「山奥ニート」やってます。」トークショーイベントへ | ゆーうのブログ

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看護師レイキヒーラー
医療系講師

昨日は、マンガ「山奥ニート」を描いた漫画家&原作者のトークショーへ行き、最前列でお話を聞くことができました。



 

棚園さんと石井さん。



 

お二人ともトークがとてもお上手で面白かったです。



聞くところによると、不登校児やニートに関わる講演活動もされているとの事。





マンガ山奥ニート





このお話しは和歌山の山奥にある小学校の廃校で共に生活するニートたちの日々を描いた物語です。



都会での人間関係に疲れた石井さん友人と2人で不便な山奥での生活を始めた。



生活費を稼ぐために梅農園でバイトをしたとき、作業が雑だと本職の農園者に叱られて傷つき苛立つが、その奥様のおいしい握り飯に心をほぐされ、お金を稼ぐ意味に気付いたり、




あるとき、山奥ニートたちが手塩にかけて育ててきた農作物を野生に住む鹿に荒らされた。それに怒りを覚え、鹿の退治を試みて罠を仕掛けるが、罠(檻)のなかに鹿の親子がかかっていた。








その鹿の親子を見て、かわいそうと感情移入してしまい小鹿を殺すことに躊躇して手を出す勇気が出ない。




だが、村人の「最後まで責任を持て」という言葉を聞き、いっきに小鹿を槍でつくシーンは臨場感があり、漫画ながらも目をそらした。

 



射殺→放血→調理→食すという行為をすることで、「命」を隅々まで食すということ、野生動物と人との共存をこの和歌山の山奥でニートになった若者達が体験している。

 




他にも一編ずつの物語があり、場面場面で何度も唸ってしまった。





そして、トークショーが終わり、漫画を読んだあとに、私の父方の実家が兵庫県の丹波篠山の山奥にあり、昔のことを思い出しました。

 






私と3つ下の弟は、私が幼稚園の頃から中学生まで、毎年夏休みや冬休みは母の強制で長期間祖母宅のその山奥で生活していました。(嫌々です)

 



朝は自宅のすぐ横の小川で顔を洗い歯を磨く。冷蔵庫が無いから庭で取れた野菜や洗濯ものをその小川で洗う。夏はスイカやキュウリトマトをカゴに入れてその小川で冷やして食べる。



 






食事は正座で米粒一つ残さずに食べることを躾けられた。おしゃべりも禁止。



ほかにも靴をそろえることや、人への挨拶(敬語を使う)等、学校で働いていた祖母はとても厳しかった。

 




バスは1日2便のみ。




近くに店がないので、週1回軽トラックで食品や生活用品を販売にくるのでそこで肉魚、調味料、生活用品などを購入する。




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ガスがないのて焼き物は七輪や薪で火をおこした釜を使っていた。






お風呂も五右衛門ぶろ。庭に親戚が定期的に切った薪を届けてくれるので、薪を窯で沸かす作業も祖母にさせられた。

 



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この五右衛門ぶろで弟は手を軽くやけどをしてから入るのを嫌がり入らないので、足元が不安定ながらも洗い場に弟を立たせ窯の湯を洗面器でぶっかけるという作業を毎晩していた。(祖母には内緒で)




もちろん、冷房や扇風機が無いのでパンツ一丁になり、熱帯夜は足裏を窓ガラスに付けて寝たり、弟と交代でうちわを100回ずつお互いにあおぐ事をしていた。




 

外に祖母は猿を大きな天井の高い檻で飼っていた。なぜ飼っていたかは思い出せないが、祖母はその猿をとてもかわいがっていた。


 


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朝と夕方になると野良犬や野良猫が、祖母に野菜の切れ端をもらいに玄関の戸を叩く。





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ここまでは私が10歳ごろまで。そこからは、ガスも水道も通ったし、猿も死んだ。

 



朝晩は、神棚に祝詞、仏壇に般若心経、盆正月は、ご詠歌を祖母と一緒に唱える。これは嫌ではなかった。小学生のうちに般若心経は丸暗記した。


 






裏山にしきみと榊が生えていて、それをつんでは神棚や仏壇、お墓に備える。

 







テレビがないから、夜は祖母と弟と三人で、トランプをしたり読書をして過ごす。勉強はしないが絵日記は祖母に強制的に毎日書かされた。




テレビはないがラジオはあった。

 



週末には大阪で働いていた父が祖母宅に車で帰ってきていたが、いつも朝から酒を飲んでいてどこにも連れて行ってくれなかった。




 

毎年2日間、部落の小学校校庭で夏祭りがあったが、あるとき祖母の知り合いに





「都会から来たお嬢ちゃんとお坊ちゃま」





と皮肉を言われて嫌な思いをしてからは、私は夏祭りに行かず、空に響く祭りの音を聞きながら、祖母宅で酔っぱらい親父の相手をしていた。

 




他にも思い出がたくさんあるが、嫌々年2回、夏冬休みのほとんどを住んだ山奥での生活は、今思えば、そのときやその後にたくさんの役立っている。

 



例えば、




私は、小学生の頃はガリガリに痩せて小柄な自由人の不思議女子だった。チビのくせ生意気だった。今の時代であれば「不登校児」になってもおかしくないぐらいのイジワルをされた。


 



だが、自宅に帰れば教育やしつけのうるさい母がいて、その通りにしないと小言が増えるので窮屈な生活が自然と強いられていて、学校のイジワルなんて屁とも思わない少女であった。

 



学校から帰ると習い事に通い、その後は真っ暗になるまで近所の男子たちとソフトボールやサッカーで遊んでいた。





母は私に、月曜日から日曜日まで週7日習い事を習わせてくれた。




ピアノ、習字、絵、プール、学習塾、算盤。




家にいるより学校や外の方が気が楽だった。

 



祖母の家にいるより、学校の方が楽だった。

 



だから、自分の息子が不登校児(小学2年生から3年間不登校児だが週1日の数時間は学校の校長室に通っていた)になったとき、私は息子の苦しみが理解できた。

 




小学生だった私は、ひとりで生活できないのでそこ(家族がいる家)から逃げ出すことが出来なかったから耐えるしかなかった。


 



だが息子の場合は私と逆パターン。





自宅や保育園では自由気ままに猿のように生きていたが、小学校に上がり、担任からの強制や同級生からの悪口に耐えられず、2年生に上がっての数か月で不登校児となった。

 


 





以前、この先生が書いたこの漫画を読みだしたときに自分の心が痛み、不登校少年の苦しみを感じて何度もグッとくる瞬間があり、涙が止まらなかった。

 




少年は、鳥山明先生との出会いで、不登校をしながら漫画を描き、今こうして立派な漫画家となった。


 


これは運が良かったとか偶然ではない




必然的であったのだ。




もちろん、彼が漫画を書くことに関しての才能は元々備えて生まれてきたのだろう。




だが、



きっと不登校がなければ、漫画を描く練習ができなかったし、世間でいう辛い体験(不登校)ができなかった。その体験が漫画家として世に出るプラスのキッカケにもなっている。


 



もっともっとたくさんの不登校児やその親御さんにこの本と漫画を読んでほしい。

 




その子の個性を大切にする。




上に立つことや人に認められるような職に就くことが、「成功者」ではない。

 



親の云われるまま、親がひいたレールにそのまま乗っかって生きて来た子供たちより、自分の「嫌」に正直に不登校として反応する子供達のほうがよっぽど立派な大人になれる。





人の気持ちが分かる、優しい大人になる。

 




不登校児を持つ親は、その子供と同じように辛いし学校に行かない(行けない)子と過ごす毎日は本当に辛い。





私はあの約3年間は明るく振る舞っていたが、息子と私はずっと毎日が地獄だった。





あれから20年間

私はあんなにも辛い日々は経験していない。




不登校児だったわが息子は、今や真面目に働く2児の父。奥さんとも仲良しで1度も喧嘩をしたたことがないという。




 

優しくて思いやりのある個性豊かなオモロい子煩悩な親父になった。









漫画に描かれている少年の立派な姿をトークショーで拝見して、涙が出るほど嬉しかった。



隣に座っていた女性も、時より涙を流し鼻水をすする音が聞こえた。



私と同じ思いなのだろう。







漫画家、棚園先生のブログ↓

 




ではではパー