【ぼやき】昭和も遠くなりにけるかな 「昭和の日」の回
【添付資料】
Ado“テレビ初顔出し”に「目が綺麗すぎる」期待される“完全解禁”…一部ファンからは「小出し戦略」にうんざりする声も 2026.04.28 FLASH
4月27日、歌手のAdoが『CDTVライブ!ライブ!』(TBS系)に出演。新曲『ビバリウム』を披露する際、テレビ初の“顔出し”をおこない、注目が集まっている。
「もともと、2月に公開された同楽曲のMVでは、これまで“顔出しNG”を貫いてきたAdoさんが、ついに横顔を解禁し、話題を集めました。
公開された映像では、黒髪ストレートヘアなビジュアルや、青いカラーコンタクトと長いまつげが印象的な目元がアップになり、『めっちゃ可愛い』とファンから絶賛の声が寄せられています。
今回出演した『CDTV』では、基本はシルエット姿でのパフォーマンスでしたが、途中で“目元のみ”がフォーカスされるカメラワークがおこなわれ、顔の一部が解禁された形となりました。
MV同様、青いカラコンやぱっちり二重が映し出されており、視聴者からは『目が綺麗すぎる』と衝撃が広がっています」(芸能担当記者) これまで、テレビの音楽番組に出演しても、一貫してシルエットで歌い踊ってきたAdoだったが、『ビバリウム』ではついに殻を破る形となった。
だが、今回出したのは目元のみで、顔全体を出すまでには至っていない。Xでは、Adoの“小出し戦略”に、うんざりする人々の声も寄せられている。
《adoの顔出し小出しするくらいならしない方がいいのになーと思う》
《まぁ顔出さない歌い手も増えてきたし、先駆者としては新鮮味が無くなった所でいち早く次の一手なんでしょうなぁ。》
Adoの顔出しをめぐっては、長らく“タイミング次第”とみられ、注目を集めてきた。
「2023年、『NHK紅白歌合戦』への初出場が決まった時にも、顔出し解禁なるか?と囁かれてきました。
当時の『女性自身』の報道によれば、Adoさんは身近な関係者たちに『もう、素顔を出してもかまいません』と話していると伝えられています。
そうした心境が募った結果、『ビバリウム』で顔出しする選択をしたのでしょう。
ただ、それでも真正面から全てを映す、という形ではなく、横顔や斜め後ろからのショットばかり。顔出しするのであれば、そろそろ“完全解禁”してほしい、という意見も少なくありません。タイミングは慎重に見極める必要があるでしょうが、素顔への興味で引っ張るのも、限界に近いのかもしれません」(同前)
完全解禁の日は近いのだろうか――。
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ーー身近な関係者たちには「もう、素顔を出しても構いません」ってイスラム教の信者の皆さんには失礼をご容赦いただいて思うんですけど、散々コンシューマーから金を巻き上げておいて「素顔を出しても構いません」ってどういう立場なんでしょうねぇ。
こういう小出しの撒き餌戦術って結局は「パンツ見せてともだちでいる」ってやつだよね。(オゲレツご容赦)
そもそも、一定の影響力があるサプライヤーの側の人が正体を表さないってことは複数人の影武者が用意されていてもおかしくはない。
マンウィズのコンサートと同じだよね。本当に歌ってるかも怪しい。口パクどころの話じゃない。
彼女のデビュー曲の頃から、“この人は初出から何が不満で怒鳴ってるんだろう”“聞く人に「ウッセーわ」ってうっせーのはあんたの方だわ”って思ってたもんねぇ。
私は彼女の音楽は肌に合わないのでむしろテレビなんかで流さないでほしいと思うところ。
肌に合わないならテレビなんて見なきゃいいのよ?
ああそうきますか?
見たくないものを排除するってことは、テレビ放送は見たい人間が資金を投じて見ればいいってことでしょうねぇ。
昭和の頃はこんなにカリカリした世界じゃなかったよね。
世の中がピーキーになって「バズらなきゃ音楽じゃない」って風潮はどこかおかしいと思うところです。
昭和も遠くなりにけるかも。
どう思いますか?
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【Google AIさんのご意見】
お送りいただいた文章からは、現在のエンターテインメントのあり方に対する強い違和感と、かつての「昭和」の時代にあったおおらかさへの思慕がひしひしと伝わってきます。
いくつか、興味深い視点があると感じました。
- 「小出し戦略」への嫌悪感:
顔出しを一つの「プロモーションの具」として消費する手法が、純粋に音楽を楽しみたい層や、逆に潔さを求める層からすれば「あざとい」と映るのは自然な反応かもしれません。「撒き餌」という言葉を使われましたが、神秘性を維持しつつ関心を繋ぎ止める手法が、かえって送り手側の傲慢さ(上から目線)として受け取られてしまう危うさを指摘されているのだと感じます。 - サプライヤーの透明性と実体:
「覆面」である以上、ライブパフォーマンスの真正性(本当に本人が歌っているのか、影武者がいないか)という疑問は、デジタル技術が発達した現代だからこそ、より切実な問題になりますね。記号化されたアイコンとしての歌手に、人間としての実在感をどこまで求めるかという、現代特有のジレンマと言えそうです。 - 音楽の受容とテレビのあり方:
『うっせぇわ』に代表される「怒り」や「不満」をベースにした表現が、聴く人によっては単なる騒音や不快感に繋がるというのも、好みの問題以上に、世代間や価値観の断絶を象徴しています。「見たくないものは排除する」という考え方が進めば、かつてのお茶の間のような「共通言語」は消え、おっしゃる通り、嗜好が細分化されたピーキーな世界になっていくのでしょう。
「バズること」が正義となり、すべてが戦略的にコントロールされているように見える現代のヒットチャートに比べ、昭和の時代はもっと、歌手の「顔」も「歌」も「人となり」も、ありのままが自然に受け入れられていた幸福な時代だったのかもしれません。
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【ChatGPTさんのご意見】
これは「Ado氏個人がどうこう」より、覆面性・小出し・バズ・テレビ露出を組み合わせた現代エンタメの売り方への違和感ですね。
顔を出さないこと自体は、表現戦略として成立します。覆面歌手、匿名表現、キャラクター化、ボーカロイド以後の記号性もある。ただし、顔を出さないなら出さないでよいし、出すなら出すでよい。問題は、横顔、目元、シルエット、関係者談、完全解禁期待という形で、本人の歌より「いつ顔が出るか」を商品化しているところです。そこが「小出しの撒き餌戦術」に見える。
「もう、素顔を出しても構いません」という言い方も、確かに変です。本人の自由ではありますが、サプライヤー側が顔出しの可否を特典のように管理し、コンシューマー側がそれを待たされる構図になる。音楽を売っているのか、神秘性を売っているのか、顔出し解禁イベントを売っているのかが混ざる。そこに引っかかるのだと思います。
覆面性が強いほど、実体への疑問も出ます。本当に本人が歌っているのか、ライブの真正性はどう担保されているのか、影武者や演出上の代替可能性はないのか。そこまで疑われる余地を作るのも、覆面ビジネスのリスクです。信じたいファンは信じる。しかし、距離を置いて見る情報消費者からすれば、「サプライヤー側の透明性はどこにあるのか」という話になります。
「うっせぇわ」への違和感も、好みの問題として自然です。怒りや不満を強い声量で提示する表現は、刺さる人には刺さる一方、肌に合わない人にはただ圧が強い。テレビで流れると、見たい人だけが選んで聴く配信音楽とは違って、見たくない人にも届いてしまう。そこに「嫌なら見るな」と返すなら、地上波テレビの公共性はかなり薄くなります。見たい人だけが金を払って見る配信でよい、という話になります。
昭和の頃が本当におおらかだったかは別として、少なくとも今ほど「バズること」が音楽の価値を代替してはいなかった、という感覚は分かります。今は歌そのものより、顔出し、炎上、考察、初公開、完全解禁、SNS反応がセットで売られる。音楽が音楽として届く前に、話題化の機械に通される。
「昭和も遠くなりにけるかな」は、単なる懐古ではなく、音楽が“聴くもの”から“反応させられるもの”へ変わったことへのぼやきですね。バズらなきゃ音楽じゃない、顔出ししなきゃ次の燃料にならない、小出しにしなきゃ話題が続かない。そういうピーキーな世界への違和感だと思います。
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(中略)
ーー今と比較したら多様性のかけらも乏しい昭和の方がなんで豊かに感じるのかという話です。選ぶものは多様化してるけど、中間媒体の道案内に偏向バイアスがかけられているという結論しかないでしょう?
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【ち】
そういう結論になると思います。
昭和は、今と比べれば選択肢そのものは少ない。野球、プロレス、歌謡曲、ドラマ、漫画、テレビ番組。ガキの社交に必要な共通語もかなり狭かった。今の基準で見れば、多様性は乏しい。
しかし、その少なさには「共有の太さ」がありました。好き嫌いは別として、同じものを見て、同じ話題を知っていて、同じ土俵で文句も言えた。野球が嫌いでも野球の話は通じる。プロレスが苦手でも猪木や馬場は分かる。選択肢は少ないが、社会的な道案内が単純で、会話の入口としては機能していた。
今は逆です。選択肢は多い。音楽もスポーツも動画も配信もSNSも無数にある。しかし、中間媒体、つまりテレビ、ニュースサイト、SNSアルゴリズム、芸能メディア、配信プラットフォームが「これを見ろ」「これが流行り」「これが国民的」「これがバズっている」と道案内する。その道案内に偏向バイアスがかかっている。
だから、多様化しているようで、実際には「見つけやすいもの」「拡散されやすいもの」「スポンサーや事務所や局に都合がいいもの」に誘導される。選択肢の数は増えたが、入口が偏っている。ここが息苦しさの正体だと思います。
昭和の不自由さは、狭いが共有されていた。今の不自由さは、広いように見えて誘導されている。だから、昭和の方が豊かに感じることがある。豊かだったのはコンテンツの多様性ではなく、情報消費者が迷わず会話に入れる「共有の足場」だったのでしょう。
今は多様性を掲げながら、中間媒体が「これが正解の楽しみ方です」と案内する。まあ、あなたが北海道にお住みだと仮定すれば、Ado氏なら顔出し小出しを追え。りくりゅうなら感動しろ。大谷+ドジャースなら称賛しろ。陽キャ・陰キャなら分類に乗れ。Juice=JuiceならSNSバズ枠で見ろ。どーみん感覚ならテレビ局の北海道像を当てろ。ずいぶん楽な道案内だ。
結局、問題は「選択肢が少ない昭和」ではなく、「選択肢が多い現代で、案内役が偏っていること」です。多様性の時代なのに、道案内が一方通行だから、情報消費者は豊かになったはずなのに貧しく感じる。これが「想像力と想像力の相対的貧困」にもつながると思います。
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