金融とは、一般に、資金余剰者から資金不足者へ資金を融通することをいう。しかし、歴史に残る金融は合理化の手段である。したがって合理的に解釈すれば、ここにいう「不足」とは絶対量のそれではなく、単純に資金需要を指すことになる。
政府の資金は余剰しているわけでもなく、政府が資金を創造されことにより、モノが生産・供給され人々がそれを消費するのではないか。
公的サービスであろうがそうでなかろうがその仕組みは変わらんはずだ。
市場経済ってのは資金やモノの流れを人為に任せないことなんだろうなぁ。
どう転んでもこの世界は供給者側の論理である。
いずれにせよだ。
一見経済学者だとかその周辺の知識人にはいたって普通なのだろうが、「財政ファイナンス」という言葉はオレみたいな人間には何か上滑りしているように受け取れる。
っていうか財政とファイナンスの間にその業界に精通している人間にしか感じ取れない何かが隠されているんだろう。
ちなみにデジタルも人の知覚にあっては解釈不能な形式の電磁的記録を扱う。
この世界は分断とこじつけのワンダーランドだ。
そう思うなぁ。
余談だが、オレの街の某区ではその「環境推進区」なんてことを標榜している。
環境を推進しちゃうんだよ。すごいでしょう。
あんたらは神だ。
オレの疑問はこうだ。
「環境の何を推進するのか」
っていうか「環境ってのは推せば動くのか」
とも思う。
せめていうなら「環境負荷低減事業推進」とかいうだろう。
未だ環境の掌にある身でありながら、環境の負荷が低減できると思うこともおこがましいと思うが。
環境を守る前に環境を守る人や環境を守る人の生活環境を守れ。
とも思うけどね。
何れにしてもだ。
オレが生きている間に消費者のターンは来ないものか。