小説「旅人の歌ー 儒者篇」その32 - 帰還 | 物語書いてる?

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 儒者は荷造りの手を止めて、見るともなしに池を見ていた。すると池の中から鯉がもんどりうって水飛沫を浴びせた。儒者は鯉と目が合ったように思い、首を振った。仕度を済ませた儒者は表に立って門を見た。黒い板屋根に苔が生えて緑がかっていた。儒者は出立になって初めてしっかりと門を見たように思った。

 門の外には、大勢の人が待っていた。大工が大声を上げた。
「さあっ、皆さん。先生のめでたい門出だ。ここはひとつ、三本締めで華やかに見送ろうではありませんか。皆さん、お手を拝借。いよーおっ」朝の澄み渡った空気の中に、人々の手拍手が響いた。
「先生、行ってらっしゃい」
「体にはくれぐれも気を付けてください。」
「あ、あの…頑張って…」
「だから、なんだ…その…いや、良い天気でよかったよかった」
 人々は黙ってしまうことを恐れて、思いつくまま声をかけた。
 儒者はゆっくりと礼をして、その一人一人を見た。人々は儒者の周りに集まり、肩に触り、手に触った。
 惺窩が声をかけた。
「先生、私は一度そちらに渡ろうとした身。こちらに飽いたら、そちらに行くかもしれません」
「その時は、酒でも飲みましょう」
「楽しみですな」
 儒者は夫人と目が合った。夫人は微笑んでいた。どちらからともなく、こくりと頷き合った。

 儒者は難波の津まで道を下り、角倉了以の用意してくれた船に乗った。その船は商いの荷を積んで、播磨、安芸、長門と西へ下り、儒者は唐津に着いた。儒者は海の向こうを見た。

 黒いおさげ髪の童女が三人、浜辺で波と遊んでいた。童女の一人は儒者を指さして歌った。
(あな恐ろしや。死神の影。)
 残りの少女が呼応した。
(げに恐ろしや。後ろからくる影。)
(影はずっと、窺っている。)
(隙が無いかと、窺っている。)
 指を差された儒者は思わず後ろを振り返った。流木に腰かけて、漁師が網を繕っていた。儒者が前に顔を戻すと、童女の姿は消えていた。

 壱岐の島まで来たところで、儒者は足止めを食らった。天候が俄かに悪化し、海が荒れた。儒者は山に登り、天に祈った。十日あまりもすると、空が晴れて来た。儒者は浜で対馬へ行く船を探した。そこに三人の侍が待っていた。
「カン先生ですな。お迎えに参りました。拙者対馬藩の宋義文にござる」侍は編み笠を少し上げて挨拶した。
「これよりすぐにでも、対馬に渡りましょう。ささ、船にお乗りくだされ」

 船が浜を離れようとしたとき、後ろで大きな声が上がった。
「カン先生、お忘れ物です」儒者が振り返ると、猿回しが手を振っていた。猿回しは波の上を走る様にして近づいてきた。その時、座っていた侍たちが立ち上がった。儒者は咄嗟に海中に飛び込んだ。水の中で誰かに足を掴まれ、儒者は夢中で蹴った。襟首を掴まれ、儒者は水の底に顔を押し付けられた。息が苦しくなってくる。儒者は手足を動かして、水中で暴れた。押さえつけられていた首が急に軽くなって、儒者は波の上に顔を出した。肺が空気を思い切り吸い込んだ。口に海水が入り、儒者はむせた。辺りを見回すと死体が三体、波の上に浮かんでいた。肩を叩かれ振り返ると、猿回しが白い歯を見せていた。
「先生、こいつら藤堂の侍だった」
 儒者は立ち泳ぎしながら、三つの死体を見ていた。猿回しと儒者は浜に上がり、たき火で服を乾かした。網を繕っていた猟師が近寄って来た。
「あんた、そんなに対馬に渡りたいのかい?俺が船を出してやろう」
 男の名は、柳参平と言った。儒者は韓人かと聞いた。柳は流暢な韓語で、自分は韓人でもあり、倭人でもあると言った。それきり口を閉ざして船を漕いだ。猿回しも同乗し、対馬を出るまで儒者の身を守ることにした。対馬の港には、侍の一団が来ていた。男は宋義文と名乗った。儒者と猿回しは、顔を見合わせた。
「拙者の顔に何か?」義文は首を傾げた。
「宋義文と名乗る男に襲われたのです。壱岐で」猿回しが言った。
「拙者に、襲われた?」
「いや、それは誤解だった。もうよい」儒者は表情を変えずに歩みを進めた。
「私は、朝鮮に戻りたいのだ」
「その事は、内府より文が来ている。凪を待って船を出すように手配しよう。宿は用意した」宋義文が儒者と猿回しを案内して、居所に戻ってくると、頭巾を被った侍が待っていた。
「拙者、身分は明かせぬがさる高貴なお方より遣わされた者だ」
「高貴な…お方?」
「そうだ。なに…内府の息がかかった者だと思えばよい」
「内府の?」
「そうだ。お主も存じておろうが今日本は朝鮮と誼を通じようと努力しておる。そこへあの儒者が戻ってあらぬ事を言われては、この誼が破れるとも限らない。何せ今は、微妙な情勢であるゆえな。このこと、お主とて谷㎜ごとではあるまい」
 義文は頷いた。
「そこで内府は表向き彼の者を戻す体を作りながら、誰にも分らぬように始末を望まれている」
「始末と?」義文は頭巾の侍を不審げに見た。
「そうだ。良いか?ことは今後の対馬の行く末にもかかわる。決して我が国の者が彼の者を殺めたと悟られてはならぬ。いや拙者自身、お主に殺めろとは申しておらぬ。ただ何かの事故が起きれば、この先お主のお家も安泰であろう、とこう申して居るのみ」
 義文は顎を撫でてじっと頭巾の男を見た。
 儒者は知らせが来るものと思い、数日間待っていた。ところが一向に知らせは来ず、儒者は義文の許に出かけようとした。外から帰って来た猿回しは、儒者を見るなり首を傾けて言った。
「先生、どうも変ですよ。今しがた浜で漁師たちに聞いたら、このところ海はずっと穏やかで、船は出せる状態だったそうです」
 儒者はそれを聞いて、海の方を見た。頭の中で思案を纏める。
「これは誰かが、意図して先生を引き留めているのではないでしょうかね?」
 儒者は猿回しに向き直った。
「成る程。そうであれば、先に襲ってきた奴等があるいは手を回したかも知らん」
 猿回しは急に回りの気配に耳をそばだてた。
「先生、何やらお客さんの気配ですね」
 猿回しは短槍を取り出し、畳を突いて回りに立てた。耳鳴りのような音がして、矢が障子を突き破った。矢は畳に突き立って、振動が矢羽に音を伝えた。猿回しは床板を外して、儒者に下から逃げる様に言った。
「先生、浜にあの柳参平が待ってます。その船でウリ故国へ…」儒者はじっと猿回しの顔を見て、肩に手を置いた。猿回しは頷いた。儒者が潜り込むと、猿回しは床板を元に戻して、天井へ飛び上がった。天板を外して音を立てる。その時、天板を破った槍の穂先が猿回しの脇腹を突いた。猿回しの額から汗が流れた。猿回しは瓦を外して屋根の上に躍り出ると、樋を伝ってするすると地面に降りた。その足先を槍が襲った。相手は五人いた。
「学者は何処だ?」その声をもう一人が遮った。
「浜だ。浜へ逃がしたな。追え」二人が浜へと走った。横腹が灼ける様に熱い。そこに槍が繰り出された。槍は猿回しの左肺を貫いた。口から血の塊を吐いた。猿回しは二人を追って浜へと走った。足だけが体から切り離されたかのようだった。砂地に辿り着いた時、つんのめって顔から砂に突っ込んだ。肺が激しく痛んだ。風が声を運んできた。
「捨て置け。学者を追え」足音が遠ざかっていった。鉄のような匂いがした。猿回しの意識が薄れていった。
 儒者は船を桟橋に着けている柳参平を見た。
「先生、こっちだ」柳参平は儒者に声をかけると、船を沖へと押し出した。背後に人の足音がした。儒者は水面を滑る船の上に飛び乗った。柳参平は小さな帆を張った。船は風を受けて、ぐんぐんと陸から遠ざかった。侍たちは胸まで海水に浸かりながら、悪態をついた。浜辺で半身を起こした猿回しが、、五人の侍にくの字の武器を放った。それは五人の侍の首に吸い寄せられるように突き立った。侍たちは血しぶきを上げながら、海に沈んでいった。猿回しは口の中で呟きながら、浜に倒れた。
(いつか、ご先祖様に会ったら…。)
 儒者は目を瞑って、頭を下げた。鼻が震え、口の端に熱い物が伝わった。口の中に入ったものは塩気があった。
 大波が小舟を何度も襲った。儒者は波を被り、ずぶ濡れになりながら耐えた。いつしか気が遠のいていった。その時、天から光が差し、海は穏やかになっていった。目の前に夫人が立っていた。
「ありがとう。あなたは、私を救ってくれた」夫人は揺らめきながら、微笑んだ。差し伸ばした儒者の手に、夫人は口をつけた。儒者の肩が大きく揺すられた。
「太宗台が見える。先生。乗り切ったよ。富山甫に着いたんだ」
 儒者は大海原の果てに、煙るような黒いしみを見た。
「先生、よく耐えたね」柳参平の言葉が儒者の胸に響いた。
「ところで、お主は大丈夫か?」
 柳参平は白い歯を見せた。
「俺にとっては、海が故郷だからね。朝鮮も倭も、その端にぶら下がっている土地でしかないんだ」
 儒者は次第に近づく故郷の影を見ながら、漁師の言葉を胸の中で繰り返した。