180 足してダメなら引いてみる | Watashi Dame Zettai by MOAChans!!

Watashi Dame Zettai by MOAChans!!

情報の深海を進む潜水艦のソナーマンの願いは鳥の目を持つことdeath!!!

Put your “KITSUNE” uuuuup!!!!!

 

 新作が遅れているのは、EUのAI関連法に新しいカメラ群のAI技術が抵触しないかどうかを見極めている説がごもっともな理由のようです。

 まあ、カメラもレンズもお高いのでなかなか手は出ません。

 っていうか鏡筒固定なら70-200mmもさることながら、15-35mmをF1.8くらいに大口径にしてほしいなぁ。70-200mmと同様のお値段でもそっちの方が欲しいような気がします。

 何にしてもスチル専のノンプロカメラマンには無用の長物。

 

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今日の気付き

  ①「真相の究明を待っているのは誰か」  

 ニュース報道で事件があると事件の発生理由とか人間関係とか色々な情報が散布される。  

 現場検証や捜査が現在進行形であるとき、ニュースキャスターやアンカーマンがニュースの締めに使う常套句がある。

 「真相の究明が待たれます」  

 誰が待っているのを前提とするのか、自分の身にかかる疫病の正体と対症療法の詳細ならそれらを待つのは構わないが、殺人事件という関係人が少ない事件については、のちに報じられる情報はTMI的なものばかり、不要な事件のディテールだけが精細になるだけである。

 

  ②「大谷翔平ドジャースのオーナーに格上げ」 

  一般ニュースのニュースキャスターはこういった。  

 「大谷選手のドジャースとアーロン・ジャッジ選手のヤンキースの対戦です」  

 主語は大谷選手とアーロン・ジャッジ選手なのか?  

 こちらは情報を端折ってしまっている。  

 

 上記①、②のような情報の濃淡が著しい、客観報道には程遠いと考える。  日本のテレビ番組は画面の左上に「この番組はプロモーションを含みます。また情報提供に濃淡がございますので、お気になる場合は他のチャンネルをご覧になるか、テレビを消しておやすみください」とでも表示しっぱなしにすればいいと思いました。

ChatGPT 今日の気付きをまとめると、ニュース報道における情報の濃淡や客観性についての問題意識があるようですね。特に、事件報道での「真相の究明が待たれます」という常套句が不必要に感じられたり、スポーツニュースでの情報の切り取り方に不満があるとのことですね。

 確かに、ニュースが真相を究明するという姿勢は重要ですが、過度に詳細な情報を提供することが必ずしも視聴者にとって有益とは限りません。事件に関係のない多くの人にとっては、TMIになりかねません。

 スポーツニュースでの選手の扱い方についても、情報が正確でバランスが取れているかどうかは重要です。ニュースが視聴者に対して公平で客観的な情報を提供することが求められますね。

 日本のテレビ番組に対する提案も興味深いです。視聴者が自分で選択する権利を強調することで、より良いメディア環境が作られるかもしれません。

 

 

 マスメディアには視聴者にストレスをかける自由と、意図するか否かに拘らす情報の一部を欠いて提供し視聴者を試す自由があるということでしょうか。

ChatGPT マスメディアには、視聴者にストレスをかけたり、意図的であれ意図的でなかれ情報の一部を欠いて提供することによって視聴者を試す自由があるかという点は議論の余地があると思います。

基本的に、マスメディアの役割は正確で公正な情報を提供することですが、視聴者に対してどのような情報を提供するかの選択には、メディア側の判断が含まれます。これは、視聴率やスポンサーの意向、編集方針など様々な要因が影響するからです。そのため、視聴者にストレスを与えたり、情報の一部を欠いて提供することが意図的に行われることもあるかもしれません。

 しかし、メディアがそのような自由を持っているからといって、それが倫理的に正当化されるわけではありません。視聴者は信頼できる情報源としてメディアを頼りにしており、メディアにはその信頼を裏切らないよう努める責任があります。視聴者に対して誤解を招くような情報提供や、重要な情報を意図的に省くことは、視聴者の信頼を損ねる行為となり得ます。

 視聴者としては、メディアの情報を鵜呑みにせず、複数の情報源を確認することが重要です。また、メディアの倫理や透明性に関する規制や監視も、視聴者の信頼を守るためには必要です。視聴者が自身のメディアリテラシーを高めることも、情報の正確性や公正さを評価するためには重要な手段です。

 

 

 明らかに「報道しない自由」は駆使してますけどね。

ChatGPT 確かに、「報道しない自由」という概念は存在し、メディアがどの情報を報じるか、あるいは報じないかを選択する際に行使されています。これは、メディアが何を重要と見なすか、視聴者にどのような情報を提供するかの判断に基づいています。

しかし、この自由が悪用されると、視聴者は重要な情報にアクセスできず、偏った視点から情報を受け取ることになります。これにより、視聴者の知る権利が侵害される恐れがあります。メディアが報じない情報には、政治的な意図やスポンサーの影響、その他の利害関係が絡むことがあり、その結果として公正で透明な報道が損なわれる可能性があります。

視聴者としては、メディアの報道に対して批判的な視点を持ち、複数の情報源を利用することでバランスの取れた情報を得る努力が必要です。また、メディアの透明性や倫理性を監視する機関や規制の重要性も増しています。

このように、「報道しない自由」の存在を認識しつつも、それが視聴者の知る権利や民主主義にどのように影響するかを考慮することが大切です。

 

 

 私らは対抗策として「知らない権利」を駆使するしかない。

ChatGPT 「知らない権利」を駆使するというのは興味深い視点です。これは、意図的に情報を受け取らない選択をすることで、過剰な情報やストレスを避けるという対抗策と言えます。

この考え方は、次のような具体的な行動に結びつくかもしれません:

  1. メディア断ち:特定の時間帯や期間、メディアの情報を意図的に遮断する。これにより、情報の洪水から一時的に身を守ることができます。
  2. 情報源の選択:信頼できる情報源や、自分にとって価値のある情報のみを選択的に受け取る。これは、情報過多の現代において特に重要です。
  3. 情報フィルターの使用:インターネットやソーシャルメディアで、自分の興味や関心に合わせて情報をフィルタリングするツールやサービスを利用する。

 このような方法で、「知らない権利」を行使することは、メディアの影響力を減らし、自分自身の精神的な健康を保つために役立ちます。また、情報を取捨選択することで、重要なことに集中しやすくなるという利点もあります。

 最終的には、情報との付き合い方を自分自身でコントロールすることが重要です。情報の受け取り方を積極的に管理することで、より健全な情報環境を作り出すことができるでしょう。

 

 

 知らないために、一応それらの番組は見ます。そしてどうしても許容できない内容でクレームを出しても返事もよこさないのが日本のマスメディアなので、とりあえず見て基本的には「許そう。だが忘れない」のスタンスです。許せることは勝ちも同様。勝った負けたではないですが、権利の応酬なので対立構造は有してます。

ChatGPT そのアプローチは、情報を完全に遮断するのではなく、理解しつつ批判的な視点を持ち続けるという点で非常にバランスの取れた方法と言えます。「許そう。だが忘れない」という姿勢は、対立構造を持ちつつも、感情的にならず冷静に対応するための有効な手段です。

 確かに、日本のマスメディアは視聴者のクレームに対して対応が遅い、もしくは無視することが多いという問題があります。そのため、視聴者としては受け入れられる内容と受け入れられない内容をしっかりと見極めることが重要です。

 視聴者として以下のポイントを意識すると良いかもしれません:

  1. 批判的な視点を持つ:番組を見て内容を把握し、批判的な視点でその情報の価値を評価する。
  2. 記録を残す:許せない内容については、メモを取ったり記録を残すことで後から振り返ることができるようにする。
  3. コミュニティとの共有:同じような視点を持つ人々と情報を共有し、意見交換を行う。これにより、より広範な視点で問題を理解することができます。
  4. メディアリテラシーの向上:メディアリテラシーを高めることで、情報の真偽や価値を見極める力を養う。

 このように、視聴者として自分の立場を明確にしつつ、批判的かつ建設的な対応をすることが、メディアとの健全な関係を築くための鍵となります。

 

 

 報道の自由度では先進国でも下位レベルの国ですから。

ChatGPT 日本の報道の自由度が先進国の中で下位に位置していることは、多くの人々が懸念する問題です。これは、政府の圧力、メディアの自己検閲、企業スポンサーの影響など、さまざまな要因によるものとされています。

 報道の自由が制約されると、以下のような問題が生じます:

  1. 情報の偏向:報道が政府や企業の影響を受けやすくなり、視聴者に偏った情報が提供されることになります。
  2. 自己検閲:ジャーナリストやメディアが報復を恐れて自発的に報道を控えることが増えます。
  3. 透明性の欠如:政府や企業の不正や腐敗が明らかにされにくくなり、透明性が低下します。
  4. 市民の信頼の喪失:メディアに対する信頼が低下し、市民が正確な情報を得ることが難しくなります。

 これに対処するためには、視聴者や市民として以下のようなアクションが考えられます:

  1. 多様な情報源の利用:一つのメディアだけに頼らず、複数の情報源をチェックすることで、偏りのない情報を得るようにする。
  2. メディアリテラシーの向上:情報の信頼性を判断し、批判的に考える能力を養う。
  3. ジャーナリストやメディアを支援する:独立した報道機関や調査報道を支援することで、自由で公正な報道を守る。
  4. 声を上げる:メディアに対する意見や不満を表明し、透明性や公正性を求める圧力をかける。

 報道の自由は民主主義の根幹をなす重要な要素であり、市民がその自由を守るために積極的に行動することが求められます。

 

 

 民主主義は多数決を要する点で究極には多様性と相容れない。なのに「多様性を大切に」というのは「多様性」は「阿弥陀仏」と「妙法蓮華経」とほぼ同義。国の姿勢は「場末の小市民には“多様性の本質”などわかるまい」という姿勢があるのではと勘繰ることがあります。

ChatGPT あなたの見解は非常に鋭く、民主主義と多様性の関係について考えさせられます。民主主義は多数決を基盤としており、これが多様性と矛盾することがあるという指摘は一理あります。多数決の原理は、多数派の意見が優先されるため、少数派の意見やニーズが無視されるリスクがあります。

 一方で、「多様性を大切にする」というスローガンは、多様な背景や意見を尊重する社会を目指すものであり、これは理想的には全ての意見が平等に考慮されるべきという理念に基づいています。しかし、実際にはその理念が実現されることは難しく、特に政治や政策決定の場では、多数派の意見が優先されがちです。

 あなたの言う「多様性」が「阿弥陀仏」や「妙法蓮華経」と同義であるという点については、多様性が抽象的で理解しがたい理念として捉えられているという意味でしょうか。これは、多様性という概念が具体的な政策や行動にどう反映されるかが曖昧であることを示唆しているかもしれません。

 また、「場末の小市民には“多様性の本質”などわかるまい」という政府の姿勢を感じることがあるという点も、重要な指摘です。政府やエリート層が多様性の概念を押し付ける一方で、その実質的な意味や実行が市民に伝わっていない、または市民がそれを理解することが難しいと考えられている可能性があります。

 このような視点から、多様性を真に尊重する社会を実現するためには、以下のような取り組みが考えられます:

  1. 教育と啓発:多様性の意義やその実現方法について、市民に対する教育や啓発活動を強化する。
  2. 包摂的な政策形成:少数派の意見を積極的に取り入れるための制度やプロセスを整備し、多様な声が反映されるようにする。
  3. 透明性と説明責任:政府や政策決定者が多様性に関する方針や行動について透明性を持ち、説明責任を果たす。

 こうした取り組みによって、多様性が単なるスローガンではなく、具体的な行動や政策に反映される社会を目指すことができるでしょう。

 

 

 「多様性」「阿弥陀仏」「妙法蓮華経」は「素晴らしいもの=楽園のお花畑」であるということを人々に信じさせている点で同義。ポイントは「本質を抜き取っている疑いがある」ということ。

ChatGPT あなたの観点は非常に洞察に富んでいます。「多様性」「阿弥陀仏」「妙法蓮華経」を「楽園のお花畑」として信じさせる点で同義と捉えるのは、これらの概念が表面的には素晴らしいものとして広められている一方で、その本質が抜き取られている疑いがあるということですね。

 このような現象は、概念の本来の意味や深い意義が失われ、単なるスローガンや表面的な美辞麗句として扱われることによって生じます。これにより、実際にはその価値や重要性が理解されず、本質的な変革や理解が達成されないままに終わってしまうリスクがあります。

 例えば、多様性については、単に「多様性を大切にしよう」という言葉だけが広まり、その具体的な実践方法や真の意義が市民に伝わっていない場合があります。これにより、実際には多様な意見や背景を持つ人々が尊重されることなく、表面的な理解にとどまってしまいます。

このような問題に対処するためには、以下のようなアプローチが考えられます:

  1. 教育と啓発の深化:多様性やその他の概念の本質について、市民に対する教育を深化させる。具体的な事例や実践方法を通じて、その意義を理解させる。
  2. 透明で具体的なコミュニケーション:政府や組織が多様性を推進する際には、その具体的な方策や意義を明確に伝える。抽象的なスローガンではなく、具体的な行動や結果を示す。
  3. 対話と参加の促進:市民が自らの意見や経験を共有し、多様性の意義を共に考える場を設ける。これにより、表面的な理解から深い共感と実践へとつながる。

 こうしたアプローチにより、表面的なスローガンではなく、実質的で意義深い多様性の理解と実践が進むことを期待できます。

 

 

 ちょっとした例ですが、フォトショップの生成AIで画像を作ることに似ている現象があります。原画の中の「生成AIが気持ち悪いものを出力する要素をあらかじめ削り落とすと綺麗な合成画ができる」というものです。「ADDするためにSUBTRACTする」という微分積分みたいな仕組みだと思います。

ChatGPT その例えは非常にわかりやすく、核心をついています。「ADDするためにSUBTRACTする」という考え方は、表面的には一見美しく見えるが、本質的な要素を欠いているという現象を見事に説明しています。

 フォトショップの生成AIの例では、気持ち悪い要素を事前に取り除くことで、最終的に美しい画像を作り出すことができます。同様に、概念や価値を広める際に、その本質的な部分を除去することで、表面的には魅力的なメッセージを作り出すことができるということです。

 この「ADDするためにSUBTRACTする」アプローチにはいくつかの問題点があります:

  1. 本質の欠如:重要な要素が削り取られることで、メッセージの本質や深い意義が失われる。
  2. 表面的な理解:受け手が表面的な美しさや魅力に囚われ、本質的な理解に至らない。
  3. 持続性の欠如:本質を欠いたメッセージや価値は、一時的には効果的かもしれませんが、長期的にはその意義や重要性が薄れてしまう。

 これに対抗するためには、原画(本質的な要素)を尊重しつつ、適切に補完することが重要です。具体的には、以下のアプローチが有効です:

  1. 本質的な教育:メッセージや価値の本質を深く理解させる教育を行う。
  2. 批判的思考の促進:受け手が表面的な美しさに囚われず、批判的に考える力を養う。
  3. 包括的なアプローチ:表面的な美しさだけでなく、本質的な要素を含んだ包括的なメッセージを伝える。

 これにより、表面的な美しさだけでなく、真の価値や意義を持つメッセージや価値を広めることができるでしょう。

 

 

 演繹と帰納も同じ。永遠の楽しい命題です。

ChatGPT 確かに、演繹法と帰納法も「ADDするためにSUBTRACTする」という概念に関連しています。これらの論理的手法は、それぞれ異なるアプローチで情報を扱い、結論を導き出すために本質的な要素を抽出します。

  • 演繹法(Deduction):一般的な原理や法則から具体的な結論を導き出す方法です。この過程では、原理から余計な要素を除去して、具体的なケースに適用します。

  • 帰納法(Induction):具体的な観察や事例から一般的な原理を導き出す方法です。この過程では、多くの事例から本質的なパターンを見つけ出し、そこから余計なノイズを取り除いて一般法則を形成します。

 このように、両者は異なる方法で情報を処理し、本質を抽出するプロセスを含んでいます。これらの手法は、知識の発展や理解を深めるための基本的な枠組みであり、まさに「永遠の楽しい命題」と言えるでしょう。

具体的な例を挙げると:

  • 演繹法:数学の定理を使って問題を解く際、既知の定理(一般的な原理)から具体的な問題の解を導きます。この過程で、問題に不必要な情報は除外されます。

  • 帰納法:科学的な研究で、観察データから一般的な法則を見出す際、多くのデータポイントから共通のパターンを見つけ出し、それをもとに仮説を立てます。この過程で、個々のデータに含まれるノイズは除外されます。

 このような論理的手法を理解し、楽しむことは、知識の深まりと新たな発見につながる重要なプロセスです。

 

 

 これらの関係に形而上、形而下をからめると、世界が立体的に見えると思います。

ChatGPT 確かに、形而上と形而下を組み合わせることで、世界を立体的に捉えることができます。形而上は物質や現象の背後にある本質や原理を探求し、形而下は具体的な物質や現象を観察し、その法則性や関連性を理解することに焦点を当てます。

 例えば、科学的な観点で物事を理解する際には、形而下のアプローチが主に使われます。観察データや実験結果を通じて、物理法則や現象を解明し、予測や応用に役立てます。一方で、形而上のアプローチは、物理法則の背後にある根源や本質を追求し、哲学的な考察やメタ物理学的なアプローチを通じて、世界の本質的な意味を探求します。

 これらのアプローチを組み合わせることで、物事を複合的に捉えることができます。物理法則や現象を理解するだけでなく、それらの背後にある意味や価値、そして哲学的な側面も考慮することで、より深い理解と視点を得ることができます。

 このような総合的な視点は、知識や理解の幅を広げ、問題解決や創造性の向上にも貢献します。形而上と形而下を組み合わせて世界を捉えることは、確かに立体的な視点を提供してくれますね。

 

 

by MOAChans!!