘン』を創刊したこの年、やなせは「漫画家の絵本の会」を立ち上げ、気の合う漫画家たちが集まりました

馬場のぼるや長新太、手塚治虫といった、そうそうたる顔ぶれが勢ぞろいしたこの会で、最年長のやなせは仲間から学ぶことがたくさんあったそうです

何よりも手塚と親しくなれたことが、やなせにとって大きな財産となりました

手塚は、忙しいスケジュールの合間をぬって展覧会に作品を出品し、サイン会にも参加
会場にはファンが押し寄せ、活気に満ちた華やかな雰囲気になりました

そして、手塚自身もまたイベントをとても楽しんでいる様子だったといいます

その理由についてやなせは、有力な新人に対して激しいジェラシーを抱くこともあった手塚にとって、

「絵本の会の仲間は、みんな手塚治虫の競争相手ではなかったから、気を許していた」

『アンパンマンの遺書』より

と考えていました

1989年2月9日、手塚治虫は60歳でこの世を去りました

手塚が亡くなったとき、やなせは69歳
手塚の晩年の作品の中では『アドルフに告ぐ』が一番好きで、夢中になって読んだそうです

コミック雑誌に一度も漫画を描いたことのないやなせたかしと、「漫画の神様」と称された手塚治虫
同じ土俵に上がることのなかった二人は、良好な関係を築いていました

「ぼくはあんなに笑顔のいい人を他に知らない。」

『アンパンマンの遺書』より

「絵本の会」での手塚をこう綴ったやなせ

彼が天才・手塚治虫を思い出すとき、いつもとびっきりの笑顔を浮かべていたのかもしれません

参考文献
やなせたかし著『人生なんて夢だけど』フレーベル館
やなせたかし著『アンパンマンの遺書』岩波書店
やなせたかし著『わたしが正義について語るなら』ポプラ社
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

長編アニメ『千夜一夜物語』の制作現場で、初めて手塚治虫氏と机を並べ、「天才的な仕事ぶりに驚愕した」というやなせたかし氏

自伝『人生なんて夢だけど』では、手塚氏と自身について、「神様と毛虫、月とスッポン」と書いています

一緒に旅行をしたこともあり、テレビ番組で共演したこともあったという二人の交流には、忘年会での宴会芸や絵本の会での親密な時間、そしてアニメ制作現場での葛藤と感動といったエピソードが詰まっています


1973年、『詩とメルヘン』を創刊したこの年、やなせは「漫画家の絵本の会」を立ち上げ、気の合う漫画家たちが集まりました

馬場のぼるや長新太、手塚治虫といった、そうそうたる顔ぶれが勢ぞろいしたこの会で、最年長のやなせは仲間から学ぶことがたくさんあったそうです

何よりも手塚と親しくなれたことが、やなせにとって大きな財産となりました

手塚は、忙しいスケジュールの合間をぬって展覧会に作品を出品し、サイン会にも参加
会場にはファンが押し寄せ、活気に満ちた華やかな雰囲気になりました

そして、手塚自身もまたイベントをとても楽しんでいる様子だったといいます

その理由についてやなせは、有力な新人に対して激しいジェラシーを抱くこともあった手塚にとって、

「絵本の会の仲間は、みんな手塚治虫の競争相手ではなかったから、気を許していた」

『アンパンマンの遺書』より

と考えていました

1989年2月9日、手塚治虫は60歳でこの世を去りました

手塚が亡くなったとき、やなせは69歳
手塚の晩年の作品の中では『アドルフに告ぐ』が一番好きで、夢中になって読んだそうです

コミック雑誌に一度も漫画を描いたことのないやなせたかしと、「漫画の神様」と称された手塚治虫
同じ土俵に上がることのなかった二人は、良好な関係を築いていました

「ぼくはあんなに笑顔のいい人を他に知らない。」

『アンパンマンの遺書』より

「絵本の会」での手塚をこう綴ったやなせ

彼が天才・手塚治虫を思い出すとき、いつもとびっきりの笑顔を浮かべていたのかもしれません


 

 


「手のひらを太陽に」の作詞者でもある戦中派の作者が、自身の風変わりなホップ・ステップ人生を語る
銀座モダンボーイの修業時代、焼け跡からの出発、長かった無名時代、そしてついに登場するアンパンマン――
手塚治虫、永六輔、いずみたく、宮城まり子ら多彩な人びととの交流を横糸に、味わい深い人生模様が織り上げられていく
図版多数収録

胃の構造と働き
消化のほか殺菌や一時的に貯蔵庫の役割も

胃は「胃袋」といわれるように筋肉でできた袋状の臓器で、粘膜や粘膜下層など5層構造になっています
空腹時はぺちゃんこですが、胃に食物が送られてくると胃壁が伸び、風船のように膨らみます
その容量は成人平均で1.5~2ℓ、大容量のペットボトル並です

胃に食物が入ると噴門と呼ばれる部位が弁の役割をして、食物が食道へ逆流するのを防ぎます
また、胃の出口の幽門が、小腸へ食物が一気に流れ出ないよう調整
こうした出入り口の働きで食物は一時的に胃にためられ、その間に消化が進むわけです
通常、消化にかかる時間は2~3時間ですが、消化の悪い物は4~5時間かかるといわれています

胃での消化は胃液の分泌と、筋肉の収縮によるぜん動運動との連携作業です
強酸性の胃酸や消化酵素を含む胃液が食物を溶かし、ぜん動運動による攪拌(胃液と食物を混ぜ合わせる)や粉砕(食物を分解する)によって胃の内容物をおかゆのような状態にして小腸へと送り出します

あまり知られていませんが、胃の役割は消化だけではありません
酸性の強い胃液は、食べ物とともに入ってきた病原菌などを殺菌し、体内に取り込まないよう防御します
また、熱い物や冷たい物がそのまま小腸へ行かないよう、温度調節するのも胃の大切な役目です


胃は袋状の筋肉で風船のようにふくらむ臓器

空腹時の胃
食べ物を消化した状態の胃は、縮んで平べったい状態に。胃が収縮するときに腸内のガスや液体が動き、ぐ~という音が発生する


食べた時の胃
胃に食べた物が入ると、水を入れた風船のようにふくらむ。極端な食べ過ぎが慢性化すると伸びきったゴムのようにたるんでしまうことも


消化は通常2~3時間、消化に悪い物は4~5時間
食べた物は実は胃液だけでは消化されません。 ぜん動運動で固形物をすりつぶしたり(攪拌)、胃液と混ぜ合わせたり(粉砕)して消化されます


胃液だけでなく、ぜん動運動で固形物を攪拌・粉砕し、消化を促している

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

【世界史の悲劇】ヨーロッパが豊かになり、アフリカが貧しくなった“本当の理由”
「地図を読み解き、歴史を深読みしよう」
人類の歴史は、交易、外交、戦争などの交流を重ねるうちに紡がれてきました
しかし、その移動や交流を、文字だけでイメージするのは困難です
地図を活用すれば、文字や年表だけでは捉えにくい歴史の背景や構造が鮮明に浮かび上がります
政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図や図解を用いて解説するものです
地図で世界史を学び直すことで、経済ニュースや国際情勢の理解が深まり、現代社会を読み解く基礎教養も身につきます
著者は代々木ゼミナールの世界史講師の伊藤敏氏
黒板にフリーハンドで描かれる正確無比な地図に魅了される受験生も多い
近刊『地図で学ぶ 世界史「再入門」』の著者でもある


● ヨーロッパが豊かになり、アフリカが貧しくなった“本当の理由”

中世後期の西ヨーロッパでは農奴解放が進み、自由になった農民(ヨーマン)が土地を購入して地主となり、その土地に工場を設立しました

これらの工場は工場制手工業(マニュファクチュア)と呼ばれ、機械化は不十分ながらも分業によって手作業で製品を作るため、個々の職人による生産より効率が高くなりました

価格革命によって工場製品は比較的安価で安定した利益をもたらし、特に羊毛を用いた毛織物業でマニュファクチュアの発展が進みます

その結果、経営者たちは利益を再投資して事業を拡大し、工場規模を大きくしたり雇用を増やすなどして、やがて産業資本主義の基盤を築きました。こうしてマニュファクチュアの経営者は産業資本家となり、資本主義社会の形成が進んでいきます

● 経済の「流れ」が変わった

西ヨーロッパで生産された毛織物などの工業製品は、大航海時代の航路を介して、世界中に輸出されることになります。しかし、東ヨーロッパやアフリカなどでは、そもそも産業資本家の数が希少であることなどから、西ヨーロッパの工業製品に十分に対抗できません

したがって、これらの地域では、西ヨーロッパの工業製品が絶え間なく流入することで工業化が進まず、西ヨーロッパに原材料などを輸出(といっても実際は吸い取られるというニュアンスが近いです)せざるをえなくなります

アフリカ、とりわけギニア湾に面した西アフリカから西ヨーロッパ商人に輸出されたのが奴隷(黒人奴隷)です
沿岸の諸国はヨーロッパ商人から火砲などの武器を購入し、これで内陸地域に対して奴隷狩りを繰り返すのです
黒人奴隷は主に新大陸の銀山などの鉱山労働に従事しました
奴隷貿易により恒常的に生産年齢人口を奪われた西アフリカは、産業の停滞により「低開発化」に甘んじることになるのです

このように、世界は次第に西ヨーロッパに富が集中し、東ヨーロッパやアフリカのような地域はその源泉を吸い上げられるという構図ができます

● 近代世界システム論とは?

こうした国際分業体制を、1970年代にアメリカの社会学者・経済史学者であったイマニュエル・ウォーラーステイン(19301〜2019)は、「近代世界システム論」として体系化しました

近代世界システムとは、大航海時代以来、世界は「中核」と「周辺」と呼ばれる2つのグループからなる国際分業体制のことです
「中核」は今回の西ヨーロッパのように世界の富が集中する地域、「周辺」は東ヨーロッパやアフリカのように、その富を一方的に「中核」に搾取され経済的に従属せざるをえない地域を指します

大雑把に言えば、この「中核」と呼ばれた地域が今日の「先進国」の、「周辺」と呼ばれた地域は「途上国」のそれぞれ源流をなすのです

 (本原稿は『地図で学ぶ 世界史「再入門」』を一部抜粋・編集したものです)

(この記事はDiamond onlineの記事で作りました)

● ヨーロッパが豊かになり、アフリカが貧しくなった“本当の理由”

中世後期の西ヨーロッパでは農奴解放が進み、自由になった農民(ヨーマン)が土地を購入して地主となり、その土地に工場を設立しました

これらの工場は工場制手工業(マニュファクチュア)と呼ばれ、機械化は不十分ながらも分業によって手作業で製品を作るため、個々の職人による生産より効率が高くなりました

価格革命によって工場製品は比較的安価で安定した利益をもたらし、特に羊毛を用いた毛織物業でマニュファクチュアの発展が進みます

その結果、経営者たちは利益を再投資して事業を拡大し、工場規模を大きくしたり雇用を増やすなどして、やがて産業資本主義の基盤を築きました。こうしてマニュファクチュアの経営者は産業資本家となり、資本主義社会の形成が進んでいきます

● 経済の「流れ」が変わった

西ヨーロッパで生産された毛織物などの工業製品は、大航海時代の航路を介して、世界中に輸出されることになります。しかし、東ヨーロッパやアフリカなどでは、そもそも産業資本家の数が希少であることなどから、西ヨーロッパの工業製品に十分に対抗できません

したがって、これらの地域では、西ヨーロッパの工業製品が絶え間なく流入することで工業化が進まず、西ヨーロッパに原材料などを輸出(といっても実際は吸い取られるというニュアンスが近いです)せざるをえなくなります

アフリカ、とりわけギニア湾に面した西アフリカから西ヨーロッパ商人に輸出されたのが奴隷(黒人奴隷)です
沿岸の諸国はヨーロッパ商人から火砲などの武器を購入し、これで内陸地域に対して奴隷狩りを繰り返すのです
黒人奴隷は主に新大陸の銀山などの鉱山労働に従事しました
奴隷貿易により恒常的に生産年齢人口を奪われた西アフリカは、産業の停滞により「低開発化」に甘んじることになるのです

このように、世界は次第に西ヨーロッパに富が集中し、東ヨーロッパやアフリカのような地域はその源泉を吸い上げられるという構図ができます

● 近代世界システム論とは?

こうした国際分業体制を、1970年代にアメリカの社会学者・経済史学者であったイマニュエル・ウォーラーステイン(19301〜2019)は、「近代世界システム論」として体系化しました

近代世界システムとは、大航海時代以来、世界は「中核」と「周辺」と呼ばれる2つのグループからなる国際分業体制のことです
「中核」は今回の西ヨーロッパのように世界の富が集中する地域、「周辺」は東ヨーロッパやアフリカのように、その富を一方的に「中核」に搾取され経済的に従属せざるをえない地域を指します

大雑把に言えば、この「中核」と呼ばれた地域が今日の「先進国」の、「周辺」と呼ばれた地域は「途上国」のそれぞれ源流をなすのです


 

 


本書は、政治、経済、貿易、宗教、戦争など、多岐にわたる人類の営みを、地図を用いてわかりやすく、かつ深く解説した一冊です
地図が語りかける「本当の世界史」

胃と腸の不調はよく噛めばよくなる!
脳の活性化や自律神経の調節にも関わる

幼い頃、両親から「よく噛んで食べなさい」と注意されたことがある方もいるのではないでしょうか
実はこれ、胃腸の快調を保ち、健やかな体でいるうえで非常に大切な教えなのです

咀嚼とは食べた物をよく噛んで細かくし、唾液と混ぜ合わせて飲み込みやすくする作業
食物を細分化すればするほど胃に送られてからの消化がはかどり、栄養の吸収もスムーズになります

咀嚼のメリットはそればかりではありません
あごや顔面を動かすことが、感覚神経を通して脳を刺激します
知覚や学習を担う大脳皮質、生命維持に重要な視床下部などを活性化させるのです
さらに、咀嚼は唾液の分泌を促すため噛めば噛むほど唾液のもつ血管拡張作用や神経成長作用が強まり、それによって自律神経が整えられますよく噛むことでリンパの流れもよくなるともいわれ、咀嚼は簡単な健康法でもあるのです

私は患者さんに「液体も噛みながら飲んでください」とアドバイスします
これは上記の理由のほか、口やあごを動かすことで胃の働きをよくするホルモンが分泌され、口と連動する胃の筋肉の動きもよくなるからですとくに早食いの方は、食べ方を見直しましょう。加えて消化の悪い揚げ物やレトルト食品中心の食事をしているなら、胃腸障害のリスクはさらに高まります
体を養うはずの食事で健康を損なうことになりかねません

食べた物が細かくなればなるほど胃と腸は回復が早い

消化するための固体が小さいほど、胃に負担がかかりにくくなり、食べた物が胃に長時間滞留しなければ、吐き気や胸やけなどの症状もないので、咀嚼は胃の健康を保つためにとても大切なのです

早食いのサラダより、よく噛んだ肉のほうが消化が早い!?

実は野菜などの食物繊維は胃では消化されないため、咀嚼不十分では胃にかなり負担が
その点、実はたんぱく質は、消化が早いので咀嚼をしっかりすれば、サラダよりも早く消化します!

噛むことは脳にも刺激をあたえる

【POINT】汁物も、嚙みながら飲む!
あごを動かすと胃の働きをよくするホルモンが分泌されます
口と胃の筋肉は連動しているので、噛むことで胃の動きも活発に!

【出典】『眠れなくなるほど面白い 図解 胃と腸の話』著:福原 真一郎

(この記事はラブすぽの記事で作りました)

「水も噛んで飲め」ともいわれたことも・・・

咀嚼はそれほど重要です


 

 


胃と腸を整えれば、あらゆる不調はみるみる良くなる!
食事など、体に入るものの入口である胃、消化吸収の要である腸、その本来の力を取り戻すための効果絶大な方法だけを大公開!

太りやすい、病院に行ってもわからない慢性的な不調がある、疲れがすぐに溜まる、など、そんな悩みの原因は“胃と腸”が疲れているからかもしれません
また、胃と腸はメンタルとも密接に関わりがあり、痛みや不快症状が出やすい内臓でもあります。そんな胃と腸の状態が回復することで、その他の内臓や全身の機能がみるみるよみがえり、肥満、健康診断の数値、疲労感などが消えていきます
本書では、そもそも胃と腸の働きとは?といった基礎知識から、みるみる痩せる本来の胃の大きさに戻す方法、胃腸が一気に整う漢方や薬膳、さらにすごいスパイスカレーなども紹介
さらに過敏性腸症候群を改善するための座り方など、効果的な方法を厳選して紹介します
さらに今の自分はどんな状態なのか簡単にわかるチェック法なども掲載し、自分の体と向き合えます
どれも簡単にできる方法ばかりなので、ストレスで胃と腸の調子がよくない、なんとなく不調が続いている、という方にはぜひ手に取って頂きたい一冊です

地球上で起きていること、どれだけわかる?

私たちが日常的に当たり前だと感じていることでも、あまり意識していないことや、知っているようで知らないことってありますよね
そんな地球に生きる私たちが知っておきたい「理系雑学」をご紹介します
太陽系を含む地球の歴史から、大自然や気候、動植物、資源など、地球にまつわるさまざまな疑問をスッキリ解説!

あらためて考えると、私たちはこの地球について、実はほとんど知らないのかもしれません

※本記事は雑学総研著の書籍『人類なら知っておきたい 地球の雑学』から一部抜粋・編集しました

地球の中心はドロドロ!? 知られざる地球の内部構造

地球の中心部は、いったいどのようになっているのか
今よりも科学技術が発展していない時代、地球の中身は均質でドロドロに溶けたものが詰まっていると考えられていた
しかし、現在ではその考えが間違っていることがわかっている

地球の内部は、外側から地殻、マントル、核と呼ばれる三つの層に分かれている
ゆで卵にたとえるなら、殻は地殻、白身がマントル、黄身が核といったところだ

まず、地球の中心部にある核は、鉄とニッケルを主成分としており、内核と外核に分けられる
約400万気圧という超高圧下にあることから、6000~8000℃と推定される超高温を保ちながら、溶けることなく固体の球状をしている内核を、液体状の外核が包んでいる

続いて、外核を包んでいるのがマントルで、かんらん岩などの岩石でできている
液体だと勘違いされることが多いが、マントルはあくまで固体
ただし、超高圧と高温下にあることから、非常にゆっくりと対流している

そして、マントルの上に乗っているのが、私たちが立っている地殻で、花崗(かこう)岩や玄武岩などの軽い岩石でできている
その厚さは大陸部で30~60キロメートル、海洋部で5キロメートルといわれているが、地球の半径と比較すると、わずか0.5パーセントほどの厚さしかない

こうした地球内部の様子は、当然直接見ることができない
そこで、やわらかいものや硬いものにぶつかると伝わる方向が曲がったり、跳ね上がったりする「波」の性質に着目し、地震波などを利用することで、地球内部のさまざまな調査が行なわれている

著=雑学総研/『人類なら知っておきたい 地球の雑学』

(この記事はレタスクラブの記事で作りました)

地球の中心はドロドロ!? 知られざる地球の内部構造

地球の中心部は、いったいどのようになっているのか
今よりも科学技術が発展していない時代、地球の中身は均質でドロドロに溶けたものが詰まっていると考えられていた
しかし、現在ではその考えが間違っていることがわかっている

地球の内部は、外側から地殻、マントル、核と呼ばれる三つの層に分かれている
ゆで卵にたとえるなら、殻は地殻、白身がマントル、黄身が核といったところだ

まず、地球の中心部にある核は、鉄とニッケルを主成分としており、内核と外核に分けられる
約400万気圧という超高圧下にあることから、6000~8000℃と推定される超高温を保ちながら、溶けることなく固体の球状をしている内核を、液体状の外核が包んでいる

続いて、外核を包んでいるのがマントルで、かんらん岩などの岩石でできている
液体だと勘違いされることが多いが、マントルはあくまで固体
ただし、超高圧と高温下にあることから、非常にゆっくりと対流している

そして、マントルの上に乗っているのが、私たちが立っている地殻で、花崗(かこう)岩や玄武岩などの軽い岩石でできている
その厚さは大陸部で30~60キロメートル、海洋部で5キロメートルといわれているが、地球の半径と比較すると、わずか0.5パーセントほどの厚さしかない

こうした地球内部の様子は、当然直接見ることができない
そこで、やわらかいものや硬いものにぶつかると伝わる方向が曲がったり、跳ね上がったりする「波」の性質に着目し、地震波などを利用することで、地球内部のさまざまな調査が行なわれている


 

 


地球(を含めた宇宙)には謎や不思議、ギモンが多くあります
空はなぜ青く、夕焼けは赤いのだろうか!?とか・・・
そんな「理系雑学」を楽しくわかりやすく解説

 

おふう(於フウ)とは、三河国作手の国衆・奥平家の娘で、のちに上野小幡藩、さらに美濃加納藩の初代藩主となる奥平信昌(のぶまさ : 初名・貞昌)の最初の妻であった女性である

本来であれば歴史に名を残すこともなかったはずの、地方の小豪族の妻にすぎなかった彼女の名が、なぜ今日まで語り継がれているのか

それは、彼女が戦国の世でも稀にみるほど苛烈で、まさに戦国時代ならではの悲劇的な最期を遂げたからである

徳川家と武田家という二大勢力の狭間で翻弄された奥平家の歩んだ道と、政略の犠牲となり、わずか16歳で処刑されたおふうの生涯をたどっていきたい


三河の国衆・奥平貞友の長女として生まれたおふう

おふうの正確な生年はわかっていないが、三河の国人であった奥平貞友(さだとも)の長女として、おおよそ1558年頃に誕生したと推測されている

おふうの父である奥平貞友は、現在の愛知県岡崎市桜形町にあった三河日近城の城主として、奥三河を本拠とした奥平本家に仕えていた人物だ

貞友は1547年に今川義元の東三河進出に貢献し、その功を賞されて今川家に追放された形原松平家の所領を得たが、その翌年には今川家への謀反を企てたとして、形原を没収された

その10年後の1557年、貞友は今川家に人質として預けられていた奥平本家の嫡男であり、貞友の従兄弟であった奥平定能(さだよし)とともに、反今川を掲げて挙兵する(三河忩劇)

しかし定能の実父であり、貞友の伯父であった奥平家5代目当主の奥平貞勝(さだかつ)は、親今川派であった
貞友ら反今川派は敗戦し、定能は高野山へと一時追放されることとなった

貞友は今川義元の意向により、奥平家によって処刑されるはずであったが、逃亡して抵抗を続けた
そして翌年の1558年に定能が赦免され、貞友の処遇も曖昧なまま、騒乱は一応の終息をみた

おふうが生まれたのは、まさにこの奥平家が今川家との対立と服属を繰り返した激動のさなかであり、こうした国人衆による大規模な反乱「三河忩劇(みかわそうげき)」の終盤にあたる時期であった

家名存続のために次々と主君を変えた奥平家

戦国時代当時の奥平家は、三河の小豪族の1つに過ぎなかった

当時、奥平家を率いた5代目当主・奥平貞勝は、時には一族内で対立しながらも、時勢を見極めて巧みに主君を変え続けた
その臨機応変さが、家名を後世まで存続させる結果につながったともいえる

貞勝は当初、徳川家康の祖父である松平清康に仕えていたが、松平家弱体化後に今川家に転属した

「三河忩劇」の収束後は、三河国の大部分を今川家が支配することとなり、三河国作手を本拠とした奥平家は今川家に従属した

1556年には、台頭しつつあった織田家に内応して離反を試みる
しかし計画は露見し、今川家に再属している

そして1560年、桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、奥平家は今川派として家康と敵対したものの、ほどなくして家康の傘下に加わる

しかし1571年、三河へ侵攻してきた武田家の圧力を受け、奥平家中では、6代目当主となった定能(さだよし)が家康への忠義を重んじる一方で、名目上は隠居していた貞勝らは慎重姿勢を取っており、意見が対立した

最終的には貞勝の意向が優勢となり、奥平家は武田方に服属することとなった

このとき、武田方への人質のひとりとして差し出されたのが、定能の長男・信昌(のぶまさ)の妻であったおふうだった

元亀元年(1570年)、数え13歳となったおふうは、信昌の弟・仙千代丸(10歳)、奥平周防守勝次の子・虎之介(13歳)とともに、甲斐の武田家へ送られることとなった

奥平家の武田家離反

この頃、徳川家と武田家は、遠江の領有をめぐり、常に緊張関係にあった

1572年12月の三方ヶ原の戦いでは、奥平定能と菅沼氏の二家(田峯城主・菅沼定忠、長篠城主・菅沼正貞)が武田家に属し、山県昌景の与力として従軍した

この三家は強い結びつきを持ち、奥三河の山間部に拠点を置いていたことから、「山家三方衆(やまがさんぽうしゅう)」と呼ばれていた

1573年初頭、武田軍は三河国宝飯郡の徳川方・野田城を攻略したが、なぜか城を落とした直後に撤退した
この異様な行動に疑念を抱いた定能は、やがて秘されていた信玄の死を察知する

家康と密かに通じながらも、表向きは武田方に従う姿勢を装い続けた

その後、家康は武田家の勢力を抑えるため、奥平家を再び味方に引き戻そうと使者を送った
しかし、この時点ではおふうら人質三人の身柄が武田方にあり、加えて信玄の死も秘され、情勢が不透明だったため、当主・定能の返答は煮え切らないものだった

しかし1573年5月、山家三方衆の長篠城主・菅沼正貞が、家康軍の包囲を受けると、援軍を待たずして早々に開城してしまった

この降伏をめぐり、菅沼正貞に家康との内通疑惑が浮上し、同じ山家三方衆であった奥平家もまた、家康と通じているのではないかと武田方から疑われることとなった

奥平家は幸い露見は免れたものの、武田家中における立場は急速に悪化していく

そこで家康は、この状況を打開するため、織田信長に相談をもちかけた

信長は「家康の長女・亀姫を、奥平定能の長男・貞昌(のちの信昌)に嫁がせよ」と進言し、家康はこれを受け入れた

こうして定能は徳川家への帰参を決意し、1573年6月22日には家康に対し、武田信玄の死が確実であること、そして奥平家が徳川方へ帰参する意向を正式に伝えた

婚約とともに、領地の安堵と新恩三千貫を保証する「七ヶ条の誓書」も交わされた。(※文書には「元亀四年八月二十日」とあるが、実際には天正元年であり、偽文書説もある)

このとき信昌は、武田方に人質として差し出されていた妻・おふうと離縁し、家康の長女・亀姫を正室に迎え、徳川家の家臣となった

しかし、おふうをはじめとする人質たちの身の安全は、もはや誰にも保証できない状態になってしまったのである

見せしめとして晒し首にされたおふう

奥平家の徳川方への離反を知った武田勝頼は激怒し、人質の処刑を命じた

天正元年9月21日(1573年10月16日)、13歳で人質として差し出され、わずか16歳で「裏切り者の元妻」という立場になったおふうは、愛知県新城市玖老勢地造入にある「コオリ坂」で処刑された

主導したのは武田家重臣・山県昌景で、見せしめのため、おふうの亡骸は磔にされたと伝わる

同じく人質となっていた信昌の弟・仙千代丸、奥平周防守勝次の子・虎之介も、同日に別々の場所で処刑されている
仙千代丸は、鋸引刑に処されたという説もある

おふうら三人の首は、鳳来寺山麓にさらされた

その後、孫たちのあまりに無残な姿に心を痛めた祖母・貞子姫が、密かに首を奪い返し、故郷・日近城下の広祥院に葬ったという

おふうや弟たちの死後、大出世した信昌

その後の天正3年(1575年)、織田・徳川の連合軍と、武田軍が激突した「長篠の戦い」が勃発する

定能から家督を継いだ7代目当主・奥平信昌は、わずか五百の兵で長篠城を守備し、家臣・鳥居強右衛門の決死の伝令によって織田・徳川連合軍の援軍を呼び寄せ、武田勝頼率いる一万五千の大軍を退けた

長篠城を守り抜いた信昌と奥平一族の奮戦は、信長と家康の双方から高く称賛されることとなる

この戦功により、信昌は信長から「信」の一字を与えられ、このときに名を貞昌から信昌と改めた
また家康からは名刀・大般若長光を授かり、奥平家の領地は安堵され、さらに加増も受けるなど格別の待遇を得た

家康はまた、自らの幼少期に人質として過ごした経験から、奥平家が徳川方に帰参するために犠牲となったおふうを深く憐み、おふうの妹である「たつ」を、自身の異母弟である松平定勝の正室として迎え入れている

おふうたちの命を代償として徳川家臣となった奥平家は、やがて将軍家の親戚筋に列する大名家へと成長し、明治維新後は華族の伯爵家としてその名を連ねた

信昌は正室として迎えた亀姫との間に4男1女をなし、その子供たちは家康の外孫として厚遇され、夭折した1人を除いて分家を「徳川家御連枝」として興すことを許された

しかし、奥平家の華々しい出世の陰で、おふうの命は無残に奪われた

その首を納めた墓は、祖母・貞子姫や義弟・仙千代丸の墓と並び、愛知県岡崎市日近城跡に隣接する広祥院の境内に、ひっそりと佇んでいる

参考 :
鳳来町立長篠城趾史跡保存館(編)『戦国 人質物語』
榎本秋 (著)『江と戦国の姫君たち 女性の目から見た「もうひとつの戦国史」』
文 / 北森詩乃 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

おふう(於フウ)とは、三河国作手の国衆・奥平家の娘で、のちに上野小幡藩、さらに美濃加納藩の初代藩主となる奥平信昌(のぶまさ : 初名・貞昌)の最初の妻であった女性である

本来であれば歴史に名を残すこともなかったはずの、地方の小豪族の妻にすぎなかった彼女の名が、なぜ今日まで語り継がれているのか

それは、彼女が戦国の世でも稀にみるほど苛烈で、まさに戦国時代ならではの悲劇的な最期を遂げたからである

徳川家と武田家という二大勢力の狭間で翻弄された奥平家の歩んだ道と、政略の犠牲となり、わずか16歳で処刑されたおふうの生涯・・・


見せしめとして晒し首にされたおふう

奥平家の徳川方への離反を知った武田勝頼は激怒し、人質の処刑を命じた

天正元年9月21日(1573年10月16日)、13歳で人質として差し出され、わずか16歳で「裏切り者の元妻」という立場になったおふうは、愛知県新城市玖老勢地造入にある「コオリ坂」で処刑された

主導したのは武田家重臣・山県昌景で、見せしめのため、おふうの亡骸は磔にされたと伝わる

同じく人質となっていた信昌の弟・仙千代丸、奥平周防守勝次の子・虎之介も、同日に別々の場所で処刑されている
仙千代丸は、鋸引刑に処されたという説もある

おふうら三人の首は、鳳来寺山麓にさらされた

その後、孫たちのあまりに無残な姿に心を痛めた祖母・貞子姫が、密かに首を奪い返し、故郷・日近城下の広祥院に葬ったという

おふうや弟たちの死後、大出世した信昌

その後の天正3年(1575年)、織田・徳川の連合軍と、武田軍が激突した「長篠の戦い」が勃発する

定能から家督を継いだ7代目当主・奥平信昌は、わずか五百の兵で長篠城を守備し、家臣・鳥居強右衛門の決死の伝令によって織田・徳川連合軍の援軍を呼び寄せ、武田勝頼率いる一万五千の大軍を退けた

長篠城を守り抜いた信昌と奥平一族の奮戦は、信長と家康の双方から高く称賛されることとなる

この戦功により、信昌は信長から「信」の一字を与えられ、このときに名を貞昌から信昌と改めた
また家康からは名刀・大般若長光を授かり、奥平家の領地は安堵され、さらに加増も受けるなど格別の待遇を得た

家康はまた、自らの幼少期に人質として過ごした経験から、奥平家が徳川方に帰参するために犠牲となったおふうを深く憐み、おふうの妹である「たつ」を、自身の異母弟である松平定勝の正室として迎え入れている

おふうたちの命を代償として徳川家臣となった奥平家は、やがて将軍家の親戚筋に列する大名家へと成長し、明治維新後は華族の伯爵家としてその名を連ねた

信昌は正室として迎えた亀姫との間に4男1女をなし、その子供たちは家康の外孫として厚遇され、夭折した1人を除いて分家を「徳川家御連枝」として興すことを許された

しかし、奥平家の華々しい出世の陰で、おふうの命は無残に奪われた

その首を納めた墓は、祖母・貞子姫や義弟・仙千代丸の墓と並び、愛知県岡崎市日近城跡に隣接する広祥院の境内に、ひっそりと佇んでいる


 

 


歴史に影響を与えた度合いが大きい彼女たちの行動、彼女たちのおかれた状況やそれぞれの運命をキーにしつつ、「戦国時代の始まりから終わりまで」の通史を読み解く!

信長が子供たちの幼名に命名した名前とは

戦国武将の代表格の一人・織田信長

そのドラマティックな生涯はもちろん、若年期の奇抜なファッションや行動など、強烈な個性の持ち主として広く知られている
さまざまな歴史的な話題に事欠かない信長だが、「子どもに付けた名前」に注目してみたい

信長には22人の子どもがいたとされ、そのうち11人が男子である

子どもに付けられる名は「幼名」と呼ばれ、成長して元服すると新たな名を名乗るのが通例だった

さらに元服後も、政治的な状況などに応じて、名前を次々と変える例は少なくない

ところが信長自身の場合、幼名は「吉法師(きっぽうし)」であり、元服後は「信長」を名乗り、生涯その名を使い続けた

これはむしろ例外的と言ってもよい

※形式上は平氏の流れを汲む「平朝臣」を冠し、官位や通称を含めると「平朝臣織田上総介三郎信長」とも表記されるが、実際の文書では「織田上総介信長」など簡略形が多い

たとえば徳川家康の場合を見てみよう

幼名は「(松平)竹千代」、その後は「元信」→「元康」→「家康」と改名を重ね、さらに姓も「徳川」へと改めている

また上杉謙信も、幼名は「(長尾)虎千代」その後は「景虎」→「(上杉)政虎」→「輝虎」、そして、「不識庵謙信」に改めている

このように、名や姓が目まぐるしく変わることが多かった

嫡男・信忠と二男・信雄には自分の若年期を反映?

さて、信長は子どもたちにどのような名前を付けたのだろうか

長男・信忠の幼名は「奇妙丸」である

信忠は天正3年(1575年)、信長から家督を譲られ、織田軍団の総帥として諸将を率いる立場となり、実質的に織田家のナンバー2となった

しかし本能寺の変では、父信長の救援に向かったものの果たせず、二条新御所に籠城の末、自害して果てている

そんな信忠は江戸時代を通じて、「親の七光りで信長の後を継いだ暗愚な人物」というイメージを植え付けられた

だが、人の能力を見抜く才に長けた信長が後継者として認めた人物であることから、今日では能力と資質を備えた武将であったという評価が主流となっている

そして、次男・信雄の幼名は「茶筅丸」だ

信雄は永禄12年(1569年)、伊勢の名門・北畠具教の嗣養子となり、伊勢・大河内城に入った

その後、信長の命により北畠一族を粛清し、さらに伊賀平定戦の総大将としても功を挙げ、織田家中では兄・信忠に次ぐ地位を得るに至った

本能寺の変で父と兄が没すると、ただちに兵を率いて京都に進もうとしたものの、領国・伊賀で一揆が勃発
これを鎮圧するために専念した結果、豊臣秀吉が明智光秀を討った山崎の戦いには、参陣が遅れてしまった

その後、賤ケ岳の戦いで柴田勝家が秀吉に敗れて自害すると、弟・信孝の籠る岐阜城を包囲し、最終的に自害に追い込んでいる
こうして信雄は、織田家後継者・三法師(信忠の遺児・織田秀信)の後見役として重きをなした

天正12年(1584年)、信雄は秀吉と対立し、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と同盟を結んで戦った
しかし、最終的には単独で和解を選んでいる

豊臣政権下では織田家当主として秀吉に臣従し、正三位権大納言に叙任され、80万石近い所領を与えられるなど厚遇を受けた

ところが天正18年(1590年)7月、小田原の役後の論功行賞の席で、秀吉から与えられた家康の旧領・駿遠三甲信5か国(約120万石)を固辞したため、突如として下野国那須烏山に捨扶持2万石で追放されてしまう

それでも秀吉晩年にはお伽衆として召し出され、徳川家康が将軍となると大和松山(宇陀)や上野小幡に所領を与えられ、小大名として織田家の名跡を保った

寛永7年(1630年)4月30日、京都北野邸にて73歳で死去した

信忠・信雄は、信長にとって織田家を支えていく存在であったはずである

その幼名「奇妙丸(信忠)」「茶筅丸(信勝)」は、三男以下に付けられた名前とは明らかに趣を異にしている

おそらく信長は、自らが「大うつけ」と呼ばれていた頃の姿を重ね合わせて名付けたのではないだろうか

「自由奔放に生きながらも、やがて天下布武を成し遂げた自分のように育ってほしい」そんな願いが込められていたのかもしれない

ちなみに、信長の長女で家康の嫡男・信康に嫁いだ徳姫(岡崎殿)は、「ごとく」という名で呼ばれていた

「ごとく」とは、調理器具を安定させるための「五徳(五斗)」を意味し、織田家をしっかりと支えてほしいという信長の願いが込められていたと伝えられる

弘治3年(1557年)生まれの信忠、永禄元年(1558年)生まれの信雄に続き、永禄2年(1559年)に誕生した彼女もまた、信長にとって大切な存在であったに違いない

三男・信孝以下には「ユーモアあふれる名前」を付ける?

では、ここからは三男以下の幼名を紹介しよう

織田家の行く末を託す意味が込められていたと思われる「奇妙丸」「茶筅丸」「ごとく」と比べると、どこかやる気が感じられないというかいい加減というか、そんな印象を受けるのが、三男・信孝の「三七」、四男・秀勝の「於次」、五男・勝長の「於坊」である

このうち信孝は、永禄元年(1558年)4月4日生まれとされ、次男・信雄より20日早く生まれたという説もある

しかし、生母が北伊勢の豪族・坂氏であったため、同じ側室でもほぼ正室並みの待遇を受けていた生駒氏(吉乃)を母とする信雄より、身分が低いと見なされ三男とされた

幼名「三七」の「三」は三男の意味だろうが、「七」については定かではない

そして、六男・信秀の幼名は「大洞(おおぼら)」、七男・信高は「小洞(こぼら)」である
「おおぼら・こぼら」と並べると、まるで漫才コンビのようで、思わず笑ってしまうような命名だ

さらに、八男・信吉の幼名は「酌(しゃく)」である
『織田家雑録』には「ナベニハ酌子ガソフモノトナリテ酌ト名ツケ玉フ」とあり、生母である「お鍋の方」の「鍋」にちなみ、酌という名が付けられたという

お鍋の方は、帰蝶(濃姫)、吉乃(生駒氏)に続いて信長の側室となり、その奥を取り仕切った女性である
もとは近江八尾山城主・小倉実房に嫁いでいたが、夫の戦死後に信長の側室となったため、「小倉三河守女」とも記録される

一説には、長女「ごとく」の例のように、信長が女性に食器の名を好んで付けたため「お鍋」と呼ばれたともいう

いずれにせよ、「お鍋」の子だから「酌子(酌)」という名を与えるあたりにも、信長ならではのユーモアとセンスが感じられて興味深い

生年は不詳ながら、信長の晩年に生まれたと考えられるのが、九男・信貞、十男・信好、十一男・長次である

それぞれの幼名は、信貞が「人」、信好が「良好」、長次が「縁」と伝わる

信長は幸若舞「敦盛」を好んだことで知られ、とりわけ「人生五十年」の一節を意識していたとされる

そうした背景を思えば、これらの幼名にはどこか哲学的な響きが感じられて興味深い

※参考 :
矢部健太郎監修 『偉人たちのやばい黒歴史 日本史100人の履歴書』宝島社刊
文 / 高野晃彰 校正 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

信長が子供たちの幼名に命名した名前とは

戦国武将の代表格の一人・織田信長

そのドラマティックな生涯はもちろん、若年期の奇抜なファッションや行動など、強烈な個性の持ち主として広く知られている
さまざまな歴史的な話題に事欠かない信長だが、「子どもに付けた名前」に注目してみたい

信長には22人の子どもがいたとされ、そのうち11人が男子である

子どもに付けられる名は「幼名」と呼ばれ、成長して元服すると新たな名を名乗るのが通例だった

さらに元服後も、政治的な状況などに応じて、名前を次々と変える例は少なくない

ところが信長自身の場合、幼名は「吉法師(きっぽうし)」であり、元服後は「信長」を名乗り、生涯その名を使い続けた

これはむしろ例外的と言ってもよい

※形式上は平氏の流れを汲む「平朝臣」を冠し、官位や通称を含めると「平朝臣織田上総介三郎信長」とも表記されるが、実際の文書では「織田上総介信長」など簡略形が多い



その織田信長が子どもに付けた名前が面白すぎる・・・
「天才?それともいい加減?」ともいえるかも・・・
これらの幼名にはどこか哲学的な響きが感じられて興味深い

 

 


日本史を彩ったよりすぐりの偉人100人が、もし自ら履歴書を作成したとしたら、やばい黒歴史で埋めつくされた!?
古代から近代にかけ活躍した偉人100人の足跡、家族構成、性格、変な癖、トラウマエピソードなど、現代人の感覚では想像を絶する驚愕の「個人情報」が満載
日本史の学習、大河ドラマがいっそう面白くなること間違いなしの一冊です
國學院大學文学部史学科教授の矢部健太郎監修

「砂」とは、岩石が風化や摩耗によって細かく砕け、粒子となったものであり、我々の身近に普遍的に存在する自然物である

古代から人間は砂を巧みに利用し、コンクリートを生成して建築に役立ててきた
ローマのパンテオン神殿は、その代表的なコンクリート建造物のひとつである

しかし砂は、時に人間に牙を剥く。豪雨で水を含んだ砂は大地を呑み込み、砂嵐は熱波と病を運んで命を奪った

神話や幻想の世界に目を向けても、砂を凶器として操り、人を惑わし、時に命を奪う怪異の伝承は少なくない

ここでは、そんな人知を超えた「砂にまつわる怪物たち」の物語をひも解いていく


ヨーロッパにおける伝承

ドイツには「砂男」と呼ばれる妖精、ザントマン(Sandmann)の伝承が残っている

一般的にザントマンは、大きな袋を背負った老人の姿で描かれることが多く、その袋には大量の砂が詰め込まれている

この砂を、ザントマンは人間の眼球めがけて叩き込むとされる

普通に考えれば失明待ったなしの危険行為に思えるが、摩訶不思議な魔法の砂であるため、目は無傷で済む
その代わり砂が目に入った者は、堪え難い睡魔に襲われ、そのままグッスリと眠ってしまうのだそうだ

本来は眠りをもたらす無害な存在だが、作家E.T.A.ホフマン(1776〜1822年)が1817年に発表した短編小説『砂男(Der Sandmann)』では、その像は一変する

ここで描かれるザントマンは、夜更かしする子供の目玉をえぐり取り、袋に入れて持ち去るという、恐ろしく不気味な存在として語られている

アイルランドには、ディーナ・シー(Daoiine Shee)と呼ばれる妖精たちの伝承が残っている

これは特定の個体を指す名ではなく、妖精の一族をまとめて呼ぶ総称である

一説によれば、かつてケルト神話で語られた神々「トゥアハ・デ・ダナーン(Tuatha Dé Danann)」が没落し、その後ディーナ・シーへと姿を変えたとされる

ディーナ・シーは非常に陽気且つ好戦的な種族であり、砂嵐を巻き起こして植物を枯らしたり、人間の花嫁や赤ん坊を誘拐することが度々あったという

アジアにおける伝承

漫画家・水木しげる(1922〜2015年)の代表作といえば、言わずと知れた『ゲゲゲの鬼太郎』である。

その有名なキャラの一人に、砂を自在に操る妖怪・砂かけ婆(すなかけばばあ)がいる
日本における「砂の妖怪」と聞けば、多くの人がまずこの存在を思い浮かべるだろう

今でこそ広く知られている砂かけ婆も、もともとは一部の地域でのみ語られた、きわめて局地的な妖怪であった
これは子泣き爺・一反木綿・ぬりかべなど、鬼太郎をきっかけに全国区となった他の妖怪たちと同様である

民俗学者・澤田四郎作(1899〜1971年)の著書『大和昔譚』や、柳田國男(1875〜1962年)の『妖怪談義』にも砂かけ婆の存在が記されている

奈良県の森や神社など、人里離れた淋しい場所に現れ、通りかかる人間に砂をふりかけて驚かすと伝えられている
しかし辺りを見回しても姿は見えず、その姿を実際に見た者は一人もいないという

そのため、果たして本当に老婆の姿をしているのかすら定かではない、謎めいた妖怪なのである

中国には古来より、蜮(よく/わく)と呼ばれる不思議な生物にまつわる伝承が残されている

地理書『山海経』によれば、その姿はスッポンに似ており、水中に潜んで口に含んだ砂を人に吹きかけるとされる
この砂を浴びた人間は病を得て、やがて命を落とすと恐れられていた

一方で、『山海経』には「蜮民国(よくみんこく)」という国の記述もあり、そこに住む人々は蜮を狩って食用としていたという

さらに、作家・魯迅(1881〜1936年)が編纂した『古小説鉤沈』では、ヒキガエルやオシドリといった生物が、蜮を捕食するという逸話も紹介されている

また、東晋の文人・干宝(?〜336年)が著した『捜神記』によると、男女が同じ川で水浴びをするとき、男の裸に欲情した女の「気」から蜮が生まれるという説もある

蜮は古代中国において、病と災厄をもたらす不吉な存在として恐れられてきたのである

エジプトの伝説

エジプトといえば、砂漠の国である

古代エジプトでは、砂漠の暴風や混沌を司る神セト(Set)が広く信仰されていた
セトは戦争の神としても知られ、王権と国土を守る存在として畏敬を集めていた

一般的にその姿は、人間の体に、正体不明の動物の顔がくっついた様相で表される

この動物の正体はジャッカル、フェネック、ツチブタなど、さまざまな説があり、近年では「架空の神聖動物」とする説が有力である

セトは恐ろしい神とされる一方で、本来は邪悪な存在ではなかった
むしろ、悪しき怪物や外敵から人々を守る守護神としての役割を担っていたと考えられている
しかし、王朝が移り変わるにつれ、オシリス神話の影響で次第に悪神扱いされるようになっていった

また、セトには奇妙な伝承があり、レタスを常食していたとされる

古代エジプトでは、レタスの白濁した汁が精力増強の効能があると信じられていた

神話では、セトは甥であるホルスとの争いの中で睾丸を損傷したという逸話があり、セトは自身の性機能を回復させるため、一心不乱にレタスを食べまくっていたという

ただし、『パピルス』には去勢前からレタスを好んで食べていたとも記されていることから、単に好物だった可能性も否定できない

このように、砂は人の営みに恵みをもたらす一方で、神話や伝承の中ではしばしば恐怖と混沌の象徴として描かれてきた

砂を操る怪異伝承は、時代も地域も越えて語り継がれ、人々の想像力を今もなお刺激し続けている

参考 :『砂男』『妖怪談義』『ベッティ・パピルス』他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

「砂」とは、岩石が風化や摩耗によって細かく砕け、粒子となったものであり、我々の身近に普遍的に存在する自然物である

古代から人間は砂を巧みに利用し、コンクリートを生成して建築に役立ててきた
ローマのパンテオン神殿は、その代表的なコンクリート建造物のひとつである

しかし砂は、時に人間に牙を剥く。豪雨で水を含んだ砂は大地を呑み込み、砂嵐は熱波と病を運んで命を奪った

神話や幻想の世界に目を向けても、砂を凶器として操り、人を惑わし、時に命を奪う怪異の伝承は少なくない


「砂の妖怪」といえば、私は「ゲゲゲの鬼太郎」に登場の砂かけ婆(すなかけばばあ)です


砂は人の営みに恵みをもたらす一方で、神話や伝承の中ではしばしば恐怖と混沌の象徴として描かれてきた

砂を操る怪異伝承は、時代も地域も越えて語り継がれ、人々の想像力を今もなお刺激し続けている


 

 


妖怪マンガの第一人者・水木しげる氏によるオールカラーの妖怪百科
 

 


妖怪ビジュアル大図鑑の世界編

20世紀初頭、中国は激動の時代を迎えていた

辛亥革命によって清朝は滅び、1912年には中華民国が誕生する

しかし、北京の紫禁城だけは別世界だった
優待条件によって皇室の生活は維持され、宮殿の奥では依然として、旧時代の作法と序列が息づいていた

その内部では、日常の一挙手一投足にまで細かな規定があった
食卓の高さ、座る位置、歩く歩幅に至るまで厳しく決められ、そこに仕える宮女や太監(宦官)は、その作法を体に染み込ませるようにして暮らしていた

紫禁城は豪奢であると同時に、息苦しいほど管理された世界だった

その中心にいたのが、ラストエンペラーとして知られる、溥儀(ふぎ)の皇后、婉容(えんよう)である

婉容は、近代的な教育を受けながらも、同時に旧来の伝統や厳格な作法を背負わされた皇后だった

そんな彼女の暮らしを間近で見ていたのが、最後の宦官として知られる孫耀庭(そん ようてい)である

最後の宦官・孫耀庭

孫耀庭(そん ようてい、1902〜1996)は、中国史最後の宦官として知られる

清朝末期、天津市静海県西双塘村の貧しい農家に生まれた彼は、のちに紫禁城で婉容に仕える太監(宦官)となり、壮絶な宮廷生活を体験した人物である

孫耀庭は四人兄弟の次男として育ち、家族はわずかな畑で暮らしを立てていたが、生活は常に困窮していた

父は村の私塾で読み書きを教え、母は近くの学堂で炊事を手伝ったものの、日々の食事にも事欠くような生活だったという
幼い頃から、野草や木の実を摘んで飢えをしのぐことも珍しくなかった

そんな少年の心を強く揺さぶったのが、村の出身である著名な大太監「小徳張(しょうとくちょう)」の存在だった

ある日、彼が豪華な衣装で里帰りすると、村人はもちろん、地元役人までもが深々と頭を下げて迎えた
この光景は貧しい少年にとっては衝撃であり、「宦官になれば家族を救えるかもしれない」という思いが芽生えた

そして、暮らしはさらに過酷な状況となった
辛亥革命前後、家族は田畑を失い、父は冤罪で一時投獄され、母は路上で物乞いをするほど生活は困窮したのである

生き延びるため、家族は苦渋の決断を下す
高額な費用を払って専門の「净身師(去勢師)」を雇う余裕もなく、1911年、父は自ら息子を去勢したのだ

極めて原始的な方法で行われたこの手術は危険を伴い、孫耀庭は一時、意識不明となるが、奇跡的に生還する

手術の直後、清王朝は滅亡し、皇帝・溥儀が退位した

宮廷制度は大きく変わったものの、紫禁城の内部では依然として太監(宦官)が必要とされ、少年の夢は消えなかった

親戚のつてを頼り、1916年、孫耀庭は原醇親王府(清の皇族・醇親王家の本邸)で、太監見習いとして働き始める

最初は糞桶を担ぎ、廊下を磨く下働きだったが、几帳面で気の利く性格が評価され、やがて紫禁城入りを許された

1917年、15歳で紫禁城の門をくぐった孫耀庭は、端康皇太妃(溥儀の祖母世代にあたる高位の后妃)に仕える小太監として、本格的な宮廷生活を始めることになる

のちに「中国最後の宦官」と呼ばれる彼は、晩年に紫禁城での記憶を語り残した

これらの証言は、賈英華『末代太監 孫耀庭伝』などに詳しく記録されている

紫禁城の入浴儀式

婉容皇后の入浴は、紫禁城の中でも特に厳密な作法が定められた儀式だった

場所は、婉容が暮らす儲秀宮(ちょしゅうきゅう)の一室
中央には大きな白磁の浴槽が据えられ、湯温の管理から道具の配置に至るまで細かく決められていた

婉容は浴室に入ると、衣を脱ぎ、大きな浴槽に静かに腰掛ける

しかし、そこから先は一切手を動かさない。身体を洗うことも、湯をかけることも、髪を整えることすらしなかった
両脇に立つ宮女二人が、全身の洗浄から垢すり、爪の手入れまでを分担して行った

婉容はまるで彫像のように微動だにせず、視線すらほとんど動かさなかったという

太監である孫耀庭の役目は、浴用の水やタオル、着替えを用意し、必要に応じて宮女を補助することだった

だが、彼らには厳格な決まりがあった
決して皇后の身体を直視してはならない
常に視線は床に落とし、少しでも逸らしたと見なされれば杖で打たれる危険があった

浴槽も、入浴後は宮女が隅々まで磨き上げ、わずかな水垢さえ許されなかった
もし汚れが残っていれば、その場でやり直しを命じられ、ときには罰を受けることもあったという

この一連の作法は、清朝以来の宮廷文化を象徴していた
皇后自身がほとんど動かず、周囲がすべてを整えることで、彼女の「尊厳」を演出する

だが、その場にいる太監や宮女にとっては、極端な緊張を強いられる時間だった

孫耀庭が語る「屈辱」とは

画像 : 屈辱を感じる孫耀庭(そんようてい)イメージ 草の実堂作成(AI)
孫耀庭は晩年の回想で、婉容皇后の入浴に立ち会う時間を「最も耐え難い屈辱の一つだった」と語っている。

理由は、単に厳しい作法や罰の恐怖だけではなかった。

婉容皇后は入浴時、全身をさらしたまま微動だにせず、太監や宮女の前で一切の恥じらいを見せなかったという。

宮女たちが身体を拭き、髪を整える間、孫耀庭は視線を下げたまま、すぐそばに控えている。
しかし、皇后はそれを当然とするかのように、彼の存在をまるで空気のように扱った。

孫耀庭は、後年こう語っている

「我々は、男であって男ではない。主子(皇后さま)の前では、まるで人間ではないようだった。」

紫禁城内の社会では、去勢された者は生理的に“安全”と見なされ、どれだけ女性のそばに立ち会っても恥じらいを求められることはなかった
婉容にとっても、それは当然のことだったのかもしれない

だが、若い頃の孫耀庭にとっては、この「透明人間のように扱われる」感覚こそが屈辱だったという

彼は浴室で常に膝を折り、視線を床に落としていたが、耳には水音や宮女の動作、そして婉容の静かな息遣いが生々しく響いた

視線を床に落とし、触れられない状況でありながら、ふとした拍子にすべてが見えてしまう距離でもある
この矛盾が、彼をさらに追い詰めた

「主子の肌は白く、まるで玉のようだった。だが、それを直視することは許されない。それでも視界には入ってくる。あれは、罰よりも苦しい時間だった。」

こうした心理的重圧は、宮中で過ごした長い年月の中でも、特に鮮明な記憶として晩年まで彼の心に残り続けたという

紫禁城の異様な日常

このように紫禁城での日々は、豪華さとは裏腹に、息苦しいほどの閉塞感に満ちていた

皇帝や皇后を取り巻く数百人の太監や宮女たちは、厳格な序列と規律に縛られ、互いの小さな動きや表情までも監視し合う世界だった

また、情報や噂は、紫禁城の中で特に大きな価値を持っていた

皇帝と皇后の関係だけでなく、妃たちの対立や宮女との確執、さらには宦官社会の権力争いまで、さまざまな噂が絶えなかった
そうした情報は密かにやりとりされ、時には生き残るための重要な手段にもなった

婉容皇后の身辺に仕える孫耀庭も、常にこうした噂話の渦中にいた
宮女との親しい関係が囁かれることもあれば、宦官同士の微妙な駆け引きや密かな連帯が話題にのぼることもあった

孫耀庭は晩年、紫禁城での日常を「華やかさと悪夢が同居する世界だった」と表現している

彼の言葉は、豪奢な宮殿の奥に潜む緊張と屈辱を、今も鮮やかに映し出している

参考 : 『末代太監孫耀庭伝』賈英華 『我的前半生』愛新覚羅溥儀 他
文 / 草の実堂編集部

(この記事は草の実堂の記事で作りました)

20世紀初頭、中国は激動の時代を迎えていた

辛亥革命によって清朝は滅び、1912年には中華民国が誕生する

しかし、北京の紫禁城だけは別世界だった
優待条件によって皇室の生活は維持され、宮殿の奥では依然として、旧時代の作法と序列が息づいていた

その内部では、日常の一挙手一投足にまで細かな規定があった
食卓の高さ、座る位置、歩く歩幅に至るまで厳しく決められ、そこに仕える宮女や太監(宦官)は、その作法を体に染み込ませるようにして暮らしていた

紫禁城は豪奢であると同時に、息苦しいほど管理された世界だった

その中心にいたのが、ラストエンペラーとして知られる、溥儀(ふぎ)の皇后、婉容(えんよう)である

婉容は、近代的な教育を受けながらも、同時に旧来の伝統や厳格な作法を背負わされた皇后だった

そんな彼女の暮らしを間近で見ていたのが、最後の宦官として知られる孫耀庭(そん ようてい)である


【中国最後の宦官が告白】皇后の「手を使わない入浴」を世話した屈辱の日々・・・

彼は浴室で常に膝を折り、視線を床に落としていたが、耳には水音や宮女の動作、そして婉容の静かな息遣いが生々しく響いた

視線を床に落とし、触れられない状況でありながら、ふとした拍子にすべてが見えてしまう距離でもある
この矛盾が、彼をさらに追い詰めた

「主子の肌は白く、まるで玉のようだった。だが、それを直視することは許されない。それでも視界には入ってくる。あれは、罰よりも苦しい時間だった。」

こうした心理的重圧は、宮中で過ごした長い年月の中でも、特に鮮明な記憶として晩年まで彼の心に残り続けたという

紫禁城の異様な日常

このように紫禁城での日々は、豪華さとは裏腹に、息苦しいほどの閉塞感に満ちていた

皇帝や皇后を取り巻く数百人の太監や宮女たちは、厳格な序列と規律に縛られ、互いの小さな動きや表情までも監視し合う世界だった

また、情報や噂は、紫禁城の中で特に大きな価値を持っていた

皇帝と皇后の関係だけでなく、妃たちの対立や宮女との確執、さらには宦官社会の権力争いまで、さまざまな噂が絶えなかった
そうした情報は密かにやりとりされ、時には生き残るための重要な手段にもなった

婉容皇后の身辺に仕える孫耀庭も、常にこうした噂話の渦中にいた
宮女との親しい関係が囁かれることもあれば、宦官同士の微妙な駆け引きや密かな連帯が話題にのぼることもあった

孫耀庭は晩年、紫禁城での日常を「華やかさと悪夢が同居する世界だった」と表現している

彼の言葉は、豪奢な宮殿の奥に潜む緊張と屈辱を、今も鮮やかに映し出している


 

 


宦官制度は日本で採用されなかった
個人的には人道的に問題があるし、採用されなかったのはよかったと思う
しかし制度のあった国も・・・
そして「宦官政治」もあり、権力と腐敗の温床となることも